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「零ちゃん先生ごめん」
エレベーターの中で皐は言った。
「でも、自分は諦めないから」
皐を送って部屋に戻るとき、死刑囚の気持ちを味わっていた。いや、離婚調停のほうがぴったりか。
部屋に戻ると渚は静かに正座していた。嵐の前の静けさ、という言葉が似つかわしいのかもしれない。
「零くん、ちゃんと話そう」
「はい」
渚の対面に正座する。
「零くん、僕が何も思わないでいたと思ってない? ここ最近のこと」
ここ最近。連絡をまともに取り合っていなかった。電話も無視した。俺の身勝手な理由で。
「僕は寂しかったよ。それは零くんも同じじゃなかった?」
「同じ、だよ。多分。でも俺、分かんないよ」
「何が分からないの?」
渚の眉がつり上がる。
俺は言葉を選んでいた。絶対に離してはいけない命綱は、一体どこにある。
「言えないようなこと?」
渚の深い憤りが聞こえてくる。呼吸が速くなる。
何から言えばいいのだろう。皐にキスされたのは一方的なもので、渚に連絡できなかったのは俺のちっぽけな嫉妬心からで、ただ寂しくて、そして将来どうしていきたいのか分からなくて。何も見えない。何も聞こえない。母さんにも将来のことを問われた。このまま男同士で付き合って。きっとそのうち結婚はできるようになるのかもしれないけれど、それが俺たちのゴールだとは現実的には思えなくて。怖くて、どうしたらいいのか分からなくて。
きっとこのまま終わっていくのかもしれない。
この恋も、人生も。
「俺は、この先どうしたらいいのか分からない。将来どうしたいいのかとか、このままでいいのかとか。滴も、華さんも、みんな夢に向かっている。けど俺は何にもない。何に母さんに結婚のことを聞かれて何も答えられなかった。だから――」
「嫌だ!」
聞いたことのない叫び。。
カーペットに湯飲みが転がっている。
「僕は、ぼくは、零くんのこと、絶対に離したりなんかしない」
大粒の涙が落ちる。小さな渚が、両腕で目をこすっていた。
「零くんはいつまでそこで立ち止まってるの? 意気地無しな零くんなんか大嫌いだ! だから、だから僕は――」
こんな渚を見るのは初めてだ。俺は呼吸を忘れていた。
そして俺に突き刺さった。
大嫌い。
「クソ男。優しいあたしと厳しいあたし、どっちと話したい?」
俺は迷わず「厳しい華さんで」と答えた。
場所は駅前のファミレス。何の因果か皐の家庭教師をすることになったときと同じ席。なんでこんなことまで覚えているのだろう。渚のことは、もううまく思い出せないというのに。
「んじゃまず最初に。クソ男、あんたナギちゃんから逃げたでしょ」
逃げた。否定なんてできるわけがない。怖かった。このまま繋がれた手が解かれることが。でも、俺は、逃げて、突き放して。
「ナギちゃんに嫌われても当然だね。浮気しておいて将来が不安だ? 笑わせんなクソが。問題をすり替えてるんじゃないよ。あたしはそれを『異性に逃げた』なんて差別的な言い方はしたくないけど、あんたの場合は逃げだよ。性別どうこうじゃなくて、人から人への逃げだ。あらゆるものから逃げるな、なんて根性論は言いたかないけど、好きな人からすら逃げるあんたは最低のクソ男だ」
華さんは続ける。
「クソ男が一方的に遠ざけておいて疎遠になったと勘違いしてない? あんたから電話したことあった? ナギちゃんは何度でもかけてきたんじゃないの? ホント自己中にも程があるよ。百パーあんたが悪いね」
俺はただうなだれていた。
最低、最低だ。どうして渚のことを大切にできないんだ。あんなに、あんなに好きだったのに。嫌いになんかなりたくない。でも渚は、俺に。
「……大嫌い、って言われました」
あの後どうやって帰ったのか覚えていない。
気付いたら自室のベッドの上で、枕は長雨の中のように濡れていた。
滴に起こされて食事を取ったけれど、何を食べても砂を噛んでいるようだった。
そして華さんに呼び出された。滴から聞いたという。
「こんな俺、ダメすぎて。もう自信がないんです。渚のこと、どうやって守ったらいいのか分からなくて」
華さんが深い溜息をつく。
「守って欲しい、ってナギちゃんに言われたの?」
しっとりとした柔らかい声だった。
「確かにナギちゃんは弱いところもあるし、家族には恵まれなかった。でも、だからって守られるためにあんたと一緒にいたわけじゃないと思うよ」
――あんたはナギちゃんに何を貰った?
蘇る記憶。一緒に居た日々。渚の美味しいご飯。笑顔。暖かさ。居場所。
華さんは俺にポケットティッシュを袋ごと渡した。
「大好き、だった。でも、もう……」
「諦めるのはまだ早いんじゃない? あんたが変われるならね。じゃあ出血大サービス。とびきり優しい天使なあたしからのプレゼントだよ」
そう言って華さんはカバンから白い封筒を取り出した。
「ナギちゃんの次の舞台のチケット。ナギちゃんはあんたにもあげるつもりだったらしいけど貰ってないでしょ? これ、あたしと滴っちの分だけどあげるよ」
封筒を開くと二枚のチケット。それとカードが一枚。
〈零くんの教え子さんに華ちゃんからも色々教えてあげてください。みんなでおいでね〉
文字が滲まないよう俺は急いで両目を拭った。
「それで滴っちから聞いたんだけど、チケットは定価取引が原則、なんだっけ?」
華さんが茶目っ気のある笑みを向ける。
「はい、ちゃんとお支払いします」
よろしい、と華さんはファミレスで一番高い一ポンドステーキのサラダ・スープ・ライス大盛りのセットを頼んだ。どこが定価なんだか、と俺は自然と笑っていた。
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