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ひだまりの中で君は手を引く 01

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「渚先輩、就職おめでとうございます」

 掲げた四つのグラスが軽やかな音を立て、中で金色のシャンパンが揺れた。俺たちは少しずつ、少しずつ大人になってゆく。

 渚の手料理を囲む四人のパーティー。変わらない関係。

 俺、相原零と酒本渚が恋人同士になってから四回目の春がやってきた。

「いやあ、ナギちゃんが就職するなんて、早いねえ」

「華ちゃん、親戚のおばさんみたい」

 あながち間違いではないな、と俺と滴が笑う。

 渚の親友である扇田華さんは酔っ払っているのか俺の妹、相原滴の肩に鼻を当てて甘えている。華さんはここ数年伸ばしている髪を低い位置でひとつにまとめている。遠目に見ると滴の首に尾の長い小動物が乗っているように見える。黒いふさふさとしたまるっこいやつ。

 この中で滴だけは未成年なのでアップルジュースを飲んでいる。しかし場の雰囲気に酔っているのだろうか。華さんを甘やかすように髪を弄んでいる。しっぽをくるくると指に巻き付けるように。

 この二人もすっかり仲良くなったな、なんて思う。華さんはかつて滴のことを恋愛対象として好いていたけれど、結局どうなったのだろう。まあいいか、仲よさそうだし。関係性に名前を付けることだけが正解ではない。

「華ちゃんはまだ大学に残るんだよね」

 渚の言葉に俺は「え、華さん大学ダブったんですか?」と疑問を口にする。

 うるさいモサ男、と華さんが猫目がちな瞳で睨む。

「あたしにはあたしのやりたいことがあるんだい」

 華さんはグラスを煽って無駄に堂々と宣言する。

 渚と華さんは県立の美術大学に通っていた。華さんは一年浪人していたので渚より一つ年上で、その上大学をまだ卒業しない。世間とずれることは怖くないのだろうか。

「あたしにはあたしの夢があんのよ。今に見てな?」

 華さんが高らかに宣言する。夢、ねえ。

「渚は夢、叶えたの?」

 なんだか恥ずかしいなあ、なんて彼は微笑む。やわらかく持ち上がった頬は上気して、大きな瞳は細められる。あ、かわいいな。すっかり見とれていたことを滴と華さんに笑われた。

「夢、叶えたよ。まだスタートラインだけど」

 渚の夢。舞台美術の仕事に就くことが彼の夢だった。

 渚はステージというものに憧れていた。俺と渚が再会したのもナゴヤドームでのコンサート。夢を与えてくれる人たちを輝かせることが夢なのだと語った。

 そして今春、渚は地元の舞台美術班の一員となった。

 スタートライン。春は皆、スタートラインに立つ季節なのかもしれない。

「にしても、あんたたちよく長続きしてるよね」

 華さんが悪態をつく。

「渚先輩、本当にお兄ちゃんなんかでいの?」

 便乗する滴に「なんかって何だよ」と俺は苦笑する。

「まあまあ、そんなこと言わずに」と渚がなだめる。

「僕が一緒に居たいのは零くんだよ。もちろん、滴ちゃんや華ちゃんとも一緒に居たい。いつもありがとう」

 ガールズが「なぎさしぇんぱぁい」とふざける。華さんまで先輩呼びなんだ。

 俺たちの新生活が始まる。ひだまりの中で君は俺の前を歩き続けていた。

 

「片付け手伝ってもらっちゃってありがとうね、零くん」

 いつも通り華さんに滴を送ってもらい、俺は渚と並んでパーティーの後片付けをしていた。二人で並ぶと身長差は十五センチ。見下ろすと明るい髪がうずまくつむじが見える。愛おしいな。小さな渚はいつまでも大きな先輩だった。

 二人で並ぶキッチンにはゆとりがあって、渚の住むマンションの広さを物語っていた。渚の両親が――母とは最悪の形で生き別れたが――残してくれた家である。

「俺が好きで残ってるからいいの。それに」

 渚の耳を食むと、彼はこらえたような鼻腔音を漏らす。

「ここからは俺が独り占めできる時間だし」

 零くんのえっち、と呟いた渚の耳は噛み痕ではなく赤かった。

「零くんは大学どう?」

 ん-、と俺は考える。可も無く不可も無く、代わり映えのない日常だった。この春から三年生になる。一般教養科目は終わり専門的な科目が増えてきた。そろそろ俺の就職も考えなくてはいけない。就活を考えると気が重い。俺は何になるのだろう。

「なんていうか、あっという間だなって。だってあのときは俺、まだ高二だよ?」

「そんなこと言ったら僕も大学一年だったよ」

 ふと、渚が皿を拭く手を止めてこちらに向き直る。

「あのとき、出会ってくれてありがとう。零くん」

 彼の笑顔が俺の中を走り、肌の産毛が立つのが分かった。

 渚は傷付いた男の子だった。両親を失い、一時の恋心を寄せた大人にも見放され。そんな彼を助けたくて、側に居たいと思った。そして思いは滴と一緒であった。滴も俺も渚のことが好き。兄妹で一人の男の子を奪い合うことになった。でも今はこうやって俺と渚と滴と、そして渚の親友の華さんも一緒に四人で笑っていられる。とても尊い事実だった。変わりたくない関係性。心地よい、俺たちの居場所。

 俺は渚を抱き寄せ、柔らかい癖毛に鼻をうずめた。シトラスの甘い香り。

「愛してるよ、渚」

「うん、知ってる」

 この言葉のどれほどが尊くて、失ってはならないものなのか、ちゃんと俺は分かっていただろうか。愛とは何か、俺は知っているか?

 言葉の意味を理解することは、人生において最も大切なことなのかもしれない。

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