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ひだまりの中で君は手を引く 09

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 渚と連絡を取れないまま時は流れた。どんな声だっけ。どうやって接していたっけ。時が経つほど分からなくなってゆく。

 きっと俺はどこかで立ち止まったままで、滴や、夢を叶えた華さん、そして渚はどんどん前へ進んでいく。卑屈になる俺に嫌気が差して意味もなく惰眠を貪った。

「零ちゃん先生、今度は飼い猫が死んだ?」

「猫は飼ってないけど、そういうことでいい」

 皐の成績はめきめきと伸びて、この前の模試では志望校である美大ではB判定が出た。皐も前に進んでいるんだな。止まっているのは世界で俺だけか。

「零ちゃん先生が元気ないの、僕のせい?」

「そんなことはないよ。皐はちゃんと勉強してしっかり結果出してるし、そのことは俺も嬉しいよ。これは俺自身の問題だから」

 皐は「零ちゃん先生って弱虫なんだね」と俺の頬に触れた。キスされるかと思ったけれどされることはなく、ただ皐の澄んだ双眸が俺をまっすぐ見詰めていた。

「自分のことを好きになればいいのに」

「皐はカッコいいな」

 そうでしょ、と皐が笑う。

「ねえ、自分を零ちゃん先生の彼氏さんに会わせてよ」

 俺は驚いた。

「零ちゃん先生の好きな人がどんな人なのか知りたい。ダメ?」

「ダメではないけど……」

「じゃあ言い方変えるね。零ちゃん先生が彼氏さんに会うのが怖いなら、自分が付き添ってあげるよ」

 俺は深い溜息をした。

「そんなに俺、弱ってる?」

「うん、世界中の猫が死んだみたいに」

 別に俺は猫好きでもないんだがな、と今日初めての笑みを浮かべた。

 

〈久しぶり 連絡できなくてごめん 教え子が渚に会いたいって言うんだけど一緒に家まで行っていいかな? 志望校の先輩として話を聞きたいんだって〉 

 渚にメッセージを送るのに一時間かかった。

 渚に会いたい言い訳は皐が考えた。間違ってはいないから何も不審がられないだろう。

 平静を装っているけれど、この文字列から渚はどれだけを読み取るのか。全て見透かされているように感じて不安でたまらなかった。

 返事は思ったより早く届いた。

〈久しぶり。いいよ、いらっしゃい。何食べたいか聞いておいてね。今度久しぶりにオフの日があるからゆっくりできるよ。待ってます〉

 うさぎの絵のスタンプはにんじんを抱えて満足そうだった。いつもの渚だ。きっと、いつも通りになれるはず。

 どうやって話していたのか思い出せない。お腹が重たい気がした。

 

「零くんいらっしゃい。そしてはじめまして」

 玄関先で渚が俺たちを出迎えてくれた。シャツの上に冬物の青いカーディガン。下は芥子色のコットンパンツ。見慣れたはずなのに、初デートのときのことを思い出しているようだった。

「はじめまして、西野皐です」

 皐が頭を小さく下げる。借りてきた猫のように大人しくなっている。

「うんうん、よろしくね。僕が酒本渚だよ。僕のことは零くんから聞いてるんだよね?」

 皐が控えめに頷く。渚は柔和な笑みを浮かべていた。

「ご飯もうすぐできるからリビングで待ってて」

「ありがとうございます」

 皐の声は幾何か明るかったが、短い髪がぺたんと倒れているようだった。

 リビングに入る皐についていくと、渚が俺を引き留める。

「零くん元気にしてた?」

「うん……」

 言葉がうまく出てこない。

「なぎさ、は?」

「ちょっと忙しかったけど元気だよ。それに――」

 渚が耳元に口を寄せる。

「久しぶりに会えて嬉しい」

 彼の顔を見ると、大きな瞳が熱を持って俺を見詰めていた。頬の産毛が立つ。感情の渦が胸の真ん中でうずまくのを感じた。

 このまま抱き壊してしまいたい。

 渚の肩を掴んだ。抱きしめて、キスをして、全部俺にしたい。

 そんな衝動をこらえる。今日は皐がいるからお預けだ。

 衝動だけで付き合えるのなら、こんなに悩まないのだろうか。

 

