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嘘つきは物語の始まり 第五夜 夢語――――おやすみ

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「僕には夢があります」

 僕は眠ってしまったアヤカさんに話しかけた。いつものアヤカさんなら「君から話しかけるなんて珍しいわね」なんて笑ってくれるだろう。

「でもここでは嘘しか言えません。だから、嘘だと思って聞いてください」

 僕はアヤカさんの耳元に一言置いて、彼女を起こした。

「アヤカさん、そろそろ終電ですよ」

 アヤカさんは大人の女性だ。けれどもお酒には強くないらしい。ここに通って知った「本当」のうちの一つだ。

「あら……ありがとう。私、夢を見ていたわ」

「どんな夢でしたか?」

「あら、今度は私が語る番なのね」

 アヤカさんは白い歯を見せて、濡れた瞳で僕に笑いかけた。

 今日も語り合う、楽しい嘘の物語。

 

   □

 

   「おやすみ」

 

「アヤカ、どうしたの、その髪」

 ああ、これ? と真緑の髪の襟足を彼女は摘んでみせた。昨日、講義室で会ったときは艶やかな黒髪を胸に垂らしていたというのに、今日はショートのウルフヘアで、刈った草のかたまりを連想させるような、艶のない緑色をしていた。

「それがね、今朝、夢で見たの。私が緑の短髪にしているところを」

 は、はぁ。と溜め息しかでなかった。彼女はこんなに変わり者だっただろうか。

「それで講義さぼって美容院?」

「そう、二万円もしちゃった。ブリーチって高いのね」

 だからお昼は学食ね、とアヤカは付け足した。

 翌日のアヤカは眼鏡をかけていた。黒縁の大きな、一目で伊達だとわかるサイズ。

 理由を聞くと「夢で見たから」。

 一体アヤカの夢はどんな趣味をしているのだろうか。

 次の日は、学ランで登校し、その次の日は、喋ったこともないチェックシャツの男の子たちと学食を食べると言い出した。

 

「アヤカちゃん、どうしたんだろうね」

 金曜日は午後の講義がないので、私は彼氏のジュンと裏路地にあるラブホテルでごろごろと怠惰な時間を過ごしていた。服を脱いでベッドで一緒に映画を観る。時折キスをしたり抱きしめてみたり。慣れきったこの時間を過ごすのが私たちの金曜日だ。

「アヤカに病院紹介したほうがいいのかな……この場合、何科?」

「さあ、一番妥当なのは精神科じゃない? 少なくとも外科でも歯科でもない」

 だよねぇ……と私はジュンの腕の中で唸った。今日の映画はハリウッドのなんとかいうタイトルが思いだせないアクションもの。派手に車が爆発する度にいくら予算がそこに使われているのか気になる。あ、また爆発した。

「ジュンは最近、何か夢を見た?」

「そうだな、ロボット人間と航海に出て、海賊に襲われて、海賊船の船長にロボットを差し出したら金貨と美女を貰った」

 ここで見た映画がいくつも混ざったような内容だ。美女は多分私ではない。

「ジュンは美女を貰ったらどうするの?」

 どうせジュンのことだから抱くのだろう。

「もちろん、抱くね」

 ほらね。やっぱり。

「私という美女がいても?」

 いささか意地悪だっただろうか。でもこういうものこそ恋人のやりとりだ。

「ミサキには敵わないな」

 もう一度車が派手に爆発したが、私たちはその映画を見ることはもう無かった。

 

「ねえ、ミサキ」

 緑頭のアヤカが私を廊下で呼び止めた。

「ジュン君と別れてくれない?」

 彼女は私に言い放った。何かの冗談なのかとアヤカを見るが、真っ直ぐな瞳で口は真一文字に結ばれていた。

「何、言ってるの? どうしたの、アヤカ」

「今朝、私とジュン君が付き合っている夢を見たの。だから、別れて」

 また「夢」か。

「アヤカ、おかしいよ。ジュンは私と付き合っているの。それが現実なの。まだ眠っているの? おかしいよ」

 私はアヤカの肩を掴んで揺さぶった。私の大声に廊下を行く人々が私たちのことを一瞥して歩いていく。

「おかしくなんかないよ。ここはまだ夢だもの」

 アヤカは眉尻を下げて、綺麗に笑ってみせた。

 アヤカはおかしくなった。そう私は確信した。

「ジュン君をくれないなら、私、もう一度寝るわ」

 アヤカは私の手を払って講堂の階段を昇っていく。

「ねえ、アヤカ、ねえって」

 私の声は届いていない。何かに誘われるように上へ上へ。八階にたどり着くとアヤカは窓に腰掛けた。

 

「おやすみ」

 

 アヤカはそう言い残すと、背中から、中庭の緑のベッドに倒れ込んだ。

 アヤカは深い眠りについた。永遠の夢の中へ。

 

   □

 

「どうかしら、私の嘘。少しばかり寝ぼけすぎかしら」

 はにかみながらアヤカさんは、チョコレート色のミディアムヘアを耳にかけた。

「アヤカさんは何かに囚われているのですね」

「そうね」

――――嘘という物語に。

「アヤカさん」

 僕は目を一度閉じて、スッと息を吸った。

「僕は貴女のことが――」

 アヤカさんは人差し指で僕の唇を塞いだ。

「ここでは《嘘》しか言ってはいけないわ」

 アヤカさんはいつもの艶やかな微笑みを残して、カウンターテーブルから立ち上がると、僕の耳元に言葉を置いた。

 

――――さっきの、聞こえていたわよ。

 

 嘘か本当か。それは彼女しか知らない。

「ずるいですよ、アヤカさん」

 残された僕は、虚構の世界で笑っていた。

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