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ひだまりの中で君は手を引く 11(完)

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「自分もついてきてよかったの?」

 秋晴れの日、ほんの少し寒くてマフラーを出そうか迷った。電車で市街地へ向かい、そこから歩いて二十分ほどの劇場に足を運んでいた。

「彼氏さん、余計怒るんじゃないかな」

 皐は不安そうに肩掛けカバンの紐を握り締めていた。

「いいんだ、皐の前で話しておきたいから。それに」

「それに?」

「一人じゃ怖い、ってのもある」

「零ちゃん先生、華姉ちゃんが言うようにホントダメなんだね」

 呆れる皐に俺は同情した。俺はホントダメだ。でも、変わりたい。変わらなきゃいけない時が来たんだ。

 

 観劇するのはもしかしたら初めてかもしれない。いや、小中学校の芸術鑑賞で観たのか。本当に遠い記憶だ。こんなにも子どもから遠ざかっているのに、大人までの道のりも長い。長い長い階段を見上げて目眩がする。

 舞台の内容はうまく説明できない。ただ、舞台らしい悲劇だな、とは思った。舞台が何か分からないけれど、漠然とそう思った。

 背景のセットはめまぐるしく変わった。どれも渚の作品だ。渚が目指したものがそこにはあった。夢を叶えて、大人になって。

 俺の夢は何か、考えたことがなかった。

 けれど皐と出会って、人と関わることの楽しさを知った。

 安直かもしれないけれど、これが俺の夢だと仮定しよう。

 人々の夢を応援する。そんな生き方もいいんじゃないのかな。

 

 観劇を終えて俺は劇場横の喫茶スペースに入った。

「渚」

 彼が振り返る。ふわふわの髪に、大きな瞳。

「零くん、皐ちゃん、来てくれてありがとう」

 皐が頭を下げる。

「渚こそ、仕事忙しいのにごめん」

「ちょっとの時間なら大丈夫だよ」

 渚がメニューを渡す。俺はカフェオレ、皐はレモンティーを頼んだ。

「零くん、話って?」

 口の中がカラカラだった。グラスの水を飲み干した。

「俺、渚とのこと考えたんだ」

「うん」

「俺は渚のこと守りたいってずっと思ってた。でも、それは間違いだった。一方的で独りよがりだった。こんなにも、たくさんのものを渚に貰っていたのに」

 手が震えていた。目をつぶって深く息をする。

「渚とこれからもずっといっしょにいたい。その資格が俺にまだあるのかはわからない、けど」

 声が尻すぼみになる。怖い。怖くて死んでしまいそうだ。渚の次の言葉が、怖い。

 注文したカフェオレが運ばれてくる。俺は砂糖を入れずに口に含んだ。

 ミルクベージュの水面が揺れている。心のように、大きく。

「ちゃんと言わなきゃ、ダメだよね。俺は、俺は渚が羨ましかった。前に進んでいく渚に取り残されたみたいで。卑屈になっていた俺が百パー悪いよ。でも、俺は、渚のことが好きなんだ……そのことだけは変わらないよ」

 渚が話し始める。

「僕はね。確かにうじうじしてる零くんには腹を立てた。見ていられなかったし、僕のことちゃんと見て欲しかった。でもね、待ってばかりの僕じゃダメだったね」

 ふわり。暖かい手が俺の手に触れていた。

「零くんが前に進めないのなら、僕がその手を引くよ」

 まっすぐな瞳が俺を貫いていた。

「一緒に生きよう、零くん」

 俺は生きていていい。この人と、ずっと。

「こちらこそ」

 皐ちゃん、と渚が切り出す。

「皐ちゃんに零くんはあげられない。どんなに皐ちゃんが零くんのこと好きでも、この人は僕のパートナーだから」

「分かってますよ、渚さん。自分もフラれるつもりでここにきましたから」

 皐の笑みは傷付いていた。けれど、これが恋というものだ。

「大学受かるまでは零くんのこと貸しておいてあげるから。絶対に返してよ?」

 皐は「返したくはないですけどね」と好戦的に口角を上げた。

「じゃあ皐ちゃん、絶対合格してね。延滞料高くつけるから」

「それは怖いです」

 二人があまりにも楽しそうに言うものだから、俺はなんだか許されたような心地がした。

「ねえ零くん」

「なに?」

「愛してるよ」

「うん、知ってる」

 