 昼食を終えて皐のリクエストの鬼まんじゅうを食べた。さつまいもの甘みが優しい。皐は案外和食好きなのだと今日知った。

「皐ちゃん、勉強の方はどう?」

 リビングのカーペットの上に座って俺たちは話している。湯飲みを両手で包む皐を俺たちが挟む形だ。

「この前の模試はB判定でした」

 おー頑張ってるね、と渚は嬉しそうだ。

 皐の声が裏返る。

「せ、先生が、いいから……」

 よく言うよ、と俺は照れ隠しをする。

「零くんも頑張ってるね。すごいなあ」

 人生でこれほど褒められたことがないので俺は何も言えず頬を掻いた。

「あの、渚さんに聞いてもいいですか?」

 皐が切り出す。

「いいよ。大学のことかな?」

「そっ、それもあります、けど」

 ん? と渚が首をかしげる。

「人生相談、乗って欲しいです」

「人生相談かー。いいよ、僕でよければ」

 俺には話してないことだろうか。しょうがなく俺は静観することにした。

「自分、好きな人がいるんです。でもその人は付き合っている人がいて、でも少し不仲みたいで。自分ならそんな悲しい思いさせたくないし、寂しくなんかさせないのにって思ってます。こんな自分、図々しいですかね」

「そうだね……付き合うのってずっと幸せだけではないと思うんだ。こんなこと言うと夢を壊してしまいそうだけど。たまには喧嘩することもあるだろうし。でも、そうだね」

 渚は一口お茶を飲む。

「相手がどんな状態であれ、好きなら諦めなくてもいいと思うよ。寂しくさせたくないって気持ちは僕も分かる。好きになるって相手のために頑張りたいって思えることだと思うからさ」

「じゃあ」

 皐が俺の腕を掴む。

「自分、諦めなくていいんですね」

 俺と渚は同じ驚きの声を上げた。

「自分は零ちゃん先生のことが好き。渚さんが零ちゃん先生を悲しませるなら、自分がとっちゃいますから」

「ちょっと皐、何言い出すんだ」

 俺は狼狽えていた。皐の今日の目的はこれだったのか。

「だってしたでしょ? キス」

「あ、あれは」

 渚の心臓が止まる音がした。

「零くん……ちゃんと話を聞かせて」

 悪いけど、と渚が皐を睨む。

「皐ちゃん、ちょっと零くんと二人で話したいから今日は帰ってくれる?」

 渚の声が低い。

 皐は渚のことを直視できないでいた。

「零くん、皐ちゃんを下まで送ってきて。話はそれからしよう」

 俺は頷く。

 とんでもないことになってしまった。口の中に苦みが広がって、胸の中がざわざわと騒いでいた。

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ひだまりの中で君は手を引く 08

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 とても気まずい。

 華さんには気付かれていないけれど、俺は酷く混乱していた。

「零ちゃん先生、気持ち悪く思った?」

 渚にも同じ事を言われたことがある。彼が男性と付き合っていたことを明かした日だ。

 俺は男で、皐は女。何か気持ち悪いことがあるだろうか?

 いや、そういうことじゃない。皐は俺の性を知っていて言っているのだ。

 女の子とキスをするのは初めてだった。

 言葉が見つからない俺に皐は「謝りはしないからね」と付け加えた。

「気持ち悪くはないけど、びっくりした」

「零ちゃん先生ってホントお人好しだよね」

 褒められていないことは分かった。

 ここは画廊から駅の方に戻る途中にある喫茶店で、俺はホットコーヒー。皐はレモンスカッシュを飲んでた。ホットコーヒーに砂糖を入れなくなっても、俺はちっとも成長しない。恥ずかしさと悔しさで消えてしまいたくなった。

