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とても気まずい。
華さんには気付かれていないけれど、俺は酷く混乱していた。
「零ちゃん先生、気持ち悪く思った?」
渚にも同じ事を言われたことがある。彼が男性と付き合っていたことを明かした日だ。
俺は男で、皐は女。何か気持ち悪いことがあるだろうか?
いや、そういうことじゃない。皐は俺の性を知っていて言っているのだ。
女の子とキスをするのは初めてだった。
言葉が見つからない俺に皐は「謝りはしないからね」と付け加えた。
「気持ち悪くはないけど、びっくりした」
「零ちゃん先生ってホントお人好しだよね」
褒められていないことは分かった。
ここは画廊から駅の方に戻る途中にある喫茶店で、俺はホットコーヒー。皐はレモンスカッシュを飲んでた。ホットコーヒーに砂糖を入れなくなっても、俺はちっとも成長しない。恥ずかしさと悔しさで消えてしまいたくなった。
「零ちゃん先生。先生って『一緒に居ることが当たり前』って言ってたよね。でもそれって本当なのかなって思う。新学期になれば仲のよかったクラスメートとも離れて、進学したら地元の友達にもあまり会わなくなる。そうやって人間関係って変わり続けるんじゃないかなって」
ねえ先生、と皐が向き直る。
「零ちゃん先生、わたしと付き合ってよ」
こんなにもまっすぐ見詰められたことがあっただろうか。
あまりにもかなしい顔をするものだから、俺は何も言えなくなってただ彼女の瞳の光を見ていた。
「零ちゃん先生がわたしのことを好きになるかは分かんないけど、私は多くを望まないから」
ここからは難しい話だけど、と皐が前置きする。
「わたしね、ううん、自分ね、自分のことを女の子だとは思えないの。男の子に好きになられても、その男の子は『女の子』の自分を求めている。だから誰かを好きになったことがないの。なったとしても『女の子』でいなきゃいけないんだと思うと苦しかった。でも、零ちゃん先生は男の人と付き合える。……零ちゃん先生が『女の子』の自分を好きになれないのかもしれないけど」
でも、理屈じゃないよ、と彼女、いや、どちらとも呼べない皐が付け加えた。
「好きかどうかはわかんない。けど自分、零ちゃん先生に憧れてるよ。零ちゃん先生を救いたい。それを恋と呼んじゃいけない?」
皐が今にも泣きそうだといわんばかりに声を震わせる。
皐は頑張って伝えてくれた。じゃあ俺はどうなんだ?
「気持ちは嬉しいよ。ありがとう。でも俺は先生で、大人で、付き合っている人がいる。皐の告白は断らなきゃいけない。それは分かってくれる?」
皐はゆっくりと頷いた。
何者でもない俺は、きっと何者にもなれはしない。
渚は先を歩いている。俺よりもずっと先を。
俺の中の渚が俺を苦しめるんだ。
その日の夜、渚から電話がかかってきた。どうしても出ることができなくて、リビングのテーブルに置かれた震えるスマートフォンをただ見詰めていた。
「お兄ちゃん出ないの?」
風呂上がりの滴が問う。
「渚先輩からなんでしょ?」
そうだけど、と俺は言葉を詰まらせる。
「お兄ちゃん、何かあったでしょ」
俺はあっさりと白状した。
「俺たち、もうだめかも」
滴の顔が見られない。けれど妹が困惑していることは彼女の呼吸の速さから伝わった。
滴が俺の隣に腰掛ける。
「お兄ちゃん、何があったの?」
「何がって……渚が遠くに行ってしまったように感じるんだ。俺よりずっと前に。それに、俺たちもう子どもじゃないんだ。将来のこと、ちゃんと考えないと」
「お母さんに言われたこと?」
「聞いてたのか」
滴は「お母さんってちょっと古いところあるから」と苦笑した。
「お母さんが何か言おうとお兄ちゃんはお兄ちゃんの好きな人と一緒にいなよ。私から勝ち取ったんでしょ? まあ私は元々同じ土俵にも立てなかったけど」
「好き、なのかなあ……」
もうよく分かんないよ。
滴がティッシュを寄越す。濡れた頬を拭って鼻をかむ。
皐みたいにまっすぐ好きだと伝えられたらいいのに。どうしてこんなに俺は、
「ダメだなあ、俺」
渚はこの先、俺以外の人とも恋をするのだろうか。
変わってゆく。立場も、環境も、感情も。
「お兄ちゃんはダメじゃないよ。基本はバカだけど、真面目すぎるバカだよ」
「それ、慰めてる?」
「一応ね」
滴は目を細めてくしゃっと笑った。
「私ももう子どもじゃないから、恋に終わりがあることも知ってる。だから、何が何でも別れるなとは言わないよ。お兄ちゃんと渚先輩で答えを出しなよ」
でもね、と滴が続ける。
「私が大好きな渚先輩を幸せにするのは私じゃなくてお兄ちゃんだった。お兄ちゃんにしかできないことだよ。渚先輩を不幸にしたら私、お兄ちゃんのこと許さないから」
渚とどう向き合ったらいいのだろう。
自室へ向かう滴の後ろ姿が、とても羨ましく見えた。
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