「皐ちゃん合格したんだね」

 桜が咲いて、また季節が巡る。渚の家のソファーを背もたれにカーペットの上に二人並ぶ。渚の頭が俺の肩に預けられる。この重みこそが存在してるって事だ。

「きっちり第一志望の学部にね。俺がみたのは一次のセンター試験までだったけど、画塾でかなり頑張ったみたい」

「零くんも頑張ってたでしょ?」

 そうだといいんだけど、と俺は彼の唇に触れた。

 もつれるようにカーペットになだれる。

「ここじゃ嫌だなあ」

「それじゃあ」

 うあっ、と渚が驚く。

 渚の重みを両腕に感じて嬉しくなる。

 ゆっくりと彼の部屋のベッドに横たえる。

「さすがにお姫様だっこは恥ずかしいよ」

「いいでしょ? たまには」

 もう、と怒ってみせる渚の蝋燭には火が灯っていた。

 

 肌が触れ合う。

 この行為はいつまでも続くわけじゃない。

 人生もいつかは終わる。けれど、

 

「零くん、帰ってきてくれてありがとう」

 あなたと手を繋いで、いつまでも。

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ひだまりの中で君は手を引く 10

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「零ちゃん先生ごめん」

 エレベーターの中で皐は言った。

「でも、自分は諦めないから」

 

 皐を送って部屋に戻るとき、死刑囚の気持ちを味わっていた。いや、離婚調停のほうがぴったりか。

 部屋に戻ると渚は静かに正座していた。嵐の前の静けさ、という言葉が似つかわしいのかもしれない。

「零くん、ちゃんと話そう」

「はい」

 渚の対面に正座する。

「零くん、僕が何も思わないでいたと思ってない? ここ最近のこと」

 ここ最近。連絡をまともに取り合っていなかった。電話も無視した。俺の身勝手な理由で。

「僕は寂しかったよ。それは零くんも同じじゃなかった?」

「同じ、だよ。多分。でも俺、分かんないよ」

「何が分からないの?」

 渚の眉がつり上がる。

 俺は言葉を選んでいた。絶対に離してはいけない命綱は、一体どこにある。

「言えないようなこと?」

 渚の深い憤りが聞こえてくる。呼吸が速くなる。

 何から言えばいいのだろう。皐にキスされたのは一方的なもので、渚に連絡できなかったのは俺のちっぽけな嫉妬心からで、ただ寂しくて、そして将来どうしていきたいのか分からなくて。何も見えない。何も聞こえない。母さんにも将来のことを問われた。このまま男同士で付き合って。きっとそのうち結婚はできるようになるのかもしれないけれど、それが俺たちのゴールだとは現実的には思えなくて。怖くて、どうしたらいいのか分からなくて。

 きっとこのまま終わっていくのかもしれない。

 この恋も、人生も。

「俺は、この先どうしたらいいのか分からない。将来どうしたいいのかとか、このままでいいのかとか。滴も、華さんも、みんな夢に向かっている。けど俺は何にもない。何に母さんに結婚のことを聞かれて何も答えられなかった。だから――」

「嫌だ!」

 聞いたことのない叫び。。

 カーペットに湯飲みが転がっている。

「僕は、ぼくは、零くんのこと、絶対に離したりなんかしない」

 大粒の涙が落ちる。小さな渚が、両腕で目をこすっていた。

「零くんはいつまでそこで立ち止まってるの? 意気地無しな零くんなんか大嫌いだ! だから、だから僕は――」

 こんな渚を見るのは初めてだ。俺は呼吸を忘れていた。

 そして俺に突き刺さった。

 

 大嫌い。

 