「零ちゃん先生。先生って『一緒に居ることが当たり前』って言ってたよね。でもそれって本当なのかなって思う。新学期になれば仲のよかったクラスメートとも離れて、進学したら地元の友達にもあまり会わなくなる。そうやって人間関係って変わり続けるんじゃないかなって」

 ねえ先生、と皐が向き直る。

「零ちゃん先生、わたしと付き合ってよ」

 こんなにもまっすぐ見詰められたことがあっただろうか。

 あまりにもかなしい顔をするものだから、俺は何も言えなくなってただ彼女の瞳の光を見ていた。

「零ちゃん先生がわたしのことを好きになるかは分かんないけど、私は多くを望まないから」

 ここからは難しい話だけど、と皐が前置きする。

「わたしね、ううん、自分ね、自分のことを女の子だとは思えないの。男の子に好きになられても、その男の子は『女の子』の自分を求めている。だから誰かを好きになったことがないの。なったとしても『女の子』でいなきゃいけないんだと思うと苦しかった。でも、零ちゃん先生は男の人と付き合える。……零ちゃん先生が『女の子』の自分を好きになれないのかもしれないけど」

 でも、理屈じゃないよ、と彼女、いや、どちらとも呼べない皐が付け加えた。

「好きかどうかはわかんない。けど自分、零ちゃん先生に憧れてるよ。零ちゃん先生を救いたい。それを恋と呼んじゃいけない?」

 皐が今にも泣きそうだといわんばかりに声を震わせる。

 皐は頑張って伝えてくれた。じゃあ俺はどうなんだ?

「気持ちは嬉しいよ。ありがとう。でも俺は先生で、大人で、付き合っている人がいる。皐の告白は断らなきゃいけない。それは分かってくれる?」

 皐はゆっくりと頷いた。

 何者でもない俺は、きっと何者にもなれはしない。

 渚は先を歩いている。俺よりもずっと先を。

 俺の中の渚が俺を苦しめるんだ。

 

