オリジナル小説サイト「渇き」

恋愛小説、純文学、エッセイを扱った小説家・佐倉愛斗オリジナルサイト

015/朝の贅沢

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 誰も起きていない時間が好きだ。世界に一人だけ生まれてきたような特別感があるからだ。
 起きて、スマホをチェックして、顔に朝専用のパックを貼りながら手帳を書く。インスタグラムに載せたらパックを外してクリームを塗る。それからはノートに書きたいことを書いて、英語の勉強を少しして、それから読書する。それが僕のルーティンだ。
 ルーティンの中にいると落ち着く。正常に動いている感じがする。
 何より朝の光の中で気ままに文具と向き合う時間が大好きだ。
 人々が起き出して来ると少し残念な気持ちになる。
 もう少しだけ、世界で一人でいたかった。
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014/冬のニオイ

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 季節にはさまざまなニオイがあると思う。
 そのなかでもとりわけ僕は冬のニオイが好きだ。
 
 冬の玄関。僕はこのニオイで冬が来たことを自覚する。
 形容しがたく「冬のニオイ」としか言えないのだが、胸にすっと入ってくる冷たさが心地よく、自然とワクワクしてくる。
 まるで玄関から(本来は煙突からだが)サンタクロースが入ってくるのを期待しているような気分になる。
 夜、寝室に向かう前に通る玄関で、「ああ、冬だなあ」と頬を緩める季節が恋しい。
 
 冬のストーブ。もやした石油で焦げた鉄枠のニオイ。
 このニオイがないときっとあったかさも半減なのだろうなと思う。
 ニオイから暖められている。ストーブの前を陣取って、本を読みながら過ごす冬はたまらない。
 
 冬の雪。この世で一番透明なニオイ。
 心の中を透明に洗い流してくれるニオイ。朝、雪が積もっているとすきっとした背筋が伸びる思いで心が洗われる。
 こんな冬の朝が大好きだ。
 
 様々な季節の中で僕は冬が好きだ。
 冬はうれしいニオイに包まれている。
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013/赤いもみじに

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「紅葉が隠してくれるから大丈夫だよ。こんなにも赤いんだもん」
 山の斜面にある神社。僕は彼女とキスをした。
 学校帰り。抑えきれない衝動。触れたくてたまらなかった。
 どこなら人がいないだろうと神社に入った。そこには真っ赤に燃える楓の大木があった。
「こんなところではずかしい」
 そうはいっても彼女は抵抗しなかった。唇を合わせ、舌先で触れ、唾液が滴り落ちた。
 日が陰るころ、名残惜しむように抱きしめてから帰った。
 彼女の体は秋風にしては熱かった。
 においも覚えている。彼女の匂いだ。
 
 秋になるとそんな性の記憶が蘇る。
 赤いもみじのように赤い僕達。
 
 その後、僕はこんな句を詠んだ。
 
 この恋がどれだけ燃え上がろうとも楓の梢よ色づくなかれ
 
 彼女とは程なくして別れた。
 秋は、きっとそんな季節。
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012/多様な学生たち

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 僕は夏になると東京へ行く。大学のスクーリングを受けるためだ。
 僕は持病のために大学へ通うことができず、こうして通信制の大学に在籍している。
 東京は空気の匂いが違う。洗練されていて、そしていい意味で他人行儀。人に深く立ち入らない寛容さが僕は好きだ。
 
 スクーリングへ行くと、キャンパスには一見学生には見えないような人がほとんどだ。
 食堂ではマダムたちがおしゃべりに花を咲かせ、おじさんは一人で定食を食べ、若者たちは大声で何かしら盛り上がっている。非常にカオスな空間だ。
 そんな中、僕は毎年味噌野菜ラーメンを食べる。一番安くて一番お野菜が多くて、味が好きだから。
 もう何年も通っているのですっかり馴染みの懐かしい味になっている。
 
