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青嵐吹くときに君は微笑む Side girls 夢じゃないから消えない

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 やっぱり、ないか。

 ギャラリーの壁に並べられた女性の絵。ギャラリーといえば私は学校の遠足で行った県立美術館のような壁も床も天井も、真っ白すぎる空間を思い浮かべる。けれどここはノスタルジックな和室で、畳の柔らかさと土壁の優しさに包まれていた。

 全部で十三枚、女性の絵があった。小さなものはポストカードくらい。一番大きな絵は二メートル四方の帆布だった。どの絵も写実的で、生きてこちらに訴えてくる。生きることを。彼女が目指す、アートの力を。それでも、あの絵――華さんが好きだと言った私を描いた作品はどこにもなかった。

 私は正直すぎたのかな、と傷付いた気持ちになった。傷付けてしまったことに傷付いていた。どうして、私はこんなにも愚直で、何も持ってないんだろう。

 お兄ちゃんよりは生きるのが上手だとは思う。ちゃんと将来を見据えて手に職をつけようとしている。けど、それが『夢』なのかと問われると私には分からなかった。

 夢って何? 教えてよ、華さん。

 帆布に描かれた女性。鋭い眼差しが私を叩き壊してめちゃくちゃにする。長い睫毛が頬に影を落とし、神経質な指が頬に添えられている。

 

 I won't disappear becouse it's not a dream.

 

〈滴っちー今度動物園行かない?〉

 華さんからメッセージを貰ったのは梅雨明けのニュースが繰り返し流れていた日だった。これから暑くなるのかと思うと少しだけ心躍った。夏は好きだ。濃い青を描く晴れた空。太陽を浴びて輝く向日葵。そしてコンサートの季節。私はいわゆるアイドルオタクというやつで、夏と言えば国立競技場でのライブを思い浮かべる。初めて参戦したコンサートは真夏の国立競技場で、グッズを買うために炎天下で八時間並び、座席は後ろから三番目。目の前にいるのが誰なのかすら分からないほどステージからは遠かったけれど、泣いて騒いで最高の夏だった。コンサートには人の心を動かす力がある。私に生きる希望を与えてくれる大切な時間だった。

 華さんから動物園のお誘い。なんで動物園なんだろ。遊びに、ってことなのかな。

 悪い気はしなかったので〈土曜ならいいですよ〉と返信した。

 すぐ返信が来る。

〈じゃあ今週の土曜日に。また連絡するね〉

 

 華さんと私の関係を説明するのは少し難しい。二人の人物を経由しないとたどり着かない間柄だ。

 私、相原滴には、相原零というひとつ上の兄がいて、その兄には同性の恋人である酒本渚がいる。そして渚先輩の親友が扇田華だ。渚先輩と華さんは県立の美大に通っていて、渚先輩はこの春卒業して就職。華さんは大学に残って制作活動をしている。華さんがどんな作品を作っているのか私はあまり知らない。渚先輩に対して過保護すぎて、明るくサバサバしていて、食いしん坊で、頼れるお姉さん。私生活は見えない。そんなミステリアスさがカッコいいなって思うと同時に、アーティストという人種は私とは縁遠いのかなとか思ってしまう。

 ひとつ言わなくてはいけないのは、私は渚先輩のことが好きだった。異性に対する恋愛感情として。でも渚先輩は私ではなくお兄ちゃんを選んだ。性別でごめんなさいされた。そのことを恨むつもりはないけれど、やっぱり悔しくて、一時期お兄ちゃんのことが嫌いだった。でも渚先輩とお兄ちゃんの関係を側で見ているうちに恋敵というより、一緒に居られる仲間にように感じられた。中立の立場でお兄ちゃんを叱咤する華さんの存在があったからかもしれない。

 それから四年が経った。私はまだ、新しい恋を見つけることができないでいた。

 

「おっす、滴っちー」

 デニムのショートパンツに半袖のシャツ。シャツは紫から水色までのグラデーションだ。伸ばした髪は低い位置で束ねられ、その無造作な髪型が中性的な雰囲気を醸している。そして首から大きなカメラ。私はカメラに詳しくないので機種までは分からないけれど、たぶん一眼レフってやつだ。

「華さんこんにちは」

 私はアースカラーのスカートにブラウス。背の高い華さんと並ぶとおしゃれイケメンと量産型女子大生が並んでいるみたいだ。

「滴っちは今日も可愛いのう」

 華さんの屈託のない笑顔をはいはい、と私は受け流す。私と一緒だといつもこんなだ。冗談だと分かっているから恥ずかしくない。恥ずかしがったら真に受けてるみたいじゃない。

 電車に揺られて動物園の最寄り駅に向かう。

 車内で華さんと他愛のない話をした。主に渚先輩とお兄ちゃんの話。華さんのことはいつまでも分からないままだ。

 

