オリジナル小説サイト「渇き」

恋愛小説、純文学、エッセイを扱った小説家・佐倉愛斗オリジナルサイト

ひだまりの中で君は手を引く 06

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「零ちゃん先生、飼い犬でも死んだ?」

 皐が椅子の上で膝を抱えている。

 勉強する気がさらさらないのか教科書すら置いていないけれど、俺も家庭教師できる気がしない。

 会えない日の数だけ離れていくような気がする。

 俺の渚への思いが霞んで消えていくようで信じられなくなる。

「犬は死んでないし、飼ってもいないよ」

「ふーん、でも何かは死んでそう」

 それはたぶん俺自身だな。

 俺が渚に会いたいだけで、渚も本当にそう思っていてくれているのだろうか。

 女性と関わることを避けてきた渚も、華さんや滴、そして現場の岸本さんと関わっていけている。渚がこの先女性と付き合う可能性はゼロじゃないんだ。男同士だからいけないとは思わないけれど、それでも劣等感を感じてしまうのも事実で。

 俺が渚を幸せにすることはできないのかな。

「ねえ、零ちゃん先生。男同士ってキモチイイの?」

「そうだねえ」と答えてから、何を聞かれたのか認識した。

 この会話はまずいことくらい分かる。何を言い出すんだ皐は。

 しかし皐は少しばかりのセンチメンタルを抱きしめているようで、おそるおそる訊く。

「したことあるの?」

 うーん、この質問に答えるのは大人としてどうなのだろう。

 皐は恐れるように、しかし興味津々といった具合に目を輝かせていた。

 多分猥談の一種ではなく、もっと真面目なことだろう。性教育も家庭教師の仕事なのかな。

「くわしく話すのは教育上よろしくないから言わないけど、男同士でも触れたい人には触れる。何もおかしいことじゃない」

 おかしくないと言いたいんだ。

 また沈み込む俺に皐はデコピンをした。

「零ちゃん先生ってすぐうじうじするよね」

「うるさい」

 さて、勉強するぞ、と気合いを入れる。

 大切なのは今、目の前にあるもの。

 

「皐に渚と付き合ってること話しちゃった」

 いいんじゃない? と渚はあっけらかんとしていた。

 電話越しに伝わる愛はあるのだろうか。

 声から想像する渚の表情には薄いベールがかけられているようによく見えない。今までもっと見えていたはずなのに。

「渚は俺のこととか誰かに話してる?」

「うーん、留学先では少し話したけど、職場では言ってないよ」

 渚は半年間ニューヨークに留学していた。ゲイであることをカミングアウトして仲間に受け入れられて楽しかったという。人に認めてもらうことの喜びを知った渚は満たされているように見えた。

「職場では言うつもりないかな。あまり関係のないことだし」

 関係のない、かあ。

「聞かれない限りはいいかなって思ってるよ」

 そう、かあ。

「きっと僕はもう満足してるのかも。認めてくれる人がいることを知ったし、大声で言うことでもないなって」

 俺もわざわざ性の話をすることはない。けれど訊かれたら答えるくらいのことはする。渚を守るためなら戦う。

「岸本さんには言わないの?」

 渚は明るく「言えないよー。岸本さんなら分かってくれると思うけど、負担になったら嫌だし。岸本さんに嫌われるのは怖いよ。それにどうであれ僕は僕だから」

 岸本さんに嫌われたくない。岸本さんなら大丈夫。

 無邪気に話す渚に苛立ちが募る。

「人間関係ってきっともっと大切なことがあると思うんだ」

 俺との関係より大切なこと?

「あっ、それでね、岸本さんが僕を今度帝国劇場に連れて行ってくれるんだって。日帰りだけど東京観光してくるよ、おみやげは――」

「よかったね」

 驚くほど冷淡な声が出ていた。

「零、くん?」

 みっともない。みっともないけど、とめられない。

 ねえ、渚は今どんな顔してる?