 講義を終えると、仲間たちが集うパブがある。
 そこの客層も老若男女さまざまだ。
 どうしてここの大学に来たかという話によくなる。
 学び直したいことがあるから。夢を追うために専門学校へ行きながら来ているから。僕と同じように病気をしたから。生涯学習として。仕事が暇だから。
 さまざまな理由があるが、共通するのは「学ぶことが好き」という意識だ。
 夏の熱気の中で酒を飲み交わし、その中でも「割り勘は倫理学」「功利計算をしなくては」などと講義で扱った内容をジョークとして話すこの空間が好きだ。
 
 僕は昔「勉強が好きとか気持ち悪い」といじめられたことがある。
 そんな僕を肯定してくれる夏が今年はやってこない。
 どうかまた仲間たちと学ぶ喜びを分かち合えますように。
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011/桜グッズと僕の死

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 桜が散ると、僕は一度死んでしまったような気分になる。心の中が空っぽになって、その孔に桜吹雪が吹き抜けていくような悲しさがある。僕が「さくら」という名だからだろうか。
 本名は別に「さくら」ではない。かすりもしていない。人生で初めてチャットをしたときに使った名前が「桜井」で(このときは嵐のファンではなかった)、そこから「さくらちゃん」と呼ばれるようになった。
「さくらちゃん」だとあまりにも女の子らしい、と性別違和のあった僕はさくらを名字の「佐倉」にし、下に由来は語らないが「愛斗(まなと)」をつけた。
 
 そんな経緯でこの名前で活動しているが、そのせいか桜グッズには弱い。
 桜柄の文房具は集めてしまうし、桜の香りのハンドクリームを使い切れもしないのに買ってしまう。桜の香水だってもっていたこともある。
 けれどいつも、僕には似合わないなあ、って思ってしまう。
 春になると出る桜グッズたちに心躍っても、部屋は青が基調だし、可愛らしいものはあまり得意ではない。グッズになるとなんであんなに可愛らしくなってしまうのだろう。
 
 あれほど潔く散って死んでしまうさくらと、世間の桜グッズのギャップが大きいのだろうか。僕にとって桜は終わりの、死の象徴だ。
 桜が散らないと知らずに生きていたら、桜グッズも愛でることが出来たのかもしれない。
 
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010/求めないけど求めてる

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 好きな人はいるか、と問われると、それはどういう意味の「好き」?と問わなくてはならない昨今。
 ここでは大きく「好意を持っている、親愛を感じている人」の話にする。
 僕にはありがたいことに友人がそれなりにいるつもりだ。向こうがどう思っているかはわからないけれど、僕は好きだと思っている。
 しかし僕は好きな人を求めることをしないようだ。こちらから連絡することが殆ど無い。
 勘違いしないでほしいのは「向こうから求められることで満たされる」みたいな弱さなのではなくて、「連絡してもしなくても好きなものは好きだしな」と全般の信頼を寄せてしまうのだ。
 結果的にこれが恋人ほど親密な関係だと「寂しい」と文句を言われるのだが(友人たちも言わないだけで思っている可能性はある)、残念ながら僕には「寂しい」はよくわからないようだ。
 
 具体的な好きな人の話をしよう。創作の相方だ。
 面と向かって好きだなんて言いたくもないのだが、相方として尊敬している。
 ここからはただの悪口だが、極度の方向音痴で説明書は自力で読めず、本の入稿も何かしら惜しい。
 しかし柔軟な対応力とコミュニケーション力、メンタル・フィジカルともにの強さも頼りになる。
 僕が説明書を読み、イベントの事前準備を済ませ、相方が当日僕の心身のサポートをする。そんなギブアンドテイクの関係が成り立っていると思う。
 文章は僕とは系統が真逆だが、深く考察する力は確かで、彼の書くブラックユーモアは胸を張って大好きだと言える。きっと笑いのツボは一緒なのだろう。
 