「クソ男。優しいあたしと厳しいあたし、どっちと話したい?」

 俺は迷わず「厳しい華さんで」と答えた。

 場所は駅前のファミレス。何の因果か皐の家庭教師をすることになったときと同じ席。なんでこんなことまで覚えているのだろう。渚のことは、もううまく思い出せないというのに。

「んじゃまず最初に。クソ男、あんたナギちゃんから逃げたでしょ」

 逃げた。否定なんてできるわけがない。怖かった。このまま繋がれた手が解かれることが。でも、俺は、逃げて、突き放して。

「ナギちゃんに嫌われても当然だね。浮気しておいて将来が不安だ? 笑わせんなクソが。問題をすり替えてるんじゃないよ。あたしはそれを『異性に逃げた』なんて差別的な言い方はしたくないけど、あんたの場合は逃げだよ。性別どうこうじゃなくて、人から人への逃げだ。あらゆるものから逃げるな、なんて根性論は言いたかないけど、好きな人からすら逃げるあんたは最低のクソ男だ」

 華さんは続ける。

「クソ男が一方的に遠ざけておいて疎遠になったと勘違いしてない? あんたから電話したことあった? ナギちゃんは何度でもかけてきたんじゃないの? ホント自己中にも程があるよ。百パーあんたが悪いね」

 俺はただうなだれていた。

 最低、最低だ。どうして渚のことを大切にできないんだ。あんなに、あんなに好きだったのに。嫌いになんかなりたくない。でも渚は、俺に。

「……大嫌い、って言われました」

 あの後どうやって帰ったのか覚えていない。

 気付いたら自室のベッドの上で、枕は長雨の中のように濡れていた。

 滴に起こされて食事を取ったけれど、何を食べても砂を噛んでいるようだった。

 そして華さんに呼び出された。滴から聞いたという。

「こんな俺、ダメすぎて。もう自信がないんです。渚のこと、どうやって守ったらいいのか分からなくて」

 華さんが深い溜息をつく。

「守って欲しい、ってナギちゃんに言われたの?」

 しっとりとした柔らかい声だった。

「確かにナギちゃんは弱いところもあるし、家族には恵まれなかった。でも、だからって守られるためにあんたと一緒にいたわけじゃないと思うよ」

 ――あんたはナギちゃんに何を貰った?

 蘇る記憶。一緒に居た日々。渚の美味しいご飯。笑顔。暖かさ。居場所。

 華さんは俺にポケットティッシュを袋ごと渡した。

「大好き、だった。でも、もう……」

「諦めるのはまだ早いんじゃない? あんたが変われるならね。じゃあ出血大サービス。とびきり優しい天使なあたしからのプレゼントだよ」

 そう言って華さんはカバンから白い封筒を取り出した。

「ナギちゃんの次の舞台のチケット。ナギちゃんはあんたにもあげるつもりだったらしいけど貰ってないでしょ? これ、あたしと滴っちの分だけどあげるよ」

 封筒を開くと二枚のチケット。それとカードが一枚。

〈零くんの教え子さんに華ちゃんからも色々教えてあげてください。みんなでおいでね〉

 文字が滲まないよう俺は急いで両目を拭った。

「それで滴っちから聞いたんだけど、チケットは定価取引が原則、なんだっけ?」

 華さんが茶目っ気のある笑みを向ける。

「はい、ちゃんとお支払いします」

 よろしい、と華さんはファミレスで一番高い一ポンドステーキのサラダ・スープ・ライス大盛りのセットを頼んだ。どこが定価なんだか、と俺は自然と笑っていた。

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ひだまりの中で君は手を引く 09

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 渚と連絡を取れないまま時は流れた。どんな声だっけ。どうやって接していたっけ。時が経つほど分からなくなってゆく。

