オリジナル小説サイト「渇き」

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嘘つきは物語の始まり 第四夜 自慢――――コイゴコロ

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「そういえば、君の自慢を聞きたいなぁ」

 今日のアヤカさんは珍しく酔っているようだ。目元が潤んで少しだけ赤い。

「アヤカさん、飲みすぎじゃないですか?」

「あら、女が飲みすぎているときは大体失恋したときなのよ」

 えっ、と声をあげると、アヤカさんは「勿論嘘よ」と付け足した。

「嘘」というのが「嘘」なのか。それとも「本当」に「嘘」なのか。そんなパラドクスに惑わされる僕は、前者であることを願ってしまった。彼女の癒しになれるのなら、僕は喜んで嘘を吐こう。

「僕の自慢ですか? 目の前の美女とお付き合いしていることですよ。――あっ、勿論嘘ですよ」

 嘘の嘘を僕は語り始めた。自慢って、なんだろう。

 

   □

 

   「コイゴコロ」

 

 これは自慢と言うよりは、過去の笑い話だと受け取ってほしい。

 

 私には中学生のときにファンクラブがあった。私のことを熱狂的に好きだという少女たちがいつの間にか私の周りを取り囲んでいた。

 ひとつ前置きしておくが、私が通っていた中学校は公立の共学校で、地元の小学校からいくつか集まってひとつの中学校になっていた。そして私は別段ボーイッシュとか、イケメンとか、美人とか、そういうものでもない。女子校ならではのあるある話ではないのだ。

 

 きっかけ、というものはきっとこれだろうというものがある。

 私は演劇部のただの部員で、文化祭でありふれた恋愛モノの演劇を披露した。その演目の中で、私は主人公の少女に恋をする役どころであった。結局はこのご時世に倣って少女は王子様と結ばれるのだが、少女に恋をして叶わない愛の言葉を高らかに歌うシーンに体育館の空気が張り詰めた。

 ファンクラブの一員と名乗った女生徒から多く聞いたのは、この演目で「どうして女性に恋をしても結ばれないのか」と疑問に思ったらしい。

 私は役とは違い、レズビアンではない。今のところ、女性とお付き合いしたいと思ったことは、彼女たちからしたら残念ではあるかも知れないが、ない。

 それでも少女たちは熱狂的に私に愛を向けた。羨望という残酷な愛を。

 

 どれだけ熱狂的だったか。

 まず私は廊下で知らない女生徒たちに名前を呼ばれ、握手を求められた。握手をした女生徒は目に涙を浮べて「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。

 次に、部活の見学者が増えた。演劇部に興味があると言うようには到底思えない人ばかりで、私に熱視線を送るばかりだった。部長には呆れられたが、咎められなかったことが救いであったかもしれない。咎められていたら、彼女たちに私は怒りを向けただろう。

 そして私はたくさん告白されるようになった。勿論、女生徒からだ。人数は十を超えてから数えていない。恋愛に疎かった私は、ただ「ありがとうね」と笑顔でかわしていた。気持ち悪くは無かったが、「何故」という疑問が大きかった。どうして私と話したいのだろう。どうして私に触れたいのだろう。どうして私を見ていたいのだろう。

 ちょっとした人気者、という地位に私は少しばかりの優越感を覚えていた。そして、どうせ冗談ではやし立てているのだろうと、好意に笑顔で返していた。

 私のファンクラブ、という言い方も恥ずかしいが、彼女たちは非常に良心的だった。物が盗まれることも、家まで押しかけられることもなかった。ただただ私に愛を向けていたのだ。

 私には分からない愛を。

 

 さて、そんな最中、私はある男性に恋をした。部活で関わりのあった美術部の男子生徒だった。私は彼のことを思うと体が火照るような、涙が出るような思いに苦しめられるようになった。

 彼と話せたらどれだけいいだろう。彼が笑いかけてくれたらどれだけいいだろう。今、何をして、何を考えているのだろう。

 恋する乙女となってしまった私は、彼女たちの思いの意味を知ってしまった。

 