 けれど前述したように僕は自ら連絡することが殆ど無い。
 相方には用事があるときだけ連絡する。ひどいと数カ月は連絡しない。
 それでも、それでも大切な相方だ。
 
 常に求めるだけが「好き」なのだろうか。
 僕は「求めない」けど「好きでいる」という立場だと改めて思う。
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青嵐吹くときに君は微笑む Side girls 私のお兄ちゃんたち

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 十二月二十四日は何の日かと問われると、推しの誕生日と答える。それが私たちアイドルオタクの定番で、だからまさかデートに誘われるとは思っていなかった。

 いや、彼氏なのだからデートに誘うだろう。なんたって世間ではクリスマスイブ。恋人たちの日。私がいくらカラオケで「ベイビーアイラブユーさよならだね ひとりきりのクリスマス」と熱唱したところで今年は二人のクリスマス。いつもなら、四人のクリスマス、なんだけどなあ。

 憂鬱な気持ちでカレンダーをめくった私、相原滴は専門学校を卒業して、今は歯科医院で歯科衛生士として働いている。彼は歯科医院の隣にある調剤薬局の薬剤師で、小坂井昌さんという。私より五つ年上で、全然アイドル顔じゃない。そこがいいんだけど言わないことにしている。観賞用と実用は違うじゃない? 毎日の生活の中に推しがいたら間違いなく死ぬ。たぶん何らかの方法で死ぬ。心臓発作とか呼吸器不全とかそういうやつ。

 話がそれたけど、私が抱えている問題は二つ。クリスマスデートに気が進まないことと、まだ私に彼氏がいることをお兄ちゃんたち三人は知らないのだ。

 

 昼休み、昌さんからLINE。

〈クリスマス、ホテルのディナー予約取れたよ。他に行きたいところはある?〉

 間違ってもクリスマスライブの京セラドームなんて言ってられないので〈プレゼント選んで欲しいから一緒に買い物行きたい〉と返す。

 緑色に埋め尽くした祭壇の前で尊さを満喫したいとか中華料理食べたいとかそういうことからはいい加減卒業しなきゃいけないわけで。

 でも、渚先輩のご飯が、やっぱりいいなあ。

〈じゃあ駅前の商業ビル行こっか。僕からも何か選んであげるよ〉

〈ありがとう〉と手短に返信して弁当箱を開いた。冷たいご飯。誤魔化すようにインスタントの味噌汁付き。あったかいご飯が食べたいな。

 

 お兄ちゃんは大学を卒業して自動車関連の職に就いた。あのお兄ちゃんのくせにいいところに入ってしまってなんか悔しかった。渚先輩は変わらず舞台の美班をやっている。後輩が入ってきて指導が楽しいという。お兄ちゃんと渚先輩はお兄ちゃんの就職と共に同棲を始めた。変わらずあのマンションだ。華さんは大学を六年で卒業してイラストレーターとアルバイトのかけもちをしている。この前、華さんが女性誌のインタビュー記事になっていたのは驚いた。注目の若手作家らしい。広告にもたまにイラストが使われている。

 みんな前に進んでいくなあと思う。私も就職したし、子どもじゃいられない。

 いつまでもあの頃のように四人で、なんて続かないのだろう。

 昌さんと付き合っていること、まだ誰にも言えていない。この四人の関係を壊してしまいそうで、怖くて、言えない。

 まず華さんは私に振られている。言えるはずがない。祝福はしてくれるだろうけど絶対影で泣く。うぬぼれが過ぎるだろうか。

 お兄ちゃんはなんか腹立つから嫌だ。生理的嫌悪感。多分「ふーん」くらいの反応。どんな反応が欲しいのかはよく分からないけれど。

 渚先輩は、多分一番親身に聞いてくれる。気遣いの人だから苦労させちゃう気がする。けど、この中で一番頼れるのは渚先輩だ。

 よし、とLINEで渚先輩の個人ルームを開いた。

〈渚先輩、お話ししたいことがあるのですがお時間いただけませんか? できれば、お兄ちゃんのいない日で〉

 

