オリジナル小説サイト「渇き」

恋愛小説、純文学、エッセイを扱った小説家・佐倉愛斗オリジナルサイト

ひだまりの中で君は手を引く 04

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 次の週の水曜日。梅雨入りして最初の中休み。俺は家庭教師一日目を迎えた。

 華さんに送ってもらった住所を地図アプリに入力すると自宅から徒歩で十分ほどのところの一軒家だった。意外とご近所さんだ。

 洋風とも和風とも言えない現代日本らしい一軒家。タイルの貼られた壁は汚れがつかないのか築年数の予想ができない。きっとそこまで古くはないのかな、くらいの印象だった。

 深呼吸をして緊張する肩を少しほぐす。意を決してインターフォンを押すと「はーい」と小柄な子が出てきた。ゆったりとしたサルエルパンツに半袖のパーカー。髪は短くてつんつんと立っていた。男の子? いや、妹と言っていたから――。

「お兄さん、カテキョの人?」

 あ、声は女の子だ。

 取り直して挨拶をする。

「そうです。家庭教師をすることになりました相原零です。今日からよろしくお願いします」

 軽く頭を下げると彼女はクスクスと笑っていた。

「華姉ちゃんから聞いてたけど固いですね、お兄さん」

 んー、とつま先から脳天まで彼女が見る。チノパンにTシャツにカットソー生地のジャケット。変な格好はしていないつもりだ。

「うん、合格。いいよ、入ってください」

 何の試験だったのだろう。言われるがままに靴を脱いで上がる。誰のものでもない他人の家の匂いがした。

 こっちこっち、と彼女は俺の袖を掴んで引く。階段を上がって右手の部屋に案内された。

 部屋の中には学習机と黒い木枠のシングルベッド、そして入って左手の壁一面が全て本棚で、中身は漫画ばかりだった。

「早速だけど、脱いでください」

「……はい?」

「いいから。脱いでください。そのために呼んだんだから」

 えーっと、何をしろと?

「ごめん、悪いけど俺にそういうつもりは」

「……何言ってるんですか」

 あれ、なんかものすごく冷ややかな目で見られているのですが。

「お兄さん、もしかして馬鹿だったりする?」

 どうして俺の周りの女の子たちは皆辛辣なのだろう。

「服を脱いでそこに座って。時間が惜しいから」

「えーと、その前に自己紹介しない? 君の名前も知らないし」

 とりあえずこの状況から逃げたくて提案する。

 彼女は諦めて溜息を吐く。

「お名前、教えてもらってもいい?」

「西野皐(にしのさつき)」

「皐ちゃんね」

 彼女は首を横に振る。

「ちゃん、は嫌だ。皐でいいです」

 俺は初対面の女の子を呼び捨てにする度胸はなかった。が、彼女が彼女じゃないような気がして受け入れる。

「じゃあ、皐で。俺は相原零ね。好きに呼んでいいよ」

 彼女は腕を組んでしばし考える。迷っているようにも見えた。

「……零ちゃん先生、でいいですか?」

 俺にはちゃん付けなんだ、と苦笑する。しかし「先生」という響きが新鮮で優越感を得る。せんせい。うん、悪くない。

「いいよ。よろしくね」

 皐はよろしく、と頬を染めた。

「それで、俺は何を教えたらいい? 皐は何が苦手とか教えてもらっていい?」

 俺が「さつき」と呼ぶと彼女は小さく緊張した。呼ばれ馴れていないのだろうか。初対面なのだから当たり前か。

「英語と数学がダメ。あと化学も」

「そっかあ。少しずつやっていこうか」

 と言っても、家庭教師は初めてなので勝手など分からない。

「零ちゃん先生、あの、笑わないで聞いてくれる?」

「なに?」と返す。

 皐が俺に近づき、触れる。上腕、胸、喉。

「勉強なんかより、零ちゃん先生に興味があるの」

 ……はい?