 俺の顔を見ないでいてくれてよかった。こんな醜い俺、見せられない。

「ごめん、もう寝るね」

 渚の「おやすみ」を待たずして電話を切った。

 サイアクだ。

 

 華さんの個展に皐と向かっていた。気まずさを乗り越えて渚も誘ったが仕事だという。

 電車に乗って、しばらく揺られたら乗り換えて。

 地下鉄の車窓は俺たちを反射させるだけで外の世界を映さない。もっとも、外は固いコンクリートの壁だ。見えない、何も。 

「零ちゃん先生、もしかしてフラれた?」

「そんな縁起でもないこと言わないで」

 あれから渚に電話することが怖くなった。どう謝ったらいいのか分からない。悪いのは百パーセント俺で、ちっぽけな俺の独占欲の暴走だった。

 高校生に車内で慰められる大学生。大人の威厳などありはしない。

 でも俺はまだきっと大人になれていないんだ。

 握り締めた華さんからもらった個展のDMに視線を落とす。写実的な少女の絵が大きく描かれていた。木漏れ日の中で少女が涼んでいる。色とりどりの花と、きらめく湖の水面。ウエーブのかかった少女の髪。

 あまりにも繊細なので本当にあの華さんが描いたのだとは思えなかった。

 失礼か、そんなことを思うのも。

 そういえば華さんの作品を見るのは初めてだ。

 渚の作品を見たこともない。

 知らないことばかりが世界に渦巻いて、俺は取り残された気分になる。

 皐のテストの成績も少しずつ上がり、皐もお姉さんも喜んでいた。夏休みにご褒美として名古屋港にある遊園地へ連れて行った。世間的には年の差カップルにでも見えるのだろうか。男女で一緒に居るだけでカップルと思われるのがこの世界。なんだかやりきれない。俺と渚が一緒に居てカップルだと思ってくれる人がどれだけいるだろうか。

 認めて欲しいと願うのはいけないことだろうか。

「零ちゃん先生のくせに難しいこと考えてそうな顔してる」

 いつもだけど、と付け足した皐もなにやら考え込んでいた。

 膝に触れる彼女の手が冷たくて、寂しさが募るばかりだった。

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ひだまりの中で君は手を引く 05

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 寂しさは募るもので、会えない日々が続くと確実に胸の中に溜まっていく。さらさらと落ちてきて、降り積もって呼吸を浅くさせる。

「零ちゃん先生って好きな人いるの」

 今日は脱がされることもなく期末テストの間違い直しをしている。皐は苦手だと話したが数学は基礎はできている。英語もまずます。国語は苦手ではないらしくそれなり。しかし「まずまず」「それなり」では国公立大学に行けないのも確かで、これからが頑張りどきだなと気合いを入れる。

「いるよ」

 皐が、どんな人? と食いつく。もう五十分も数学と格闘していたからそろそろ休憩にしてもいいだろう。休憩にしなかったところで皐は集中力が切れると何も手に付かなくなるタイプだ。最近やっと分かってきた。