 その日の夜、渚から電話がかかってきた。どうしても出ることができなくて、リビングのテーブルに置かれた震えるスマートフォンをただ見詰めていた。

「お兄ちゃん出ないの?」

 風呂上がりの滴が問う。

「渚先輩からなんでしょ?」

 そうだけど、と俺は言葉を詰まらせる。

「お兄ちゃん、何かあったでしょ」

 俺はあっさりと白状した。

「俺たち、もうだめかも」

 滴の顔が見られない。けれど妹が困惑していることは彼女の呼吸の速さから伝わった。

 滴が俺の隣に腰掛ける。

「お兄ちゃん、何があったの?」

「何がって……渚が遠くに行ってしまったように感じるんだ。俺よりずっと前に。それに、俺たちもう子どもじゃないんだ。将来のこと、ちゃんと考えないと」

「お母さんに言われたこと?」

「聞いてたのか」

 滴は「お母さんってちょっと古いところあるから」と苦笑した。

「お母さんが何か言おうとお兄ちゃんはお兄ちゃんの好きな人と一緒にいなよ。私から勝ち取ったんでしょ? まあ私は元々同じ土俵にも立てなかったけど」

「好き、なのかなあ……」

 もうよく分かんないよ。

 滴がティッシュを寄越す。濡れた頬を拭って鼻をかむ。

 皐みたいにまっすぐ好きだと伝えられたらいいのに。どうしてこんなに俺は、

「ダメだなあ、俺」

 渚はこの先、俺以外の人とも恋をするのだろうか。

 変わってゆく。立場も、環境も、感情も。

「お兄ちゃんはダメじゃないよ。基本はバカだけど、真面目すぎるバカだよ」

「それ、慰めてる?」

「一応ね」

 滴は目を細めてくしゃっと笑った。

「私ももう子どもじゃないから、恋に終わりがあることも知ってる。だから、何が何でも別れるなとは言わないよ。お兄ちゃんと渚先輩で答えを出しなよ」

 でもね、と滴が続ける。

「私が大好きな渚先輩を幸せにするのは私じゃなくてお兄ちゃんだった。お兄ちゃんにしかできないことだよ。渚先輩を不幸にしたら私、お兄ちゃんのこと許さないから」

 渚とどう向き合ったらいいのだろう。

 自室へ向かう滴の後ろ姿が、とても羨ましく見えた。

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007/夫婦

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 それまでよそよそしくしか接することのできなかった祖母のことを、はじめて愛しいと思ったのは祖父の葬式でのことだった。
 祖父の葬式はとても小規模で、区立のセレモニーホールで行われた。参列者は親族を除くと叔父が呼んだ手伝い以外ではたった一人だった。叔父は「親父のやつ、無駄に長生きしちまったからよ。友達も釣り仲間もみんな死んじまって、一人しか来られるやついなかったんだと」とさみしさを含みながらも少しばかり誇らしく語った。
 死化粧をした祖父を見たとき、真っ先に叔父が「親父のやつ、生まれて初めて口紅塗ってやがるよ。死んでからだけど」と笑いを誘った。僕や両親、親戚たちは「ほんとにねえ」と和やかに笑っていた。祖母を除いて。
 祖母はゆっくりと棺桶で眠る祖父に近づくと、
「ほんとねえ、きれいにしてもらって。ほっぺた叩いたらおきるんじゃないのかえぇ?」
 祖母はやさしく、けれど祈るように祖父の頬を叩いた。何度も、何度も、叔父が止めるまで。
 それまで「祖父はとても長生きをして幸せな最期を迎えられてよかった」というおだやかで心地よい空気すらあった。けれどこのとき僕はやっとはじめて悲しみを自覚した。
 祖父を失った僕、としてではなく、「愛する人を失った祖母」の立場として。
 葬式の読経の中、僕は僕と祖父との思い出を思い返すよりも、これまで祖父母がどんな人生を歩んできたのかに思いを巡らせた。半世紀以上一緒に生きるって、どんな覚悟と愛情があるのだろうか。
 祖母のように、誰かを一生愛することができる人生を、歩めたらいいのにと願った。
 
 数年後、祖母が急に語り始めたことがあった。
「人生はね、七十代が一番楽しいのよ。若いときは苦労ばっかり。愛ちゃんも今は大変でしょう? 勉強だ就活だって。でもね、七十になると定年を迎えてね、いっぱい自由になるの。おじいさんとたっくさん旅行に行ったわ。愛ちゃんという孫にも恵まれてね。だから、七十代が一番よ」
 祖母は茶目っ気たっぷりに「八十すぎると膝が痛くなるからダメね」と付け足した。
 僕は幸せな七十代を迎えるために人生で何かを積み重ねることができるだろうか。
 そんな覚悟をくれた祖母のことを、心から敬愛している。
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006/語らぬこと

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「寡黙」という言葉を知ったとき、父のことだ、と瞬間的に思った。
 僕の父はほとんど言葉を発しない。多くて単語三つ。ふだんは「ん」という鼻腔音で返事するだけ。とにかく静かで、僕は「我が家のうさぎより静かだ」と揶揄することすらある。
 当然、叱られたこともなければ褒められたこともない。
 一度だけ、演奏会の感想を長文のメールでもらったが、父からの言葉というよりさながら音楽愛好家による評論文だと吹き出して笑ってしまった。
 そんな父のことは昔から好きだ。
 いや、嫌いになれるほど言葉をかわしていないからかもしれない。
 今でも何を話せばいいのかわからず、二人きりになると僕まで黙りこくってしまう。
 けれど母抜きで二人で食材の買い出しに行けば普段買わないような新製品や変わった食材を買ってみたり(もちろんあとで母に叱られるのだが)、家族で旅行に行けば父の三単語以内のウィットに富んだ感想にクスクス笑ってみたり、愉快な人だと思う。
 多くを語らないということは、僕にはできないことだ。僕からはとめどなく言葉があふれてくる。けれど父はそれをコントロールし、言葉の重み、意味合いの密度を高めているのだと思う。
 父の何も言わない、という「Φ言葉」にも、きっと意味がたっぷり含まれているのだろう。
 