 平日ならお兄ちゃんは仕事ということで、歯科医院が午後休の水曜日に渚先輩の家に向かった。今はお兄ちゃんの家でもある。兄の家に行く分には昌さんも何も言わないだろう。

「滴ちゃんいらっしゃい」

 青いセーター姿の渚先輩は伸ばした髪を明るいミルクベージュに染めてハーフアップにしていた。美術の道の人って感じの見た目だ。

「お邪魔しまーす」

 入っていくとほかほかの煮込みハンバーグにアボカドの入ったサラダが並んでいた。パンをトーストするか聞かれたのですると答えた。

「んーっ、やっぱり渚先輩のご飯は最高です」

「それはよかったぁ。冬は煮込みたくなるんだよね。形がなくなっていく野菜たち見てるのが楽しくて」

「渚先輩も変なとこありますね、癖(へき)というか」

 私がクスクス笑うので、元気そうでよかった、と渚先輩は呟いた。

「話したいことがあるって言うから落ち込んでるのかと思って」

「そういうんじゃなくて、その……あは、恥ずかしいな」

 私がひとりごちていると何々??と渚先輩が身を乗り出した。

「その、私、彼氏ができまして。で、お兄ちゃんは面倒くさそうなんで渚先輩に報告に来ました」

「そっかー! おめでとう!」

 確かに零くんは面倒くさそうだね、と渚先輩もクスクス笑ってた。

「彼氏ができたのは、まあ、うれしいんですけど……その、オタ活に理解がないというか、オタクであることまだ言えてなくて」

「なかなか言えないと思うよ。僕たちはコンサート会場で出会ってるからカミングアウトもなにもなかったけど、彼氏が推しに嫉妬とかよく聞くし」

「推しに嫉妬って意味分かんないですよね。キリスト教徒の彼女がいたらキリストに嫉妬するのかって話ですよ」

 渚先輩は軽く吹き出して「言えてる」と笑った。

「お兄ちゃんはオタ活に対して何か言わないんですか?」

「なーんにも。あんまり関心がないみたい。でもたまに『この曲いいね』とか呟くから嫌いではないみたいだよ」

「相変わらずコミュ障ですねうちの兄は」

「そういうところも含めて零くんだからね」

「そういうところも含めて好きなんですね」

 渚先輩は満面の笑みで「そういうこと」と答えた。

「で、今一番困ってるのは、もうすぐクリスマスじゃないですか。バースデーじゃないですか。私はここ十数年中華料理を食べてきたのにホテルのディナーデートに誘われてて……推し活より大事なのは分かってるんですけど、なんか乗り気になれなくて」

 僕がクリスマスに中華を出すのも要因だね、と苦笑した後、それは初めてのことで緊張してるからじゃない? と渚先輩は続けた。

「緊張、してます。正直何着ていけばいいのかも分かんないし、急に大人の世界というか、こわくなっちゃって。毎年四人で過ごしてたからどうしていいのか……変わることが、怖いです」

「ずっと四人の世界だったもんね。でも他の人とも関わって生きていくものだし、雫ちゃんにもたくさん恋して欲しいと思うよ」

 私はゆっくり口を開いた。

「……華さんは、どう、思いますかね」

「華ちゃん、華ちゃんはきっと大丈夫だよ。きっとあっけらかんとしてるはず。拗ねたりするような子じゃないから」

「でも、傷付けないかなって。私まだ後悔してるんです。酷い振り方しちゃったんじゃないかって。もっと優しくできたんじゃないかって」

「滴ちゃんはもっと自分に優しくなろう? 大丈夫だよ。華ちゃんは強いから。ホントのこと言うと、たぶんその日だと思うけど、急に僕の家に来て一晩中めそめそ泣いてた。でも朝になったらすっかり元気で、切り替えの上手い子だと思ったよ。感情爆発させることが彼女のエネルギーだからさ」

