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そのギャラリーはナゴヤドームを通り過ぎて少しのところの駅から十分ほど歩いたところだった。
教えられなければここを知ることもないような住宅地の中だけれど、店構えはお洒落なカフェか美容室のようで、古いヨーロッパの民家みたいな魅力がある。ドアを引くと軽やかな音色が出迎える。絵の具の匂いだ、と鼻が動く。
中は雑貨店になっていて、所狭しとカードやアクセサリー、そして本が並んでいた。どこでも見たことのないようなものたちばかりなのに調和している不思議な空間だった。
奥に進むとロッキングチェアに華さんがいた。
「おっす、モサ男」
皐が吹き出す。華さん、いい加減俺のこと名前で呼んでくれてもいいんじゃない?
「モサ男って、零ちゃん先生にぴったりだね」
華さんも吹き出した。ぴったりってなんだ。
「モサ男、ちゃんと先生してるかー? ぶふっ、零ちゃん先生ね、うんうん」
からかうつもりしかない言いように俺は呆れた。あなたが紹介したんでしょ。いつものことですね。
「なにはともあれあたしの現実へようこそ。モサ男、これがあたしのやりたいことだ。刮目せよ!」
指をびしっと目の前に突き出される。はいはい、と俺は答えた。
華さんの個展はこの店の二階でしているらしい。急な木製の階段を這うように昇る。どうぞごゆっくりーと華さんは片手を上げた。
圧巻された。
目の前には二メートル四方の帆布。そこに絵の具で描かれた女の子。黒い髪は風に揺れて、鋭い眼差しが、虹色をたたえた瞳が俺に問いかける。一文字に結ばれた唇はほんのり色づき頬には睫毛の影が落ちている。頬に添えられた指は細く、凜として白かった。
芸術のことは分からない。けれど圧倒的な美がそこにはあって、力強さを繊細なタッチで写実的に表現されている。
キャプションには《I won't disappear becouse it's not a dream》とタイトルがつけられていた。
夢じゃないから消えない。
華さんの夢は、夢じゃなくて現実だ。
渚も目標に向かって努力して、そして掴んだ。
じゃあ俺の夢は? 渚と一緒に居ること? 分からない。分からないから怖い。不安の中は内臓がふわりと揺れるような気持ち悪さがあって、目の前にあるものをうまく認識できない。
華さんも、滴も、渚も。みんな前に進んでる。俺はどうなんだろう。
「零ちゃん先生、好き」
皐が呟く。
華さんの絵は素晴らしい。好きだと思う。
「きっと零ちゃん先生には伝わってないと思うけど」
「うん、絵の良さは皐の方がよく分かるんじゃないかな。俺にはただ綺麗だということしか分からない」
頬を掻いていると「やっぱりね」と皐は苦笑した。
部屋中に飾られた絵を一通り見た。
「零ちゃん先生、ここに感想書くみたいだよ。華姉ちゃん喜ぶかな」
「喜ぶんじゃないかな? 記念にもなるし」
部屋の入り口横に置かれた座卓の上に革張りのノートが置かれていた。
日付と名前と感想がボールペンで書き残されている。
早速皐が腰を下ろしてノートに書き込んだ。見ているととても長くメッセージを残しているようだった。
「ねえねえ零ちゃん先生、こんなにたくさんの人が見に来ているんだね」
書き終えた皐がぱらぱらとページをめくる。
見覚えのある筆跡に目がとまる。
「ちょっといい?」
〈華ちゃん、個展開催おめでとう。とても美しくて華ちゃんらしいなと思いました。帆布のドローイングすごい。どの作品も語りかけてくれているみたいでとても素敵です。ますますのご活躍をお祈り申し上げます。 酒本渚〉
渚、いつの間に来ていたんだろう。誘っても断られたのに。
喧嘩、しちゃったからかな。
さらにその下の行に目が行く。
〈――岸本玖美子〉
俺の目の前から光が引いていく。
日付は渚と同じくおとといで、岸本の名前は偶然ではないのかもしれない。いや、偶然でないわけがない。
信じたくないけれど、二人は一緒にここに来ていた。渚は俺とではなく岸本さんと来ることを選んだ。
俺と渚の間の溝は確実にできていて、避けていたのは俺の方だと思っていたけれど、渚も俺のことを避けていたのかもしれない。
しっかりしなきゃ。しっかりしたいけど、つらい。
「零ちゃん先生?」
皐が俺の顔を覗き込む。
目が逸らせない。
彼女の唇が触れて、俺の瞳から雫が彼女に落ちた。
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