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ひだまりの中で君は手を引く 07

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 そのギャラリーはナゴヤドームを通り過ぎて少しのところの駅から十分ほど歩いたところだった。

 教えられなければここを知ることもないような住宅地の中だけれど、店構えはお洒落なカフェか美容室のようで、古いヨーロッパの民家みたいな魅力がある。ドアを引くと軽やかな音色が出迎える。絵の具の匂いだ、と鼻が動く。

 中は雑貨店になっていて、所狭しとカードやアクセサリー、そして本が並んでいた。どこでも見たことのないようなものたちばかりなのに調和している不思議な空間だった。

 奥に進むとロッキングチェアに華さんがいた。

「おっす、モサ男」

 皐が吹き出す。華さん、いい加減俺のこと名前で呼んでくれてもいいんじゃない?

「モサ男って、零ちゃん先生にぴったりだね」

 華さんも吹き出した。ぴったりってなんだ。

「モサ男、ちゃんと先生してるかー? ぶふっ、零ちゃん先生ね、うんうん」

 からかうつもりしかない言いように俺は呆れた。あなたが紹介したんでしょ。いつものことですね。

「なにはともあれあたしの現実へようこそ。モサ男、これがあたしのやりたいことだ。刮目せよ!」

 指をびしっと目の前に突き出される。はいはい、と俺は答えた。

 華さんの個展はこの店の二階でしているらしい。急な木製の階段を這うように昇る。どうぞごゆっくりーと華さんは片手を上げた。

 圧巻された。

 目の前には二メートル四方の帆布。そこに絵の具で描かれた女の子。黒い髪は風に揺れて、鋭い眼差しが、虹色をたたえた瞳が俺に問いかける。一文字に結ばれた唇はほんのり色づき頬には睫毛の影が落ちている。頬に添えられた指は細く、凜として白かった。

 芸術のことは分からない。けれど圧倒的な美がそこにはあって、力強さを繊細なタッチで写実的に表現されている。

 キャプションには《I won't disappear becouse it's not a dream》とタイトルがつけられていた。

 夢じゃないから消えない。

 華さんの夢は、夢じゃなくて現実だ。

 渚も目標に向かって努力して、そして掴んだ。

 じゃあ俺の夢は? 渚と一緒に居ること? 分からない。分からないから怖い。不安の中は内臓がふわりと揺れるような気持ち悪さがあって、目の前にあるものをうまく認識できない。

 華さんも、滴も、渚も。みんな前に進んでる。俺はどうなんだろう。

「零ちゃん先生、好き」

 皐が呟く。

 華さんの絵は素晴らしい。好きだと思う。

「きっと零ちゃん先生には伝わってないと思うけど」

「うん、絵の良さは皐の方がよく分かるんじゃないかな。俺にはただ綺麗だということしか分からない」

 頬を掻いていると「やっぱりね」と皐は苦笑した。

 

 部屋中に飾られた絵を一通り見た。

「零ちゃん先生、ここに感想書くみたいだよ。華姉ちゃん喜ぶかな」

「喜ぶんじゃないかな? 記念にもなるし」

 部屋の入り口横に置かれた座卓の上に革張りのノートが置かれていた。

 日付と名前と感想がボールペンで書き残されている。

 早速皐が腰を下ろしてノートに書き込んだ。見ているととても長くメッセージを残しているようだった。

「ねえねえ零ちゃん先生、こんなにたくさんの人が見に来ているんだね」

 書き終えた皐がぱらぱらとページをめくる。

 見覚えのある筆跡に目がとまる。

「ちょっといい?」

〈華ちゃん、個展開催おめでとう。とても美しくて華ちゃんらしいなと思いました。帆布のドローイングすごい。どの作品も語りかけてくれているみたいでとても素敵です。ますますのご活躍をお祈り申し上げます。 酒本渚〉

