オリジナル小説サイト「渇き」

恋愛小説、純文学、エッセイを扱った小説家・佐倉愛斗オリジナルサイト

青嵐吹くときに君は微笑む Side Boys ひだまりの匂い

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 俺たちが一緒に暮らし始めて、初めての冬が来た。

「渚、洗濯物畳んじゃうね」

 キッチンの方から「零くんありがとー」と愛くるしい声が飛んでくる。同じ生活空間に愛しい人がいる。頬の内側から幸せが染みだしてぴりぴりと産毛が立った。

 二人で暮らし始めてから買い換えたドラム式洗濯機からふかふかの服たちを取り出す。二人で選んだ柔軟剤の匂い。俺たちに馴染み始めた家族の匂いだ。

 カゴに移したひだまりをフローリングの上に一度広げる。やわらかなものの気配を感じ取ったアイツが軽やかな動作でやってくる。

「こら、アマタ。洗濯物に毛が付くから」

 アマタは渚先輩が留学時に飼い始めたミニうさぎだ。青みがかった銀色と輝くような白色の毛は撫でるとひんやりと水分をたたえている。アマタは洗濯物の山を掘るのが大好きだ。それはちょっと困るので膝の上に捕獲する。とくりとくりと人間より少し早い鼓動が生きていることの証明だ。

「はい、しばらくはここにいなさい」

 膝で挟むとアマタは大人しく寝転がる。足の裏もふさふさしていて、毛が生えていないのは眼孔だけではないかと思う。最初は俺に懐かなかったアマタも、今では俺に身をゆだねてくれる。全く、可愛いんだから。

 洗濯物は季節を表している。インナーは長袖に。靴下は厚いものに。そして今年初めてセーターを洗った。俺の服と渚先輩の服を並べると大人と子供みたいだ。先輩は俺より背が十五センチも小さく、Sサイズだったり、たまにレディースの服も着ている。それを思うと夫婦かも、と考えるのは少々こっぱずかしく、馴れることはなかった。

「零くん」

 背中に、愛しいぬくもりが触れる。

「なんですか? 渚先輩」

「まだ僕は『先輩』なの?」

 いじわるく言う彼に敵わなくて、俺は耳まで染めた。

「う、ううん。渚」

「ふふ。もう高校卒業から七年だよ。そろそろ馴れて」

「分かった。でも、渚はずっとあこがれの先輩です」

 そっかー、と渚は強く俺を抱きしめる。ふわふわの髪がうなじに当たってくすぐったくて、心までくすぐったかった。

「ふう、零くん補給した」

「補給できた?」

「うん。おかげさまで」

 歯を見せて笑う渚が可愛くて、俺は顎を引き寄せた。

「俺も渚補給した」

 もう、と嬉しそうにむくれるこの人を思う気持ちを、どう言葉にしたらいいのか俺には分からなかった。

「あーアマタが脱走してる!」

 いちゃいちゃしやがって、とばかりにアマタは折角畳んだ服の山を倒してこちらを見ていた。耳を倒して「聞きませんよー」とばかりに。

「こらー! アマタめ。おでこバイブの刑に処す」

 小さな額を指でぐりぐりしてやる。気持ちよさそうに鼻を手に寄せてくるのだから可愛い。そして手を離すととてつもなく寂しそうな顔をする。与えられているものが無くなることも悲しみだ。しばらく反省していなさい。

 しょぼくれてうたた寝を始めたアマタをよそに洗濯物を畳み直す。俺の洗濯物畳みはいつもこうして時間がかかる。

「渚はご飯できた?」

「うん。鱈が安かったからお野菜と煮て鍋物にしてみたよ。久しぶりの休みだったから気合い入れてお出汁から取ってみました。いつでも食べられるよ。シメはご飯炊いたから雑炊ね」

「いつもこんな美味しい物食べてていいのかな」

「いいんだよ。お洗濯物してもらってるから平等」

 ね? と同意を求める声に俺は救われる。全く、先輩には敵わない。

 よし、と畳み終えた洗濯物を抱える。

「はいはい、アマタもご飯にしようね」

 渚がアマタを抱きかかえてカゴに戻す。ご飯を入れてやるとポリポリと小気味よい音を立てて食べ始めた。

「ねえ渚」

 なあに? と彼の唇は柔らかく弧を結ぶ。

「愛してるよ」

「なんでこのタイミング?」

「思ったから、じゃダメ?」

「そんなこと言ったら」

――僕はいつでも言わなきゃいけないね。

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青嵐吹くときに君は微笑む Side Boys 悲しみにカーネーション

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「渚ちゃんはどうしてるかしらね」

 日曜日の昼、家族そろってラーメンを食べていると母さんが急に言い出した。

「ほら、渚ちゃんってひとり暮らしなんでしょう? 今日のお昼もひとりなのかしら」

「さあ……」と俺は首をかしげる。渚が何をしているか。今日は五月の第二日曜日。よく晴れていて寒くも暑くもない。ちなみにアイドルの「現場」とやらも今日はないはずだ。大学の課題、とか?

