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「渚ちゃんはどうしてるかしらね」
日曜日の昼、家族そろってラーメンを食べていると母さんが急に言い出した。
「ほら、渚ちゃんってひとり暮らしなんでしょう? 今日のお昼もひとりなのかしら」
「さあ……」と俺は首をかしげる。渚が何をしているか。今日は五月の第二日曜日。よく晴れていて寒くも暑くもない。ちなみにアイドルの「現場」とやらも今日はないはずだ。大学の課題、とか?
「おかーさーん! お兄ちゃん、何も分かってない顔してるー!」
「なっ」
滴よ、何が言いたいんだ。相変わらずひどいな。
「お兄ちゃん、お母さんは渚先輩のこと心配してるんだよ?」
「……なんで?」
滴がやれやれ、と大袈裟に頭を抱える。
「バカなお兄ちゃんには教えてやーらない!」
ごちそうさま! と滴が手を合わせてから丼を片づける。何だろう。今日って何かあったっけ。
五月は好きな季節だけれど、第二日曜日だけはどうしても苦しくなる。
「お母さん、ごめんね」
いくら謝ったところでもう帰ってこない。どれだけ酷いことをされたとしても執着してしまう僕の弱さにももう慣れて、ほんの少しのセンチメンタルと一緒に肩を抱きしめた。赤いカーネーションを一輪玄関に飾る。おぞましい記憶が蘇る。
今思えば酷く思い込みの激しい人だった。嫉妬に狂った母が怖かった。僕のことを一切認めようとしなかった。それなのに。
「出てくるのは、ごめん、ばっかりだ」
過去に押しつぶされそうになって息が詰まった。炭酸飲料でも飲もう。ハチミツ漬けのレモンをサイダーで溶かして……
膝にうまく力が入らなくて三和土の上で蹲った。
ダメだな、僕、こんなんで。
華さんから〈死んで詫びろ〉というLINEが届いたのでさすがに何かあると思い始めた。
何を送ったんだ、妹よ。俺は死なないぞ。
〈ヒントくれ〉と滴に送ってみる。
〈ググレカス〉と即レス。ひどい。しかし兄はめげない。
〈検索ワードは?〉
〈五月第二日曜日〉
おまけでチェーンソーで首をはねられるスタンプが届いた。お前これお気に入りだろ。
Googleの検索にかける。トップに出てきた三文字に脳を殴られる。冷たいものが背筋を流れ落ちるのを感じた。
しばらくじっとしていたら脚の感覚がなくなって、それでもなんとかよろよろと立ち上がってリビングに戻った。
零くんは何をしているだろうか。部活は休みだったはず。それに今日みたいな日……うん。零くんはお母さんのこと大事にしてる。僕なんかと違って。
ぐるぐると「僕なんか」「僕なんか」という言葉が幾度となく降ってくる。ソファに体を預けて息を吐く。今日ばかりはしょうがないけれど、やっぱりしんどいことを思い出すには十分で、どう向き合ったらいいのか未だに分からないでいる。
スマートフォンを手に取る。ファンクラブ会員向けのメールが二件とツイッターのおすすめが一件。華ちゃんからのLINEに返事をする。何も変わらない日常。変われない僕と、変わらない。変わらない。
「はあ、ホント僕ダメだ」
変わりたい。けれど過去は変わらない。堂々巡りの思考。スリープにした真っ暗な画面が僕を写す。泣いてなんか、ないよ。
さて、これはどうするべきか。いや、考え過ぎかもしれない。渚には確かに母がいない。それも最悪の形で別れている。だからって何か……あるような気がしてならない。でも俺に何ができる?
