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寂しさは募るもので、会えない日々が続くと確実に胸の中に溜まっていく。さらさらと落ちてきて、降り積もって呼吸を浅くさせる。
「零ちゃん先生って好きな人いるの」
今日は脱がされることもなく期末テストの間違い直しをしている。皐は苦手だと話したが数学は基礎はできている。英語もまずます。国語は苦手ではないらしくそれなり。しかし「まずまず」「それなり」では国公立大学に行けないのも確かで、これからが頑張りどきだなと気合いを入れる。
「いるよ」
皐が、どんな人? と食いつく。もう五十分も数学と格闘していたからそろそろ休憩にしてもいいだろう。休憩にしなかったところで皐は集中力が切れると何も手に付かなくなるタイプだ。最近やっと分かってきた。
「どんなって、憧れの人かな」
「あこがれ、ね。どこで知り合ったの?」
「高校の部活でだよ。先輩だったんだ」
ほほー、年上。と皐が探偵のように呻る。
「その人、男の人でしょ」
どきり、と心臓が跳ねる。けれど隠すつもりもないので肯定した。
「やっぱりね。なんかそんな気がしたんだ。そっかそっか」
独りごちる皐は腕を組んで頷く。
何が言いたいのか分からなかったので俺は静かに見守った。
皐が口を開く。
「ねえ、人を好きになるってどんな感じなの?」
彼女の目は不安をたたえていた。誤魔化してはいけないのだと悟る。
「どう、って。難しいな」
俺は言葉を慎重に選んだ。
「その人に笑顔でいてほしい。そのためなら何をしてでも守りたい、が最初かな」
「最初」と皐が繰り返す。
「それが最初なら、今は何なの?」
今……今か。
「一緒にいることが当たり前。という感じかな」
ふーん、と皐がうなる。
「男同士でも恋ってするんだね」
「するよ、少なくとも俺たちは。何もおかしくない」
「そっか……でも、自分はおかしいのかもしれない」
自分のことを何者でもない「自分」と呼んだ皐は、ひどく怯えた顔をしていた。
「皐、大丈夫?」
皐が顔を上げて、慌てて顔の前で手を振る。
「大丈夫大丈夫。これは自分……わたしの問題だから」
「そっか。俺でよければ話くらいなら聞くから。ね?」
皐は顔を背けて「零ちゃん先生ここ分かんない」と努めて明るい声でテキストに向かった。
皐は何かから逃げたいときほど手を動かすタイプらしい。
無理に聞くこともないか、と俺は彼女の意志を尊重した。
次の週末、渚の家へ行った。
渚は少々お疲れの様子で、俺は全身のマッサージを施した。マッサージを教えてくれたのは渚の方で、今ではお互いに身体をほぐしあう。気持ちよさそうに伸びる渚を見て満足した。
「零ちゃん先生?」と渚が呼ぶ。
生徒が先生を呼ぶにしては艶っぽい響きがある。
「なんだ、酒本」
俺も調子に乗って応えてみる。
大人の先生ごっこは、いささか危険すぎるな。
いつもはしないようなことをして、罪悪感に興奮した。
先生失格だな、と俺が笑うと、渚もそうだね、と肯定した。
しばらくの戯れの後、渚から「明日早いから」と申し訳なさそうに切り出された。
しょうがない。働いているとはそういうことだ。
そう言い聞かせても寂しくて。身体に残る彼の余韻を抱きしめた。
渚が就職してからと言うもの会える日は減っている。大事にしたいのに、何度でもと欲するのはなんてかなしいのだろう。
一緒にいることが当たり前、なんて言ってしまったのは、それを俺が望んでいるから。つまり叶えられていないから出た言葉だったのかもしれない。
「ねえ、零」
帰宅すると母さんに呼び止められる。
「すこしばかりいいかしら」
あまりに憂鬱な顔をしていたからかと思ったが、そういうことではなかった。
「零は、結婚とか考えたことある?」
「何、急に。母さん俺たちのこと知ってるでしょ?」
そうだけど……と母さんが言葉を選ぶ。
「先輩によくしてもらっているみたいだけれど、本気でこのままでいるの? そりゃ私だって大人だからいろんな交際があることくらい分かるけど。あなたも心配だけど、先輩はこのままでいいのかなって、私心配になっちゃって」
なんだそれ。
俺は黙って聞いていた。
言葉が出ない。ただ胸の中で怒りと空しさと不安が渦を巻いて濁ってよどむような心地がした。
このまま、ずっと一緒に。それは夢なのか。
夢はいつか醒める。醒めないで。どうか。
「俺は渚のこと守るよ。そう決めたんだ」
吐き捨てた俺の背中を母さんはただじっと見詰めていた。
一生好きでいる、なんて難しいのかな。
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