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「もしもし、零くん?」
五月は渚に似合う季節だ。ゴールデンウィークに初めて舞台の背景画を描かせてもらったのだと渚は嬉しそうに俺に報告した。
俺たちは会えない日は電話をすることにしていた。無料で電話し放題なアプリが配信される時代でよかったと思う。電話の向こうでカリカリとシャープペンシルを走らせる音がする。次回の舞台の図面を書いているのだと俺は知っていた。
「へえー。どんな舞台だったの?」
「シェイクスピアの『オセロー』だよ。零くん観たことある?」
「ないなあ。どんな話?」
「簡単に言うと、将軍のオセローが部下に恨まれて、騙されて奥さんを殺しちゃう話」
なかなかに物騒だね、と俺が漏らすと、渚も同意した。
「ボードゲームのオセロってあるでしょ? あれの語源なんだって岸本さんが言ってた」
岸本さんとは渚が所属している美術班のリーダーなのだと俺は聞いている。話を聞く限り女性らしい。かつては女性に少しばかりの苦手意識のあった渚にとって女性の上司というのはどうなのだろうと心配したこともあったが、すっかり渚は岸本さんに尊敬の意を抱いているようだ。うまくいっているようで安心した。
「岸本さんって物知りなんだね」
「この道うん十年のベテランさんだからね。年齢がバレるからって教えてはくれないけど」
渚のいたずらっぽい笑みが聞こえる。どんな顔しているのか手に取るように分かることが恥ずかしい。
「厳しい人だけどちゃんと僕のことを指導してくれて、いつも的確なんだ。最初は緊張したけど、ちゃんと僕のこと見ててくれるんだなって感じる」
渚の声が明るい。新しい環境に不安もあったが、楽しそうな渚の声が何よりの安心だった。
「零くんタイピングしてる?」と電話越しに聞かれる。
「ああ、うん。明日までのレポートがあって」
渚はそっか、と呟く。
「じゃあ、僕も仕事しよっかな」
眠るまで繋いだままね。
スマートフォンの向こう。俺たちは繋がっている。微かに聞こえる吐息と、聞こえるはずのない鼓動を感じて。
翌朝、華さんから〈面貸せ〉という物騒なLINEを確認して頬が引きつった。
何か渚が困るようなことをしているだろうか。身に覚えのないときほど怖い。怯えすぎだろうか。華さんは渚の保護者的ポジションだ。いや、姑かもしれない。とにかく渚に対して過保護である。
俺は〈どこに何時ですか?〉と渋々返信をする。
授業後に駅前のファミレスを指定されたので、了解の意を伝えるスタンプを送った。
いささかの緊張を持って向かうと、すでに華さんは一人でミートソースパスタを食べていた。彼女は「バイト前の腹ごしらえね」と言い訳をした。
「それで、俺は今度は何をやらかしましたか」
華さんが愉快そうに笑う。
「あんたがクソ男なのはいつものことだから」
「はいはい。悪かったですね」
まあまあ、と華さんがメニューを差し出す。
「あたしのおごりだから好きなの食べな」といつもなら言わないことを言う。一体なんなのだろう。怪しさしかない。戸惑っていると「遠慮するな」と半ば脅されたので期間限定の桃のミルクレープとホットコーヒーのセットを注文した。
「さて、本題なんだけど、あんたバイトしない?」
「バイト、ですか?」
「あたしの友達の妹があたしんとこの大学の受験をするんだけど、家庭教師探してるんだって。あんた頭はよくないけど一応大学生だし、ナギちゃんにぞっこんだから変なことも心配いらないじゃん? って話」
「は、はあ」
余計なことをいくつか言われた気がする。
「それに向こうが男の家庭教師がいいって言うからさ。あんたなら適任でしょ?」
「まあ、そうだといいんですけど」
「バイト代ははずむしさ、ナギちゃんをたまには旅行にでも連れてってやんなよ」
渚と旅行。うん、それは悪くない。温泉旅館とかいいな。いつも美味しいご飯を作ってもらってばかりだし、たまには何もしなくても美味しいご飯が出てくるのも労りになるだろう。あとは旅館の一室で……なんでもない。
華さんが悪い顔をしていたので緩んだ頬を引き締めた。
ミルクレープとホットコーヒーが運ばれてくる。
「悪い話ではないでしょ?」
「そうですね」とミルクレープにフォークを当てると、華さんが言う。
「あたしのおごりでケーキを食べた瞬間に契約成立だから」
手が止まる。バイト、できるのかな、俺は。
何事も経験だ。スタートラインに立った渚の背中ばかり見ていたけれど、俺だってきっと何かになれる。何になれるのか分からないまま生きているけれど、今はそんな重要な選択でもない。
クレープの層がフォークで切り裂かれていく。感触が心地よい。
「じゃあ、いただきます」
甘いな。ケーキの桃の話だけど。
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