 日差しの強い動物園ではライオンがとけていた。

「ライオンって液体なのかな」とつぶやいたら華さんは「金属かもね」と笑った。とても頭の悪い会話だ。

 華さんは何枚も何枚も写真を撮った。動物たちや風景、空や売店のアイスクリームも撮った。

「華さんって写真が趣味なんですか?」

 華さんはシャッターを切ったあと、いいや? と首を横に振った。

「絵を描くための勉強って言ったらカッコいいかな?」

 絵を描くことを勉強したことがない私は素直に頷いた。

「絵ってさ、ただ筆を持って紙に描き続けるだけが勉強じゃないんだよ。モチーフをインプットしたり、美術館や映画館で作品に触れたり。写真は、構図や色の参考にもなるかな。あとは好きなものをスクラップしたり、とか?」

 ほら、と華さんはカメラのプレビュー画面を見せた。

 私は息を呑んだ。

 とけたライオンが柔和な表情で微睡んでいる。優しいけれど眠った勇ましさが垣間見える。こんな表情をしていたなんて私は気づけなかった。華さんの目には、世界はこんなにも美しく見えているのか。

「ねえ滴っち。滴っちを撮らせてくれない? 少しでいいから」

 彼女が見る私はどんな表情だろう。

「可愛く撮ってくださいね?」

「そうこなくっちゃ」と華さんは白い歯を見せた。

 

「滴っちってさ、目標とか将来何したいとかある?」

 動物園と同じ敷地内にある植物園で私は撮られていた。シャッターが切られる度に私を隠す見栄とかバリアとかそういうものを剥がされる気がした。

「目標……ですか。学校では歯科衛生士になる勉強しています」

「ほー、いいね。専門職ってやつだ」

「手に職つけようかなって思って。お兄ちゃんみたいに何も考えずにとりあえず大学、とは思えなくて」

 華さんみたいにやりたいことがあって大学へ行くのはいいと思うんですけどね、と私は付け足した。

 華さんは「滴っちはしっかり者だね」と言った。こんなに真剣な眼差しを向けられたことがあったかな。恥ずかしいけど悪い気はしなかった。

 専門学校へ進んだのは就職に有利だからという打算だ。それでいて私の学力でも入れるところ。これのどこが夢なんだろう。夢ってもっときらきらしていて、現実的じゃないものだ。

「あたしの夢を聞いてくれる?」

 華さんが切り出す。カメラのレンズが私を撮す。

「あたしはね、この世界をほんの少しでも変えたい。あたしの作品でだれかの人生をほんの少しでいいから変えたいんだ。固定概念をぶっ壊すような強いものを作りたい。あたしはあたしの力を信じたいんだ」

 華さんがあまりにも真剣な顔をするものだから、私は何も言えなくなった。

 私の中に湧いたのは、純粋な尊敬だった。

「変、かな」

「変じゃないです。すごい、すごいなあ。私にはできないことです」

 華さんは破顔して「いやあ、あたしには絵しかないからさ」と言った。

 私には、何もない。ただの平凡なヒト。ステージの上で輝くアイドルたちを崇めるだけの信徒だ。なんだかうじうじしそう。お兄ちゃんみたいで嫌だな。

「滴っち、ジェットコースター乗ろうよ」

「え?」

「ここ遊園地もあるからさ」

 いいからいいから、と華さんは私の手を掴んでぐいぐい進んだ。

 前に進む力を持っているのは、一部の選ばれた人だけだよ。

 

「滴っち、すごい興奮してたね。キャーキャー言ってた」

 華さんが揶揄する。私は悲鳴で乱れた息で興奮混じりに答える。

「だって、ジェットコースターなんて久しぶりで。怖いのやら気持ちいいやら」

「スッキリした?」

「へ?」

「滴っち、ちょっと考えてたから。あたしが作りたい絵はこんなジェットコースターみたいなものだよ。何もかもぶっ飛んだでしょ?」

 華さんが私の頬に触れる。にっと笑った華さんが近い存在に感じられた。

「華さん、私、華さんの絵が見たい」

「へ?」と華さんが気の抜けた声を出す。

「華さんが作っているもの、私、見たいです」

 華さんは鼻先をぽりぽりと掻いて、少しだけなら、と承諾した。

 

 華さんの家に行くのは初めてだった。いつもは渚先輩の家で四人集まるか、華さんと二人のときは買い物に行くか近所のファミレスでおしゃべりするくらいだ。

「狭いけど許してね」

 案内されたのは二階建てのアパート。玄関までのルーフの柵が錆びている。排水溝には落ち葉と虫の死骸。お世辞にも綺麗とは言えなかった。

 部屋は手前に小さなキッチンダイニング、奥に和室の六畳間が続いていた。

 物が少ないな、というのが私の感想だった。キッチンダイニングに冷蔵庫はあっても電子レンジはない。通された奥の和室にはベッドと机と本棚はあってもテレビはない。そして机の上の画材たちと、ビニールの貼られた壁際に並べられた大量のカンバス。

「殺風景、って思ってるでしょ」

 私は苦笑した。

「あたしさ、家出同然だったんだ。家具を揃えるお金なんてなくてさ」

「どうして、家出したんですか?」

 華さんは「分からない」と答えた。

「あたし、昔から自分のことを人に言うのが苦手でさ。お腹痛くても言えなくて倒れるまで我慢しちゃうような子でさ。レズビアンであることも、画家になりたいことも、怖くて両親に言えなかった」

