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渚と連絡を取れないまま時は流れた。どんな声だっけ。どうやって接していたっけ。時が経つほど分からなくなってゆく。
きっと俺はどこかで立ち止まったままで、滴や、夢を叶えた華さん、そして渚はどんどん前へ進んでいく。卑屈になる俺に嫌気が差して意味もなく惰眠を貪った。
「零ちゃん先生、今度は飼い猫が死んだ?」
「猫は飼ってないけど、そういうことでいい」
皐の成績はめきめきと伸びて、この前の模試では志望校である美大ではB判定が出た。皐も前に進んでいるんだな。止まっているのは世界で俺だけか。
「零ちゃん先生が元気ないの、僕のせい?」
「そんなことはないよ。皐はちゃんと勉強してしっかり結果出してるし、そのことは俺も嬉しいよ。これは俺自身の問題だから」
皐は「零ちゃん先生って弱虫なんだね」と俺の頬に触れた。キスされるかと思ったけれどされることはなく、ただ皐の澄んだ双眸が俺をまっすぐ見詰めていた。
「自分のことを好きになればいいのに」
「皐はカッコいいな」
そうでしょ、と皐が笑う。
「ねえ、自分を零ちゃん先生の彼氏さんに会わせてよ」
俺は驚いた。
「零ちゃん先生の好きな人がどんな人なのか知りたい。ダメ?」
「ダメではないけど……」
「じゃあ言い方変えるね。零ちゃん先生が彼氏さんに会うのが怖いなら、自分が付き添ってあげるよ」
俺は深い溜息をした。
「そんなに俺、弱ってる?」
「うん、世界中の猫が死んだみたいに」
別に俺は猫好きでもないんだがな、と今日初めての笑みを浮かべた。
〈久しぶり 連絡できなくてごめん 教え子が渚に会いたいって言うんだけど一緒に家まで行っていいかな? 志望校の先輩として話を聞きたいんだって〉
渚にメッセージを送るのに一時間かかった。
渚に会いたい言い訳は皐が考えた。間違ってはいないから何も不審がられないだろう。
平静を装っているけれど、この文字列から渚はどれだけを読み取るのか。全て見透かされているように感じて不安でたまらなかった。
返事は思ったより早く届いた。
〈久しぶり。いいよ、いらっしゃい。何食べたいか聞いておいてね。今度久しぶりにオフの日があるからゆっくりできるよ。待ってます〉
うさぎの絵のスタンプはにんじんを抱えて満足そうだった。いつもの渚だ。きっと、いつも通りになれるはず。
どうやって話していたのか思い出せない。お腹が重たい気がした。
「零くんいらっしゃい。そしてはじめまして」
玄関先で渚が俺たちを出迎えてくれた。シャツの上に冬物の青いカーディガン。下は芥子色のコットンパンツ。見慣れたはずなのに、初デートのときのことを思い出しているようだった。
「はじめまして、西野皐です」
皐が頭を小さく下げる。借りてきた猫のように大人しくなっている。
「うんうん、よろしくね。僕が酒本渚だよ。僕のことは零くんから聞いてるんだよね?」
皐が控えめに頷く。渚は柔和な笑みを浮かべていた。
「ご飯もうすぐできるからリビングで待ってて」
「ありがとうございます」
皐の声は幾何か明るかったが、短い髪がぺたんと倒れているようだった。
リビングに入る皐についていくと、渚が俺を引き留める。
「零くん元気にしてた?」
「うん……」
言葉がうまく出てこない。
「なぎさ、は?」
「ちょっと忙しかったけど元気だよ。それに――」
渚が耳元に口を寄せる。
「久しぶりに会えて嬉しい」
彼の顔を見ると、大きな瞳が熱を持って俺を見詰めていた。頬の産毛が立つ。感情の渦が胸の真ん中でうずまくのを感じた。
このまま抱き壊してしまいたい。
渚の肩を掴んだ。抱きしめて、キスをして、全部俺にしたい。
そんな衝動をこらえる。今日は皐がいるからお預けだ。
衝動だけで付き合えるのなら、こんなに悩まないのだろうか。
昼食を終えて皐のリクエストの鬼まんじゅうを食べた。さつまいもの甘みが優しい。皐は案外和食好きなのだと今日知った。
「皐ちゃん、勉強の方はどう?」
リビングのカーペットの上に座って俺たちは話している。湯飲みを両手で包む皐を俺たちが挟む形だ。
「この前の模試はB判定でした」
おー頑張ってるね、と渚は嬉しそうだ。
皐の声が裏返る。
「せ、先生が、いいから……」
よく言うよ、と俺は照れ隠しをする。
「零くんも頑張ってるね。すごいなあ」
人生でこれほど褒められたことがないので俺は何も言えず頬を掻いた。
「あの、渚さんに聞いてもいいですか?」
皐が切り出す。
「いいよ。大学のことかな?」
「そっ、それもあります、けど」
ん? と渚が首をかしげる。
「人生相談、乗って欲しいです」
「人生相談かー。いいよ、僕でよければ」
俺には話してないことだろうか。しょうがなく俺は静観することにした。
「自分、好きな人がいるんです。でもその人は付き合っている人がいて、でも少し不仲みたいで。自分ならそんな悲しい思いさせたくないし、寂しくなんかさせないのにって思ってます。こんな自分、図々しいですかね」
「そうだね……付き合うのってずっと幸せだけではないと思うんだ。こんなこと言うと夢を壊してしまいそうだけど。たまには喧嘩することもあるだろうし。でも、そうだね」
渚は一口お茶を飲む。
「相手がどんな状態であれ、好きなら諦めなくてもいいと思うよ。寂しくさせたくないって気持ちは僕も分かる。好きになるって相手のために頑張りたいって思えることだと思うからさ」
「じゃあ」
皐が俺の腕を掴む。
「自分、諦めなくていいんですね」
俺と渚は同じ驚きの声を上げた。
「自分は零ちゃん先生のことが好き。渚さんが零ちゃん先生を悲しませるなら、自分がとっちゃいますから」
「ちょっと皐、何言い出すんだ」
俺は狼狽えていた。皐の今日の目的はこれだったのか。
「だってしたでしょ? キス」
「あ、あれは」
渚の心臓が止まる音がした。
「零くん……ちゃんと話を聞かせて」
悪いけど、と渚が皐を睨む。
「皐ちゃん、ちょっと零くんと二人で話したいから今日は帰ってくれる?」
渚の声が低い。
皐は渚のことを直視できないでいた。
「零くん、皐ちゃんを下まで送ってきて。話はそれからしよう」
俺は頷く。
とんでもないことになってしまった。口の中に苦みが広がって、胸の中がざわざわと騒いでいた。
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