「おかーさーん! お兄ちゃん、何も分かってない顔してるー!」

「なっ」

 滴よ、何が言いたいんだ。相変わらずひどいな。

「お兄ちゃん、お母さんは渚先輩のこと心配してるんだよ?」

「……なんで?」

 滴がやれやれ、と大袈裟に頭を抱える。

「バカなお兄ちゃんには教えてやーらない!」

 ごちそうさま! と滴が手を合わせてから丼を片づける。何だろう。今日って何かあったっけ。

 

 五月は好きな季節だけれど、第二日曜日だけはどうしても苦しくなる。

「お母さん、ごめんね」

 いくら謝ったところでもう帰ってこない。どれだけ酷いことをされたとしても執着してしまう僕の弱さにももう慣れて、ほんの少しのセンチメンタルと一緒に肩を抱きしめた。赤いカーネーションを一輪玄関に飾る。おぞましい記憶が蘇る。

 今思えば酷く思い込みの激しい人だった。嫉妬に狂った母が怖かった。僕のことを一切認めようとしなかった。それなのに。

「出てくるのは、ごめん、ばっかりだ」

 過去に押しつぶされそうになって息が詰まった。炭酸飲料でも飲もう。ハチミツ漬けのレモンをサイダーで溶かして……

 膝にうまく力が入らなくて三和土の上で蹲った。

 ダメだな、僕、こんなんで。

 

 華さんから〈死んで詫びろ〉というLINEが届いたのでさすがに何かあると思い始めた。

 何を送ったんだ、妹よ。俺は死なないぞ。

〈ヒントくれ〉と滴に送ってみる。

〈ググレカス〉と即レス。ひどい。しかし兄はめげない。

〈検索ワードは?〉

〈五月第二日曜日〉

 おまけでチェーンソーで首をはねられるスタンプが届いた。お前これお気に入りだろ。

 Googleの検索にかける。トップに出てきた三文字に脳を殴られる。冷たいものが背筋を流れ落ちるのを感じた。

 

 しばらくじっとしていたら脚の感覚がなくなって、それでもなんとかよろよろと立ち上がってリビングに戻った。

 零くんは何をしているだろうか。部活は休みだったはず。それに今日みたいな日……うん。零くんはお母さんのこと大事にしてる。僕なんかと違って。

 ぐるぐると「僕なんか」「僕なんか」という言葉が幾度となく降ってくる。ソファに体を預けて息を吐く。今日ばかりはしょうがないけれど、やっぱりしんどいことを思い出すには十分で、どう向き合ったらいいのか未だに分からないでいる。

 スマートフォンを手に取る。ファンクラブ会員向けのメールが二件とツイッターのおすすめが一件。華ちゃんからのLINEに返事をする。何も変わらない日常。変われない僕と、変わらない。変わらない。

「はあ、ホント僕ダメだ」

 変わりたい。けれど過去は変わらない。堂々巡りの思考。スリープにした真っ暗な画面が僕を写す。泣いてなんか、ないよ。

 

 さて、これはどうするべきか。いや、考え過ぎかもしれない。渚には確かに母がいない。それも最悪の形で別れている。だからって何か……あるような気がしてならない。でも俺に何ができる?

「母の日、ねえ」

 母さんと滴は仲良く買い物へ行った。今夜は手巻き寿司にするから早くお刺身を買いに行くのだという。

 渚は料理が好きだ。だけど母から習ったわけでもなく、全部独学で――渚は「家に家族がいないから」と表現した。

 そっか、なるほどね。

 

「で、あのクソ男はこんな弱ったナギちゃんを放っておいてるわけだ。死んで詫びろ」

 まあまあ、と家におやつを食べに来た華ちゃんを窘める。

「いいんだよ、これは僕個人の問題だし。こんな弱ってるところ、見せられないよ」

「それ、本気で言ってる?」と華ちゃんが眉を釣り上げる。

「ナギちゃんにとって一番甘えたい相手なんじゃないの? 辛いときに一緒にいられなくて何が彼氏だよ。脳天かち割ってこようか?」

 華ちゃんはビスケットを2つに割って口に放り込む。

「いいの……僕が、勇気出ないだけだから」

 華ちゃんが僕の髪をグシャグシャと撫でる。

「ナギちゃんは何にも悪くないからね」

「ありがと、華ちゃん」

 礼を言いたければビスケットおかわり! と華ちゃんが空になった皿を差し出す。全く、敵わないな。

 

 華さんや滴にはいつもけちょんけちょんに言われるわけだが、その理由は俺の行動力のなさが原因なんじゃないかってことは薄々分かり始めていた。

 でも……俺に何ができる?