 なんでこんなに怖いんだろうね、と華さんは苦しさを忘れるために笑った。

「私には言ってくれるんですね」

「うん、滴っちは……」

 そこで華さんは言葉を詰まらせた。ううん、ごめん、いいや。と誤魔化して。

「あたしさ、この秋に個展やるんだ。あたしの力でいっぱいの部屋を作る。いっぱい描かないとね」

「個展って、すごいじゃないですか」

「いままでグループ展なら何度か出たんだけど、ギャラリー側に交渉したらやらせてもらえることになってね。今まで言えなくてごめん」

 華さんの声は微かに湿り気を帯びていた。

 本当に怖いんだ。

「華さんは頑張ってきたんですね。すごいです。話してくれてありがとうございます」

 私にはこれだけしか言えなかった。

「滴っち、ありがとう。あたし、あたしね――」

 えっ……?

 私は告白された。初めて、女の人から。

 

 お兄ちゃんになんて言おう。

 告白されたことなんてこの人生で数回しかない。いや、普通の人間なら数回くらいなんだろうけど。でもみんな男の人からで、女の人からは初めてだった。

 同性で付き合うことは何もおかしくないのだとお兄ちゃんたちを見ていれば分かる。けど、私は華さんに告白されて、嬉しくなかった。差別意識はない。けど、私。

「私も性別でごめんなさい、しちゃうのかな」

 クッションを抱きしめながらゴールデンタイムの音楽番組を見ていた。歌われるのは愛の歌。歌の世界の愛も多様だけど、この世界にはもっとたくさんの愛がある。そして同じ数だけ、叶わない恋もあるんだ。

 振るのは心苦しい。このままではもういられないのかな。

 風呂上がりのお兄ちゃんが私の隣に腰を下ろす。

「ねえお兄ちゃん。お兄ちゃんは女の人から告白されたらどうする?」

「なんだよ、藪から棒に」

「いや、お兄ちゃんって男の人にしか興味ないのかなって」

 そうだねえ、とお兄ちゃんは考える。

「俺には渚がいるからもちろん丁重にお断りするかな」

「惚気かよ。お兄ちゃんはやっぱり参考にならないなあ」

 聞いといてなんだよ、とお兄ちゃんは口を尖らせた。

 誰に聞けばいいのか分からないけど、これは一人で解決しなきゃいけないことなのかな。

 同性愛者を気持ち悪いって思わないけど、けど、私は同性愛者じゃない。この差をどう説明したらいいのか分からなくて、私はぐるぐる悩み続ける。

 あーあ、お兄ちゃんに似ている私の嫌いな部分だ。

 

 告白されたときのことが頭から離れなくて、私は大晦日のカウントダウンコンサート以外で初めて一睡もせずに朝を迎えた。

 ――あたしね、好きな子がいるの。

 華さんは、なんで。

 ――滴っちは答えなくていいよ。

 なんで私のこと。

 ――滴っちがあたしのこと好きにならないって分かってるから。

 何も持ってない私のことなんか好きなんだろう。

 酷く頭が痛い。華さんは全ての悲しみを抱きしめるように自らの肩を抱いていた。叶わないって分かってる。そんな告白ずるいよ。私は、華さんのこと悲しませたくない。けど、どうしても恋愛対象にならないんだ。

 どうして恋ができる相手の性別が決まっているのだろう。

 まるで愛せない私が悪いみたいじゃない。

 誰も悪者にならない恋が存在するのなら教えて欲しい。

 この罪悪感はどうしても消えることがない。だって、友達としては大好きだから。

 ――答えなくていいから、あたしに滴っちを描かせて欲しい。

 ベランダから出て夜明けの湿った白い空気を吸った。

 スマートフォンのメッセージ画面を開く。

〈華さん。私を描いてください〉

 これがせめてもの罪滅ぼしになるのなら。

 

 華さんに描いてもらう間、私たちはいろんな事を話した。

 小さな1DKのアトリエで、ベッドに腰掛ける私と、スケッチブックに向かう華さん。

 モデルってお兄ちゃんは動いちゃいけないって言ってたけど、華さんは自然体でいて、と私に麦茶を出して去年作ったという華さんの画集を渡した。

「華さんの絵、素敵です」

「へへ、そう?」

 口は楽しそうなのに、華さんの目は鋭かった。

「みんな女の子ばっかり。なんだか華さんらしいです」

「それ、からかってる?」

「冗談ですよ」

 ふふ、ふふふ。

 軽やかな笑いが鉛筆を走らせる音と絡まる。心地よい。華さんと一緒にいることは心地よい。じゃあ、なんで私は華さんの告白を断ろうとしているんだろう。頑張れば私、好きになれるんじゃないのかな。

「華さんは才能があって素敵です」

「そんなことない」と言下に言った。

「才能って言われると、あたしが努力してないみたいで嫌だなぁ。咲かせられない才能なんてあったってしょうがない、ってね」

 変なこだわりでしょ、と華さんは苦しそうだった。

「華さんが嫌でも、そういうところが才能なんじゃないですか?」

「え?」

「努力することができることも能力、才能だと思うから……でも、ごめんなさい」

 私とは違う、持っている人。才能。そして、夢を。持たざる私はきっと何にもなれなくて、持つ者を崇める平凡な信徒だ。

 華さんは、そういう意味なら許す、と私の髪をくしゃりと撫でた。

 