「どんなって、憧れの人かな」

「あこがれ、ね。どこで知り合ったの?」

「高校の部活でだよ。先輩だったんだ」

 ほほー、年上。と皐が探偵のように呻る。

「その人、男の人でしょ」

 どきり、と心臓が跳ねる。けれど隠すつもりもないので肯定した。

「やっぱりね。なんかそんな気がしたんだ。そっかそっか」

 独りごちる皐は腕を組んで頷く。

 何が言いたいのか分からなかったので俺は静かに見守った。

 皐が口を開く。

「ねえ、人を好きになるってどんな感じなの?」

 彼女の目は不安をたたえていた。誤魔化してはいけないのだと悟る。

「どう、って。難しいな」

 俺は言葉を慎重に選んだ。

「その人に笑顔でいてほしい。そのためなら何をしてでも守りたい、が最初かな」

「最初」と皐が繰り返す。

「それが最初なら、今は何なの?」

 今……今か。

「一緒にいることが当たり前。という感じかな」

 ふーん、と皐がうなる。

「男同士でも恋ってするんだね」

「するよ、少なくとも俺たちは。何もおかしくない」

「そっか……でも、自分はおかしいのかもしれない」

 自分のことを何者でもない「自分」と呼んだ皐は、ひどく怯えた顔をしていた。

「皐、大丈夫?」

 皐が顔を上げて、慌てて顔の前で手を振る。

「大丈夫大丈夫。これは自分……わたしの問題だから」

「そっか。俺でよければ話くらいなら聞くから。ね?」

 皐は顔を背けて「零ちゃん先生ここ分かんない」と努めて明るい声でテキストに向かった。

 皐は何かから逃げたいときほど手を動かすタイプらしい。

 無理に聞くこともないか、と俺は彼女の意志を尊重した。

 

 次の週末、渚の家へ行った。

 渚は少々お疲れの様子で、俺は全身のマッサージを施した。マッサージを教えてくれたのは渚の方で、今ではお互いに身体をほぐしあう。気持ちよさそうに伸びる渚を見て満足した。

「零ちゃん先生?」と渚が呼ぶ。

 生徒が先生を呼ぶにしては艶っぽい響きがある。

「なんだ、酒本」

 俺も調子に乗って応えてみる。

 大人の先生ごっこは、いささか危険すぎるな。

 いつもはしないようなことをして、罪悪感に興奮した。

 先生失格だな、と俺が笑うと、渚もそうだね、と肯定した。

 

 しばらくの戯れの後、渚から「明日早いから」と申し訳なさそうに切り出された。

 しょうがない。働いているとはそういうことだ。

 そう言い聞かせても寂しくて。身体に残る彼の余韻を抱きしめた。

 渚が就職してからと言うもの会える日は減っている。大事にしたいのに、何度でもと欲するのはなんてかなしいのだろう。

 一緒にいることが当たり前、なんて言ってしまったのは、それを俺が望んでいるから。つまり叶えられていないから出た言葉だったのかもしれない。

 

「ねえ、零」

 帰宅すると母さんに呼び止められる。

「すこしばかりいいかしら」

 あまりに憂鬱な顔をしていたからかと思ったが、そういうことではなかった。

「零は、結婚とか考えたことある?」

「何、急に。母さん俺たちのこと知ってるでしょ?」

 そうだけど……と母さんが言葉を選ぶ。

「先輩によくしてもらっているみたいだけれど、本気でこのままでいるの? そりゃ私だって大人だからいろんな交際があることくらい分かるけど。あなたも心配だけど、先輩はこのままでいいのかなって、私心配になっちゃって」

 なんだそれ。

 俺は黙って聞いていた。

 言葉が出ない。ただ胸の中で怒りと空しさと不安が渦を巻いて濁ってよどむような心地がした。

 このまま、ずっと一緒に。それは夢なのか。

 夢はいつか醒める。醒めないで。どうか。

「俺は渚のこと守るよ。そう決めたんだ」

 吐き捨てた俺の背中を母さんはただじっと見詰めていた。

 一生好きでいる、なんて難しいのかな。

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ひだまりの中で君は手を引く 04

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 次の週の水曜日。梅雨入りして最初の中休み。俺は家庭教師一日目を迎えた。

 華さんに送ってもらった住所を地図アプリに入力すると自宅から徒歩で十分ほどのところの一軒家だった。意外とご近所さんだ。

 洋風とも和風とも言えない現代日本らしい一軒家。タイルの貼られた壁は汚れがつかないのか築年数の予想ができない。きっとそこまで古くはないのかな、くらいの印象だった。

 深呼吸をして緊張する肩を少しほぐす。意を決してインターフォンを押すと「はーい」と小柄な子が出てきた。ゆったりとしたサルエルパンツに半袖のパーカー。髪は短くてつんつんと立っていた。男の子? いや、妹と言っていたから――。