 渚が何を求めているのか分からない。今何をしているのかも。

 それって、恋人としてどうなんだ? 渚のこと、ちゃんと分かって――。

「あーもう」

 考えているだけじゃダメだ。でも、なんて、なんて言えば。

 結局俺はたった一言〈大丈夫?〉と送った。語彙力がこい。

 

 零くんのLINEはいつも短い。

 華ちゃんや滴ちゃんが長いだけかもしれないけれどいつも簡潔であっさりしてる。

「で、ナギちゃんはどう返事するの?」

「どう……って、大丈夫としか答えようがないよ」

「ふーん、嘘付くんだ」

 華ちゃんははちみつレモンサイダーを飲む。

「嘘、なのかなあ」

「ナギちゃんもナギちゃんだよ。あのクソ男に百パーの気遣いを求めるほうが無理ある」

 うっ……確かに零くんは不器用なところもあるけど、けどいつだって真っ直ぐだから。それに変わりたいのは僕の方だ。

 

 渚から〈大丈夫じゃない〉と返信があった。もちろんこんなLINEをもらったことなんてない。慌てて電話をかける。

「零くん?」

「何かあった? どこにいる? 俺、その、ええと――」

 スピーカーからコロコロと笑う声が聞こえる。えっ?

「零くん慌て過ぎだよ。その、なんかちょっと、しんどいなぁって思ったから。ダメ?」

「ダメ、じゃない」

 俺の声が尻すぼみになる。

「たまには零くんに甘えたいなぁ、って。ね?」

「う、うん。ありがと。俺に何ができる?」

「そうだなあ。たとえば――」

 

「あらあら渚ちゃんいらっしゃい」

 母さんの余所行き声に俺と父さんが苦笑する。

「お邪魔します。これ、つまらないものですが」

 母さんは「そんな、わざわざいいのにー」とか言いながら嬉しそうに受け取る。

 渚と俺の家族と一緒の食卓。

 海苔に酢飯と刺し身と愛情を巻いて。

 これで、いいのかな。俺はいつだって無力で、子供で、情けなくて。

 俺の膝に渚の温かい手が触れる。

「零くんのお母さん」

 渚が言う。

「母の日、おめでとうございます」

「あらま、そんなの零にも言われなかったわ。ありがとうね」

 ――あなたも私の自慢の息子よ。

 俺の目頭が熱くなる。渚の手に俺の手をそっと重ねた。

「はい、お母さん」

 

 零くんのお母さんは僕らのことを受け止めてくれる。だからって認めようとしなかった僕のお母さんのことを責めるつもりはない。もう仕方がない、としか言えない。過去は過去で変わらずに海馬の中に横たわっている。

「零くんの家に泊まるの初めてだね」

「なんだかんだ、そうだね」

 零くんの匂いだー、と渚がシーツに潜り込む。小さな体を抱きしめる。大切に、大切に、壊さないように。

「僕、頑張ったでしょ」

「えらい」

「手巻き寿司って大人数じゃないと食べられないから嬉しかったな」

「いっぱい食べたね」

「零くんのお母さんは素敵な人だね。僕のこと、こんな、僕のこと」

 渚が黙る。泣いているのかと思ったけれど、渚は俺の胸に隠れたままで。

「渚のこと、俺は大事にしたいよ」

 鼻腔音で返事される。

「家族に、なろう」

 今度は潤んだような声だった。

 小さな体に、たくさんの悲しみと、溢れんばかりの華やかさ。

「零くん、ありがとう」

「こちらこそ」

 ちっぽけな勇気と、たくさんの愛を。

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009/物言わぬ君

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 僕の家にはうさぎがいる。「山葵さん」というブルーシルバーの毛のミニウサギだ。しかし今日は山葵さんの先代、「紅葉さん」の話をしよう。
 紅葉さんは僕が中学1年生になる少し前に家に来た。
 僕の小学生生活は明るくなかった。小学校六年生の最後は教室には行けず、保健室登校をしていた。
 友達らしい友達もいないまま、中学生になろうとしている。同じ小学校だった人が半数の中学校へ行くのか。
 そんな不安を抱えたある日、テレビでうさぎ特集を見た。ふわふわで、コミカルな動きで、静かで。可愛らしく、とても魅力的に僕の目に映っていた。そして両親に「うさぎを飼ってみたい」と提案した。急に何を言い出すかと両親は驚いたが、僕がうさぎの飼い方ハウツー本を買って読み始めると、両親は「じゃあこのお店に買いに行こう」とハウツー本に乗っていた隣町のうさぎ専門店を提案した。
 そこで飼ったのが、紅葉さんだった。
 たれ耳で、全身は栗色だけれど鼻先と耳は黒く、足の裏が白くて、きれいな目をしていた。
 僕の腕の中で震える紅葉さんのことを、きっと大事にできるたろうと思った。
 