 絵が完成したと連絡を受けて、私は華さんのアトリエに向かった。

 空気がほこり臭い。きっともうすぐ雨が降る。

「どう、かな」

 息が止まった。

 カンバスにアクリル絵の具で描かれた女性。力強く結ばれた唇。祈るように組まれた指。

 美術は分からないけれど、いいことは分かる。分かるけれど。

「これ、私……?」

「そう、滴っち」

 気に入らなかった? と華さんが問う。

 気に入らなかったわけじゃない。とても素敵な絵だ。でも、これは。

「華さんが好きな私は、私じゃないんですね」

「え……?」

「私、こんなに綺麗じゃない。強くもない。華さんは、華さんが作り上げた私のことが好きなんですよ」

 止まらなかった。悔しいと初めて思った。ステージに立つアイドルたちも、画家になる夢を持った華さんも、みんな雲の上の存在だと思っていた。でも、華さんの才能に嫉妬していた。不完全な、才能に。

「私こんなに強くない。華さんみたいに、夢を持っていないんですよ」

「夢じゃないよ」

 華さんは澄んだ声で答えた。

「夢じゃないから、あたしは消えない」

 ああ、どうしてこの人はこんなに輝いてまっすぐなのだろう。

 自分が惨めでたまらない。悔しい。悔しいよ。

 私は頬が濡れていることを華さんに触られて気付いた。華さんも、泣いていた。

「あたしが好きだったのは、幻だったのかな。滴っちのこと好きなのは、幻想だったのかなぁ」

 私は華さんのことを抱きしめていた。華さんの体温を初めて知った。

 夢じゃない、生きた暖かさだった。

 

 華さんは「しばらく制作に専念するから」と遊びに誘ってくることはなくなった。

 寂しいような気もするけど、応援したいと今は思う。夢に向かう彼女が輝くことを私は願わずにはいられない。

 今まで通り、でいいのかな。私、なんかずるいかも。

 なんでもない日常がやってきて、なんでもなく人生が過ぎてゆく。そのことに焦りを感じられるうちは、私はまだ何かになれるのかもしれない。

 

 華さんから個展のDMを貰った。

 タイトルは《夢じゃないから消えない》

 現実を私たちは生きている。うまくいかないことだらけの、この現実を。

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青嵐吹くときに君は微笑む Side girls 桜蘭咲くときに君は囁く

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「はぁあ、リア充共がいちゃつきよって。私に春は来ないのかねー」

「私も彼氏欲しいです。お兄ちゃん爆発してよ」

 酒本邸のリビング。こたつが片付けられたラグの上で女の子が二匹打ち上げられていた。

「こらこら、床で寝ないの。滴、パンツ見えるぞ」

 俺が注意しても「どうせお互いのパンツ見せ合ってるんだろバーカ」と力のない罵声が飛んでくる。失礼な。見てるけど。

「はーい、今日のおやつは桜餅ですよー」

 食べる! と先程まで機動力皆無だった二匹が飛び起きる。やはり先輩のご飯の力はすさまじい。

 淡い紅色のお餅に包まれた先輩自家製の餡。モチモチで、少ししょっぱくて、春の香りがする。もうすぐ短い春休みが終わろうとしていた。

「みんな進級おめでとう。華ちゃんもね」

「あはー、単位ギリギリだったけどね」

 扇田さんが頬を掻きながら笑う。大学生らしい会話だ。

「そういえば華さんと渚先輩ってどこで知り合ったんですか?」

 やわらかなお餅を咀嚼しながら滴が問う。

「んー、あれはもう何年前だったかねぇ。あたしが高校を卒業して美大専門の予備校に入ってからだね。ナギちゃんは高校通いながら来てたんだっけ」

「うん。父が亡くなってから敦さんの勧めで入ったんだよ。バスケも楽しかったけど、夢のために部活をやめる決意した。デッサンとか造形とかいろいろやったね」

「よく分からない瓶のデッサンとかさ。でも、必死だったよね、お互い」

 顔を見合わせて微笑みあう二人が羨ましくて、俺はもう一つ桜餅を手に取った。

「あたしはさ、高校生のとき、好きな人がいたんだ。美術の先生でさ」

勿論、女ね。と扇田さんは付け加える。

「それはもう丁寧に教えてくれて、クラスメイトが誕生日だと朝、黒板にイラストを描いていてくれるような人で。それで愚かな私は、先生に告白しちゃったんだ。そしたらなんて言われたと思う? そういうことは軽々しく言わない方がいいよ。って、あたしの恋心全否定。先生と生徒だから、とかじゃなくて、同性同士だからいけなかったというようにあたしには聞こえたよ」

 いつも通り、扇田さんは歯を見せて笑ってみせた。

「失恋ついでってわけじゃないけど、同性愛は隠さなきゃいけないんだってあの頃のあたしは思っていて、親にも何も言わずに家を出た。そして先生と同じ美術の道に進むために予備校に入った。親からの援助は一切ないから生活費と学費を昼間と深夜のバイトで稼いで、夕方は予備校って生活をしていたんだ。そんな生活続くと思う? 案の定過労で予備校でぶっ倒れたわけ。そこに居合わせたのがナギちゃんだったの」

