オリジナル小説サイト「渇き」

恋愛小説、純文学、エッセイを扱った小説家・佐倉愛斗オリジナルサイト

嘘つきは物語の始まり プロローグ ある酒場にて

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 地下一階、今日が燃え尽きる赤と共に階段から夏の名残の湿り気を帯びた風が吹き込んでくる。かき混ぜられた風は本の表紙をめくり、古めかしい紙とインク、そしてアルコールの臭いが鼻を刺した。

 ここは物語を紡ぐ者たちが集う小さな酒場だ。大小の酒瓶と一点の曇りもなく磨かれたグラスが並べられた壁以外、三方の壁には一面、古今東西の物語が綴られた《本》がぎっしりと並んでいる。もう誰も読むことができない古語や、人間の皮で装丁された異国のものもある。オーナーが趣味で集めたものが殆どだが、ここを訪れる語り部たちが置いていったものも多い。不揃いな背表紙が今夜も彼らを見下ろしていた。

 バーカウンターとは別にある、店の中心に樫の一枚板のテーブルを彼らは囲む。そのうちの一人の男が、ギムレットのグラスを片手に宣言する。

「今夜も《遊び》を始めよう!」

 夜な夜な行われる語り部たちのゲーム。

 ルールはただ一つ。

「本当のことは言ってはいけない」

 この酒場の名前は《嘘》。今宵も虚言者たちの宴が始まる。

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SS『騒音』

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 うるさい。

 この感情が僕の脳内で鳴り響いてたまらなかった。

 人の足音、冷蔵庫の待機音、本をめくる音、小鳥の囀り、キーボードを叩く音。

 試しに耳栓をしてみたけれど、血の巡る音が喧しくてたまらなくてすぐにやめた。

「何も聞こえなくなりたい」

 そう口にするのも煩くて僕は黙った。

 話しかけられても全て無視して、聞こえなかったことにした。

 

「ねぇ、私の話聞いてる?」

 聞いていない。

「あなたのためになりたいの」

 聞こえない。

「あなたが苦しいと私も苦しいの」

 うるさい。

 

 愛情って不思議よね。

 やっぱり一番大切なのは自分なの。

 苦しみを半分こなんていうけれど、その半分の苦しみから逃れたくて相手を責めるんだ。

 

 ああ、うるさい。

 誰も心臓を動かさないでくれないか?

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SS『音楽の神様』

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「お姉ちゃんはさ、なんでまだ吹奏楽やっているの?」

 その日はやけに月が大きく、夜空の守り神のような夜だった。

 必要最低限のもの以外段ボール箱につめて、殺風景になった妹の部屋にはもうカーテンすらない。月明かりが私たち姉妹をぼんやりと照らしていた。

「なんで、ってそりゃ、好きだからだよ」

「高校ではやれなかったくせに?」

「やれなかったから、だよ」

 私は明日旅立つ妹の肩を抱いた。

 私は小学校から吹奏楽の道に入った。物心つく頃からピアノ教室に通っていた私にはそれは至極当然のことで、何かを始めるのに理由なんてなかったとさえ思う。二つ下の妹も私にくっついて吹奏楽部――尤も小学校では木管楽器のいない金管バンド部だったが――に入部した。パートは私がホルンで、妹はユーフォニアム。二人で吹いている時間は少なかったけれど、楽しいひとときだったと今でも私は思う。

 中学三年生のとき、私は市内の合同バンドでパートトップを任せられた。トップ奏者というのはそれだけ花形で、名誉あるものだった。市内で一番なのが私。その誇りを持って私は演奏した。聴いてくれる人を楽しませるために。

 すると、市外の吹奏楽全国強豪校から私はスカウトされた。大きな舞台で演奏できることを夢見て私は推薦でその高校を受けた。

 でも、私は入部一か月で吹奏楽部をやめた。

「お姉ちゃん、私はレズですって言えばよかったのに」

 口をとがらせて妹は言うけれど、私にそんな勇気はなかった。

 私は高校に入ってから、男の子たちと一緒にいることが多かった。レズビアンであるためか、私の性格故か、女の子と一緒にいると緊張して喋ることができなくなる。だから高校では思いっきり自由になるために男の子たちと楽しい高校生活を送りたかった。私が女とかレズビアンとかそういうことは忘れて。

「言えないよ。言ったらもっとこじれていたかもしれないじゃない」

 男の子とばかりいた私は、部内で「ビッチ」「男たらし」「尻軽」と散々な言われようだった。部員は男女交際禁止という部則があったが、男の子たちと恋愛するつもりがなかった私にははた迷惑な規則でしかなかった。最後には顧問から母に「あなたの娘さんはふしだらです」なんて電話がかかってくるくらいだった。

 先輩には「もうすこし男子と距離を置きなさい」と忠告されたけれど、私の居場所はすでに男の子たちの中で、そこから離れたらどこに行けばいいのか分からなかった。

「それでいたたまれなくなって退部と」

「いたたまれないとか、そんな程度じゃないよ。音楽が、怖くなったから」

 強豪校は今までの「みんなで素敵な音楽を作り上げる」なんて生ぬるいものじゃなかった。全員がライバルで、誰かを蹴落とすための道具。悪口も、視線も、嫌がらせも、全部、自分が舞台に立つため。

 でも、本当にそれでいいの?