 私は彼に告白した。簡単に「好き」の二文字で。

 彼の返答は「ごめん」だった。

 

 私は泣きに泣いた。一人、枕を抱きしめて夜中。月が輝くのが恨めしくてカーテンを閉めた。そして私に今まで向けられていた愛の重さに、私は体中を吐き出した。

 

――――好きって、こんなにも残酷なのか、と。

 

 次の日、私は部活の後輩に呼び出された。彼女も私のファンの一人だ。

「先輩」

 彼女の唇は震えていた。

「私、先輩のことが好きです」

 ええ、知っているわ。痛いほどに。

 でも私は残酷にも、彼女のことを恋愛対象として見ることはできなかった。「どうして両想いになれないの」なんて私は叫んでしまいたくなった。

 唇をきつく結んで、それからお得意の演技で笑顔を作った。

「ありがとう、嬉しいわ」

 私は知らない振りをした。恋を知る前の私。あなたは冗談で言っているのでしょう? という目で。

 彼女が走り去っていった後、私はその場で泣き崩れた。好意を向けられることが怖くてたまらなくなった。それだけのたくさんの愛を無下にして殺していたのだと。

 

 熱狂的だった私のファンたちは、いつしか静かになっていた。

 各々好きな人を見つけたのか、単に飽きたのか。

 私にはそれが丁度良かった。

 

 大人になった今だから笑い話にできる、私の幼い自慢話。

 

   □

 

「慰めてくれているのかしら?」

 アヤカさんのやつれた目元はそれでも美しかった。

 拭ってアヤカさんの人指し指に乗ったしずくは、音をたてずにカウンターに落ちて沁み込んだ。

「僕に女性のコイゴコロは分かりませんが、ツラく、苦しいものなのは知っていますよ」

 何故か、とは言わないけれど。

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嘘つきは物語の始まり 第三夜 花々――――涙色の紫陽花

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 樫の一枚板のテーブルの上に空の花瓶があった。

「アヤカさん、あれは何ですか?」

 カウンターで見つけた彼女に胸を弾ませて尋ねる。アヤカさんは期待するように微笑むと、顎で花瓶の先に座る男を指した。あの男は昨日も、その前の日もいた気がするし、いなかった気もする。

「あの人の十八番よ」

 男は若くもなく老いてもいない。丁度男の盛りといったほどの風格があった。男はひとつ手を叩くと「やあやあ諸君」と声高々に語り始める。

「この花瓶に生けられた花はどんな色をしているかね? どんな香りがするかね? 君にとってこの花はどんな物語をもっているのかね?」

 空白の花瓶に生けられた花に物語が注がれる。僕にはどんな花に見えるだろうか。

 

   □

 

   「涙色の紫陽花」

 

 僕は今日も花を集めていた。落ちた椿、乾いた向日葵、色のない紫陽花。

「モモちゃん、またそんなもの、拾ってきて」

 母はいつも僕が集めた花たちを捨てた。かさかさとした死んだ花たちを。

 

 僕は学校でも色のない花たちを探した。

「モモって馬鹿だもんね」

「気持ち悪い」

「あの子は頭がおかしいからしょうがないよ」

「そういうビョーキだよ」

「かわいそう」

 口々に周りの人たちは言ったけれど、僕の耳にはうるさすぎて何を言っているのか分からなかった。でも、とても悲しかった。みんな笑っている。生きている。授業に出るようにと先生に言われても、教室は生きている人たちがいっぱいで、僕は泣きだしてしまった。怖い。怖いんだ。みんなが僕を壊そうとする。

 教室を飛び出して僕は校庭の片隅で枯れ葉や落ちた花弁を撫でていた。

「モモちゃん、どうして落ちた椿や枯れ葉を拾ってくるのかな」

 保健室の先生はかがんで僕に聞いてくれた。

 僕には難しくて、怖くなってぼろぼろと涙を落とした。

 保健室に飾られた花瓶の花は僕を嘲笑っているようだった。

 

