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バーカウンターで各々カクテルを受け取ると、樫の一枚板のテーブルを囲んだ。僕も皆がそうするようにそっとシャーリーテンプルをテーブルに置く。
アヤカさんはテーブルにはつかず、カウンターで古書を広げて僕らの話をバックグラウンドで聴くつもりらしい。
「君はどこから来たのかい?」
真向かいに座っている白い髪を結えた老人が、目尻の皺を深めて問う。家の住所を思い浮かべたが、もう《遊び》が始まっているのだと僕は気付いた。机を囲んだ語り部たちが、好奇心に目を光らせ、餓えた獣のように物語を欲しているのを感じるのだ。
「私は、君の《嘘》に興味がある。さあ、語ってはくれないか? どこで生まれ、どこで育ち、どんな幼少期を過ごしたのか」
語り部たちは獣だ。そう僕は知って、語り始めた。僕の偽りの生まれ故郷のことを。
□
「三毛猫のいる町」
それは海の見える町だった。小さな湾には漁船が並び、コンクリートの堤防が続き、やがて岬の森に消えるような隔絶された小さな、とても小さな町だった。
僕は学校指定の銀色の自転車でユウと走っていた。堤防横のアスファルトは卵を落とせば目玉焼きが焼けるほど熱くなっていて、逃げ水がゆぅらりと僕たちを誘った。このまま走っていればこの町から、思春期の憂鬱から逃げだせる気がした。
「あ、猫だ」
僕の前を走るユウが自転車のペダルを止めた。猫は茶と黒が多い三毛で、名産品の太刀魚を干している棚の下で、うたた寝をしていた。もしかしたら、ただ目を閉じて世界の憂鬱を憂いているのかもしれないと僕は思った。
自転車を立てるとユウは店先の三毛猫を撫でた。猫は特に抵抗することなくユウの手を受け入れて、ただ身体を任せて目を閉じて撫でられ続けた。
「ミコトも撫でるか?」
ユウの誘いに僕は乗らなかった。見知らぬ猫を撫でるのは見知らぬ人間に触れる痴漢と変わらない気がした。妊婦の腹を唐突に撫でるのと何も変わらない。そんな気持ちだ。
この町には猫が多い。魚を食べるのは日本の猫くらいだと聞くけれど、漁師たちが可愛がるからか人になれた猫が多かった。どうして信用できるのか、僕には理解できなかった。
入道雲が近付いている。夕立が来るのも近いだろう。僕は鞄の中が錆びないか気にかけて、ユウに帰ると告げて自転車で走り出した。
「ミコト、大変だ」
それは晴れた日が続いた夏休み最後の日のことだった。
「何さ」
電話越しに僕は気だるく返事をする。
出したままの蚊帳の中で寝返りを打ちながら、震えるユウの声を聞いていた。
「いいから外に出てきてくれ、干物屋の裏だ」
あそこまでなら歩いて十五分もかからない。けれど僕はいつものように銀色の自転車に跨った。
干物屋に着くと、真っ青な顔のユウと、足元に黄色い吐瀉物が見えた。
「ユウ、気持ち悪くて呼んだの?」
ユウは涙で汚れた顔を拭いながら、干物屋の裏手のコンクリートを指差した。ユウの胃液を踏まないように覗き込むと、猫が死んでいた。干物のように切り開かれた腹から出た内臓はところどころ啄まれた形跡があり、腐った肉からは日が当たらないせいか白い蛆が湧いていた。潮の香りが強くて腐臭はしない。どこを見渡しても猫の尾らしきものは見当たらない。そして猫の皮は、三毛色だった。
「猫が、死んでるね」
「ミコト、これ、誰がこんな酷いことを」
嗚咽混じりの声は、僕の脳の真ん中をジン、と熱くさせた。
「さあな、変わった趣味のやつもいるものだね」
僕は無感情を装った。本当に僕は感情を感じていただろうか。
あるとしたら、憂鬱だ。
「趣味で、生き物を殺していいわけないだろ」
ユウが声を荒げて僕の胸倉を掴んだ。興奮で荒い息は酸の臭いがして不快だった。
「絶対犯人を見つけてやる。こんなことしていいはずがない。学校中に張り紙貼ろうよ。なんなら町中に。こんな小さな町だ。すぐに見つかるよ」
どうして君は迷わないのだろう。疑わないのだろう。憂鬱ではないのだろう。
次の日、九月一日。ユウは学校に来なかった。
僕の憂鬱は人の肉を裂いても晴れなかった。鞄の中のナイフはいくら洗っても鬱陶しい肉の臭いがする。
でもこの町から出られるのだと思うと、少しだけほっとした。
□
「ミコト君、と仮に呼ぼう。君はあの町が嫌いだったのかい?」
白髪の老人は語り終えた僕に問う。
「もう分かりません。僕はどうしたかったのでしょうね。だって、嘘ですから」
その回答に、老人は「実に愉快」と一つ手を叩いた。
「もうこの酒場は君の庭だ。またいつでも来るがいい」
僕はアヤカさんを見た。楽しそうに、真っ赤な唇が笑っていた。
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