 

 スピーカーにしたスマートフォンからクスクスと笑う声がする。

「笑い事じゃないってなぎさー」

「だって、零くんタジタジなんだもん。華ちゃんも教えてくれないなんて意地悪だなあ」

 まさかこんなバイトだとは思わなかった。

 あの後、結局下半身だけは死守して上裸で皐の部屋にいた。

 そして案の定、皐のお姉さんに見られて俺は大変恥ずかしい思いをした。

 お姉さんがが事情を知っていたことだけが救いかもしれないが――笑いながら写真を撮られて華さんに送られたが――あのときは本当に社会的に死んだかと思った。

「それで、皐さんはどんな漫画を描いているの?」

 皐は漫画家志望の子だった。大学受験をするためというのは方便で、実際はデッサンモデルを雇いたかった、というのが事の顛末だった。

「筋骨隆々の男たちが肉弾戦したあとラブする漫画」

 へー面白そう、と渚が言う。

「なかなかにハードな絵でカッコいいよ。力強いというか、いかついというか」

「是非読みたいな」

「いつか本になるさ」

 応援しなきゃ、と渚が言う。応援したい。したいけど、だからってなんで俺がモデルをしなきゃいけないのか。

「モデルって大変なんだな。少しでも動くとめちゃくちゃ嫌な顔される」

「ぷるぷるしてる零くんが目に浮かぶよ。零くんいい身体してるからぴったりじゃん。背も高いし、筋肉もあるし。僕にもデッサンモデルしてよ」

 えー、と俺は嫌がってみせる。嫌ではないけれど、脱いだ状態で動かずに渚の前にいられる自信がなかった、というのが本音だ。

「ふふ、冗談冗談。そうだ、次の舞台でまた背景描かせてもらうんだ。海の絵だよ。設計も少しやらせてもらってる」

「おー、渚の絵、見てみたいな」

「いつか舞台見に来てね。一生懸命やるから」

 それでごめんなんだけど、と渚が付け加える。

「明日、朝一で打ち合わせがあるからそろそろ寝なきゃいけなくて、ごめんね」

 頑張っているなあ。と俺は快諾する。

「いいよ、明日頑張ってね」

 おやすみなさいの後の静寂がひどく寂しく思えた。

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ひだまりの中で君は手を引く 03

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「へー、零くんが家庭教師」

 華さんに頼まれて、と話すと、それなら安心だね、と返ってきた。

「零くんなら優しいし面倒見がいいからきっと大丈夫だよ」

 渚の励ましが何よりの力だ。

「俺なんかでいいのかな、って思ったけど、やってみるよ。何か始めたくて」

「うんうん。大丈夫大丈夫」

 電話の向こうのあたたかさを感じて頬が緩む。

 今までバイトというものをしないで生きてきた。滴は彼女の趣味が故に買い物が多いので高校生の時からバイトをしていたけれど、特に趣味もない俺は必要性がなくてしてこなかった。渚に憧れて入ったバスケ部になんだかんだ打ち込んでいたから時間もなかった。滴の方が大人だな、と引け目に感じていたところもある。それに、

「俺、この先何になるんだろう」

 あの後、デザートのメロンサンデーを食べる華さんに問われて答えられなかった。

「あんた、夢とかないんだね」と彼女は寂しそうに呟いた。

 将来何をしたいか。小学生の時は無邪気にパイロットとか野球選手とか答えておけば微笑ましいエピソードになるけど、二十歳を過ぎた俺はもうそんなふんわりとした夢を語ることはできない。「大人」という存在が目の前に迫っている。大学を卒業して、これからどう生きていくのだろう。渚は夢を掴んだ。滴もいつ決めたのか分からないけれど歯科衛生士になると言って専門学校へ進学した。明確なビジョンを持たないのは俺だけなのか。

「そうだね……職業としての夢って難しいと思う。けど、きっと零くんは零くんだよ」

 ――僕の大好きな零くんだもの。

 祈るように渚がつぶやく。

 きっと俺がどんな大人になろうと、渚のことを愛する気持ちは変わらないのだろう。

 胸の内に暖かいものが流れ込む。大丈夫、大丈夫と撫でられているよう。

「明日、オフなんだけど、家に来ませんか?」

 いじらしい声。大好きだ。

「うん、もちろん」

 