「お兄さん、カテキョの人?」

 あ、声は女の子だ。

 取り直して挨拶をする。

「そうです。家庭教師をすることになりました相原零です。今日からよろしくお願いします」

 軽く頭を下げると彼女はクスクスと笑っていた。

「華姉ちゃんから聞いてたけど固いですね、お兄さん」

 んー、とつま先から脳天まで彼女が見る。チノパンにTシャツにカットソー生地のジャケット。変な格好はしていないつもりだ。

「うん、合格。いいよ、入ってください」

 何の試験だったのだろう。言われるがままに靴を脱いで上がる。誰のものでもない他人の家の匂いがした。

 こっちこっち、と彼女は俺の袖を掴んで引く。階段を上がって右手の部屋に案内された。

 部屋の中には学習机と黒い木枠のシングルベッド、そして入って左手の壁一面が全て本棚で、中身は漫画ばかりだった。

「早速だけど、脱いでください」

「……はい?」

「いいから。脱いでください。そのために呼んだんだから」

 えーっと、何をしろと?

「ごめん、悪いけど俺にそういうつもりは」

「……何言ってるんですか」

 あれ、なんかものすごく冷ややかな目で見られているのですが。

「お兄さん、もしかして馬鹿だったりする?」

 どうして俺の周りの女の子たちは皆辛辣なのだろう。

「服を脱いでそこに座って。時間が惜しいから」

「えーと、その前に自己紹介しない? 君の名前も知らないし」

 とりあえずこの状況から逃げたくて提案する。

 彼女は諦めて溜息を吐く。

「お名前、教えてもらってもいい?」

「西野皐(にしのさつき)」

「皐ちゃんね」

 彼女は首を横に振る。

「ちゃん、は嫌だ。皐でいいです」

 俺は初対面の女の子を呼び捨てにする度胸はなかった。が、彼女が彼女じゃないような気がして受け入れる。

「じゃあ、皐で。俺は相原零ね。好きに呼んでいいよ」

 彼女は腕を組んでしばし考える。迷っているようにも見えた。

「……零ちゃん先生、でいいですか?」

 俺にはちゃん付けなんだ、と苦笑する。しかし「先生」という響きが新鮮で優越感を得る。せんせい。うん、悪くない。

「いいよ。よろしくね」

 皐はよろしく、と頬を染めた。

「それで、俺は何を教えたらいい? 皐は何が苦手とか教えてもらっていい?」

 俺が「さつき」と呼ぶと彼女は小さく緊張した。呼ばれ馴れていないのだろうか。初対面なのだから当たり前か。

「英語と数学がダメ。あと化学も」

「そっかあ。少しずつやっていこうか」

 と言っても、家庭教師は初めてなので勝手など分からない。

「零ちゃん先生、あの、笑わないで聞いてくれる?」

「なに?」と返す。

 皐が俺に近づき、触れる。上腕、胸、喉。

「勉強なんかより、零ちゃん先生に興味があるの」

 ……はい?

 