 ある日、私は部室でうずくまって動けなくなった。

 

 息ができない。

 吸えない。

 吐けない。

 吹けない。

 

 震えて音が出なくなった。

 

「それじゃあなんで、今やってるの? 高校であんなだったのに」

 妹は私と同じ高校で、全国大会に出場し金賞を受賞した。

 妹はあの環境でも屈しない強さを持っていた。私にはないものを。

「あんなだから、だよ。お姉ちゃんさ、知ってしまったんだ。吹奏楽の楽しさを」

 月夜を眺めながら、私は反芻する。

「小学校での演奏、覚えている? 学芸会のとき、たくさんのお客さんが私たちの演奏に拍手をくれた。それが嬉しくてたまらなかった」

「私だってそりゃ拍手もらえたら嬉しいよ」

「それだけじゃないんだ。私はまだ満足するほど音楽をやっていない。悔しかった。技術を磨くのは全て聞いてくれる人を喜ばせるためのものであって、競うためのものじゃないって私は信じていたから。私はきっと覚悟がぬるかったんだよ」

 そんな私の妹は、もう吹奏楽はいい。と県外の看護の専門学校に進学する。

「こっち帰ってきたら演奏会来てね。絶対素敵な演奏をするから」

「うん」

 月の中で二人、姉妹最後の夜を過ごす。

 音楽の神様が私を自由にしてくれるのはいつだろう。

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SS『曇天』

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 人間は、天使と悪魔から産まれた子なのかもしれない。

 いつだったか私はそんなことを思いついた。いつ、何歳の頃かは思い出せないが、生ぬるい雨が鼻にじめっとした臭いと共に思い出させる。きっと今日と同じ梅雨のころの話だろう。

 幼い私はどうやったら子供ができるかなんて知りもしなかった。母と父がいて、どういう仕組みかは分からないが一緒にいれば子供ができるのだと漠然と感じていた。それにしてはよくまあ思いついたものだと、二十歳になった私は苦笑した。

 私はお酒が飲めない。煙草も吸えない。働くこともできない。

 変わったことと言えば、小難しく自分の思想を述べているようで自分が当選するために必死に理想を街頭で語る政治家の話を嫌でも聞かなくてはならなくなったことだろうか。政治に無関心な若者が増えたとメディアは叫ぶが、無関心で私の人生を少しでも左右されることは私が許せなかった。

 もし天使がいるのなら、私を癒してくれるだろうか。私を蝕む病魔は現代医学をもってしても治すことはできない。だが、かと言って死ぬこともない。救いのない人生を歩むほかないと絶望することにも飽きてしまった。悲劇のヒロインごっこに付き合ってくれた男もいたが、私は彼にとって自尊心を満たすだけの道具でしかないことに気付いてしまった。

 彼は私にとって悪魔だっただろうか。悪魔と契約しても私に魔法は使えなかった。セックスの快楽は覚えたが、キモチイイことであるということ以外に意味を見いだせなかった。幼いころに夢見た子供の作り方はなんてあっけないのだろう。たったの数分、身を任せて喘いでいるだけだ。時折愛の言葉を嘯けば喜ばれる。そんな空虚な嘘を覚えても、私は満たされることはなかった。

 もしも天使と悪魔が愛し合ったら、と大人になった私はもう一度思いをはせる。天使は憎むことができない。悪である悪魔さえも愛してしまう。たとえそれが禁忌でも。

悪魔は私欲のために嘘をつく。天使に愛を求めて「愛している」と嘘をつく。でもそれがいつか本当の気持ちになったとき、奇跡は起きるのだろう。

 なんだ、私も悪魔じゃない、と自嘲気味に笑った。彼への愛の言葉は残念ながら本意にはならなかったけれど。

 ビルの屋上で、雨に濡れたまま私は空を見ていた。私は自分が可愛くてしょうがない。早く楽にしてあげたい。そうね、天使や悪魔ではなく死神がいればいいのにね。私は何か罪を犯した気がするわ。魂の浄化は死を以って行われる、と言ったのは誰だっけ。と一人雨に笑った。この世の終わりなんて来ない。この世は常に存在し、終わるのはその個体が認識する力だ。

 

 さあ、終わらせましょうか。

 

 私が最後に見た空は、私にお似合いな暗く淀んだ曇天だった。

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SS『糸』

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 私には糸が見える。

 この不可思議な現象を知るため縋り付いた、知り合いの胡散臭い自称魔女には、それは「運命を表している」と言われた。

 確かに私には関わる人と私とが様々な色で繋がっているのが見える。人々をつなぐ糸は幾重にも重なって絡まって、ただつるむだけの集団にもなり、また時には心から尊敬する大人へと繋がっていたりする。この出会いは運命に寄るものなのか。それはなんだか寂しいような気がした。