 きっと俺はどこかで立ち止まったままで、滴や、夢を叶えた華さん、そして渚はどんどん前へ進んでいく。卑屈になる俺に嫌気が差して意味もなく惰眠を貪った。

「零ちゃん先生、今度は飼い猫が死んだ?」

「猫は飼ってないけど、そういうことでいい」

 皐の成績はめきめきと伸びて、この前の模試では志望校である美大ではB判定が出た。皐も前に進んでいるんだな。止まっているのは世界で俺だけか。

「零ちゃん先生が元気ないの、僕のせい?」

「そんなことはないよ。皐はちゃんと勉強してしっかり結果出してるし、そのことは俺も嬉しいよ。これは俺自身の問題だから」

 皐は「零ちゃん先生って弱虫なんだね」と俺の頬に触れた。キスされるかと思ったけれどされることはなく、ただ皐の澄んだ双眸が俺をまっすぐ見詰めていた。

「自分のことを好きになればいいのに」

「皐はカッコいいな」

 そうでしょ、と皐が笑う。

「ねえ、自分を零ちゃん先生の彼氏さんに会わせてよ」

 俺は驚いた。

「零ちゃん先生の好きな人がどんな人なのか知りたい。ダメ?」

「ダメではないけど……」

「じゃあ言い方変えるね。零ちゃん先生が彼氏さんに会うのが怖いなら、自分が付き添ってあげるよ」

 俺は深い溜息をした。

「そんなに俺、弱ってる?」

「うん、世界中の猫が死んだみたいに」

 別に俺は猫好きでもないんだがな、と今日初めての笑みを浮かべた。

 

〈久しぶり 連絡できなくてごめん 教え子が渚に会いたいって言うんだけど一緒に家まで行っていいかな? 志望校の先輩として話を聞きたいんだって〉 

 渚にメッセージを送るのに一時間かかった。

 渚に会いたい言い訳は皐が考えた。間違ってはいないから何も不審がられないだろう。

 平静を装っているけれど、この文字列から渚はどれだけを読み取るのか。全て見透かされているように感じて不安でたまらなかった。

 返事は思ったより早く届いた。

〈久しぶり。いいよ、いらっしゃい。何食べたいか聞いておいてね。今度久しぶりにオフの日があるからゆっくりできるよ。待ってます〉

 うさぎの絵のスタンプはにんじんを抱えて満足そうだった。いつもの渚だ。きっと、いつも通りになれるはず。

 どうやって話していたのか思い出せない。お腹が重たい気がした。

 

「零くんいらっしゃい。そしてはじめまして」

 玄関先で渚が俺たちを出迎えてくれた。シャツの上に冬物の青いカーディガン。下は芥子色のコットンパンツ。見慣れたはずなのに、初デートのときのことを思い出しているようだった。

「はじめまして、西野皐です」

 皐が頭を小さく下げる。借りてきた猫のように大人しくなっている。

「うんうん、よろしくね。僕が酒本渚だよ。僕のことは零くんから聞いてるんだよね?」

 皐が控えめに頷く。渚は柔和な笑みを浮かべていた。

「ご飯もうすぐできるからリビングで待ってて」

「ありがとうございます」

 皐の声は幾何か明るかったが、短い髪がぺたんと倒れているようだった。

 リビングに入る皐についていくと、渚が俺を引き留める。

「零くん元気にしてた?」

「うん……」

 言葉がうまく出てこない。

「なぎさ、は?」

「ちょっと忙しかったけど元気だよ。それに――」

 渚が耳元に口を寄せる。

「久しぶりに会えて嬉しい」

 彼の顔を見ると、大きな瞳が熱を持って俺を見詰めていた。頬の産毛が立つ。感情の渦が胸の真ん中でうずまくのを感じた。

 このまま抱き壊してしまいたい。

 渚の肩を掴んだ。抱きしめて、キスをして、全部俺にしたい。

 そんな衝動をこらえる。今日は皐がいるからお預けだ。

 衝動だけで付き合えるのなら、こんなに悩まないのだろうか。

 