「泣いちゃったんですね」

「泣くのは悪くないよ。大丈夫」

 渚先輩に頬を撫でられた。微笑みは暖かくて、シトラスの香りがした。

「滴ちゃんが恋をしたって誰も責めたりなんてしないよ。だから、僕たちのことは気にしないで。今日頼ってきてくれてありがとうね」

 あったかい煮込みハンバーグ。なめらかなアボカドのサラダ。香ばしいトースト。あったかい、渚先輩の笑み。

「こちらこそお話聞いてくださってありがとうございました」

 それからコンサートDVDを一緒に見てたらお兄ちゃんが帰ってきた。

「何しに来てたの?」と聞かれたので「オタ会」と答えておいた。

 

 

 クリスマスイブ当日。持っている中で一番上品に見えるワンピースに、スエードのコートを合わせた。カバンは一番小さなクラッチバッグ。髪はアップスタイルにセットして、メイクも仕事のときより鮮やかな色使いにした。赤いリップスティックは去年、華さんに貰ったものだ。「もらったけどあたし化粧しないから」ってくれたけど本当は新品を買ってくれたのだと気付いてる。

 昌さんと金時計の下で待ち合わせをして、そのままエレベーターで上がって商業ビルでお互いのクリスマスプレゼントを選んだ。おそろいの革製の名刺入れにした。

 さらにエレベーターであがって予約していたレストランでフレンチのコースを食べた。お店でフレンチは初めて食べた。味はよく分からなかった。お店の中が静かすぎて何を話せばいいのかも分からなかった。喉が渇いてシャンパンばかり煽ってしまった。

 お店を出るころには少し足もとがおぼつかなくなっていた。

「ごめんなさい、飲み過ぎちゃって」

「緊張してたよね。ごめんね、不慣れなことさせちゃって」

 昌さんは優しい。優しいけど、どこか一方通行で。

「上の階に部屋取ってあるから行こうか」

「え?」

「嫌、だった?」

 正直歩いて電車に乗れそうになかったので大人しくついていくことにした。

 ホテルからの夜景は眩しいほどだった。

 電気をつけることなく、光の海の中で私は抱かれた。

 初めての行為ではなかったけど夢見心地で、目が覚めたとき酷く虚しかった。

 

 泊まるなんて聞いてなかったから化粧品も最低限しか持っていなくて、シャワーを浴びてアメニティと赤いリップスティックで誤魔化して化粧直しをした。

 昌さんはまだ寝ていた。お兄ちゃんと渚先輩の間くらいの身長。細い身体。薄いすね毛。愛おしいけれど、他人だ。

 私はそっと部屋を出た。涙が落ちそうだった。何かが噛み合わない。好きでいたいのに、どこまでも他人でしかいられない。好きなものも言えない。嫌なことも言えない。

 ――だって、嫌われたくないから。

 

 クリスマスの朝の空気は澄んでいた。駅構内のパン屋で朝食を済ませてから真っ直ぐ渚先輩の家に向かった。

 渚先輩は何も聞かず「いらっしゃい」と出迎えてくれた。

「お兄ちゃんは?」と聞くと「朝ご飯食べてから二度寝」と言うので私は小さく吹いて笑った。

 

「それで、デートはどうだった?」

「正直、楽しくなかったです。緊張しっぱなしだし、好きなものの話もできないし、渚先輩たちのことも言えないままで」

 そうだねえ、と渚先輩は腕を組んだ。

「僕たちみたいに男同士のカップルが同棲していて、それが兄だってなかなか言えないよね。滴ちゃんが理解してくれてるのは分かってても、世間的にはまだマイノリティだからさ」