 今日は大学も休みで、大学生になってからも続けていたバスケサークルの練習も休み。渚と俺の出会いは俺が高校一年のとき、部活動紹介で華麗にシュートを決めた渚に俺が一目惚れしたのがきっかけだった。憧れだけでバスケ部に入り、そして今も続けている。渚がいなければ俺はバスケットボールを始めることもなかったのかな。

「ふふ、零くんだ」

 彼の部屋で優しく抱きしめる。渚の背は俺の肩ほどまでしかなくて、抱きしめるとすっぽり収まる。こんな小さな身体に、あふれんばかりの華やかさ。甘いシトラスの香りが鼻腔いっぱいに広がる。

「なぎさ」

 なあに、と微笑む。瞳は熱く潤んでいて目をそらすことができない。

「零くん怖い顔してるよ」

 男が好きな人を抱きしめてする怖い顔は、あなたを食べてしまいたいという意志の表れだ。

「俺が渚に怖いことしたことないでしょ?」

 そうだね、と引き寄せられる。唇が重なる。彼のどこを食べても甘美な味しかしない。

 口付けは次第に深くなる。体温が上がる。初夏のこの部屋にはまだエアコンはつけられていない。じんわりと汗がにじんだ。

 どれだけ年月を重ねても好きで居られる。どんなに尊いことだろう。

 彼のTシャツの中に手を滑らせる。渚は少し身体を緊張させる。きめ細やかな肌は汗ばんでいて、てのひらに吸い付く。

「続き、していい?」

 渚が頷く。Tシャツを脱がせて、首筋にキスをする。ふあ、と渚が声を漏らす。産毛が立ち上がる。俺が触れていないところなどないというくらいこの行為を重ねてきた。やさしく、やさしくしたいのに、どうして俺の中には凶暴な獣が住んでいるのだろう。

 渚をベッドに横たえる。首、肩、鎖骨、と口付けを落とす。彼に覆い被さる俺は肉を貪り食う獣そのものかもしれない。

 肉だけじゃなく、愛が欲しい。

 渚が膝を立てる。俺の充実した中心に触れる。与えられた刺激に俺は身体を震わせる。

「れいくん」

 彼の目もまた妖艶な凶暴さをたたえていた。俺を欲する彼と、彼を欲する俺。はっきりと聞こえる吐息と、確かに触れる熱。電話だけじゃさみしかった。さみしくないけれど、さみしかった。

 

 男の性行為は終わりがはっきりとしている。

 コンドームを縛ってゴミ箱に投げ入れて、腹についた渚のものを拭き取って終わり。

 けれど事後のまどろみだけはいつまでも続いているようだった。

「ふう、零くん補給した」

 汗で前髪が貼り付いた渚はとろんとした瞳をしていた。おでこを拭いてやるとこそばゆいと彼は言う。

 渚は小柄で華奢だけれど筋肉はしっかりとあって、ゆるんだ筋肉はふにふにと男のやわらかさがあった。いつまでも抱きしめていられる。彼の手が俺の胸に添えられる。俺は彼の手を掴んで手のひらにキスをした。

「好きだなあ」

 漏らすように呟いていた。

「ふふ、僕もだよ」

 自然と唇が重なる。

「泊まっていってもいい?」

「もちろん」

 ご飯の前にお風呂入ろっか、と彼は提案した。

 二人で入る風呂はちょっと狭くてとても気持ちよかった。

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005/神さまをしんじてた

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 神さまという概念を知る前から、僕は神さまを知っていたのかもしれない。
 もっとも、僕が通っていた幼稚園は聖書の読み聞かせとクリスマスにページェントと呼ばれるキリストの誕生を演じる劇をするようなところだから、神さまという言葉は物心ついたときには知っていた。
 神さまじゃないと気づいたとき、深い深い絶望に苛まれた。悲しみより怒りが強かった。だから僕は神さまだった人に怒鳴りつけて、酷いときには手を上げた。
 母は、神さまじゃなかった。
 何も言わなくても僕のことをわかってくれて、いつでも守ってくれて、絶対的な味方で、完璧だった。
 だから、だからこそ、母が人間だとわかったとき、恐ろしくてたまらなかった。誰が僕を守ってくれるのだろう、と。
 母を人間だと知ることを、人は自立と呼び、その始まりの動揺を反抗期と呼ぶのではないだろうか。
 今は人間の母だけれど、だからこそまだ距離感がつかめなくて、ほんの少しぎこちない。
 反抗期が終わるのはいつなのか、この戸惑いは大きい。
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004/人間関係の名前