 昼食を終えて皐のリクエストの鬼まんじゅうを食べた。さつまいもの甘みが優しい。皐は案外和食好きなのだと今日知った。

「皐ちゃん、勉強の方はどう?」

 リビングのカーペットの上に座って俺たちは話している。湯飲みを両手で包む皐を俺たちが挟む形だ。

「この前の模試はB判定でした」

 おー頑張ってるね、と渚は嬉しそうだ。

 皐の声が裏返る。

「せ、先生が、いいから……」

 よく言うよ、と俺は照れ隠しをする。

「零くんも頑張ってるね。すごいなあ」

 人生でこれほど褒められたことがないので俺は何も言えず頬を掻いた。

「あの、渚さんに聞いてもいいですか?」

 皐が切り出す。

「いいよ。大学のことかな?」

「そっ、それもあります、けど」

 ん? と渚が首をかしげる。

「人生相談、乗って欲しいです」

「人生相談かー。いいよ、僕でよければ」

 俺には話してないことだろうか。しょうがなく俺は静観することにした。

「自分、好きな人がいるんです。でもその人は付き合っている人がいて、でも少し不仲みたいで。自分ならそんな悲しい思いさせたくないし、寂しくなんかさせないのにって思ってます。こんな自分、図々しいですかね」

「そうだね……付き合うのってずっと幸せだけではないと思うんだ。こんなこと言うと夢を壊してしまいそうだけど。たまには喧嘩することもあるだろうし。でも、そうだね」

 渚は一口お茶を飲む。

「相手がどんな状態であれ、好きなら諦めなくてもいいと思うよ。寂しくさせたくないって気持ちは僕も分かる。好きになるって相手のために頑張りたいって思えることだと思うからさ」

「じゃあ」

 皐が俺の腕を掴む。

「自分、諦めなくていいんですね」

 俺と渚は同じ驚きの声を上げた。

「自分は零ちゃん先生のことが好き。渚さんが零ちゃん先生を悲しませるなら、自分がとっちゃいますから」

「ちょっと皐、何言い出すんだ」

 俺は狼狽えていた。皐の今日の目的はこれだったのか。

「だってしたでしょ? キス」

「あ、あれは」

 渚の心臓が止まる音がした。

「零くん……ちゃんと話を聞かせて」

 悪いけど、と渚が皐を睨む。

「皐ちゃん、ちょっと零くんと二人で話したいから今日は帰ってくれる?」

 渚の声が低い。

 皐は渚のことを直視できないでいた。

「零くん、皐ちゃんを下まで送ってきて。話はそれからしよう」

 俺は頷く。

 とんでもないことになってしまった。口の中に苦みが広がって、胸の中がざわざわと騒いでいた。

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ひだまりの中で君は手を引く 08

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 とても気まずい。

 華さんには気付かれていないけれど、俺は酷く混乱していた。

「零ちゃん先生、気持ち悪く思った?」

 渚にも同じ事を言われたことがある。彼が男性と付き合っていたことを明かした日だ。

 俺は男で、皐は女。何か気持ち悪いことがあるだろうか?

 いや、そういうことじゃない。皐は俺の性を知っていて言っているのだ。

 女の子とキスをするのは初めてだった。

 言葉が見つからない俺に皐は「謝りはしないからね」と付け加えた。

「気持ち悪くはないけど、びっくりした」

「零ちゃん先生ってホントお人好しだよね」

 褒められていないことは分かった。

 ここは画廊から駅の方に戻る途中にある喫茶店で、俺はホットコーヒー。皐はレモンスカッシュを飲んでた。ホットコーヒーに砂糖を入れなくなっても、俺はちっとも成長しない。恥ずかしさと悔しさで消えてしまいたくなった。

「零ちゃん先生。先生って『一緒に居ることが当たり前』って言ってたよね。でもそれって本当なのかなって思う。新学期になれば仲のよかったクラスメートとも離れて、進学したら地元の友達にもあまり会わなくなる。そうやって人間関係って変わり続けるんじゃないかなって」