「彼はあんまりセクシャリティとか詳しくないみたいで、どんな反応されるのか怖いっていうのが、正直やっぱりあります。先輩たちに失礼なこと言わないかなって怖くて」

「僕たちが負担になってたね、ごめんね」

 私はぶんぶん頭を振った。

「いいえ、そんなことはないんです。問題は私にあって。言いたいことも言えないカップルなんてやっぱりダメですよね。嫌われたくないが勝っちゃって、素の自分が出せないままで」

 よし、と渚先輩が思い立つ。

「滴ちゃん、さっきからスマホ鳴ってるけど」

「彼からずっと電話かかってきてるみたいで」

「ちょっと僕に貸して?」

「はい?」

「いいから」

 おずおずと震えるスマホを出すと、渚先輩はなんと電話に出た。

 

「もしもし。はい、はじめまして、僕は滴の兄の渚です」

 

 とんでもないことになってしまった。

 昌さんがこっちに向かってるらしい。

 渚先輩に会うの? というかお兄ちゃんもいるよ?

 この事態をどうするかぐるぐる考え続けていた。お兄ちゃんと同じ癖だ。

 でもって、渚先輩が、お兄ちゃん……お兄ちゃんのパートナーなのだからお兄ちゃんで合ってるとは思うけど、憧れの先輩がお兄ちゃんってなんか変な感じだ。

 

 昌さんにはLINEの文面で家の住所を送り、勝手に帰ってしまったことを謝った。

〈滴さんを傷付けるようなことをしてしまった僕が悪いから〉と昌さんの文面は濡れていた。

〈お兄さんは一人暮らしなの?〉と昌さんに聞かれたので〈ううん、同棲中〉と返すと〈そっかあ、彼女さんにも迷惑かけちゃったかな〉と返ってきた。

 そうだよね、普通彼女だと思うよね。

 私は暗い気持ちになる一方だった。

 

 昼前に昌さんは渚先輩の家に着いた。エントランスまで迎えに行くと「えらい立派なマンションだね」と昌さんは感嘆していた。

「今朝はごめんなさい、私……」

「こちらこそごめん。お兄さんに叱られてこなくっちゃね」

 白い歯を見せた昌さんは、ほんの少し魅力的に見えた。

 

 渚先輩は食卓に中華を並べていた。回鍋肉と水餃子、チャーハンにトマト入り棒々鶏。

「いらっしゃい。急に呼びだしてごめんなさい。兄の渚です」

 渚先輩と私を見比べて昌さんは少し戸惑っていた。私たちは全然似ていない。身長も同じくらいか私の方が高い位だし、目鼻立ちも違う。それもそうだ、血は繋がっていないのだから。