 大変だったんだから、と渚先輩が笑う。

「あたし、あのときご飯を殆ど食べてなくて、ナギちゃんが夜ご飯の弁当を分けてくれたんだよね。それがまあ美味しくてさ。なんだか安心したら泣けてきちゃって。ホント、お恥ずかしい話ですよ。それでさ、もう全部話しちゃえ、ってナギちゃんにあたしがレズビアンだって言ったの。それはまあ結構な覚悟よ? 嫌われるかも。もう話せなくなるかも。予備校中で噂になるかもって。そしたらナギちゃんが『僕も彼氏いるよ』なんて言い出すもんだから、あたしの覚悟返せー、って笑っちゃったよ。それからかな、ナギちゃんと一緒にいるようになったのは」

「殆どご飯食べに来てるだけでしょ」

 ナギちゃんは金持ってるんだからいいじゃない。と扇田さんは先輩の髪をぐしゃぐしゃに撫でた。

「じゃあ華さんは渚先輩の一つ上の歳なんですね」

「そう、大学の学年は一緒だけどあたしが一つ上だね。あんまり気にしてないけど」

「大学は色んな人いるからね」

 そういえばこの前ピンク頭の人いたよねー。なんてこの話は流れていった。

 

 じゃああとは若い二人でごゆっくり、と嫌味たっぷりで扇田さんと妹は帰っていった。

 帰り際、扇田さんに耳元で言われる。

「バイト終わったら店まで来てほしいんだけど」

 そう、LINEのIDが書かれたメモ用紙を隠すように渡された。

 何の話かは分からないけれど、多分、渚先輩には話せないことだろう。

紙を尻ポケットにしまうと、皿洗いをしている先輩を後ろから抱きしめた。

「なあに? 零くん」

 腕の中にすっぽりと収まる先輩のふわふわの髪に鼻を埋めた。渚先輩のシャンプーの香りがする。

「先輩のこと、呼び捨てにしてもいいですか?」

「急にどうしたの?」

 先輩が皿を拭く手を止める。

「ただの嫉妬です。カッコ悪いですか?」

「ふふ、いいよ」

「じゃあ、なぎさ」

「はい、れい」

 耳まで熱を持って恥ずかしさが身体中を駆け巡る。それは先輩も同じようで、耳が赤くなっている。俺は先輩の顎を掴むと、振り向かせて唇を重ねた。可愛い。渚が。

「零くんのえっち」

 潤んだ瞳で見上げられるものだから、もう一度、今度は深く口を合わせた。

「どうせえっちですよー」

 もうっ、手伝う気がないならあっち行ってて、とリビングに追い出されてしまった。仕方なくソファーに腰掛けて、かけっぱなしだった二〇〇八年の国立競技場コンサートを観る。最近気付いたが、俺は彼らの曲中のかっこいいラップが好きみたいだ。研いだ爪隠して牙をむく。なんちゃって。

 尻ポケットから紙を取り出して扇田さんのLINEをID検索する。『haru senda』と出たので多分これで合っている。一言には「可愛い女の子尊い」。間違いなく合っている。トークを開いて「どうも、クソ男の相原零です」と一言送っておいた。自虐が過ぎただろうか。

「零、終わったよ」

「ひゃいっ!?」

ひゃいって何、ところころ渚は笑った。俺の隣に腰掛けて手を握る。流水にさらされた先輩の手は冷たかった。

「不意打ちはずるいよ、なぎさー」

「れいー」

「なぎさー」

 気恥ずかしさと照れと馬鹿馬鹿しさに二人笑った。

 そして見つめ合うと、どちらからともなく抱き合って口付けをした。

 ソファーに渚を押し倒し、首筋にキスをする。

「零、続きはベッドでしよ」

 俺の頬に伸ばされた手のひらに口付けをすると、渚の膝下と首の下に手を回して持ち上げる。小さくて軽い先輩の身体。砂糖菓子みたいな彼を大切にしたいのに、めちゃくちゃにしたいなんて、俺も男ですね。

 

「そういえば、先輩の夢って何なんですか?」

 日の落ちた薄暗い寝室。ミネラルウォーターのペットボトルを片手に、隣で休む渚に尋ねた。

「僕はね、コンサートや舞台の舞台装置とか、テレビの大道具さんになりたいんだ。そのために美大でデザインを学んでいるの。本当は建築系でも良かったんだけど、デザインしてみたかったから」

 そうなんですね、と相槌を打つ。

「僕が大好きなアイドルさんたちが活躍する場所を彩りたい。それが僕の夢。叶うかな」

「叶いますよ。俺が応援しますから。何があっても」

 ありがとう。そう先輩は俺の腰に頭をつけた。

「急にバスケ部止めてたくさん迷惑をかけたと思う。だけど、父さんが好きだったものに触れ続けるのはつらかった。それより、目指すものを考えたかった。自分勝手かもしれないけど、自分のことしか考えられないほどいっぱいいっぱいだったんだ。零くんの腕の中でそう決めたの」

