←前のページ | 目次 | 次のページ→ |
「零ちゃん先生、飼い犬でも死んだ?」
皐が椅子の上で膝を抱えている。
勉強する気がさらさらないのか教科書すら置いていないけれど、俺も家庭教師できる気がしない。
会えない日の数だけ離れていくような気がする。
俺の渚への思いが霞んで消えていくようで信じられなくなる。
「犬は死んでないし、飼ってもいないよ」
「ふーん、でも何かは死んでそう」
それはたぶん俺自身だな。
俺が渚に会いたいだけで、渚も本当にそう思っていてくれているのだろうか。
女性と関わることを避けてきた渚も、華さんや滴、そして現場の岸本さんと関わっていけている。渚がこの先女性と付き合う可能性はゼロじゃないんだ。男同士だからいけないとは思わないけれど、それでも劣等感を感じてしまうのも事実で。
俺が渚を幸せにすることはできないのかな。
「ねえ、零ちゃん先生。男同士ってキモチイイの?」
「そうだねえ」と答えてから、何を聞かれたのか認識した。
この会話はまずいことくらい分かる。何を言い出すんだ皐は。
しかし皐は少しばかりのセンチメンタルを抱きしめているようで、おそるおそる訊く。
「したことあるの?」
うーん、この質問に答えるのは大人としてどうなのだろう。
皐は恐れるように、しかし興味津々といった具合に目を輝かせていた。
多分猥談の一種ではなく、もっと真面目なことだろう。性教育も家庭教師の仕事なのかな。
「くわしく話すのは教育上よろしくないから言わないけど、男同士でも触れたい人には触れる。何もおかしいことじゃない」
おかしくないと言いたいんだ。
また沈み込む俺に皐はデコピンをした。
「零ちゃん先生ってすぐうじうじするよね」
「うるさい」
さて、勉強するぞ、と気合いを入れる。
大切なのは今、目の前にあるもの。
「皐に渚と付き合ってること話しちゃった」
いいんじゃない? と渚はあっけらかんとしていた。
電話越しに伝わる愛はあるのだろうか。
声から想像する渚の表情には薄いベールがかけられているようによく見えない。今までもっと見えていたはずなのに。
「渚は俺のこととか誰かに話してる?」
「うーん、留学先では少し話したけど、職場では言ってないよ」
渚は半年間ニューヨークに留学していた。ゲイであることをカミングアウトして仲間に受け入れられて楽しかったという。人に認めてもらうことの喜びを知った渚は満たされているように見えた。
「職場では言うつもりないかな。あまり関係のないことだし」
関係のない、かあ。
「聞かれない限りはいいかなって思ってるよ」
そう、かあ。
「きっと僕はもう満足してるのかも。認めてくれる人がいることを知ったし、大声で言うことでもないなって」
俺もわざわざ性の話をすることはない。けれど訊かれたら答えるくらいのことはする。渚を守るためなら戦う。
「岸本さんには言わないの?」
渚は明るく「言えないよー。岸本さんなら分かってくれると思うけど、負担になったら嫌だし。岸本さんに嫌われるのは怖いよ。それにどうであれ僕は僕だから」
岸本さんに嫌われたくない。岸本さんなら大丈夫。
無邪気に話す渚に苛立ちが募る。
「人間関係ってきっともっと大切なことがあると思うんだ」
俺との関係より大切なこと?
「あっ、それでね、岸本さんが僕を今度帝国劇場に連れて行ってくれるんだって。日帰りだけど東京観光してくるよ、おみやげは――」
「よかったね」
驚くほど冷淡な声が出ていた。
「零、くん?」
みっともない。みっともないけど、とめられない。
ねえ、渚は今どんな顔してる?
俺の顔を見ないでいてくれてよかった。こんな醜い俺、見せられない。
「ごめん、もう寝るね」
渚の「おやすみ」を待たずして電話を切った。
サイアクだ。
華さんの個展に皐と向かっていた。気まずさを乗り越えて渚も誘ったが仕事だという。
電車に乗って、しばらく揺られたら乗り換えて。
地下鉄の車窓は俺たちを反射させるだけで外の世界を映さない。もっとも、外は固いコンクリートの壁だ。見えない、何も。
「零ちゃん先生、もしかしてフラれた?」
「そんな縁起でもないこと言わないで」
あれから渚に電話することが怖くなった。どう謝ったらいいのか分からない。悪いのは百パーセント俺で、ちっぽけな俺の独占欲の暴走だった。
高校生に車内で慰められる大学生。大人の威厳などありはしない。
でも俺はまだきっと大人になれていないんだ。
握り締めた華さんからもらった個展のDMに視線を落とす。写実的な少女の絵が大きく描かれていた。木漏れ日の中で少女が涼んでいる。色とりどりの花と、きらめく湖の水面。ウエーブのかかった少女の髪。
あまりにも繊細なので本当にあの華さんが描いたのだとは思えなかった。
失礼か、そんなことを思うのも。
そういえば華さんの作品を見るのは初めてだ。
渚の作品を見たこともない。
知らないことばかりが世界に渦巻いて、俺は取り残された気分になる。
皐のテストの成績も少しずつ上がり、皐もお姉さんも喜んでいた。夏休みにご褒美として名古屋港にある遊園地へ連れて行った。世間的には年の差カップルにでも見えるのだろうか。男女で一緒に居るだけでカップルと思われるのがこの世界。なんだかやりきれない。俺と渚が一緒に居てカップルだと思ってくれる人がどれだけいるだろうか。
認めて欲しいと願うのはいけないことだろうか。
「零ちゃん先生のくせに難しいこと考えてそうな顔してる」
いつもだけど、と付け足した皐もなにやら考え込んでいた。
膝に触れる彼女の手が冷たくて、寂しさが募るばかりだった。
←前のページ | 目次 | 次のページ→ |