「初めまして、お兄さん。今朝は失礼しました」

「まあまあ、まずは昼ご飯にしましょ。零くん起こしてくるね」

 勧められるがままに食卓に着かされた昌さんの頭の上には疑問符がたくさん浮かんでいた。

「零『くん』って?」

「そっちもお兄ちゃん」

「も?」

「というか、そっちがお兄ちゃん」

 余計疑問符が増えた気がするので面白くなってそのままにしてみた。

「あれ、滴なんでいるの」

「お兄ちゃん寝過ぎ。あと髪の毛爆発してるの直してきて」

「いいじゃん家なんだし」

「横見て横」

「……誰?」

「というわけで寝癖直してこいモサお兄ちゃん」

 一連の会話に余計訳が分からなくなった昌さんが切り出す。

「あの、お兄さんたち二人で暮らしてるんですか?」

 渚先輩がふふ、と微笑む。

「さっきの零くんが滴ちゃんの本当のお兄さんで、僕はそのパートナーだよ」

「パートナー、というのは?」

「僕たち男同士のカップルなんです。もう付き合って六年になるかな」 昌さんは豆鉄砲を食らったような顔をしていた。

「あっ、はい、そういうの、本当にあるんですね……初めて見たもので、すみません」

「大丈夫ですよ、大体驚かれますから」

 零くーん、髪の毛直した-? と渚先輩が呼びかけると、なんとかー、と返ってきた。

 お兄ちゃんがダイニングに戻ってくると、まじまじと昌さんを見た。よそ行きのしっかりしたスーツ姿の男の姿に驚いているようだった。

「……滴、弁護士が必要な案件にでも巻き込まれたのか」

「なんでそうなるのバカ兄貴」

「じゃあ誰?」

「彼氏」

「……なるほど?」

「お兄ちゃんにしては理解が早くて助かった」

 お兄ちゃんも席に着いて昼食に中華を食べる。

「変わってますね、クリスマスに中華なんて」

 昌さんが切り出す。

「我が家では毎年中華だよ。ね、滴ちゃん」

「はい、クリスマスは中華って決まってますから」

 へぇーと昌さんはそれ以上深く聞かなかった。

 渚先輩のご飯はやっぱり美味しくて、ちゃんと味を楽しめた。あったかくて、幸せで、自然と口角が緩んでいた。

「なんか悔しいなあ。滴さんがこんなに嬉しそうにご飯食べてるの初めて見ました」

「そりゃ渚のご飯は美味しいから」

「お兄ちゃんってホント分かんないんだね」

「なんだよ」

「分からなくて結構でーす」

 昌さんがクスクス笑っていた。

「兄弟仲もよくていいなあ。僕、一人っ子だからこういうの全然知らなくて」

「仲いいの? これ」

「めちゃくちゃいいよ。たぶんね」

「渚お兄ちゃんとは仲良しなんだけどなあ」

 零お兄ちゃんがぴくっと反応する。

「いつからお兄ちゃん呼びなんだよ」

「いつだっていいでしょ。お兄ちゃんのパートナーはお兄ちゃんの法則」

「僕は滴のこと妹だと思ってるよ」

「いつから呼び捨てなんだよ」

「いつだっていいでしょ。パートナーの妹は妹の法則」

 私と渚お兄ちゃんは顔を見合わせて笑い合った。

「なんか羨ましいなあ。家族ぐるみで仲良しのカップルって」

「ふふ、自慢のお兄ちゃんたちだからさ」

「ちょっと妬けるかも」

「ずっとね、紹介したかったんだ。だから怖かったけど紹介できてよかった」

「素敵なカップルだと僕も思うよ。これからもどうぞよろしくお願いします」

 昌さんが深々と頭を下げる。

「こちらこそ」とお兄ちゃんたちも答えてくれた。

 やっぱり渚お兄ちゃんには敵わないなあ。大好きなお兄ちゃんだ。

 

 マンションの呼び鈴も鳴らさずに合い鍵でずかずかと入ってきた女性の姿があった。

「あっれー? あたしの席がないんだけど誰この男。吊していい?」

「華ちゃんせめて呼び鈴は鳴らして。あと初対面で吊さないで」

 まーた面倒くさいことになりそうな予感に私はこめかみを押さえた。

「どうもー、滴っちの嫁です」

「華さん、嘘は辞めてください」

「もー、あたしと滴っちの仲じゃないのー世の中の男共全員燃やし尽くすまであたしは戦うからね」

「なんの話ですか」

「そこにいるの滴っちの彼氏でしょ」

 私がぎくっとすると「やっぱりね」と華さんは悪い顔をした。

「滴っちを泣かせたらあんたのはらわたがはみ出た絵を描いて渋谷の109に全面広告出してやるから覚悟してなさいよ」

「あくまで絵なんですね」

「だってクソ男のせいで逮捕されたくないし」

 昌さんは何が何だかといった様子で大笑いし始めた。

「滴さん、いい人たちに恵まれてるね」

「うん、そうなの。すっごくいい人たちだよ」

 自慢の私の家族たちなの。

 昌さんも家族に、なれるのかな。

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