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「自分もついてきてよかったの?」
秋晴れの日、ほんの少し寒くてマフラーを出そうか迷った。電車で市街地へ向かい、そこから歩いて二十分ほどの劇場に足を運んでいた。
「彼氏さん、余計怒るんじゃないかな」
皐は不安そうに肩掛けカバンの紐を握り締めていた。
「いいんだ、皐の前で話しておきたいから。それに」
「それに?」
「一人じゃ怖い、ってのもある」
「零ちゃん先生、華姉ちゃんが言うようにホントダメなんだね」
呆れる皐に俺は同情した。俺はホントダメだ。でも、変わりたい。変わらなきゃいけない時が来たんだ。
観劇するのはもしかしたら初めてかもしれない。いや、小中学校の芸術鑑賞で観たのか。本当に遠い記憶だ。こんなにも子どもから遠ざかっているのに、大人までの道のりも長い。長い長い階段を見上げて目眩がする。
舞台の内容はうまく説明できない。ただ、舞台らしい悲劇だな、とは思った。舞台が何か分からないけれど、漠然とそう思った。
背景のセットはめまぐるしく変わった。どれも渚の作品だ。渚が目指したものがそこにはあった。夢を叶えて、大人になって。
俺の夢は何か、考えたことがなかった。
けれど皐と出会って、人と関わることの楽しさを知った。
安直かもしれないけれど、これが俺の夢だと仮定しよう。
人々の夢を応援する。そんな生き方もいいんじゃないのかな。
観劇を終えて俺は劇場横の喫茶スペースに入った。
「渚」
彼が振り返る。ふわふわの髪に、大きな瞳。
「零くん、皐ちゃん、来てくれてありがとう」
皐が頭を下げる。
「渚こそ、仕事忙しいのにごめん」
「ちょっとの時間なら大丈夫だよ」
渚がメニューを渡す。俺はカフェオレ、皐はレモンティーを頼んだ。
「零くん、話って?」
口の中がカラカラだった。グラスの水を飲み干した。
「俺、渚とのこと考えたんだ」
「うん」
「俺は渚のこと守りたいってずっと思ってた。でも、それは間違いだった。一方的で独りよがりだった。こんなにも、たくさんのものを渚に貰っていたのに」
手が震えていた。目をつぶって深く息をする。
「渚とこれからもずっといっしょにいたい。その資格が俺にまだあるのかはわからない、けど」
声が尻すぼみになる。怖い。怖くて死んでしまいそうだ。渚の次の言葉が、怖い。
注文したカフェオレが運ばれてくる。俺は砂糖を入れずに口に含んだ。
ミルクベージュの水面が揺れている。心のように、大きく。
「ちゃんと言わなきゃ、ダメだよね。俺は、俺は渚が羨ましかった。前に進んでいく渚に取り残されたみたいで。卑屈になっていた俺が百パー悪いよ。でも、俺は、渚のことが好きなんだ……そのことだけは変わらないよ」
渚が話し始める。
「僕はね。確かにうじうじしてる零くんには腹を立てた。見ていられなかったし、僕のことちゃんと見て欲しかった。でもね、待ってばかりの僕じゃダメだったね」
ふわり。暖かい手が俺の手に触れていた。
「零くんが前に進めないのなら、僕がその手を引くよ」
まっすぐな瞳が俺を貫いていた。
「一緒に生きよう、零くん」
俺は生きていていい。この人と、ずっと。
「こちらこそ」
皐ちゃん、と渚が切り出す。
「皐ちゃんに零くんはあげられない。どんなに皐ちゃんが零くんのこと好きでも、この人は僕のパートナーだから」
「分かってますよ、渚さん。自分もフラれるつもりでここにきましたから」
皐の笑みは傷付いていた。けれど、これが恋というものだ。
「大学受かるまでは零くんのこと貸しておいてあげるから。絶対に返してよ?」
皐は「返したくはないですけどね」と好戦的に口角を上げた。
「じゃあ皐ちゃん、絶対合格してね。延滞料高くつけるから」
「それは怖いです」
二人があまりにも楽しそうに言うものだから、俺はなんだか許されたような心地がした。
「ねえ零くん」
「なに?」
「愛してるよ」
「うん、知ってる」
「皐ちゃん合格したんだね」
桜が咲いて、また季節が巡る。渚の家のソファーを背もたれにカーペットの上に二人並ぶ。渚の頭が俺の肩に預けられる。この重みこそが存在してるって事だ。
「きっちり第一志望の学部にね。俺がみたのは一次のセンター試験までだったけど、画塾でかなり頑張ったみたい」
「零くんも頑張ってたでしょ?」
そうだといいんだけど、と俺は彼の唇に触れた。
もつれるようにカーペットになだれる。
「ここじゃ嫌だなあ」
「それじゃあ」
うあっ、と渚が驚く。
渚の重みを両腕に感じて嬉しくなる。
ゆっくりと彼の部屋のベッドに横たえる。
「さすがにお姫様だっこは恥ずかしいよ」
「いいでしょ? たまには」
もう、と怒ってみせる渚の蝋燭には火が灯っていた。
肌が触れ合う。
この行為はいつまでも続くわけじゃない。
人生もいつかは終わる。けれど、
「零くん、帰ってきてくれてありがとう」
あなたと手を繋いで、いつまでも。
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