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「親友はいますか?」と面と向かって聞かれたのは、僕が発達障害の検査をしている段階でのことだった。
 僕ははっきりと「いない」と答えた。「友達は多いんですけどね」とはにかんで。
 友達と親友の何が違うのかは言語化することが難しいけれど確かに違う。
 友達はたくさんいて、ご飯を食べる友達、服を一緒に買う友達、泊まりで飲み明かす友達、よくわからない生態の友達。たくさん、たくさんいる。その誰かを選ぶというよりは、選び取った人間関係の中で心地よくたゆたっているような感覚だ。
 では親友はどうなのか。
 僕の時代では「ニコイチ」という言い方をされていた。いつも二人で一緒にいて、なにがあってもお互いが優先で、隠し事はなくて、悩みごとは一番に相談して、洋服や雑貨のおそろいをして、二人で撮ったプリクラをSNSのアイコンにする。
 いささか僕の過大評価もあるのかもしれないが、親友ってなんだかそんなイメージだ。だからこそ僕には親友は必要なくて、大勢の大切な友人たちとそれなりの浅さで付き合えたらいいのかな、などと思う。誤解を招きたくないが、友人たちとの関係を軽んじているわけではなく、心の中心すべてまで見せて何事も相手中心になれる関係は望んでいないよ、という話だ。
 
 僕にもそんな“親友”のような女の子ができたことがある。
 けれどいつしかキスをして、「好きだよ」と言って、セックスをした。
 僕が親友というものに思い描いていたものは、どうやら“恋人”と呼ばれる関係なのかもしれない。
 
 親友ってなんだろうと思ったエピソードを最後に紹介しよう。
 僕には中学生の時、3年間ずっと一緒にいた同級生がいた。同じ部活で張り合って、二人だけが居残りをして練習することもあったし、3年生のときには見事、僕とソイツの2人だけが県合同バンドのメンバーに市内から選抜された。
 アホなこともしたし、喧嘩もしたし、いつもいつも一緒にいて。
 でもソイツが何を考えているかなんて全くわからなかったし、恋人と経験したような心の開示、深い話をすることもなかった。
 周囲には付き合っていると思われていた。けれど実際はお互いのセクシャリティをもってすると交際することは不可能で、恋愛じゃない一緒に要られる関係ってこんな感じなのかなと思う。
 ニコイチのようなあからさまな仲のよさはなかったけれど。だから親友とは呼びづらくて。
 
 成人式でソイツと再会したとき、こんなことを言われた。
「愛斗がいたから中学でも高校でもあれだけ部活頑張れたんだ。ライバルだと思ってた」
 ソイツは「感謝してんだよ?」と照れ隠しに慣れないビールを煽った。
 
 ライバルって、また新たな名前だな、と人の数だけある関係性に名前をつける苦労に、僕は苦笑した。
 
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ひだまりの中で君は手を引く 02

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「もしもし、零くん?」

 五月は渚に似合う季節だ。ゴールデンウィークに初めて舞台の背景画を描かせてもらったのだと渚は嬉しそうに俺に報告した。

 俺たちは会えない日は電話をすることにしていた。無料で電話し放題なアプリが配信される時代でよかったと思う。電話の向こうでカリカリとシャープペンシルを走らせる音がする。次回の舞台の図面を書いているのだと俺は知っていた。