 高校生になっても、僕は枯れた花を探しに野山を歩いた。

 多くの花は雨に溶けて腐っていくから、枯れた花を見つけることは難しい。でもたまに出会う屍に僕は心を落ち着かせた。

 僕は「死」に落ち着くのだといつの間にか知った。

 そして高校では「死神」と呼ばれて気味悪がられているのだと聞き取れるようになった。

 シニガミってなんだろう。みんなは死ぬのが怖いのかな。

 僕はいつしかこう考えるようになっていた。

――生きていることは恐怖で、死ぬことが安寧だ、と。

 勉強は嫌いじゃなかった僕は、地元の国立大学に入学した。

 自分が「生きている」という現実から逃げるために、僕は学問に没頭することが増えた。友達は相変わらずいない。飲み会に誘われることもなければ、ましてや合コンなんてものは恐怖でしかなかった。

 僕は人間の肉体が行き着く最後の場所、火葬場でバイトを始めた。ここに生者はいない。不自然なほど綺麗な死体は小さなカルシウムのかたまりになる。人の焼ける臭いが身体中に沁みるのが心地よかった。

 そんなある日、大学から火葬場に向かおうとしていたとき、乾いた花束を抱えた彼女に出会った。

 衝撃だった。死んだ花を笑顔で抱えた女性がいることに。

「私、ドライフラワーでインテリアを作るのが好きなの」

 あまりにも僕が見つめるものだから、彼女は苦笑しながら話しかけてくれた。何も言えずにいると、彼女は真っ白な紫陽花を一つ、僕に渡した。

 部屋の角にそれを飾ってみた。他の腐臭がする死んだ花たちよりずっと美しく、高貴なものに思えた。

 

「紫陽花は土壌の酸度によって色が変わるでしょう? 雨という涙の色に染められるの。そんな優しい花なんだよ」

 僕の部屋にやってきた彼女は、僕を抱きながらベッドの中でそう呟いた。

 この世にも天使が、死の使いがいるのだと僕は知った。

「僕は、生きているものが怖い。君のことも、怖い」

「怖いのは、どうして?」

「生きているものは、いつも僕のことを睨んで、蔑んで、暴力を振るうから。動いて、呼吸して、食事して、排泄して、眠る。その中でたくさんのものを傷付ける。僕のことも、傷つける」

「でも私に触れられたのは何故?」

「わからない。君は、死んでいる?」

 彼女はふふ、と微笑むと、僕が眠るまで髪を撫で続けていてくれた。

 

 彼女の葬式は、それから一週間後のことだった。

 死因は交通事故。たくさんの生きた花が手向けられた。暴力的なまでの生きた花たちの真ん中で、彼女は優しい死に顔で微笑んでいた。

 

 火葬場で彼女の遺灰を遺族に頼んで少しもらった。

 小さな瓶に詰めて、真っ白な紫陽花の横に置いた。

 目をこすると、小さなしずくが人差し指に乗った。

 

 この紫陽花は、今、何色に染まるのだろう。

 

   □

 

 いつの間にか輪に入って僕は語っていた。

 ここにいる人たちに、涙色の紫陽花をみせることはできただろうか。

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嘘つきは物語の始まり 第二夜 母親――――赤

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 僕は再びこの酒場に足を踏み入れた。今日は太めのチノパンに、白地に細い紺のボーダーのTシャツ、挿し色にショッキングピンクの薄手のシャツを腰に巻き付けている。まるで大学生の彼女とデートに行くような服だと僕は笑ったが、会いたい人に会うにはちょうどいいのかもしれない。

 店の中には既に多くの人が集まっていた。各々語らっているが、それが全て《嘘》なのだと僕はもう知っていた。

「あら、今日は学校の帰り?」

 アヤカさんはジントニックを片手に数年前の直木賞作品を開いていた。この店にある本の中では比較的新しいものだ。

「今日はデートをしていたんです」

 へぇ、とアヤカさんは口角をあげて、ルージュを光らせた。

「誰とのデートだったの?」

 貴女と、という言葉を飲み込んで、僕は身近な女性の顔を思い浮かべた。

「母とデートしてたんです」

「どんなお母様なのかしら」

 僕は物語を作る快楽を知ってしまった。今日も語る。嘘の母を。

 