「覚えていてくださったんですね」

「うん。知ってたよ。零くんがずっと見ていてくれたこと」

 急に胸の真ん中が熱くなるようで、自然と引き寄せられるように抱きしめ合った。

 どうかこの時よ、続け。永遠に。

 そのとき、スマートフォンが振動する。見ると、扇田さんからのLINEだった。

「バイトは二十三時に終わるから。スーパーの入り口前にいて」

 絵文字も何もない。そっけない文章だった。

 俺は「了解」と書かれた猫のスタンプを送った。

「零くん、お友達?」

 あれは友達なのだろうか。

「はい、ごめんなさい、急ぎだったみたいで」

 そっか。と渚は布団を被る。俺も一緒に潜って抱き合う。汗で吸いつく肌の感触と、めいっぱい感じる先輩の香りに、胎児に戻ったかのような安心感を覚えた。

「そろそろお風呂入ろっか」

「じゃあ俺、沸かしてきます」

 よろしくー、と先輩は手を上げて見送った。

 お風呂でもう一度盛り上がってしまったのは若気の至りです。

 

 一度帰宅して夕食を済ませて二十三時。

「こんな時間に出かけるの?」と咎められたが、ちょっとコンビニ、が通じる程度の都会に住んでいることに感謝した。

 扇田さんの勤務先のスーパーはもう明かりを落としていた。誰もいない駐車場はどこか非現実的で少しだけわくわくした。

「おっす、クソ男さん」

 今日会ったときと同じ、ジーンズにスタジャン姿の扇田さんがいた。

「話って何ですか」

「まあまあ、ちょっとこれでも飲みながら」

 売れ残りのホットコーヒーを差し出されて、駐車場の柵に腰掛けた。

「実はさ、好きな人ができちゃって」

 思いもよらぬ言葉にコーヒーを吹きそうになった。

「本当は、好きになるつもりはなかった。ただ友達でいれたらよかった。でもさ、『好きになっちゃいけない』って思っている時点で、好き、なんだよね」

 そう語る扇田さんは苦しそうで、その恋が勝算の低いものだと感じさせた。

「誰のことが好きなんですか?」

 それ聞いちゃうかー、と扇田さんは溜め息を吐いた。

「君の妹だよ」

 えっ。

「相原滴。あたしの好きな人。でも、しずくっち、ノンケでしょ?」

「うん、聞いてる限りでは」

 あーあ、と扇田さんが髪を掻く。

「あたし、ノンケを好きになんてなりたくなかったのに。でもそうか、しずくっちがナギちゃんに恋したときも性別を理由に振られてるのか。馬鹿だよね、あたしたち」

 街灯の下で、扇田さんの瞳から輝くものが落ちる。

「俺は、相手がどんな性別を好きかで好きになれるとか、分からないと思います。だって」

――――恋は落ちるものだから。

「けっ、若僧のクソ男のくせにかっこいいこと言いやがって」

 あたしどうしたらいいんだろう。そう、彼女は自分を抱きしめた。

「告白してみたらいいんじゃないんですか?」

「馬鹿なの? それで一緒にいられなくなるくらいなら、あたしは一生黙ってるよ」

「俺の妹は、拒絶しません。俺たちのことも受け入れて、一緒にいてくれる。そんなお人好しなんです」

「あんたもつくづくお人好しだけどな」

 そりゃどうも、と俺は笑った。

「まあ、聞いてくれてありがとね。あとはあたし次第だ」

 そう言って、扇田さんは帰っていった。俺はたまたま好きな人の好きな性別に当てはまっていた。それは尊い奇跡だ。俺は何か扇田さんの力になれただろうか。

 帰り道、早咲きの桜が街灯に照らされているのを見つけた。その花弁のように、ひらりひらりと、恋に落ちる。それは逆らえないものだから。

 

「しずくっちー」

「うわっ、華さん」

 いつものように酒本邸。リビングで女の子が戯れている。

「ねえねえ、しずくっち。あたし、しずくっちのこと好きだよ」

「えへへー、私もです」

 扇田さんは恋人として。滴は友達として。この差を埋めるものって一体何だろう。

「はいはい、他人(ひと)の家でイチャつかなーい。お昼は焼きそばだよ。手洗い行ってらっしゃい」

「はーい」

「やっふーい」

 この二人がこの先どうなるのかは分からない。でも、名前の付かない関係でもいいから、仲良くしていてくれたらいいな、と俺は願った。

「ねえねえ、零くん」

 渚先輩が耳打ちする。

「華ちゃんって滴ちゃんのこと好きなのかな」

「さあ、どうなんでしょうね。女の子って大体あんな感じだと思います」

 恋じゃなくてもいい。そう言えない弱さを俺たちは持っている。それでも、幸せを願うよ。

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青嵐吹くときに君は微笑む Side Boys ひだまりの匂い