「たれ耳のうさぎさんはおとなしくて飼いやすいですよ」と言った店員さんには少し文句をいわなくてはいけないかもしれない。
 紅葉さんの悪の所業は数しれず、破壊された家具家電、そして僕の夏休みの宿題までボロボロにした。
 走り回り、飛び回り、探検してはこちらが追いかけ回すのが日常だった。
 とんだおてんば娘だ、と呆れたが、それでも可愛らしいのでおでこをぐりぐりとなでてお仕置きしていた。
 
 うさぎは、鳴くことがない。正確にはめったに鳴かない。僕は鳴き声を聞いたことがない。
 けれど表情、仕草、走り回る動き、足の踏み鳴らし方、視線。そういったもので全力で感情をアピールしてきた。
 紅葉さんはお腹が空くとこちらを「私かわいいからご飯もらっていいでしょ?」と言わんばかりの表情で見つめ、外で遊びたいときはゲージの扉を噛んで暴れた。今思ってもなんとも激しい子だ。
 けれど、やはりうさぎには言語がない。
 中学校に入り、前の小学校での辛いことを思い出すと、僕は決まって紅葉さんのゲージの横で膝を抱えた。
 何も言っていないのに、紅葉さんは僕の横に来て座った。一緒に物思いに耽った。
「ここにいるよ」と言ってもらえたようだった。何も言わないけれど、言葉はいらなかった。
 僕にとって、一番の理解者は紅葉さんだったのかもしれない。
 
 晩年までおてんば娘を貫いた紅葉さんは、おもちゃに足を引っ掛けて骨折した際レントゲンを撮ったら腫瘍がお腹に見つかり、そのままぽっくりという人生を終えた。
 骨折していなかったら「もうすぐ死ぬんだ」という心の準備もなく亡くしていたと思うといいのやら、骨折するなよと呆れるようななのだが、最後まで僕のことを思っていてくれたと思う。
 
 僕が手を差し出すと「撫でなさいよ」と頭を差し出す、彼女のことがとても愛おしい。
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008/老い

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 前話とは違う方の祖父母の話をしようと思う。
 祖母は看護師で、病弱な僕のよき理解者だ。一方、祖父は頑固でいつも何かに腹を立てている。
 今日はその祖父の話をする。
 僕が幼い頃、祖父はとても教育熱心で、幼い僕や弟、いとこたちにひらがなや数字の足し引きなどを教えてくれた。ひらがなの「あ」はどっちに回るのか。カタカナの「サ」の書き順。それらを教えてくれたのは祖父だった。
 よく遊びにも連れて行ってくれて、やなに鮎を食べに行ったり、テーマパークに連れて行ってくれることもあった。
 そのときから、祖父は少しわがままなところがあって、帰るタイミングは決まって祖父の飽きた頃だった。
 
 祖父は肺炎になった。慢性の、少し咳が出る程度の、あまり重くはないものだった。
 けれどインフルエンザなどを併発すれば命に関わることもある。
 そのころから、祖父は内科で精神安定剤をもらうようになった。
 家からほとんど出ず、リビングに座ってペットの犬を膝にのせてクロスワードやナンプレを解く日々。食事に誘っても断られることが多くなった。
 そのくせ自動車免許の返納を勧めたら頑なに拒んだどころか、更新する際に受けた認知症検査の結果を誇らしげに家族中に自慢して回った。
 小さくなっていく祖父の身体と、肥大していく自尊心。
 もう片方の祖母は「もうすぐお骨になりますから」とにこやかに言ってのけるけれど、こちらの祖父は絶対に言うことはないのだろう。
 年老いた人々はみんな死ぬのが怖くないわけではないのだと知った。祖父は、毎日怯えている。怯えた猛獣のようにイライラと周囲に当たっている。
 この差はどこで生まれるのだろう。
 僕は老いたとき、どちらの側の人間になっているのだろうか。
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青嵐吹くときに君は微笑む Side Boys つなぐ