「へえー。どんな舞台だったの?」

「シェイクスピアの『オセロー』だよ。零くん観たことある?」

「ないなあ。どんな話?」

「簡単に言うと、将軍のオセローが部下に恨まれて、騙されて奥さんを殺しちゃう話」

 なかなかに物騒だね、と俺が漏らすと、渚も同意した。

「ボードゲームのオセロってあるでしょ? あれの語源なんだって岸本さんが言ってた」

 岸本さんとは渚が所属している美術班のリーダーなのだと俺は聞いている。話を聞く限り女性らしい。かつては女性に少しばかりの苦手意識のあった渚にとって女性の上司というのはどうなのだろうと心配したこともあったが、すっかり渚は岸本さんに尊敬の意を抱いているようだ。うまくいっているようで安心した。

「岸本さんって物知りなんだね」

「この道うん十年のベテランさんだからね。年齢がバレるからって教えてはくれないけど」

 渚のいたずらっぽい笑みが聞こえる。どんな顔しているのか手に取るように分かることが恥ずかしい。

「厳しい人だけどちゃんと僕のことを指導してくれて、いつも的確なんだ。最初は緊張したけど、ちゃんと僕のこと見ててくれるんだなって感じる」

 渚の声が明るい。新しい環境に不安もあったが、楽しそうな渚の声が何よりの安心だった。

「零くんタイピングしてる?」と電話越しに聞かれる。

「ああ、うん。明日までのレポートがあって」

 渚はそっか、と呟く。

「じゃあ、僕も仕事しよっかな」

 眠るまで繋いだままね。

 スマートフォンの向こう。俺たちは繋がっている。微かに聞こえる吐息と、聞こえるはずのない鼓動を感じて。

 

 翌朝、華さんから〈面貸せ〉という物騒なLINEを確認して頬が引きつった。

 何か渚が困るようなことをしているだろうか。身に覚えのないときほど怖い。怯えすぎだろうか。華さんは渚の保護者的ポジションだ。いや、姑かもしれない。とにかく渚に対して過保護である。

 俺は〈どこに何時ですか?〉と渋々返信をする。

 授業後に駅前のファミレスを指定されたので、了解の意を伝えるスタンプを送った。

 いささかの緊張を持って向かうと、すでに華さんは一人でミートソースパスタを食べていた。彼女は「バイト前の腹ごしらえね」と言い訳をした。

「それで、俺は今度は何をやらかしましたか」

 華さんが愉快そうに笑う。

「あんたがクソ男なのはいつものことだから」

「はいはい。悪かったですね」

 まあまあ、と華さんがメニューを差し出す。

「あたしのおごりだから好きなの食べな」といつもなら言わないことを言う。一体なんなのだろう。怪しさしかない。戸惑っていると「遠慮するな」と半ば脅されたので期間限定の桃のミルクレープとホットコーヒーのセットを注文した。

「さて、本題なんだけど、あんたバイトしない?」

「バイト、ですか?」

「あたしの友達の妹があたしんとこの大学の受験をするんだけど、家庭教師探してるんだって。あんた頭はよくないけど一応大学生だし、ナギちゃんにぞっこんだから変なことも心配いらないじゃん? って話」

「は、はあ」

 余計なことをいくつか言われた気がする。

「それに向こうが男の家庭教師がいいって言うからさ。あんたなら適任でしょ?」

「まあ、そうだといいんですけど」

「バイト代ははずむしさ、ナギちゃんをたまには旅行にでも連れてってやんなよ」

 渚と旅行。うん、それは悪くない。温泉旅館とかいいな。いつも美味しいご飯を作ってもらってばかりだし、たまには何もしなくても美味しいご飯が出てくるのも労りになるだろう。あとは旅館の一室で……なんでもない。

 華さんが悪い顔をしていたので緩んだ頬を引き締めた。

 ミルクレープとホットコーヒーが運ばれてくる。

「悪い話ではないでしょ?」

「そうですね」とミルクレープにフォークを当てると、華さんが言う。

「あたしのおごりでケーキを食べた瞬間に契約成立だから」

 手が止まる。バイト、できるのかな、俺は。

 何事も経験だ。スタートラインに立った渚の背中ばかり見ていたけれど、俺だってきっと何かになれる。何になれるのか分からないまま生きているけれど、今はそんな重要な選択でもない。