 青い糸は友人と。緑の糸は尊敬する人と。赤い糸はかつて恋仲だった人と。関係性によって色が違うことも経験則で何となく把握できた。

 そんな私から一本の透明な糸が伸びていた。伸びたガラスのように光が屈折するから認識できる透明の、心細い糸だ。

 この先がどこへ繋がるか分からない。けれど、誰かにはきっと繋がっている。今までの糸がそうだったように。

 試しにこの糸を手繰り寄せようと思ったことがある。けれど引けば千切れてしまいそうなその糸に触れることすらできなくて、私はただこの先へ続く人物と出会うことを渇望した。切れてほしくないと願うと同時に、どんな関係性なのか知りたくて、糸の先の朝焼けが透けるのを見ては眠れぬ夜の終わりを知った。

 ある日、私は何をするでもなく街に出ようと電車に乗った。ただ誰も私と繋がっていない世界に行きたくなった。私を縛り付ける糸は電車の車輪に引き千切られて、私は自由に孤独を謳歌した。

 自由とは孤独だ。そして新たに糸を結ぶ。卒業や転職を繰り返して人間関係が入れ替わる。それを繰り返してたくさんの糸の残骸を抱きしめて生きていく。

 車窓からは薄い雲の中で光が乱反射して世界が白く光っているのが見えた。この白も透明なのだと私は知っていた。水の粒のなかで光が反射するほど白く目映く光る。街並みから影が消え、世界は下手な風景画のようにも見えた。この塗り固められた日常に私は生きている。

 ふっと、移りゆく車窓から車内に視線を戻すと、透明な糸が向かいに座る青年に繋がっていた。色がつく前の、まだ出会わぬ相手。

 魔女は言った。「この糸は運命だ」と。

 青年も顔を上げた。私の顔が上気するのが分かる。太陽が顔を出して、燦々と降り注ぐ天気雨と世界に陰影が生まれ、天国への階段が見えた。胸が高鳴り肌が粟立つ。相手も目を潤ませて、私に微笑んだ。運命だ。そう信じるのに十分だった。

 それでも私達は一言も交わさず、各々電車を降りた。私たちの関係を説明できるものなど何もなかったのだから。

 ぷつり、と淡い桃色に染まった糸が切れる音がした。

 世界の全てと出会うことが無いように、運命もまた全てが繋がることはない。

 そうして私達は一期一会を繰り返していく。出会わない人々の糸を、私はただ愛おしく想った。

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SS『僕の性服』

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 僕はスカートを履いてみた。真っ黒な膝丈のプリーツスカート。場所は来月から通う中学校の隣にある制服取扱店。嫌に緊張して、これを毎日繰り返すのかと思うと目の前が真っ暗になった。どうして僕は他のオンナノコみたいに進学する喜びを感じられないのだろう。

「お母さん、これ……」

「なぁに? サイズはよさそうだけど、丈はもう少し短くてもいいんじゃない? もう女の子は背が伸びないものよ」

 僕は言いだせなかった。嫌だという一言が。

 

 三年後、僕は都会に出て、家から一時間もかかる高校へ進学した。お母さんの予想を裏切って僕の背は普通のオトコノコより少し低いくらいにまで伸びた。これは神からのギフトなのかもしれない。

「はじめまして、こう見えて僕は男です。でも身体は女です。よろしくお願いします」

 誰も知らない地で、僕はネクタイを締めた。

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SS『性徴』

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 私は鏡を見て憂鬱になった。

 

 私は十三歳で、中学校に行くために真っ黒な詰襟を着る。お葬式みたいなそれはまだぶかぶかで、袖なんて余って私の手の殆どを隠してしまう。同じく真っ黒なスラックスは裾が折り返されてアイロンテープで留められている。

「おかーさーん。ニキビできちゃった」

 洗面台からそう呼ぶと、あまり触りすぎないでね、とだけ声が返ってきた。

 鏡に映る私の右頬の横に赤い膨らみ。指で押してみると少し硬くて痛い。小さいくせに目立ってしょうがない。つんつんつついてみたけれどそれだけで消えることは無い。諦めて学校指定のカバンを背負って家を出た。

 

 保健の授業で、第二次性徴というものを習ったのはつい最近のこと。

 大人になる過程で、私たちの肌は脂っぽくなってニキビができやすくなるらしい。そして女の子はおっぱいが大きくなって生理が始まる。男の子は声が低くなって精通というものが起こるらしい。

 

 私は授業中ずっと憂鬱だった。

 セイチョウなんてしたくない。

 

 私は歩きながら校則違反の携帯を取り出し、大好きなお兄さんに電話を掛ける。

「もしもしショウちゃん?」

「どうしたの、こんな朝に」

「ねえショウちゃん、私が『オトコノコ』になっても好きでいてくれる?」

 

 この電話の声がいつか低くなっても、私のこと好きでいてね。

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