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 車窓に切り取られた田園風景。俺たちの住んでいるあたりも都会とは言えない同じような風景だけれど、故郷からは離れた、違う風景だということだけは分かる。その場所固有の風景なのかは分からないけれど、非日常にやってきたという実感が俺をわくわくさせた。

「いい景色だね、零くん」

 そうだね、と俺は渚に微笑む。なんでもない田園風景。でも君がいるから特別。

「誘ってくれてありがとうね。なんだかんだ一緒に旅行って初めてだね」

「旅行に行けるだけ大人になったってことかな」

「じゃあもっと大人なことしていい?」

 不敵な笑みを浮かべる渚に、どうぞどうぞ、と俺は駅で買った物を取り出す。駅弁と缶ビール。プルトップを立てると小気味よい音がする。

「ビールが美味しいと思えるようになるとは思わなかったなあ」

「俺はチューハイの方が好きだけどね」

「お子様舌だね。って、お酒はお子様飲めないけど」

 ころころ笑う渚はいつになく上機嫌で、旅行に誘ってよかったと心から思う。こんなに可愛い子と一緒に居られるなんて。

「零くん、にんまりしてる」

「いいでしょ、べつに」

 幸せってことに、しておいて。

「わーい! 駅弁に染み染み煮卵入ってる! 零くん欲しい? うーん、あげなーい!」

 はいはいよかったね、と俺は渚の髪を撫でる。視線が交わる。触れるのには、まだ早い時間。

 

 駅からのシャトルバスに乗って宿泊先の温泉旅館に到着したのは日が落ちる少し前のこと。山並みに沈む夕日を眺めていたら俺たちは自然と手を繋いでいた。出迎えてくれた女将さんが俺たちの繋がれた手を見る。それでも俺たちは強く握り締めた。女将さんは柔和に微笑んだ。

「お風呂にする? それともご飯にする?」

 渚に問うと「お風呂でさっぱりしたいな。ご飯食べたら眠くなるし」と答えた。

「おっきなお風呂久しぶりだな」と浮かれる渚を見ていたらなぜだか泣きそうになった。手を離さなくてよかった。離しちゃいけなかったんだ。本当に、俺は。

「零くん、零くんが好きなのは誰ですか?」

 ずい、と彼が俺の顔を覗き込む。

「渚、です」

「じゃあ僕が好きなのは?」

 答えずにいると、

「相原零くん、ただ一人だよ」

 ね? と彼は俺の手を引いた。まったく、敵わないな。

 

 お互い頭と身体を洗って外に出た。公共の場には甘い空気は持ち込めない。雰囲気としては部活の合宿と同じような、いいや、もっと親密だけれど成熟した関係だと感じる。外は秋の装いで、ライトアップされた紅葉の鮮やかさに目を奪われる。

 露天風呂は岩風呂だった。湯の上を湯煙が走る。高い空にぽっかりと浮かぶ月。半月ってやつだ。

「上弦の月、だね」

 渚がぽつりとつぶやく。

 俺たちは違う瞳で同じものを見ていた。

 違うから、俺たちは引き寄せ合ったんだ。

「零くんってスケベなこと考えると真顔になるよね」

「なっ」

 渚が口角を上げる。湯の熱さだけじゃないものが耳まで熱くした。

「ふふふ、零くんだなあ」

「それは俺がモサ男ってこと?」

「否定してほしい?」

 ころころ笑う渚の頬に、小さな喉仏に、鎖骨に。だめだ、かわいい。

「あんまりかわいいこと言うと俺我慢しないよ?」

「どこがかわいいの、これ」

 変な零くん、と渚が口を押さえて笑った。

「あー、ちょっとのぼせたかも」

 俺は立ち上がって夜風に当たる。

 ひゃ、と渚が目を逸らす。

「スケベなのは渚じゃん」

「……スケベじゃないもん」

 今日のところはそういうことにしておこう。まだ夜は長いから。

 

 夕食は旅館の離れにある料亭を予約していた。こういう旅館に来ると(そもそもそんなに旅行をしたことがないのだが)家族向けなホテルビュッフェしか食べたことがない。個室の掘りごたつでお酒片手に季節の野菜と魚、そして地元のお肉を食べる。料理もひとつひとつの量は少なく、品数は多く。なんだか本当に大人になったみたいだ。

「何もしなくても出てくるご飯って最高だね」

 渚の頬が上気している。アルコールと旅の高揚。浴衣の合わせから見える肌もほんのり色付いている。

「いつも美味しいご飯ありがとう、渚」

 えへへー、とふやけた笑いを見せる。かわいい。旅費をせっせと貯めた甲斐があったな。

 いつも仕事を頑張っている渚をねぎらいたい。それに忙しい仕事の合間を縫って休みを取ってくれたことにも感謝しなきゃいけない。本当に、本当に渚は頑張ってるよ。

 ふあ、とあくびが漏れた。俺もちょっと飲み過ぎたかもしれない。

「そろそろ部屋戻ろっか」

 渚が腕を絡ませる。いつもより高い体温を感じていた。

 