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 俺たちが一緒に暮らし始めて、初めての冬が来た。

「渚、洗濯物畳んじゃうね」

 キッチンの方から「零くんありがとー」と愛くるしい声が飛んでくる。同じ生活空間に愛しい人がいる。頬の内側から幸せが染みだしてぴりぴりと産毛が立った。

 二人で暮らし始めてから買い換えたドラム式洗濯機からふかふかの服たちを取り出す。二人で選んだ柔軟剤の匂い。俺たちに馴染み始めた家族の匂いだ。

 カゴに移したひだまりをフローリングの上に一度広げる。やわらかなものの気配を感じ取ったアイツが軽やかな動作でやってくる。

「こら、アマタ。洗濯物に毛が付くから」

 アマタは渚先輩が留学時に飼い始めたミニうさぎだ。青みがかった銀色と輝くような白色の毛は撫でるとひんやりと水分をたたえている。アマタは洗濯物の山を掘るのが大好きだ。それはちょっと困るので膝の上に捕獲する。とくりとくりと人間より少し早い鼓動が生きていることの証明だ。

「はい、しばらくはここにいなさい」

 膝で挟むとアマタは大人しく寝転がる。足の裏もふさふさしていて、毛が生えていないのは眼孔だけではないかと思う。最初は俺に懐かなかったアマタも、今では俺に身をゆだねてくれる。全く、可愛いんだから。

 洗濯物は季節を表している。インナーは長袖に。靴下は厚いものに。そして今年初めてセーターを洗った。俺の服と渚先輩の服を並べると大人と子供みたいだ。先輩は俺より背が十五センチも小さく、Sサイズだったり、たまにレディースの服も着ている。それを思うと夫婦かも、と考えるのは少々こっぱずかしく、馴れることはなかった。

「零くん」

 背中に、愛しいぬくもりが触れる。

「なんですか? 渚先輩」

「まだ僕は『先輩』なの?」

 いじわるく言う彼に敵わなくて、俺は耳まで染めた。

「う、ううん。渚」

「ふふ。もう高校卒業から七年だよ。そろそろ馴れて」

「分かった。でも、渚はずっとあこがれの先輩です」

 そっかー、と渚は強く俺を抱きしめる。ふわふわの髪がうなじに当たってくすぐったくて、心までくすぐったかった。

「ふう、零くん補給した」

「補給できた?」

「うん。おかげさまで」

 歯を見せて笑う渚が可愛くて、俺は顎を引き寄せた。

「俺も渚補給した」

 もう、と嬉しそうにむくれるこの人を思う気持ちを、どう言葉にしたらいいのか俺には分からなかった。

「あーアマタが脱走してる!」

 いちゃいちゃしやがって、とばかりにアマタは折角畳んだ服の山を倒してこちらを見ていた。耳を倒して「聞きませんよー」とばかりに。

「こらー! アマタめ。おでこバイブの刑に処す」

 小さな額を指でぐりぐりしてやる。気持ちよさそうに鼻を手に寄せてくるのだから可愛い。そして手を離すととてつもなく寂しそうな顔をする。与えられているものが無くなることも悲しみだ。しばらく反省していなさい。

 しょぼくれてうたた寝を始めたアマタをよそに洗濯物を畳み直す。俺の洗濯物畳みはいつもこうして時間がかかる。

「渚はご飯できた?」

「うん。鱈が安かったからお野菜と煮て鍋物にしてみたよ。久しぶりの休みだったから気合い入れてお出汁から取ってみました。いつでも食べられるよ。シメはご飯炊いたから雑炊ね」

「いつもこんな美味しい物食べてていいのかな」

「いいんだよ。お洗濯物してもらってるから平等」

 ね? と同意を求める声に俺は救われる。全く、先輩には敵わない。

 よし、と畳み終えた洗濯物を抱える。

「はいはい、アマタもご飯にしようね」

 渚がアマタを抱きかかえてカゴに戻す。ご飯を入れてやるとポリポリと小気味よい音を立てて食べ始めた。

「ねえ渚」

 なあに? と彼の唇は柔らかく弧を結ぶ。

「愛してるよ」

「なんでこのタイミング?」

「思ったから、じゃダメ?」

「そんなこと言ったら」

――僕はいつでも言わなきゃいけないね。

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青嵐吹くときに君は微笑む Side Boys 悲しみにカーネーション

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「渚ちゃんはどうしてるかしらね」

 日曜日の昼、家族そろってラーメンを食べていると母さんが急に言い出した。

「ほら、渚ちゃんってひとり暮らしなんでしょう? 今日のお昼もひとりなのかしら」

「さあ……」と俺は首をかしげる。渚が何をしているか。今日は五月の第二日曜日。よく晴れていて寒くも暑くもない。ちなみにアイドルの「現場」とやらも今日はないはずだ。大学の課題、とか?