 クレープの層がフォークで切り裂かれていく。感触が心地よい。

「じゃあ、いただきます」

 甘いな。ケーキの桃の話だけど。

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ひだまりの中で君は手を引く 01

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「渚先輩、就職おめでとうございます」

 掲げた四つのグラスが軽やかな音を立て、中で金色のシャンパンが揺れた。俺たちは少しずつ、少しずつ大人になってゆく。

 渚の手料理を囲む四人のパーティー。変わらない関係。

 俺、相原零と酒本渚が恋人同士になってから四回目の春がやってきた。

「いやあ、ナギちゃんが就職するなんて、早いねえ」

「華ちゃん、親戚のおばさんみたい」

 あながち間違いではないな、と俺と滴が笑う。

 渚の親友である扇田華さんは酔っ払っているのか俺の妹、相原滴の肩に鼻を当てて甘えている。華さんはここ数年伸ばしている髪を低い位置でひとつにまとめている。遠目に見ると滴の首に尾の長い小動物が乗っているように見える。黒いふさふさとしたまるっこいやつ。

 この中で滴だけは未成年なのでアップルジュースを飲んでいる。しかし場の雰囲気に酔っているのだろうか。華さんを甘やかすように髪を弄んでいる。しっぽをくるくると指に巻き付けるように。

 この二人もすっかり仲良くなったな、なんて思う。華さんはかつて滴のことを恋愛対象として好いていたけれど、結局どうなったのだろう。まあいいか、仲よさそうだし。関係性に名前を付けることだけが正解ではない。

「華ちゃんはまだ大学に残るんだよね」

 渚の言葉に俺は「え、華さん大学ダブったんですか?」と疑問を口にする。

 うるさいモサ男、と華さんが猫目がちな瞳で睨む。

「あたしにはあたしのやりたいことがあるんだい」

 華さんはグラスを煽って無駄に堂々と宣言する。

 渚と華さんは県立の美術大学に通っていた。華さんは一年浪人していたので渚より一つ年上で、その上大学をまだ卒業しない。世間とずれることは怖くないのだろうか。

「あたしにはあたしの夢があんのよ。今に見てな?」

 華さんが高らかに宣言する。夢、ねえ。

「渚は夢、叶えたの?」

 なんだか恥ずかしいなあ、なんて彼は微笑む。やわらかく持ち上がった頬は上気して、大きな瞳は細められる。あ、かわいいな。すっかり見とれていたことを滴と華さんに笑われた。

「夢、叶えたよ。まだスタートラインだけど」

 渚の夢。舞台美術の仕事に就くことが彼の夢だった。

 渚はステージというものに憧れていた。俺と渚が再会したのもナゴヤドームでのコンサート。夢を与えてくれる人たちを輝かせることが夢なのだと語った。

 そして今春、渚は地元の舞台美術班の一員となった。

 スタートライン。春は皆、スタートラインに立つ季節なのかもしれない。

「にしても、あんたたちよく長続きしてるよね」

 華さんが悪態をつく。

「渚先輩、本当にお兄ちゃんなんかでいの?」

 便乗する滴に「なんかって何だよ」と俺は苦笑する。

「まあまあ、そんなこと言わずに」と渚がなだめる。

「僕が一緒に居たいのは零くんだよ。もちろん、滴ちゃんや華ちゃんとも一緒に居たい。いつもありがとう」

 ガールズが「なぎさしぇんぱぁい」とふざける。華さんまで先輩呼びなんだ。

 俺たちの新生活が始まる。ひだまりの中で君は俺の前を歩き続けていた。

 

「片付け手伝ってもらっちゃってありがとうね、零くん」

 いつも通り華さんに滴を送ってもらい、俺は渚と並んでパーティーの後片付けをしていた。二人で並ぶと身長差は十五センチ。見下ろすと明るい髪がうずまくつむじが見える。愛おしいな。小さな渚はいつまでも大きな先輩だった。