 部屋に戻ると布団が二組、ぴったりとくっつけて並べてあった。

「女将さん、よく僕たちのこと見てるね」

「あからさますぎてびっくりする」

 顔を見合わせて俺たちはクスクス笑った。

 横になると俺の腕の中に渚が入ってくる。すっぽり収まる彼の身体。渚の匂いがする。大浴場の石鹸の匂いの奥に、彼のシトラスの匂い。

「いい、におい」

 うつらうつら。意識が夢の世界に入ろうとする。

 刹那、柔らかいものが唇を舐める。

「寝ちゃうの? 零くん」

 腕の中の彼が、官能の灯った目で俺に訴える。

「寝たら、やだなぁ」

 俺は彼を抱き寄せると唇を合わせた。深く、深く。思いの分だけ、深く。

「っはぁ……。零くん?」

 挑発的な笑み。俺が欲しいのは渚で、渚が欲しいのは俺。その事実が俺の雄を呼び起こす。

 渚の耳を食む。乾いた舌先でなぞり、耳元で水音を立てる。彼の控えめな甘い声が俺をますます興奮させる。

「ねえ零くん。やさしく……しないで」

 その言葉は俺の理性を飛ばすには十分だった。

 

「渚、お湯滲みない? 大丈夫?」

 部屋に備え付けの露天風呂。俺の脚の間に渚がすっぽり収まる。

「大丈夫だよ。切れてはないし。でも、腰は痛いかも」

「ご、ごめん」

 謝ることないのに、と彼は笑っていた。

「でもそうだね。いきなり手首縛られたのにはびっくりした」

「それはその、浴衣に付いてたから」

「零くんのえっちー」

「どうせえっちですー」

 暖かい湯の中で、渚は拗ねる俺に向き直る。

「零くん。零くんが卒業したら、一緒に暮らしませんか?」

「えっ」

「僕はずっとそのつもりだったよ」

 ほろり、と雫が落ちる。

「泣かないでよ、零くん」

「だって、俺、胸がいっぱいで」

 胸がいっぱいなのは幸せが詰まっているから。

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ひだまりの中で君は手を引く 11(完)

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「自分もついてきてよかったの?」

 秋晴れの日、ほんの少し寒くてマフラーを出そうか迷った。電車で市街地へ向かい、そこから歩いて二十分ほどの劇場に足を運んでいた。

「彼氏さん、余計怒るんじゃないかな」

 皐は不安そうに肩掛けカバンの紐を握り締めていた。

「いいんだ、皐の前で話しておきたいから。それに」

「それに?」

「一人じゃ怖い、ってのもある」

「零ちゃん先生、華姉ちゃんが言うようにホントダメなんだね」

 呆れる皐に俺は同情した。俺はホントダメだ。でも、変わりたい。変わらなきゃいけない時が来たんだ。

 

 観劇するのはもしかしたら初めてかもしれない。いや、小中学校の芸術鑑賞で観たのか。本当に遠い記憶だ。こんなにも子どもから遠ざかっているのに、大人までの道のりも長い。長い長い階段を見上げて目眩がする。

 舞台の内容はうまく説明できない。ただ、舞台らしい悲劇だな、とは思った。舞台が何か分からないけれど、漠然とそう思った。

 背景のセットはめまぐるしく変わった。どれも渚の作品だ。渚が目指したものがそこにはあった。夢を叶えて、大人になって。

 俺の夢は何か、考えたことがなかった。

 けれど皐と出会って、人と関わることの楽しさを知った。

 安直かもしれないけれど、これが俺の夢だと仮定しよう。

 人々の夢を応援する。そんな生き方もいいんじゃないのかな。

 