   □

 

   「赤」

 

 私の母は「赤」を売っていました。その「赤」は薔薇のように情熱的で、夕焼けのように情緒的で、女性の体の真ん中にあるものだと母は教えてくれました。

 母は「赤」を売りに行くとき、いつも余所行きの素敵な服を着ていました。仕立ての良いワンピースを着て、私を抱きしめてこう言うのです。

「今日もいい子にして待っていてね」

 名前の知らない甘い香水の匂いが母の香りです。

 ピンヒールのパンプスを履いて、マンションの玄関先でタクシーに乗り込む。それがいつもの母でした。

 

 私は普通の子供と同じように反抗期を迎えました。

 遅くまで帰ってこない母のことが憎く思えて、私は「いい子」をやめて夜の街に繰り出しました。

 夜の街の喧噪はとても寂しかったのを覚えています。

 母はいつも高価なものを身に付けていました。あの香水はシャネルの五番。ワンピースもパンプスも百貨店のVIP向けフロアで売られているものだと知りました。

 母は私を一人で育てるのには十分なお金を持っていました。

 貧乏はしていない。けれど心は貧しく育ってしまったのかもしれません。

 

 池袋にあるクラブに足を踏み入れた私は、一人の男と知り合いました。

 彼は成人したばかりのただの大学生だと名乗りました。しかし身に付けているものは清潔な高級さを感じさせ、嫌でも「赤」を売る母を思いだしてしまいました。

 ベース音が心臓まで揺らすクラブの端、母の香りがする彼の腕の中で私は大声で泣きました。苛立ちや懐疑よりも寂しさが大きかったのかもしれません。私の泣き声は彼にしか聞こえなかったことでしょう。

 彼に連れられて、ホテルへ行きました。そこは派手な外装のよくあるラブホテルではなく、落ち着いた雰囲気のシティホテルでした。空いている部屋の中で一番広いセミスイートルームに私を彼は案内しました。

 部屋につくと彼は私の唇に触れるだけのキスをしました。

「君も『赤』を持っている。そのことを知っているかい?」

 考えたこともありませんでした。薔薇のような情熱も、夕焼けのような情緒も、あの母しか持っていないのだと、そのときの私は考えていたのです。

「知りたくないなら、もう触れない」

 私は母の「赤」に憧れていたのだと、このとき気付きました。

「知りたい」

 それが私の答えでした。

 

 彼は私にもう一度、触れるだけのキスをしました。背の高い彼は背を丸めて、私の髪に手を通して何度も唇に触れました。キスを繰り返すうちに、私の真ん中が熱くなるのを感じたのを鮮明に覚えています。彼の舌が私の口を割り、ゆっくりと丁寧に私の粘膜の形を確認していきました。熱い吐息が漏れて、苦しかったけれど真ん中が彼を求めるのです。

 彼は私の両耳の形も唇と舌の粘膜でくまなく記憶していきました。その頃には私の真ん中から熱い何かが膝まで濡らしていきました。脚に力が入らなくなると、私は彼の体に雪崩れるように抱き付きました。すると彼は私を抱えて雲の上に乗せるようにキングサイズのベッドに私を寝かせました。後にも先にも、お姫様抱っこをされたのはこのときだけです。母と同じシャネルの五番と、微かに男の苦い香りがしました。

「脱がせるよ」

 彼は低い声で呟くと、優しく私のワンピースとブラジャーを脱がせました。普通の女の子ならば恥ずかしがるのでしょうが、何故か私はそれが普通だと思えたのです。服を着ているのが不自然で、布を纏わないのが自然だと。

 彼は私の未発達の乳房に手を添えると、優しくほぐしていきました。冷たい脂肪のかたまりが彼の手によって溶かされている。私の身体はどうなってしまうのだろうかと不安から、始めて私から彼にキスをしました。

「やっぱり君の『赤』は素敵だよ」

 彼は笑うと私の胸の先を口に含むと、温めるように優しく舌で撫でました。そのとき出た声は果たして私のものだったのでしょうか。私の真ん中から出た声はリンゴのように甘美なものに思えました。