 スピーカーにしたスマートフォンからクスクスと笑う声がする。

「笑い事じゃないってなぎさー」

「だって、零くんタジタジなんだもん。華ちゃんも教えてくれないなんて意地悪だなあ」

 まさかこんなバイトだとは思わなかった。

 あの後、結局下半身だけは死守して上裸で皐の部屋にいた。

 そして案の定、皐のお姉さんに見られて俺は大変恥ずかしい思いをした。

 お姉さんがが事情を知っていたことだけが救いかもしれないが――笑いながら写真を撮られて華さんに送られたが――あのときは本当に社会的に死んだかと思った。

「それで、皐さんはどんな漫画を描いているの?」

 皐は漫画家志望の子だった。大学受験をするためというのは方便で、実際はデッサンモデルを雇いたかった、というのが事の顛末だった。

「筋骨隆々の男たちが肉弾戦したあとラブする漫画」

 へー面白そう、と渚が言う。

「なかなかにハードな絵でカッコいいよ。力強いというか、いかついというか」

「是非読みたいな」

「いつか本になるさ」

 応援しなきゃ、と渚が言う。応援したい。したいけど、だからってなんで俺がモデルをしなきゃいけないのか。

「モデルって大変なんだな。少しでも動くとめちゃくちゃ嫌な顔される」

「ぷるぷるしてる零くんが目に浮かぶよ。零くんいい身体してるからぴったりじゃん。背も高いし、筋肉もあるし。僕にもデッサンモデルしてよ」

 えー、と俺は嫌がってみせる。嫌ではないけれど、脱いだ状態で動かずに渚の前にいられる自信がなかった、というのが本音だ。

「ふふ、冗談冗談。そうだ、次の舞台でまた背景描かせてもらうんだ。海の絵だよ。設計も少しやらせてもらってる」

「おー、渚の絵、見てみたいな」

「いつか舞台見に来てね。一生懸命やるから」

 それでごめんなんだけど、と渚が付け加える。

「明日、朝一で打ち合わせがあるからそろそろ寝なきゃいけなくて、ごめんね」

 頑張っているなあ。と俺は快諾する。

「いいよ、明日頑張ってね」

 おやすみなさいの後の静寂がひどく寂しく思えた。

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ひだまりの中で君は手を引く 03

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「へー、零くんが家庭教師」

 華さんに頼まれて、と話すと、それなら安心だね、と返ってきた。

「零くんなら優しいし面倒見がいいからきっと大丈夫だよ」

 渚の励ましが何よりの力だ。

「俺なんかでいいのかな、って思ったけど、やってみるよ。何か始めたくて」

「うんうん。大丈夫大丈夫」

 電話の向こうのあたたかさを感じて頬が緩む。

 今までバイトというものをしないで生きてきた。滴は彼女の趣味が故に買い物が多いので高校生の時からバイトをしていたけれど、特に趣味もない俺は必要性がなくてしてこなかった。渚に憧れて入ったバスケ部になんだかんだ打ち込んでいたから時間もなかった。滴の方が大人だな、と引け目に感じていたところもある。それに、

「俺、この先何になるんだろう」

 あの後、デザートのメロンサンデーを食べる華さんに問われて答えられなかった。

「あんた、夢とかないんだね」と彼女は寂しそうに呟いた。

 将来何をしたいか。小学生の時は無邪気にパイロットとか野球選手とか答えておけば微笑ましいエピソードになるけど、二十歳を過ぎた俺はもうそんなふんわりとした夢を語ることはできない。「大人」という存在が目の前に迫っている。大学を卒業して、これからどう生きていくのだろう。渚は夢を掴んだ。滴もいつ決めたのか分からないけれど歯科衛生士になると言って専門学校へ進学した。明確なビジョンを持たないのは俺だけなのか。

「そうだね……職業としての夢って難しいと思う。けど、きっと零くんは零くんだよ」

 ――僕の大好きな零くんだもの。

 祈るように渚がつぶやく。

 きっと俺がどんな大人になろうと、渚のことを愛する気持ちは変わらないのだろう。

 胸の内に暖かいものが流れ込む。大丈夫、大丈夫と撫でられているよう。

「明日、オフなんだけど、家に来ませんか?」

 いじらしい声。大好きだ。

「うん、もちろん」

 

 今日は大学も休みで、大学生になってからも続けていたバスケサークルの練習も休み。渚と俺の出会いは俺が高校一年のとき、部活動紹介で華麗にシュートを決めた渚に俺が一目惚れしたのがきっかけだった。憧れだけでバスケ部に入り、そして今も続けている。渚がいなければ俺はバスケットボールを始めることもなかったのかな。

「ふふ、零くんだ」

 彼の部屋で優しく抱きしめる。渚の背は俺の肩ほどまでしかなくて、抱きしめるとすっぽり収まる。こんな小さな身体に、あふれんばかりの華やかさ。甘いシトラスの香りが鼻腔いっぱいに広がる。