 観劇を終えて俺は劇場横の喫茶スペースに入った。

「渚」

 彼が振り返る。ふわふわの髪に、大きな瞳。

「零くん、皐ちゃん、来てくれてありがとう」

 皐が頭を下げる。

「渚こそ、仕事忙しいのにごめん」

「ちょっとの時間なら大丈夫だよ」

 渚がメニューを渡す。俺はカフェオレ、皐はレモンティーを頼んだ。

「零くん、話って?」

 口の中がカラカラだった。グラスの水を飲み干した。

「俺、渚とのこと考えたんだ」

「うん」

「俺は渚のこと守りたいってずっと思ってた。でも、それは間違いだった。一方的で独りよがりだった。こんなにも、たくさんのものを渚に貰っていたのに」

 手が震えていた。目をつぶって深く息をする。

「渚とこれからもずっといっしょにいたい。その資格が俺にまだあるのかはわからない、けど」

 声が尻すぼみになる。怖い。怖くて死んでしまいそうだ。渚の次の言葉が、怖い。

 注文したカフェオレが運ばれてくる。俺は砂糖を入れずに口に含んだ。

 ミルクベージュの水面が揺れている。心のように、大きく。

「ちゃんと言わなきゃ、ダメだよね。俺は、俺は渚が羨ましかった。前に進んでいく渚に取り残されたみたいで。卑屈になっていた俺が百パー悪いよ。でも、俺は、渚のことが好きなんだ……そのことだけは変わらないよ」

 渚が話し始める。

「僕はね。確かにうじうじしてる零くんには腹を立てた。見ていられなかったし、僕のことちゃんと見て欲しかった。でもね、待ってばかりの僕じゃダメだったね」

 ふわり。暖かい手が俺の手に触れていた。

「零くんが前に進めないのなら、僕がその手を引くよ」

 まっすぐな瞳が俺を貫いていた。

「一緒に生きよう、零くん」

 俺は生きていていい。この人と、ずっと。

「こちらこそ」

 皐ちゃん、と渚が切り出す。

「皐ちゃんに零くんはあげられない。どんなに皐ちゃんが零くんのこと好きでも、この人は僕のパートナーだから」

「分かってますよ、渚さん。自分もフラれるつもりでここにきましたから」

 皐の笑みは傷付いていた。けれど、これが恋というものだ。

「大学受かるまでは零くんのこと貸しておいてあげるから。絶対に返してよ?」

 皐は「返したくはないですけどね」と好戦的に口角を上げた。

「じゃあ皐ちゃん、絶対合格してね。延滞料高くつけるから」

「それは怖いです」

 二人があまりにも楽しそうに言うものだから、俺はなんだか許されたような心地がした。

「ねえ零くん」

「なに?」

「愛してるよ」

「うん、知ってる」

 

「皐ちゃん合格したんだね」

 桜が咲いて、また季節が巡る。渚の家のソファーを背もたれにカーペットの上に二人並ぶ。渚の頭が俺の肩に預けられる。この重みこそが存在してるって事だ。

「きっちり第一志望の学部にね。俺がみたのは一次のセンター試験までだったけど、画塾でかなり頑張ったみたい」

「零くんも頑張ってたでしょ?」

 そうだといいんだけど、と俺は彼の唇に触れた。

 もつれるようにカーペットになだれる。

「ここじゃ嫌だなあ」

「それじゃあ」

 うあっ、と渚が驚く。

 渚の重みを両腕に感じて嬉しくなる。

 ゆっくりと彼の部屋のベッドに横たえる。

「さすがにお姫様だっこは恥ずかしいよ」

「いいでしょ? たまには」

 もう、と怒ってみせる渚の蝋燭には火が灯っていた。

 

 肌が触れ合う。

 この行為はいつまでも続くわけじゃない。

 人生もいつかは終わる。けれど、

 

「零くん、帰ってきてくれてありがとう」

 あなたと手を繋いで、いつまでも。

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ひだまりの中で君は手を引く 10

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「零ちゃん先生ごめん」

 エレベーターの中で皐は言った。

「でも、自分は諦めないから」

 

 皐を送って部屋に戻るとき、死刑囚の気持ちを味わっていた。いや、離婚調停のほうがぴったりか。

 部屋に戻ると渚は静かに正座していた。嵐の前の静けさ、という言葉が似つかわしいのかもしれない。

「零くん、ちゃんと話そう」

「はい」

 渚の対面に正座する。

「零くん、僕が何も思わないでいたと思ってない? ここ最近のこと」

 ここ最近。連絡をまともに取り合っていなかった。電話も無視した。俺の身勝手な理由で。

「僕は寂しかったよ。それは零くんも同じじゃなかった?」

「同じ、だよ。多分。でも俺、分かんないよ」

「何が分からないの?」

 渚の眉がつり上がる。

 俺は言葉を選んでいた。絶対に離してはいけない命綱は、一体どこにある。

「言えないようなこと?」

 渚の深い憤りが聞こえてくる。呼吸が速くなる。

 何から言えばいいのだろう。皐にキスされたのは一方的なもので、渚に連絡できなかったのは俺のちっぽけな嫉妬心からで、ただ寂しくて、そして将来どうしていきたいのか分からなくて。何も見えない。何も聞こえない。母さんにも将来のことを問われた。このまま男同士で付き合って。きっとそのうち結婚はできるようになるのかもしれないけれど、それが俺たちのゴールだとは現実的には思えなくて。怖くて、どうしたらいいのか分からなくて。