 渚、いつの間に来ていたんだろう。誘っても断られたのに。

 喧嘩、しちゃったからかな。

 さらにその下の行に目が行く。

〈――岸本玖美子〉

 俺の目の前から光が引いていく。

 日付は渚と同じくおとといで、岸本の名前は偶然ではないのかもしれない。いや、偶然でないわけがない。

 信じたくないけれど、二人は一緒にここに来ていた。渚は俺とではなく岸本さんと来ることを選んだ。

 俺と渚の間の溝は確実にできていて、避けていたのは俺の方だと思っていたけれど、渚も俺のことを避けていたのかもしれない。

 しっかりしなきゃ。しっかりしたいけど、つらい。

「零ちゃん先生?」

 皐が俺の顔を覗き込む。

 目が逸らせない。

 彼女の唇が触れて、俺の瞳から雫が彼女に落ちた。

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ひだまりの中で君は手を引く 06

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「零ちゃん先生、飼い犬でも死んだ?」

 皐が椅子の上で膝を抱えている。

 勉強する気がさらさらないのか教科書すら置いていないけれど、俺も家庭教師できる気がしない。

 会えない日の数だけ離れていくような気がする。

 俺の渚への思いが霞んで消えていくようで信じられなくなる。

「犬は死んでないし、飼ってもいないよ」

「ふーん、でも何かは死んでそう」

 それはたぶん俺自身だな。

 俺が渚に会いたいだけで、渚も本当にそう思っていてくれているのだろうか。

 女性と関わることを避けてきた渚も、華さんや滴、そして現場の岸本さんと関わっていけている。渚がこの先女性と付き合う可能性はゼロじゃないんだ。男同士だからいけないとは思わないけれど、それでも劣等感を感じてしまうのも事実で。

 俺が渚を幸せにすることはできないのかな。

「ねえ、零ちゃん先生。男同士ってキモチイイの?」

「そうだねえ」と答えてから、何を聞かれたのか認識した。

 この会話はまずいことくらい分かる。何を言い出すんだ皐は。

 しかし皐は少しばかりのセンチメンタルを抱きしめているようで、おそるおそる訊く。

「したことあるの?」

 うーん、この質問に答えるのは大人としてどうなのだろう。

 皐は恐れるように、しかし興味津々といった具合に目を輝かせていた。

 多分猥談の一種ではなく、もっと真面目なことだろう。性教育も家庭教師の仕事なのかな。

「くわしく話すのは教育上よろしくないから言わないけど、男同士でも触れたい人には触れる。何もおかしいことじゃない」

 おかしくないと言いたいんだ。

 また沈み込む俺に皐はデコピンをした。

「零ちゃん先生ってすぐうじうじするよね」

「うるさい」

 さて、勉強するぞ、と気合いを入れる。

 大切なのは今、目の前にあるもの。

 

「皐に渚と付き合ってること話しちゃった」

 いいんじゃない? と渚はあっけらかんとしていた。

 電話越しに伝わる愛はあるのだろうか。

 声から想像する渚の表情には薄いベールがかけられているようによく見えない。今までもっと見えていたはずなのに。

「渚は俺のこととか誰かに話してる?」

「うーん、留学先では少し話したけど、職場では言ってないよ」

 渚は半年間ニューヨークに留学していた。ゲイであることをカミングアウトして仲間に受け入れられて楽しかったという。人に認めてもらうことの喜びを知った渚は満たされているように見えた。

「職場では言うつもりないかな。あまり関係のないことだし」

 関係のない、かあ。

「聞かれない限りはいいかなって思ってるよ」

 そう、かあ。

「きっと僕はもう満足してるのかも。認めてくれる人がいることを知ったし、大声で言うことでもないなって」

 俺もわざわざ性の話をすることはない。けれど訊かれたら答えるくらいのことはする。渚を守るためなら戦う。

「岸本さんには言わないの?」

 渚は明るく「言えないよー。岸本さんなら分かってくれると思うけど、負担になったら嫌だし。岸本さんに嫌われるのは怖いよ。それにどうであれ僕は僕だから」

 岸本さんに嫌われたくない。岸本さんなら大丈夫。

 無邪気に話す渚に苛立ちが募る。

「人間関係ってきっともっと大切なことがあると思うんだ」

 俺との関係より大切なこと?