「なぎさ」

 なあに、と微笑む。瞳は熱く潤んでいて目をそらすことができない。

「零くん怖い顔してるよ」

 男が好きな人を抱きしめてする怖い顔は、あなたを食べてしまいたいという意志の表れだ。

「俺が渚に怖いことしたことないでしょ?」

 そうだね、と引き寄せられる。唇が重なる。彼のどこを食べても甘美な味しかしない。

 口付けは次第に深くなる。体温が上がる。初夏のこの部屋にはまだエアコンはつけられていない。じんわりと汗がにじんだ。

 どれだけ年月を重ねても好きで居られる。どんなに尊いことだろう。

 彼のTシャツの中に手を滑らせる。渚は少し身体を緊張させる。きめ細やかな肌は汗ばんでいて、てのひらに吸い付く。

「続き、していい?」

 渚が頷く。Tシャツを脱がせて、首筋にキスをする。ふあ、と渚が声を漏らす。産毛が立ち上がる。俺が触れていないところなどないというくらいこの行為を重ねてきた。やさしく、やさしくしたいのに、どうして俺の中には凶暴な獣が住んでいるのだろう。

 渚をベッドに横たえる。首、肩、鎖骨、と口付けを落とす。彼に覆い被さる俺は肉を貪り食う獣そのものかもしれない。

 肉だけじゃなく、愛が欲しい。

 渚が膝を立てる。俺の充実した中心に触れる。与えられた刺激に俺は身体を震わせる。

「れいくん」

 彼の目もまた妖艶な凶暴さをたたえていた。俺を欲する彼と、彼を欲する俺。はっきりと聞こえる吐息と、確かに触れる熱。電話だけじゃさみしかった。さみしくないけれど、さみしかった。

 

 男の性行為は終わりがはっきりとしている。

 コンドームを縛ってゴミ箱に投げ入れて、腹についた渚のものを拭き取って終わり。

 けれど事後のまどろみだけはいつまでも続いているようだった。

「ふう、零くん補給した」

 汗で前髪が貼り付いた渚はとろんとした瞳をしていた。おでこを拭いてやるとこそばゆいと彼は言う。

 渚は小柄で華奢だけれど筋肉はしっかりとあって、ゆるんだ筋肉はふにふにと男のやわらかさがあった。いつまでも抱きしめていられる。彼の手が俺の胸に添えられる。俺は彼の手を掴んで手のひらにキスをした。

「好きだなあ」

 漏らすように呟いていた。

「ふふ、僕もだよ」

 自然と唇が重なる。

「泊まっていってもいい?」

「もちろん」

 ご飯の前にお風呂入ろっか、と彼は提案した。

 二人で入る風呂はちょっと狭くてとても気持ちよかった。

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005/神さまをしんじてた

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 神さまという概念を知る前から、僕は神さまを知っていたのかもしれない。
 もっとも、僕が通っていた幼稚園は聖書の読み聞かせとクリスマスにページェントと呼ばれるキリストの誕生を演じる劇をするようなところだから、神さまという言葉は物心ついたときには知っていた。
 神さまじゃないと気づいたとき、深い深い絶望に苛まれた。悲しみより怒りが強かった。だから僕は神さまだった人に怒鳴りつけて、酷いときには手を上げた。
 母は、神さまじゃなかった。
 何も言わなくても僕のことをわかってくれて、いつでも守ってくれて、絶対的な味方で、完璧だった。
 だから、だからこそ、母が人間だとわかったとき、恐ろしくてたまらなかった。誰が僕を守ってくれるのだろう、と。
 母を人間だと知ることを、人は自立と呼び、その始まりの動揺を反抗期と呼ぶのではないだろうか。
 今は人間の母だけれど、だからこそまだ距離感がつかめなくて、ほんの少しぎこちない。
 反抗期が終わるのはいつなのか、この戸惑いは大きい。
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004/人間関係の名前