 きっとこのまま終わっていくのかもしれない。

 この恋も、人生も。

「俺は、この先どうしたらいいのか分からない。将来どうしたいいのかとか、このままでいいのかとか。滴も、華さんも、みんな夢に向かっている。けど俺は何にもない。何に母さんに結婚のことを聞かれて何も答えられなかった。だから――」

「嫌だ!」

 聞いたことのない叫び。。

 カーペットに湯飲みが転がっている。

「僕は、ぼくは、零くんのこと、絶対に離したりなんかしない」

 大粒の涙が落ちる。小さな渚が、両腕で目をこすっていた。

「零くんはいつまでそこで立ち止まってるの? 意気地無しな零くんなんか大嫌いだ! だから、だから僕は――」

 こんな渚を見るのは初めてだ。俺は呼吸を忘れていた。

 そして俺に突き刺さった。

 

 大嫌い。

 

「クソ男。優しいあたしと厳しいあたし、どっちと話したい?」

 俺は迷わず「厳しい華さんで」と答えた。

 場所は駅前のファミレス。何の因果か皐の家庭教師をすることになったときと同じ席。なんでこんなことまで覚えているのだろう。渚のことは、もううまく思い出せないというのに。

「んじゃまず最初に。クソ男、あんたナギちゃんから逃げたでしょ」

 逃げた。否定なんてできるわけがない。怖かった。このまま繋がれた手が解かれることが。でも、俺は、逃げて、突き放して。

「ナギちゃんに嫌われても当然だね。浮気しておいて将来が不安だ? 笑わせんなクソが。問題をすり替えてるんじゃないよ。あたしはそれを『異性に逃げた』なんて差別的な言い方はしたくないけど、あんたの場合は逃げだよ。性別どうこうじゃなくて、人から人への逃げだ。あらゆるものから逃げるな、なんて根性論は言いたかないけど、好きな人からすら逃げるあんたは最低のクソ男だ」

 華さんは続ける。

「クソ男が一方的に遠ざけておいて疎遠になったと勘違いしてない? あんたから電話したことあった? ナギちゃんは何度でもかけてきたんじゃないの? ホント自己中にも程があるよ。百パーあんたが悪いね」

 俺はただうなだれていた。

 最低、最低だ。どうして渚のことを大切にできないんだ。あんなに、あんなに好きだったのに。嫌いになんかなりたくない。でも渚は、俺に。

「……大嫌い、って言われました」

 あの後どうやって帰ったのか覚えていない。

 気付いたら自室のベッドの上で、枕は長雨の中のように濡れていた。

 滴に起こされて食事を取ったけれど、何を食べても砂を噛んでいるようだった。

 そして華さんに呼び出された。滴から聞いたという。

「こんな俺、ダメすぎて。もう自信がないんです。渚のこと、どうやって守ったらいいのか分からなくて」

 華さんが深い溜息をつく。

「守って欲しい、ってナギちゃんに言われたの?」

 しっとりとした柔らかい声だった。

「確かにナギちゃんは弱いところもあるし、家族には恵まれなかった。でも、だからって守られるためにあんたと一緒にいたわけじゃないと思うよ」

 ――あんたはナギちゃんに何を貰った?

 蘇る記憶。一緒に居た日々。渚の美味しいご飯。笑顔。暖かさ。居場所。

 華さんは俺にポケットティッシュを袋ごと渡した。

「大好き、だった。でも、もう……」

「諦めるのはまだ早いんじゃない? あんたが変われるならね。じゃあ出血大サービス。とびきり優しい天使なあたしからのプレゼントだよ」

 そう言って華さんはカバンから白い封筒を取り出した。

「ナギちゃんの次の舞台のチケット。ナギちゃんはあんたにもあげるつもりだったらしいけど貰ってないでしょ? これ、あたしと滴っちの分だけどあげるよ」

 封筒を開くと二枚のチケット。それとカードが一枚。

〈零くんの教え子さんに華ちゃんからも色々教えてあげてください。みんなでおいでね〉

 文字が滲まないよう俺は急いで両目を拭った。

「それで滴っちから聞いたんだけど、チケットは定価取引が原則、なんだっけ?」

 華さんが茶目っ気のある笑みを向ける。

「はい、ちゃんとお支払いします」

 よろしい、と華さんはファミレスで一番高い一ポンドステーキのサラダ・スープ・ライス大盛りのセットを頼んだ。どこが定価なんだか、と俺は自然と笑っていた。

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