「あっ、それでね、岸本さんが僕を今度帝国劇場に連れて行ってくれるんだって。日帰りだけど東京観光してくるよ、おみやげは――」

「よかったね」

 驚くほど冷淡な声が出ていた。

「零、くん?」

 みっともない。みっともないけど、とめられない。

 ねえ、渚は今どんな顔してる?

 俺の顔を見ないでいてくれてよかった。こんな醜い俺、見せられない。

「ごめん、もう寝るね」

 渚の「おやすみ」を待たずして電話を切った。

 サイアクだ。

 

 華さんの個展に皐と向かっていた。気まずさを乗り越えて渚も誘ったが仕事だという。

 電車に乗って、しばらく揺られたら乗り換えて。

 地下鉄の車窓は俺たちを反射させるだけで外の世界を映さない。もっとも、外は固いコンクリートの壁だ。見えない、何も。 

「零ちゃん先生、もしかしてフラれた?」

「そんな縁起でもないこと言わないで」

 あれから渚に電話することが怖くなった。どう謝ったらいいのか分からない。悪いのは百パーセント俺で、ちっぽけな俺の独占欲の暴走だった。

 高校生に車内で慰められる大学生。大人の威厳などありはしない。

 でも俺はまだきっと大人になれていないんだ。

 握り締めた華さんからもらった個展のDMに視線を落とす。写実的な少女の絵が大きく描かれていた。木漏れ日の中で少女が涼んでいる。色とりどりの花と、きらめく湖の水面。ウエーブのかかった少女の髪。

 あまりにも繊細なので本当にあの華さんが描いたのだとは思えなかった。

 失礼か、そんなことを思うのも。

 そういえば華さんの作品を見るのは初めてだ。

 渚の作品を見たこともない。

 知らないことばかりが世界に渦巻いて、俺は取り残された気分になる。

 皐のテストの成績も少しずつ上がり、皐もお姉さんも喜んでいた。夏休みにご褒美として名古屋港にある遊園地へ連れて行った。世間的には年の差カップルにでも見えるのだろうか。男女で一緒に居るだけでカップルと思われるのがこの世界。なんだかやりきれない。俺と渚が一緒に居てカップルだと思ってくれる人がどれだけいるだろうか。

 認めて欲しいと願うのはいけないことだろうか。

「零ちゃん先生のくせに難しいこと考えてそうな顔してる」

 いつもだけど、と付け足した皐もなにやら考え込んでいた。

 膝に触れる彼女の手が冷たくて、寂しさが募るばかりだった。

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ひだまりの中で君は手を引く 05

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 寂しさは募るもので、会えない日々が続くと確実に胸の中に溜まっていく。さらさらと落ちてきて、降り積もって呼吸を浅くさせる。

「零ちゃん先生って好きな人いるの」

 今日は脱がされることもなく期末テストの間違い直しをしている。皐は苦手だと話したが数学は基礎はできている。英語もまずます。国語は苦手ではないらしくそれなり。しかし「まずまず」「それなり」では国公立大学に行けないのも確かで、これからが頑張りどきだなと気合いを入れる。

「いるよ」

 皐が、どんな人? と食いつく。もう五十分も数学と格闘していたからそろそろ休憩にしてもいいだろう。休憩にしなかったところで皐は集中力が切れると何も手に付かなくなるタイプだ。最近やっと分かってきた。