 ねえ先生、と皐が向き直る。

「零ちゃん先生、わたしと付き合ってよ」

 こんなにもまっすぐ見詰められたことがあっただろうか。

 あまりにもかなしい顔をするものだから、俺は何も言えなくなってただ彼女の瞳の光を見ていた。

「零ちゃん先生がわたしのことを好きになるかは分かんないけど、私は多くを望まないから」

 ここからは難しい話だけど、と皐が前置きする。

「わたしね、ううん、自分ね、自分のことを女の子だとは思えないの。男の子に好きになられても、その男の子は『女の子』の自分を求めている。だから誰かを好きになったことがないの。なったとしても『女の子』でいなきゃいけないんだと思うと苦しかった。でも、零ちゃん先生は男の人と付き合える。……零ちゃん先生が『女の子』の自分を好きになれないのかもしれないけど」

 でも、理屈じゃないよ、と彼女、いや、どちらとも呼べない皐が付け加えた。

「好きかどうかはわかんない。けど自分、零ちゃん先生に憧れてるよ。零ちゃん先生を救いたい。それを恋と呼んじゃいけない?」

 皐が今にも泣きそうだといわんばかりに声を震わせる。

 皐は頑張って伝えてくれた。じゃあ俺はどうなんだ?

「気持ちは嬉しいよ。ありがとう。でも俺は先生で、大人で、付き合っている人がいる。皐の告白は断らなきゃいけない。それは分かってくれる?」

 皐はゆっくりと頷いた。

 何者でもない俺は、きっと何者にもなれはしない。

 渚は先を歩いている。俺よりもずっと先を。

 俺の中の渚が俺を苦しめるんだ。

 

