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「君、知らない顔ね」
天井まで堆く積まれた書籍と薄暗い店内の香りに怯えながら奥のバーカウンターまでたどり着くと、真っ赤なカクテルに口を付ける女性に声をかけられる。カクテルと同じ真っ赤なサマードレスから覗く腕は細く日によく焼けていた。歳はそんなに変わらないはずなのにとても大人に見える。
「初めてここに来たんです。不思議な物語が聞けると聞いて」
そう、と女性は平積みの書籍を値踏みするように、僕の脚先から脳天まで眺めた。こんな場所に何を着て行けばいいのか分からなかったので就活用に買った真っ黒な吊るしのスーツで来てしまった。それを彼女はそれを安っぽく思っただろうか。仄暗い店内では彼女の表情は見えないが、双眸だけは潤んだように輝いていた。
「私はアヤカ、魔法使いの孫で、娘はヴァンパイアに感染して家を出たわ」
物語の中でしか聞いたことのないワードなのに、アヤカさんは当然とばかりに自己紹介をする。魔法使いがこの世にいるのかは知らないし、娘がいるような歳にも見えない。
アヤカさんは口角を上げて歯を見せると、悪戯っぽく「君は?」と問う。しかし僕が言葉を発する前に、アヤカさんは人さし指で僕の唇を塞いだ。
「この酒場では《嘘》しか言ってはいけないわ」
「嘘?」
「そう、楽しい嘘をついてごらんなさい。それが物語の始まりだから」
僕はほんの少し考えて、息を吸い込んだ。
「僕は、裕福な薬売りの家に産まれました。毎日、親によく分からない薬出されて、飲んでいるうちに自分が何者なのか分からなくなりました。そして自分を探すために本を読んでいるうちに、物語に飢えるようになり、噂を聞きつけてここに来ました。アヤカさん、どうか楽しい物語を聞かせてください。僕を見つけるために」
アヤカさんは真っ赤なカクテルを一口含むと、「上出来じゃない」と笑った。
僕は嘘をついた。そして、物語が始まった。
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