「どんなって、憧れの人かな」

「あこがれ、ね。どこで知り合ったの?」

「高校の部活でだよ。先輩だったんだ」

 ほほー、年上。と皐が探偵のように呻る。

「その人、男の人でしょ」

 どきり、と心臓が跳ねる。けれど隠すつもりもないので肯定した。

「やっぱりね。なんかそんな気がしたんだ。そっかそっか」

 独りごちる皐は腕を組んで頷く。

 何が言いたいのか分からなかったので俺は静かに見守った。

 皐が口を開く。

「ねえ、人を好きになるってどんな感じなの?」

 彼女の目は不安をたたえていた。誤魔化してはいけないのだと悟る。

「どう、って。難しいな」

 俺は言葉を慎重に選んだ。

「その人に笑顔でいてほしい。そのためなら何をしてでも守りたい、が最初かな」

「最初」と皐が繰り返す。

「それが最初なら、今は何なの?」

 今……今か。

「一緒にいることが当たり前。という感じかな」

 ふーん、と皐がうなる。

「男同士でも恋ってするんだね」

「するよ、少なくとも俺たちは。何もおかしくない」

「そっか……でも、自分はおかしいのかもしれない」

 自分のことを何者でもない「自分」と呼んだ皐は、ひどく怯えた顔をしていた。

「皐、大丈夫?」

 皐が顔を上げて、慌てて顔の前で手を振る。

「大丈夫大丈夫。これは自分……わたしの問題だから」

「そっか。俺でよければ話くらいなら聞くから。ね?」

 皐は顔を背けて「零ちゃん先生ここ分かんない」と努めて明るい声でテキストに向かった。

 皐は何かから逃げたいときほど手を動かすタイプらしい。

 無理に聞くこともないか、と俺は彼女の意志を尊重した。

 

 次の週末、渚の家へ行った。

 渚は少々お疲れの様子で、俺は全身のマッサージを施した。マッサージを教えてくれたのは渚の方で、今ではお互いに身体をほぐしあう。気持ちよさそうに伸びる渚を見て満足した。

「零ちゃん先生?」と渚が呼ぶ。

 生徒が先生を呼ぶにしては艶っぽい響きがある。

「なんだ、酒本」

 俺も調子に乗って応えてみる。

 大人の先生ごっこは、いささか危険すぎるな。

 いつもはしないようなことをして、罪悪感に興奮した。

 先生失格だな、と俺が笑うと、渚もそうだね、と肯定した。

 

 しばらくの戯れの後、渚から「明日早いから」と申し訳なさそうに切り出された。

 しょうがない。働いているとはそういうことだ。

 そう言い聞かせても寂しくて。身体に残る彼の余韻を抱きしめた。

 渚が就職してからと言うもの会える日は減っている。大事にしたいのに、何度でもと欲するのはなんてかなしいのだろう。

 一緒にいることが当たり前、なんて言ってしまったのは、それを俺が望んでいるから。つまり叶えられていないから出た言葉だったのかもしれない。

 

「ねえ、零」

 帰宅すると母さんに呼び止められる。

「すこしばかりいいかしら」

 あまりに憂鬱な顔をしていたからかと思ったが、そういうことではなかった。

「零は、結婚とか考えたことある?」

「何、急に。母さん俺たちのこと知ってるでしょ?」

 そうだけど……と母さんが言葉を選ぶ。

「先輩によくしてもらっているみたいだけれど、本気でこのままでいるの? そりゃ私だって大人だからいろんな交際があることくらい分かるけど。あなたも心配だけど、先輩はこのままでいいのかなって、私心配になっちゃって」

 なんだそれ。

 俺は黙って聞いていた。

 言葉が出ない。ただ胸の中で怒りと空しさと不安が渦を巻いて濁ってよどむような心地がした。

 このまま、ずっと一緒に。それは夢なのか。

 夢はいつか醒める。醒めないで。どうか。

「俺は渚のこと守るよ。そう決めたんだ」

 吐き捨てた俺の背中を母さんはただじっと見詰めていた。

 一生好きでいる、なんて難しいのかな。

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