 ショーツを脱ぐと、彼も身に付けていたものを全て脱ぎました。始めて見た男性の中心はどこか愛しく思えました。そっと手を伸ばすと、私の身体のどこにもない硬さと柔らかさを兼ね備えていて、その熱さに私の真ん中が波打ったのです。

「君の瞳、とても情熱的だよ」

 私がどんな顔をしていたか、鏡のないこの部屋では分かりませんでした。ただ、とても飢えていたことだけは確かです。彼が欲しいと、そう願ったのです。

 私の性器に、彼は触れました。幾重にも重なるひだを彼の舌が伸ばしていき、とめどなく流れる液を掬い取っては塗りこんでいきました。

「痛かったらごめんね」

 そう言って彼は細い指で私の真ん中に触れました。今まで開かれたことのない肉の壁が押し広げられる痛みに私は一筋の涙を落としました。同時に、宇宙の奥を見ているような情緒に私は胸が苦しくなったのです。

 彼はペニスに何か被せると、私に覆いかぶさり、もう一度暖かいキスをしました。

「君の『赤』を少しもらうよ」

 柔らかく硬く熱いそれが私の真ん中に触れる。痛みと苦しさがあるはずなのに、私は獣のような声をあげて身体を震わせました。

「いい子だね。もう少しこうしていようか」

 彼は動かないで私を抱きしめたまま頭を撫で続けていてくれました。

「これが『赤』なのね」

「そうだよ。でももうすこし頑張ってくれる?」

 私が頷くと彼はゆっくりとペニスを出し入れしはじめました。真ん中に先が触れる度に私はリンゴのような声をあげます。自然に帰ったような心地よさを彼は与えてくれました。

 私はそれから何度か絶頂を迎えると、彼も「白」を吐き出しました。

「貴方は何者なの」

「君のお母さんと一緒さ。君のお母さんは『赤』を売り、僕は女性から『赤』を引き出す。そういう商売をしている。君からはお金は取らないよ。たくさんの『赤』をもらったからね」

 母の売っていた赤は薔薇のように情熱的で、夕暮れのように情緒的で、そして血液のように巡っているものだと私は知りました。そして私は今、母と同じように「赤」を売っています。

 

   □

 

「あら、今日は女の子なのね」

 直木賞作品をいつの間にか閉じていたアヤカさんは、意外そうに、また楽しそうに笑ってみせた。

「僕がいつ男だと言いましたか?」

 真剣な顔で言ってみたものの、僕も笑ってしまった。

 こんな楽しい世界があるなんて、知らなかった。

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嘘つきは物語の始まり 第一夜 故郷――――三毛猫のいる町

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 バーカウンターで各々カクテルを受け取ると、樫の一枚板のテーブルを囲んだ。僕も皆がそうするようにそっとシャーリーテンプルをテーブルに置く。

 アヤカさんはテーブルにはつかず、カウンターで古書を広げて僕らの話をバックグラウンドで聴くつもりらしい。

「君はどこから来たのかい?」

 真向かいに座っている白い髪を結えた老人が、目尻の皺を深めて問う。家の住所を思い浮かべたが、もう《遊び》が始まっているのだと僕は気付いた。机を囲んだ語り部たちが、好奇心に目を光らせ、餓えた獣のように物語を欲しているのを感じるのだ。

「私は、君の《嘘》に興味がある。さあ、語ってはくれないか? どこで生まれ、どこで育ち、どんな幼少期を過ごしたのか」

 語り部たちは獣だ。そう僕は知って、語り始めた。僕の偽りの生まれ故郷のことを。

 

   □

 

   「三毛猫のいる町」

 

 それは海の見える町だった。小さな湾には漁船が並び、コンクリートの堤防が続き、やがて岬の森に消えるような隔絶された小さな、とても小さな町だった。

 僕は学校指定の銀色の自転車でユウと走っていた。堤防横のアスファルトは卵を落とせば目玉焼きが焼けるほど熱くなっていて、逃げ水がゆぅらりと僕たちを誘った。このまま走っていればこの町から、思春期の憂鬱から逃げだせる気がした。