 二人で並ぶキッチンにはゆとりがあって、渚の住むマンションの広さを物語っていた。渚の両親が――母とは最悪の形で生き別れたが――残してくれた家である。

「俺が好きで残ってるからいいの。それに」

 渚の耳を食むと、彼はこらえたような鼻腔音を漏らす。

「ここからは俺が独り占めできる時間だし」

 零くんのえっち、と呟いた渚の耳は噛み痕ではなく赤かった。

「零くんは大学どう?」

 ん-、と俺は考える。可も無く不可も無く、代わり映えのない日常だった。この春から三年生になる。一般教養科目は終わり専門的な科目が増えてきた。そろそろ俺の就職も考えなくてはいけない。就活を考えると気が重い。俺は何になるのだろう。

「なんていうか、あっという間だなって。だってあのときは俺、まだ高二だよ?」

「そんなこと言ったら僕も大学一年だったよ」

 ふと、渚が皿を拭く手を止めてこちらに向き直る。

「あのとき、出会ってくれてありがとう。零くん」

 彼の笑顔が俺の中を走り、肌の産毛が立つのが分かった。

 渚は傷付いた男の子だった。両親を失い、一時の恋心を寄せた大人にも見放され。そんな彼を助けたくて、側に居たいと思った。そして思いは滴と一緒であった。滴も俺も渚のことが好き。兄妹で一人の男の子を奪い合うことになった。でも今はこうやって俺と渚と滴と、そして渚の親友の華さんも一緒に四人で笑っていられる。とても尊い事実だった。変わりたくない関係性。心地よい、俺たちの居場所。

 俺は渚を抱き寄せ、柔らかい癖毛に鼻をうずめた。シトラスの甘い香り。

「愛してるよ、渚」

「うん、知ってる」

 この言葉のどれほどが尊くて、失ってはならないものなのか、ちゃんと俺は分かっていただろうか。愛とは何か、俺は知っているか?

 言葉の意味を理解することは、人生において最も大切なことなのかもしれない。

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青嵐吹くときに君は微笑む 宝物いっぱい

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「渚、誕生日おめでとう」

 8月6日、午前0時ぴったりにこの言葉を聞くようになって2年目になった。

 電話の主は、相原零くん。僕の大好きな恋人だ。男同士で付き合っていることはまだまだ隠れざるを得ないご時世だけれど、彼のことを好きだという気持ちを誤魔化すことなんかしない。その点、アメリカでは割とオープンだったな、なんて思い出してみる。

 

 僕がアメリカのニューヨークへ飛んだのは、僕が20歳になってすぐの9月のことだった。コンサートやテレビ番組の舞台装置の勉強のため歌劇団STAR SPECTACLEの美術スタッフとして働きながらニューヨーク市内にあるパーソンズ美術大学に半年間留学したのだ。

 はじめは慣れないことばかりだった。日本で買った観光ガイドと英会話例文集を片手にニューヨークを彷徨い歩いたことを思い出す。地下鉄の乗り方すら分からなくて、身振り手振りと拙い英語で駅員さんに尋ねたものだ。

 劇団では緊張しっぱなしだったな。今ではティムやアンディとあだ名で呼ぶ友人たちにもいつも堅苦しく話していた気がする。LBさんに至っては目が合っただけで背筋を凍らせたものだ。

 ティムといえば、彼を初めて僕の住んでいたアパートに招いたとき、僕はカミングアウトしたんだった。

「いつも作業の休憩時間に嬉しそうにスマホ触っているけど、ナギサ、彼女いるのか?」と冗談半分に訊かれて、つい「ガールフレンドじゃなくてボーイフレンドですよ」なんて答えてしまったんだ。

 ニューヨークは世界最大規模のゲイパレードが行われえる街だと頭の片隅にあったのもあったが、僕は自分の殻を破ってみたかった。隠さないで、ありのままで、好きな人のことを好きと話してみたかった。男性が好き故に自己肯定できなかった忌々しい記憶が甦る。

 ティムが「そっか」とたった一言答えるまでの長い一瞬、心臓が早鐘を打った。喉まで痛かったのを覚えている。その一言と屈託のない笑顔で僕がどれだけ救われたか、ティムは知っているだろうか。

 その後、僕は周囲に零くんのことをぽつりぽつりと話すようになった。劇団の人たちが優しい顔をして聞いてくれるから、僕は嬉しくてたまらなかった。「リア充爆発しろ」なんて言われたこともあったっけ。