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「親友はいますか?」と面と向かって聞かれたのは、僕が発達障害の検査をしている段階でのことだった。
 僕ははっきりと「いない」と答えた。「友達は多いんですけどね」とはにかんで。
 友達と親友の何が違うのかは言語化することが難しいけれど確かに違う。
 友達はたくさんいて、ご飯を食べる友達、服を一緒に買う友達、泊まりで飲み明かす友達、よくわからない生態の友達。たくさん、たくさんいる。その誰かを選ぶというよりは、選び取った人間関係の中で心地よくたゆたっているような感覚だ。
 では親友はどうなのか。
 僕の時代では「ニコイチ」という言い方をされていた。いつも二人で一緒にいて、なにがあってもお互いが優先で、隠し事はなくて、悩みごとは一番に相談して、洋服や雑貨のおそろいをして、二人で撮ったプリクラをSNSのアイコンにする。
 いささか僕の過大評価もあるのかもしれないが、親友ってなんだかそんなイメージだ。だからこそ僕には親友は必要なくて、大勢の大切な友人たちとそれなりの浅さで付き合えたらいいのかな、などと思う。誤解を招きたくないが、友人たちとの関係を軽んじているわけではなく、心の中心すべてまで見せて何事も相手中心になれる関係は望んでいないよ、という話だ。
 
 僕にもそんな“親友”のような女の子ができたことがある。
 けれどいつしかキスをして、「好きだよ」と言って、セックスをした。
 僕が親友というものに思い描いていたものは、どうやら“恋人”と呼ばれる関係なのかもしれない。
 
 親友ってなんだろうと思ったエピソードを最後に紹介しよう。
 僕には中学生の時、3年間ずっと一緒にいた同級生がいた。同じ部活で張り合って、二人だけが居残りをして練習することもあったし、3年生のときには見事、僕とソイツの2人だけが県合同バンドのメンバーに市内から選抜された。
 アホなこともしたし、喧嘩もしたし、いつもいつも一緒にいて。
 でもソイツが何を考えているかなんて全くわからなかったし、恋人と経験したような心の開示、深い話をすることもなかった。
 周囲には付き合っていると思われていた。けれど実際はお互いのセクシャリティをもってすると交際することは不可能で、恋愛じゃない一緒に要られる関係ってこんな感じなのかなと思う。
 ニコイチのようなあからさまな仲のよさはなかったけれど。だから親友とは呼びづらくて。
 
 成人式でソイツと再会したとき、こんなことを言われた。
「愛斗がいたから中学でも高校でもあれだけ部活頑張れたんだ。ライバルだと思ってた」
 ソイツは「感謝してんだよ?」と照れ隠しに慣れないビールを煽った。
 
 ライバルって、また新たな名前だな、と人の数だけある関係性に名前をつける苦労に、僕は苦笑した。
 
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ひだまりの中で君は手を引く 02

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「もしもし、零くん?」

 五月は渚に似合う季節だ。ゴールデンウィークに初めて舞台の背景画を描かせてもらったのだと渚は嬉しそうに俺に報告した。

 俺たちは会えない日は電話をすることにしていた。無料で電話し放題なアプリが配信される時代でよかったと思う。電話の向こうでカリカリとシャープペンシルを走らせる音がする。次回の舞台の図面を書いているのだと俺は知っていた。

「へえー。どんな舞台だったの?」

「シェイクスピアの『オセロー』だよ。零くん観たことある?」

「ないなあ。どんな話?」

「簡単に言うと、将軍のオセローが部下に恨まれて、騙されて奥さんを殺しちゃう話」

 なかなかに物騒だね、と俺が漏らすと、渚も同意した。

「ボードゲームのオセロってあるでしょ? あれの語源なんだって岸本さんが言ってた」

 岸本さんとは渚が所属している美術班のリーダーなのだと俺は聞いている。話を聞く限り女性らしい。かつては女性に少しばかりの苦手意識のあった渚にとって女性の上司というのはどうなのだろうと心配したこともあったが、すっかり渚は岸本さんに尊敬の意を抱いているようだ。うまくいっているようで安心した。