「母の日、ねえ」
母さんと滴は仲良く買い物へ行った。今夜は手巻き寿司にするから早くお刺身を買いに行くのだという。
渚は料理が好きだ。だけど母から習ったわけでもなく、全部独学で――渚は「家に家族がいないから」と表現した。
そっか、なるほどね。
「で、あのクソ男はこんな弱ったナギちゃんを放っておいてるわけだ。死んで詫びろ」
まあまあ、と家におやつを食べに来た華ちゃんを窘める。
「いいんだよ、これは僕個人の問題だし。こんな弱ってるところ、見せられないよ」
「それ、本気で言ってる?」と華ちゃんが眉を釣り上げる。
「ナギちゃんにとって一番甘えたい相手なんじゃないの? 辛いときに一緒にいられなくて何が彼氏だよ。脳天かち割ってこようか?」
華ちゃんはビスケットを2つに割って口に放り込む。
「いいの……僕が、勇気出ないだけだから」
華ちゃんが僕の髪をグシャグシャと撫でる。
「ナギちゃんは何にも悪くないからね」
「ありがと、華ちゃん」
礼を言いたければビスケットおかわり! と華ちゃんが空になった皿を差し出す。全く、敵わないな。
華さんや滴にはいつもけちょんけちょんに言われるわけだが、その理由は俺の行動力のなさが原因なんじゃないかってことは薄々分かり始めていた。
でも……俺に何ができる?
渚が何を求めているのか分からない。今何をしているのかも。
それって、恋人としてどうなんだ? 渚のこと、ちゃんと分かって――。
「あーもう」
考えているだけじゃダメだ。でも、なんて、なんて言えば。
結局俺はたった一言〈大丈夫?〉と送った。語彙力がこい。
零くんのLINEはいつも短い。
華ちゃんや滴ちゃんが長いだけかもしれないけれどいつも簡潔であっさりしてる。
「で、ナギちゃんはどう返事するの?」
「どう……って、大丈夫としか答えようがないよ」
「ふーん、嘘付くんだ」
華ちゃんははちみつレモンサイダーを飲む。
「嘘、なのかなあ」
「ナギちゃんもナギちゃんだよ。あのクソ男に百パーの気遣いを求めるほうが無理ある」
うっ……確かに零くんは不器用なところもあるけど、けどいつだって真っ直ぐだから。それに変わりたいのは僕の方だ。
渚から〈大丈夫じゃない〉と返信があった。もちろんこんなLINEをもらったことなんてない。慌てて電話をかける。
「零くん?」
「何かあった? どこにいる? 俺、その、ええと――」
スピーカーからコロコロと笑う声が聞こえる。えっ?
「零くん慌て過ぎだよ。その、なんかちょっと、しんどいなぁって思ったから。ダメ?」
「ダメ、じゃない」
俺の声が尻すぼみになる。
「たまには零くんに甘えたいなぁ、って。ね?」
「う、うん。ありがと。俺に何ができる?」
「そうだなあ。たとえば――」
「あらあら渚ちゃんいらっしゃい」
母さんの余所行き声に俺と父さんが苦笑する。
「お邪魔します。これ、つまらないものですが」
母さんは「そんな、わざわざいいのにー」とか言いながら嬉しそうに受け取る。
渚と俺の家族と一緒の食卓。
海苔に酢飯と刺し身と愛情を巻いて。
これで、いいのかな。俺はいつだって無力で、子供で、情けなくて。
俺の膝に渚の温かい手が触れる。
「零くんのお母さん」
渚が言う。
「母の日、おめでとうございます」
「あらま、そんなの零にも言われなかったわ。ありがとうね」
――あなたも私の自慢の息子よ。
俺の目頭が熱くなる。渚の手に俺の手をそっと重ねた。
「はい、お母さん」
零くんのお母さんは僕らのことを受け止めてくれる。だからって認めようとしなかった僕のお母さんのことを責めるつもりはない。もう仕方がない、としか言えない。過去は過去で変わらずに海馬の中に横たわっている。
「零くんの家に泊まるの初めてだね」
「なんだかんだ、そうだね」
零くんの匂いだー、と渚がシーツに潜り込む。小さな体を抱きしめる。大切に、大切に、壊さないように。
「僕、頑張ったでしょ」
「えらい」
「手巻き寿司って大人数じゃないと食べられないから嬉しかったな」
「いっぱい食べたね」
「零くんのお母さんは素敵な人だね。僕のこと、こんな、僕のこと」
渚が黙る。泣いているのかと思ったけれど、渚は俺の胸に隠れたままで。
「渚のこと、俺は大事にしたいよ」
鼻腔音で返事される。
「家族に、なろう」
今度は潤んだような声だった。
小さな体に、たくさんの悲しみと、溢れんばかりの華やかさ。
「零くん、ありがとう」
「こちらこそ」
ちっぽけな勇気と、たくさんの愛を。
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