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嘘つきは物語の始まり 第三夜 花々――――涙色の紫陽花

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 樫の一枚板のテーブルの上に空の花瓶があった。

「アヤカさん、あれは何ですか?」

 カウンターで見つけた彼女に胸を弾ませて尋ねる。アヤカさんは期待するように微笑むと、顎で花瓶の先に座る男を指した。あの男は昨日も、その前の日もいた気がするし、いなかった気もする。

「あの人の十八番よ」

 男は若くもなく老いてもいない。丁度男の盛りといったほどの風格があった。男はひとつ手を叩くと「やあやあ諸君」と声高々に語り始める。

「この花瓶に生けられた花はどんな色をしているかね? どんな香りがするかね? 君にとってこの花はどんな物語をもっているのかね?」

 空白の花瓶に生けられた花に物語が注がれる。僕にはどんな花に見えるだろうか。

 

   □

 

   「涙色の紫陽花」

 

 僕は今日も花を集めていた。落ちた椿、乾いた向日葵、色のない紫陽花。

「モモちゃん、またそんなもの、拾ってきて」

 母はいつも僕が集めた花たちを捨てた。かさかさとした死んだ花たちを。

 

 僕は学校でも色のない花たちを探した。

「モモって馬鹿だもんね」

「気持ち悪い」

「あの子は頭がおかしいからしょうがないよ」

「そういうビョーキだよ」

「かわいそう」

 口々に周りの人たちは言ったけれど、僕の耳にはうるさすぎて何を言っているのか分からなかった。でも、とても悲しかった。みんな笑っている。生きている。授業に出るようにと先生に言われても、教室は生きている人たちがいっぱいで、僕は泣きだしてしまった。怖い。怖いんだ。みんなが僕を壊そうとする。

 教室を飛び出して僕は校庭の片隅で枯れ葉や落ちた花弁を撫でていた。

「モモちゃん、どうして落ちた椿や枯れ葉を拾ってくるのかな」

 保健室の先生はかがんで僕に聞いてくれた。

 僕には難しくて、怖くなってぼろぼろと涙を落とした。

 保健室に飾られた花瓶の花は僕を嘲笑っているようだった。

 

 高校生になっても、僕は枯れた花を探しに野山を歩いた。

 多くの花は雨に溶けて腐っていくから、枯れた花を見つけることは難しい。でもたまに出会う屍に僕は心を落ち着かせた。

 僕は「死」に落ち着くのだといつの間にか知った。

 そして高校では「死神」と呼ばれて気味悪がられているのだと聞き取れるようになった。

 シニガミってなんだろう。みんなは死ぬのが怖いのかな。

 僕はいつしかこう考えるようになっていた。

――生きていることは恐怖で、死ぬことが安寧だ、と。

 勉強は嫌いじゃなかった僕は、地元の国立大学に入学した。

 自分が「生きている」という現実から逃げるために、僕は学問に没頭することが増えた。友達は相変わらずいない。飲み会に誘われることもなければ、ましてや合コンなんてものは恐怖でしかなかった。

 僕は人間の肉体が行き着く最後の場所、火葬場でバイトを始めた。ここに生者はいない。不自然なほど綺麗な死体は小さなカルシウムのかたまりになる。人の焼ける臭いが身体中に沁みるのが心地よかった。

 そんなある日、大学から火葬場に向かおうとしていたとき、乾いた花束を抱えた彼女に出会った。

 衝撃だった。死んだ花を笑顔で抱えた女性がいることに。

「私、ドライフラワーでインテリアを作るのが好きなの」

 あまりにも僕が見つめるものだから、彼女は苦笑しながら話しかけてくれた。何も言えずにいると、彼女は真っ白な紫陽花を一つ、僕に渡した。

 部屋の角にそれを飾ってみた。他の腐臭がする死んだ花たちよりずっと美しく、高貴なものに思えた。

 

「紫陽花は土壌の酸度によって色が変わるでしょう? 雨という涙の色に染められるの。そんな優しい花なんだよ」

 僕の部屋にやってきた彼女は、僕を抱きながらベッドの中でそう呟いた。

 この世にも天使が、死の使いがいるのだと僕は知った。

「僕は、生きているものが怖い。君のことも、怖い」

「怖いのは、どうして?」

「生きているものは、いつも僕のことを睨んで、蔑んで、暴力を振るうから。動いて、呼吸して、食事して、排泄して、眠る。その中でたくさんのものを傷付ける。僕のことも、傷つける」

「でも私に触れられたのは何故?」

「わからない。君は、死んでいる?」

 彼女はふふ、と微笑むと、僕が眠るまで髪を撫で続けていてくれた。

 

 彼女の葬式は、それから一週間後のことだった。

 死因は交通事故。たくさんの生きた花が手向けられた。暴力的なまでの生きた花たちの真ん中で、彼女は優しい死に顔で微笑んでいた。

 

 火葬場で彼女の遺灰を遺族に頼んで少しもらった。

 小さな瓶に詰めて、真っ白な紫陽花の横に置いた。

 目をこすると、小さなしずくが人差し指に乗った。

 

 この紫陽花は、今、何色に染まるのだろう。

 

   □

 

 いつの間にか輪に入って僕は語っていた。

 ここにいる人たちに、涙色の紫陽花をみせることはできただろうか。

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