 その日の夜、渚から電話がかかってきた。どうしても出ることができなくて、リビングのテーブルに置かれた震えるスマートフォンをただ見詰めていた。

「お兄ちゃん出ないの?」

 風呂上がりの滴が問う。

「渚先輩からなんでしょ?」

 そうだけど、と俺は言葉を詰まらせる。

「お兄ちゃん、何かあったでしょ」

 俺はあっさりと白状した。

「俺たち、もうだめかも」

 滴の顔が見られない。けれど妹が困惑していることは彼女の呼吸の速さから伝わった。

 滴が俺の隣に腰掛ける。

「お兄ちゃん、何があったの?」

「何がって……渚が遠くに行ってしまったように感じるんだ。俺よりずっと前に。それに、俺たちもう子どもじゃないんだ。将来のこと、ちゃんと考えないと」

「お母さんに言われたこと?」

「聞いてたのか」

 滴は「お母さんってちょっと古いところあるから」と苦笑した。

「お母さんが何か言おうとお兄ちゃんはお兄ちゃんの好きな人と一緒にいなよ。私から勝ち取ったんでしょ? まあ私は元々同じ土俵にも立てなかったけど」

「好き、なのかなあ……」

 もうよく分かんないよ。

 滴がティッシュを寄越す。濡れた頬を拭って鼻をかむ。

 皐みたいにまっすぐ好きだと伝えられたらいいのに。どうしてこんなに俺は、

「ダメだなあ、俺」

 渚はこの先、俺以外の人とも恋をするのだろうか。

 変わってゆく。立場も、環境も、感情も。

「お兄ちゃんはダメじゃないよ。基本はバカだけど、真面目すぎるバカだよ」

「それ、慰めてる?」

「一応ね」

 滴は目を細めてくしゃっと笑った。

「私ももう子どもじゃないから、恋に終わりがあることも知ってる。だから、何が何でも別れるなとは言わないよ。お兄ちゃんと渚先輩で答えを出しなよ」

 でもね、と滴が続ける。

「私が大好きな渚先輩を幸せにするのは私じゃなくてお兄ちゃんだった。お兄ちゃんにしかできないことだよ。渚先輩を不幸にしたら私、お兄ちゃんのこと許さないから」

 渚とどう向き合ったらいいのだろう。

 自室へ向かう滴の後ろ姿が、とても羨ましく見えた。

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007/夫婦

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 それまでよそよそしくしか接することのできなかった祖母のことを、はじめて愛しいと思ったのは祖父の葬式でのことだった。
 祖父の葬式はとても小規模で、区立のセレモニーホールで行われた。参列者は親族を除くと叔父が呼んだ手伝い以外ではたった一人だった。叔父は「親父のやつ、無駄に長生きしちまったからよ。友達も釣り仲間もみんな死んじまって、一人しか来られるやついなかったんだと」とさみしさを含みながらも少しばかり誇らしく語った。
 死化粧をした祖父を見たとき、真っ先に叔父が「親父のやつ、生まれて初めて口紅塗ってやがるよ。死んでからだけど」と笑いを誘った。僕や両親、親戚たちは「ほんとにねえ」と和やかに笑っていた。祖母を除いて。
 祖母はゆっくりと棺桶で眠る祖父に近づくと、
「ほんとねえ、きれいにしてもらって。ほっぺた叩いたらおきるんじゃないのかえぇ?」
 祖母はやさしく、けれど祈るように祖父の頬を叩いた。何度も、何度も、叔父が止めるまで。
 それまで「祖父はとても長生きをして幸せな最期を迎えられてよかった」というおだやかで心地よい空気すらあった。けれどこのとき僕はやっとはじめて悲しみを自覚した。
 祖父を失った僕、としてではなく、「愛する人を失った祖母」の立場として。
 葬式の読経の中、僕は僕と祖父との思い出を思い返すよりも、これまで祖父母がどんな人生を歩んできたのかに思いを巡らせた。半世紀以上一緒に生きるって、どんな覚悟と愛情があるのだろうか。
 祖母のように、誰かを一生愛することができる人生を、歩めたらいいのにと願った。
 
 数年後、祖母が急に語り始めたことがあった。
「人生はね、七十代が一番楽しいのよ。若いときは苦労ばっかり。愛ちゃんも今は大変でしょう? 勉強だ就活だって。でもね、七十になると定年を迎えてね、いっぱい自由になるの。おじいさんとたっくさん旅行に行ったわ。愛ちゃんという孫にも恵まれてね。だから、七十代が一番よ」
 祖母は茶目っ気たっぷりに「八十すぎると膝が痛くなるからダメね」と付け足した。
 僕は幸せな七十代を迎えるために人生で何かを積み重ねることができるだろうか。
 そんな覚悟をくれた祖母のことを、心から敬愛している。
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006/語らぬこと

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「寡黙」という言葉を知ったとき、父のことだ、と瞬間的に思った。
 僕の父はほとんど言葉を発しない。多くて単語三つ。ふだんは「ん」という鼻腔音で返事するだけ。とにかく静かで、僕は「我が家のうさぎより静かだ」と揶揄することすらある。
 当然、叱られたこともなければ褒められたこともない。
 一度だけ、演奏会の感想を長文のメールでもらったが、父からの言葉というよりさながら音楽愛好家による評論文だと吹き出して笑ってしまった。
 そんな父のことは昔から好きだ。
 いや、嫌いになれるほど言葉をかわしていないからかもしれない。
 今でも何を話せばいいのかわからず、二人きりになると僕まで黙りこくってしまう。
 けれど母抜きで二人で食材の買い出しに行けば普段買わないような新製品や変わった食材を買ってみたり(もちろんあとで母に叱られるのだが)、家族で旅行に行けば父の三単語以内のウィットに富んだ感想にクスクス笑ってみたり、愉快な人だと思う。
 多くを語らないということは、僕にはできないことだ。僕からはとめどなく言葉があふれてくる。けれど父はそれをコントロールし、言葉の重み、意味合いの密度を高めているのだと思う。
 父の何も言わない、という「Φ言葉」にも、きっと意味がたっぷり含まれているのだろう。
 
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ひだまりの中で君は手を引く 07

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 そのギャラリーはナゴヤドームを通り過ぎて少しのところの駅から十分ほど歩いたところだった。

 教えられなければここを知ることもないような住宅地の中だけれど、店構えはお洒落なカフェか美容室のようで、古いヨーロッパの民家みたいな魅力がある。ドアを引くと軽やかな音色が出迎える。絵の具の匂いだ、と鼻が動く。

 中は雑貨店になっていて、所狭しとカードやアクセサリー、そして本が並んでいた。どこでも見たことのないようなものたちばかりなのに調和している不思議な空間だった。

 奥に進むとロッキングチェアに華さんがいた。

「おっす、モサ男」

 皐が吹き出す。華さん、いい加減俺のこと名前で呼んでくれてもいいんじゃない?