「岸本さんって物知りなんだね」

「この道うん十年のベテランさんだからね。年齢がバレるからって教えてはくれないけど」

 渚のいたずらっぽい笑みが聞こえる。どんな顔しているのか手に取るように分かることが恥ずかしい。

「厳しい人だけどちゃんと僕のことを指導してくれて、いつも的確なんだ。最初は緊張したけど、ちゃんと僕のこと見ててくれるんだなって感じる」

 渚の声が明るい。新しい環境に不安もあったが、楽しそうな渚の声が何よりの安心だった。

「零くんタイピングしてる?」と電話越しに聞かれる。

「ああ、うん。明日までのレポートがあって」

 渚はそっか、と呟く。

「じゃあ、僕も仕事しよっかな」

 眠るまで繋いだままね。

 スマートフォンの向こう。俺たちは繋がっている。微かに聞こえる吐息と、聞こえるはずのない鼓動を感じて。

 

 翌朝、華さんから〈面貸せ〉という物騒なLINEを確認して頬が引きつった。

 何か渚が困るようなことをしているだろうか。身に覚えのないときほど怖い。怯えすぎだろうか。華さんは渚の保護者的ポジションだ。いや、姑かもしれない。とにかく渚に対して過保護である。

 俺は〈どこに何時ですか?〉と渋々返信をする。

 授業後に駅前のファミレスを指定されたので、了解の意を伝えるスタンプを送った。

 いささかの緊張を持って向かうと、すでに華さんは一人でミートソースパスタを食べていた。彼女は「バイト前の腹ごしらえね」と言い訳をした。

「それで、俺は今度は何をやらかしましたか」

 華さんが愉快そうに笑う。

「あんたがクソ男なのはいつものことだから」

「はいはい。悪かったですね」

 まあまあ、と華さんがメニューを差し出す。

「あたしのおごりだから好きなの食べな」といつもなら言わないことを言う。一体なんなのだろう。怪しさしかない。戸惑っていると「遠慮するな」と半ば脅されたので期間限定の桃のミルクレープとホットコーヒーのセットを注文した。

「さて、本題なんだけど、あんたバイトしない?」

「バイト、ですか?」

「あたしの友達の妹があたしんとこの大学の受験をするんだけど、家庭教師探してるんだって。あんた頭はよくないけど一応大学生だし、ナギちゃんにぞっこんだから変なことも心配いらないじゃん? って話」

「は、はあ」

 余計なことをいくつか言われた気がする。

「それに向こうが男の家庭教師がいいって言うからさ。あんたなら適任でしょ?」

「まあ、そうだといいんですけど」

「バイト代ははずむしさ、ナギちゃんをたまには旅行にでも連れてってやんなよ」

 渚と旅行。うん、それは悪くない。温泉旅館とかいいな。いつも美味しいご飯を作ってもらってばかりだし、たまには何もしなくても美味しいご飯が出てくるのも労りになるだろう。あとは旅館の一室で……なんでもない。

 華さんが悪い顔をしていたので緩んだ頬を引き締めた。

 ミルクレープとホットコーヒーが運ばれてくる。

「悪い話ではないでしょ?」

「そうですね」とミルクレープにフォークを当てると、華さんが言う。

「あたしのおごりでケーキを食べた瞬間に契約成立だから」

 手が止まる。バイト、できるのかな、俺は。

 何事も経験だ。スタートラインに立った渚の背中ばかり見ていたけれど、俺だってきっと何かになれる。何になれるのか分からないまま生きているけれど、今はそんな重要な選択でもない。

 クレープの層がフォークで切り裂かれていく。感触が心地よい。

「じゃあ、いただきます」

 甘いな。ケーキの桃の話だけど。

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