「あ、猫だ」

 僕の前を走るユウが自転車のペダルを止めた。猫は茶と黒が多い三毛で、名産品の太刀魚を干している棚の下で、うたた寝をしていた。もしかしたら、ただ目を閉じて世界の憂鬱を憂いているのかもしれないと僕は思った。

 自転車を立てるとユウは店先の三毛猫を撫でた。猫は特に抵抗することなくユウの手を受け入れて、ただ身体を任せて目を閉じて撫でられ続けた。

「ミコトも撫でるか?」

 ユウの誘いに僕は乗らなかった。見知らぬ猫を撫でるのは見知らぬ人間に触れる痴漢と変わらない気がした。妊婦の腹を唐突に撫でるのと何も変わらない。そんな気持ちだ。

 この町には猫が多い。魚を食べるのは日本の猫くらいだと聞くけれど、漁師たちが可愛がるからか人になれた猫が多かった。どうして信用できるのか、僕には理解できなかった。

 入道雲が近付いている。夕立が来るのも近いだろう。僕は鞄の中が錆びないか気にかけて、ユウに帰ると告げて自転車で走り出した。

 

「ミコト、大変だ」

 それは晴れた日が続いた夏休み最後の日のことだった。

「何さ」

 電話越しに僕は気だるく返事をする。

 出したままの蚊帳の中で寝返りを打ちながら、震えるユウの声を聞いていた。

「いいから外に出てきてくれ、干物屋の裏だ」

 あそこまでなら歩いて十五分もかからない。けれど僕はいつものように銀色の自転車に跨った。

 干物屋に着くと、真っ青な顔のユウと、足元に黄色い吐瀉物が見えた。

「ユウ、気持ち悪くて呼んだの?」

 ユウは涙で汚れた顔を拭いながら、干物屋の裏手のコンクリートを指差した。ユウの胃液を踏まないように覗き込むと、猫が死んでいた。干物のように切り開かれた腹から出た内臓はところどころ啄まれた形跡があり、腐った肉からは日が当たらないせいか白い蛆が湧いていた。潮の香りが強くて腐臭はしない。どこを見渡しても猫の尾らしきものは見当たらない。そして猫の皮は、三毛色だった。

「猫が、死んでるね」

「ミコト、これ、誰がこんな酷いことを」

 嗚咽混じりの声は、僕の脳の真ん中をジン、と熱くさせた。

「さあな、変わった趣味のやつもいるものだね」

 僕は無感情を装った。本当に僕は感情を感じていただろうか。

 あるとしたら、憂鬱だ。

「趣味で、生き物を殺していいわけないだろ」

 ユウが声を荒げて僕の胸倉を掴んだ。興奮で荒い息は酸の臭いがして不快だった。

「絶対犯人を見つけてやる。こんなことしていいはずがない。学校中に張り紙貼ろうよ。なんなら町中に。こんな小さな町だ。すぐに見つかるよ」

 どうして君は迷わないのだろう。疑わないのだろう。憂鬱ではないのだろう。

 

 次の日、九月一日。ユウは学校に来なかった。

 僕の憂鬱は人の肉を裂いても晴れなかった。鞄の中のナイフはいくら洗っても鬱陶しい肉の臭いがする。

 でもこの町から出られるのだと思うと、少しだけほっとした。

 

   □

 

「ミコト君、と仮に呼ぼう。君はあの町が嫌いだったのかい?」

 白髪の老人は語り終えた僕に問う。

「もう分かりません。僕はどうしたかったのでしょうね。だって、嘘ですから」

 その回答に、老人は「実に愉快」と一つ手を叩いた。

「もうこの酒場は君の庭だ。またいつでも来るがいい」

 僕はアヤカさんを見た。楽しそうに、真っ赤な唇が笑っていた。

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嘘つきは物語の始まり  第零夜 自分――――薬売り

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「君、知らない顔ね」

 天井まで堆く積まれた書籍と薄暗い店内の香りに怯えながら奥のバーカウンターまでたどり着くと、真っ赤なカクテルに口を付ける女性に声をかけられる。カクテルと同じ真っ赤なサマードレスから覗く腕は細く日によく焼けていた。歳はそんなに変わらないはずなのにとても大人に見える。