 楽しかった。僕を僕でいさせてくれてありがとう。みんな出会ってくれてありがとう。

 アンディさんに言われた「誕生日ありがとう」という言葉を胸に僕は眠った。

 

 数日後、いくつか届いた小包を零くんと開けてみることにした。

「えーっと、これはLBさんとアンディさんだね」

 両手で抱えるほどの大きさの段ボール箱には2人の名前が書かれていた。

「アンディさんってテレビ電話中もカメラ回している人?」

「そうだよ」

 ニューヨークにいたときにみんなで零くんとテレビ電話をしたのだが、そのときもアンディさんがカメラを回していたことを思い出してふふっと笑う。

 ガムテープで補強された箱をなんとか開けると「キャー」と僕は声を上げた。

「アマタ! アマタのぬいぐるみだ!」

「おお、すげぇな。柄まで一緒だ」

 ぴょんぴょん跳ねて喜ぶ僕の頭を零くんが撫でて落ち着かせる。先日、アンディさんに言われた通りの反応をしてしまったことに気付いて頬を赤く染めた。ということは、うさぎのぬいぐるみはアンディさんからだ。ニューヨークでは売っているところを見たことが無かったから、アンディさんにどのお店で買ったのかを後で訊いてみよう。

 箱の中には他にはカナダ産のメイプルシロップの瓶詰めが入っていた。これはお料理に使おう。まずはシンプルにホットケーキかな? 紅茶にも入れてみよう。

「他には何か入ってる?」

 零くんと一緒に箱の中の梱包材を取り除いて宝探しをする。掴んだものは手のひらサイズの箱だった。

「えっと……」

 箱に書かれた文字を読むと、僕は顔を真っ赤にして段ボール箱に戻し蓋を閉じた。

「渚、どうかした?」

「ナンデモナイデスヨ」

「目がぐるぐるしてるよ? 大丈夫?」

「ダダダ、ダイジョウブデス」

 いくら零くんとのことをオープンにしていたからってこれは恥ずかしいですよLBさん……ありがたく後で使わせていただきます。何、ツイストタイプって。

 

「あとはバリーさんからDVDだね。えーっと……スタスペガールズファイブ?」

「なんだよ、その女児向け戦隊アニメみたいなタイトル」

 零くんが苦笑しているが、とりあえずデッキにかけてみる。

 明るいテンポのいかにも「あいどる」な曲に合わせて登場したのは陽咲、アネシュカ、エミリア、リーゼル、カトリの5人。このフリフリのミニスカートに膝上の靴下は誰のセンスなのだろうか。まさかLBさん……というか、舞台装置まで本格的でびっくりする。音響はノエルさん、照明はルシャさんなのだろう。半年間で感じた彼らの癖をところどころ感じる。

「渚、渚が居たのってミュージカル劇団だよね?」

「こういう演目じゃないのかな」

 バリーさんからの手紙にはスタスペのメンバーで即席アイドルを結成してみたと書いてある。ということは、つまり僕のために企画してくれたということだ。いつも奇想天外な発想で楽しませてくれるバリーさんらしいと口元が緩んだ。

「ふふ、懐かしいなぁ……」

 画面の中で個性豊かに踊る彼女たちを見て呟いた。彼女たちだけではない。衣装も音楽も照明も舞台装置も脚本も、全て仲間が作り上げたものだ。

 オフショットコーナーでのメッセージをひとつひとつ僕は日本語に訳して零くんと見ていた。ひとつひとつ言葉にするたびに思いが零れて涙となる。また一緒に舞台を作りたい。僕を成長させてくれた仲間にありがとうを伝えたい。たくさんの思い出をくれた彼らのことが好きだ。

 ぽろぽろと涙を零す僕の背中を零くんが抱きしめてくれた。

 

 僕の誕生日がこんなに晴れやかなものになって2年目。

 19の誕生日は悲しみと孤独の中に居た。

 20の誕生日は愛する人と離れる不安に泣いた。

 そして21の誕生日は、たくさんの仲間との思い出を胸に抱いて。

 

 僕の宝物がいっぱいです。

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