「モサ男って、零ちゃん先生にぴったりだね」

 華さんも吹き出した。ぴったりってなんだ。

「モサ男、ちゃんと先生してるかー? ぶふっ、零ちゃん先生ね、うんうん」

 からかうつもりしかない言いように俺は呆れた。あなたが紹介したんでしょ。いつものことですね。

「なにはともあれあたしの現実へようこそ。モサ男、これがあたしのやりたいことだ。刮目せよ!」

 指をびしっと目の前に突き出される。はいはい、と俺は答えた。

 華さんの個展はこの店の二階でしているらしい。急な木製の階段を這うように昇る。どうぞごゆっくりーと華さんは片手を上げた。

 圧巻された。

 目の前には二メートル四方の帆布。そこに絵の具で描かれた女の子。黒い髪は風に揺れて、鋭い眼差しが、虹色をたたえた瞳が俺に問いかける。一文字に結ばれた唇はほんのり色づき頬には睫毛の影が落ちている。頬に添えられた指は細く、凜として白かった。

 芸術のことは分からない。けれど圧倒的な美がそこにはあって、力強さを繊細なタッチで写実的に表現されている。

 キャプションには《I won't disappear becouse it's not a dream》とタイトルがつけられていた。

 夢じゃないから消えない。

 華さんの夢は、夢じゃなくて現実だ。

 渚も目標に向かって努力して、そして掴んだ。

 じゃあ俺の夢は? 渚と一緒に居ること? 分からない。分からないから怖い。不安の中は内臓がふわりと揺れるような気持ち悪さがあって、目の前にあるものをうまく認識できない。

 華さんも、滴も、渚も。みんな前に進んでる。俺はどうなんだろう。

「零ちゃん先生、好き」

 皐が呟く。

 華さんの絵は素晴らしい。好きだと思う。

「きっと零ちゃん先生には伝わってないと思うけど」

「うん、絵の良さは皐の方がよく分かるんじゃないかな。俺にはただ綺麗だということしか分からない」

 頬を掻いていると「やっぱりね」と皐は苦笑した。

 

 部屋中に飾られた絵を一通り見た。

「零ちゃん先生、ここに感想書くみたいだよ。華姉ちゃん喜ぶかな」

「喜ぶんじゃないかな? 記念にもなるし」

 部屋の入り口横に置かれた座卓の上に革張りのノートが置かれていた。

 日付と名前と感想がボールペンで書き残されている。

 早速皐が腰を下ろしてノートに書き込んだ。見ているととても長くメッセージを残しているようだった。

「ねえねえ零ちゃん先生、こんなにたくさんの人が見に来ているんだね」

 書き終えた皐がぱらぱらとページをめくる。

 見覚えのある筆跡に目がとまる。

「ちょっといい?」

〈華ちゃん、個展開催おめでとう。とても美しくて華ちゃんらしいなと思いました。帆布のドローイングすごい。どの作品も語りかけてくれているみたいでとても素敵です。ますますのご活躍をお祈り申し上げます。 酒本渚〉

 渚、いつの間に来ていたんだろう。誘っても断られたのに。

 喧嘩、しちゃったからかな。

 さらにその下の行に目が行く。

〈――岸本玖美子〉

 俺の目の前から光が引いていく。

 日付は渚と同じくおとといで、岸本の名前は偶然ではないのかもしれない。いや、偶然でないわけがない。

 信じたくないけれど、二人は一緒にここに来ていた。渚は俺とではなく岸本さんと来ることを選んだ。

 俺と渚の間の溝は確実にできていて、避けていたのは俺の方だと思っていたけれど、渚も俺のことを避けていたのかもしれない。

 しっかりしなきゃ。しっかりしたいけど、つらい。

「零ちゃん先生?」

 皐が俺の顔を覗き込む。

 目が逸らせない。

 彼女の唇が触れて、俺の瞳から雫が彼女に落ちた。

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