「初めてここに来たんです。不思議な物語が聞けると聞いて」

 そう、と女性は平積みの書籍を値踏みするように、僕の脚先から脳天まで眺めた。こんな場所に何を着て行けばいいのか分からなかったので就活用に買った真っ黒な吊るしのスーツで来てしまった。それを彼女はそれを安っぽく思っただろうか。仄暗い店内では彼女の表情は見えないが、双眸だけは潤んだように輝いていた。

「私はアヤカ、魔法使いの孫で、娘はヴァンパイアに感染して家を出たわ」

 物語の中でしか聞いたことのないワードなのに、アヤカさんは当然とばかりに自己紹介をする。魔法使いがこの世にいるのかは知らないし、娘がいるような歳にも見えない。

 アヤカさんは口角を上げて歯を見せると、悪戯っぽく「君は?」と問う。しかし僕が言葉を発する前に、アヤカさんは人さし指で僕の唇を塞いだ。

「この酒場では《嘘》しか言ってはいけないわ」

「嘘?」

「そう、楽しい嘘をついてごらんなさい。それが物語の始まりだから」

 

 僕はほんの少し考えて、息を吸い込んだ。

「僕は、裕福な薬売りの家に産まれました。毎日、親によく分からない薬出されて、飲んでいるうちに自分が何者なのか分からなくなりました。そして自分を探すために本を読んでいるうちに、物語に飢えるようになり、噂を聞きつけてここに来ました。アヤカさん、どうか楽しい物語を聞かせてください。僕を見つけるために」

 アヤカさんは真っ赤なカクテルを一口含むと、「上出来じゃない」と笑った。

 僕は嘘をついた。そして、物語が始まった。

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嘘つきは物語の始まり プロローグ ある酒場にて

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 地下一階、今日が燃え尽きる赤と共に階段から夏の名残の湿り気を帯びた風が吹き込んでくる。かき混ぜられた風は本の表紙をめくり、古めかしい紙とインク、そしてアルコールの臭いが鼻を刺した。

 ここは物語を紡ぐ者たちが集う小さな酒場だ。大小の酒瓶と一点の曇りもなく磨かれたグラスが並べられた壁以外、三方の壁には一面、古今東西の物語が綴られた《本》がぎっしりと並んでいる。もう誰も読むことができない古語や、人間の皮で装丁された異国のものもある。オーナーが趣味で集めたものが殆どだが、ここを訪れる語り部たちが置いていったものも多い。不揃いな背表紙が今夜も彼らを見下ろしていた。

 バーカウンターとは別にある、店の中心に樫の一枚板のテーブルを彼らは囲む。そのうちの一人の男が、ギムレットのグラスを片手に宣言する。

「今夜も《遊び》を始めよう!」

 夜な夜な行われる語り部たちのゲーム。

 ルールはただ一つ。

「本当のことは言ってはいけない」

 この酒場の名前は《嘘》。今宵も虚言者たちの宴が始まる。

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SS『騒音』

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 うるさい。

 この感情が僕の脳内で鳴り響いてたまらなかった。

 人の足音、冷蔵庫の待機音、本をめくる音、小鳥の囀り、キーボードを叩く音。

 試しに耳栓をしてみたけれど、血の巡る音が喧しくてたまらなくてすぐにやめた。

「何も聞こえなくなりたい」

 そう口にするのも煩くて僕は黙った。

 話しかけられても全て無視して、聞こえなかったことにした。

 

「ねぇ、私の話聞いてる?」

 聞いていない。

「あなたのためになりたいの」

 聞こえない。

「あなたが苦しいと私も苦しいの」

 うるさい。

 

 愛情って不思議よね。

 やっぱり一番大切なのは自分なの。

 苦しみを半分こなんていうけれど、その半分の苦しみから逃れたくて相手を責めるんだ。

 

 ああ、うるさい。

 誰も心臓を動かさないでくれないか?

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