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次の週の水曜日。梅雨入りして最初の中休み。俺は家庭教師一日目を迎えた。
華さんに送ってもらった住所を地図アプリに入力すると自宅から徒歩で十分ほどのところの一軒家だった。意外とご近所さんだ。
洋風とも和風とも言えない現代日本らしい一軒家。タイルの貼られた壁は汚れがつかないのか築年数の予想ができない。きっとそこまで古くはないのかな、くらいの印象だった。
深呼吸をして緊張する肩を少しほぐす。意を決してインターフォンを押すと「はーい」と小柄な子が出てきた。ゆったりとしたサルエルパンツに半袖のパーカー。髪は短くてつんつんと立っていた。男の子? いや、妹と言っていたから――。
「お兄さん、カテキョの人?」
あ、声は女の子だ。
取り直して挨拶をする。
「そうです。家庭教師をすることになりました相原零です。今日からよろしくお願いします」
軽く頭を下げると彼女はクスクスと笑っていた。
「華姉ちゃんから聞いてたけど固いですね、お兄さん」
んー、とつま先から脳天まで彼女が見る。チノパンにTシャツにカットソー生地のジャケット。変な格好はしていないつもりだ。
「うん、合格。いいよ、入ってください」
何の試験だったのだろう。言われるがままに靴を脱いで上がる。誰のものでもない他人の家の匂いがした。
こっちこっち、と彼女は俺の袖を掴んで引く。階段を上がって右手の部屋に案内された。
部屋の中には学習机と黒い木枠のシングルベッド、そして入って左手の壁一面が全て本棚で、中身は漫画ばかりだった。
「早速だけど、脱いでください」
「……はい?」
「いいから。脱いでください。そのために呼んだんだから」
えーっと、何をしろと?
「ごめん、悪いけど俺にそういうつもりは」
「……何言ってるんですか」
あれ、なんかものすごく冷ややかな目で見られているのですが。
「お兄さん、もしかして馬鹿だったりする?」
どうして俺の周りの女の子たちは皆辛辣なのだろう。
「服を脱いでそこに座って。時間が惜しいから」
「えーと、その前に自己紹介しない? 君の名前も知らないし」
とりあえずこの状況から逃げたくて提案する。
彼女は諦めて溜息を吐く。
「お名前、教えてもらってもいい?」
「西野皐(にしのさつき)」
「皐ちゃんね」
彼女は首を横に振る。
「ちゃん、は嫌だ。皐でいいです」
俺は初対面の女の子を呼び捨てにする度胸はなかった。が、彼女が彼女じゃないような気がして受け入れる。
「じゃあ、皐で。俺は相原零ね。好きに呼んでいいよ」
彼女は腕を組んでしばし考える。迷っているようにも見えた。
「……零ちゃん先生、でいいですか?」
俺にはちゃん付けなんだ、と苦笑する。しかし「先生」という響きが新鮮で優越感を得る。せんせい。うん、悪くない。
「いいよ。よろしくね」
皐はよろしく、と頬を染めた。
「それで、俺は何を教えたらいい? 皐は何が苦手とか教えてもらっていい?」
俺が「さつき」と呼ぶと彼女は小さく緊張した。呼ばれ馴れていないのだろうか。初対面なのだから当たり前か。
「英語と数学がダメ。あと化学も」
「そっかあ。少しずつやっていこうか」
と言っても、家庭教師は初めてなので勝手など分からない。
「零ちゃん先生、あの、笑わないで聞いてくれる?」
「なに?」と返す。
皐が俺に近づき、触れる。上腕、胸、喉。
「勉強なんかより、零ちゃん先生に興味があるの」
……はい?
スピーカーにしたスマートフォンからクスクスと笑う声がする。
「笑い事じゃないってなぎさー」
「だって、零くんタジタジなんだもん。華ちゃんも教えてくれないなんて意地悪だなあ」
まさかこんなバイトだとは思わなかった。
あの後、結局下半身だけは死守して上裸で皐の部屋にいた。
そして案の定、皐のお姉さんに見られて俺は大変恥ずかしい思いをした。
お姉さんがが事情を知っていたことだけが救いかもしれないが――笑いながら写真を撮られて華さんに送られたが――あのときは本当に社会的に死んだかと思った。
「それで、皐さんはどんな漫画を描いているの?」
皐は漫画家志望の子だった。大学受験をするためというのは方便で、実際はデッサンモデルを雇いたかった、というのが事の顛末だった。
「筋骨隆々の男たちが肉弾戦したあとラブする漫画」
へー面白そう、と渚が言う。
「なかなかにハードな絵でカッコいいよ。力強いというか、いかついというか」
「是非読みたいな」
「いつか本になるさ」
応援しなきゃ、と渚が言う。応援したい。したいけど、だからってなんで俺がモデルをしなきゃいけないのか。
「モデルって大変なんだな。少しでも動くとめちゃくちゃ嫌な顔される」
「ぷるぷるしてる零くんが目に浮かぶよ。零くんいい身体してるからぴったりじゃん。背も高いし、筋肉もあるし。僕にもデッサンモデルしてよ」
えー、と俺は嫌がってみせる。嫌ではないけれど、脱いだ状態で動かずに渚の前にいられる自信がなかった、というのが本音だ。
「ふふ、冗談冗談。そうだ、次の舞台でまた背景描かせてもらうんだ。海の絵だよ。設計も少しやらせてもらってる」
「おー、渚の絵、見てみたいな」
「いつか舞台見に来てね。一生懸命やるから」
それでごめんなんだけど、と渚が付け加える。
「明日、朝一で打ち合わせがあるからそろそろ寝なきゃいけなくて、ごめんね」
頑張っているなあ。と俺は快諾する。
「いいよ、明日頑張ってね」
おやすみなさいの後の静寂がひどく寂しく思えた。
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