「おかーさーん! お兄ちゃん、何も分かってない顔してるー!」

「なっ」

 滴よ、何が言いたいんだ。相変わらずひどいな。

「お兄ちゃん、お母さんは渚先輩のこと心配してるんだよ?」

「……なんで?」

 滴がやれやれ、と大袈裟に頭を抱える。

「バカなお兄ちゃんには教えてやーらない!」

 ごちそうさま! と滴が手を合わせてから丼を片づける。何だろう。今日って何かあったっけ。

 

 五月は好きな季節だけれど、第二日曜日だけはどうしても苦しくなる。

「お母さん、ごめんね」

 いくら謝ったところでもう帰ってこない。どれだけ酷いことをされたとしても執着してしまう僕の弱さにももう慣れて、ほんの少しのセンチメンタルと一緒に肩を抱きしめた。赤いカーネーションを一輪玄関に飾る。おぞましい記憶が蘇る。

 今思えば酷く思い込みの激しい人だった。嫉妬に狂った母が怖かった。僕のことを一切認めようとしなかった。それなのに。

「出てくるのは、ごめん、ばっかりだ」

 過去に押しつぶされそうになって息が詰まった。炭酸飲料でも飲もう。ハチミツ漬けのレモンをサイダーで溶かして……

 膝にうまく力が入らなくて三和土の上で蹲った。

 ダメだな、僕、こんなんで。

 

 華さんから〈死んで詫びろ〉というLINEが届いたのでさすがに何かあると思い始めた。

 何を送ったんだ、妹よ。俺は死なないぞ。

〈ヒントくれ〉と滴に送ってみる。

〈ググレカス〉と即レス。ひどい。しかし兄はめげない。

〈検索ワードは?〉

〈五月第二日曜日〉

 おまけでチェーンソーで首をはねられるスタンプが届いた。お前これお気に入りだろ。

 Googleの検索にかける。トップに出てきた三文字に脳を殴られる。冷たいものが背筋を流れ落ちるのを感じた。

 

 しばらくじっとしていたら脚の感覚がなくなって、それでもなんとかよろよろと立ち上がってリビングに戻った。

 零くんは何をしているだろうか。部活は休みだったはず。それに今日みたいな日……うん。零くんはお母さんのこと大事にしてる。僕なんかと違って。

 ぐるぐると「僕なんか」「僕なんか」という言葉が幾度となく降ってくる。ソファに体を預けて息を吐く。今日ばかりはしょうがないけれど、やっぱりしんどいことを思い出すには十分で、どう向き合ったらいいのか未だに分からないでいる。

 スマートフォンを手に取る。ファンクラブ会員向けのメールが二件とツイッターのおすすめが一件。華ちゃんからのLINEに返事をする。何も変わらない日常。変われない僕と、変わらない。変わらない。

「はあ、ホント僕ダメだ」

 変わりたい。けれど過去は変わらない。堂々巡りの思考。スリープにした真っ暗な画面が僕を写す。泣いてなんか、ないよ。

 

 さて、これはどうするべきか。いや、考え過ぎかもしれない。渚には確かに母がいない。それも最悪の形で別れている。だからって何か……あるような気がしてならない。でも俺に何ができる?

「母の日、ねえ」

 母さんと滴は仲良く買い物へ行った。今夜は手巻き寿司にするから早くお刺身を買いに行くのだという。

 渚は料理が好きだ。だけど母から習ったわけでもなく、全部独学で――渚は「家に家族がいないから」と表現した。

 そっか、なるほどね。

 

「で、あのクソ男はこんな弱ったナギちゃんを放っておいてるわけだ。死んで詫びろ」

 まあまあ、と家におやつを食べに来た華ちゃんを窘める。

「いいんだよ、これは僕個人の問題だし。こんな弱ってるところ、見せられないよ」

「それ、本気で言ってる?」と華ちゃんが眉を釣り上げる。

「ナギちゃんにとって一番甘えたい相手なんじゃないの? 辛いときに一緒にいられなくて何が彼氏だよ。脳天かち割ってこようか?」

 華ちゃんはビスケットを2つに割って口に放り込む。

「いいの……僕が、勇気出ないだけだから」

 華ちゃんが僕の髪をグシャグシャと撫でる。

「ナギちゃんは何にも悪くないからね」

「ありがと、華ちゃん」

 礼を言いたければビスケットおかわり! と華ちゃんが空になった皿を差し出す。全く、敵わないな。

 

 華さんや滴にはいつもけちょんけちょんに言われるわけだが、その理由は俺の行動力のなさが原因なんじゃないかってことは薄々分かり始めていた。

 でも……俺に何ができる?

 渚が何を求めているのか分からない。今何をしているのかも。

 それって、恋人としてどうなんだ? 渚のこと、ちゃんと分かって――。

「あーもう」

 考えているだけじゃダメだ。でも、なんて、なんて言えば。

 結局俺はたった一言〈大丈夫?〉と送った。語彙力がこい。

 

 零くんのLINEはいつも短い。

 華ちゃんや滴ちゃんが長いだけかもしれないけれどいつも簡潔であっさりしてる。

「で、ナギちゃんはどう返事するの?」

「どう……って、大丈夫としか答えようがないよ」

「ふーん、嘘付くんだ」

 華ちゃんははちみつレモンサイダーを飲む。

「嘘、なのかなあ」

「ナギちゃんもナギちゃんだよ。あのクソ男に百パーの気遣いを求めるほうが無理ある」

 うっ……確かに零くんは不器用なところもあるけど、けどいつだって真っ直ぐだから。それに変わりたいのは僕の方だ。

 

 渚から〈大丈夫じゃない〉と返信があった。もちろんこんなLINEをもらったことなんてない。慌てて電話をかける。

「零くん?」

「何かあった? どこにいる? 俺、その、ええと――」

 スピーカーからコロコロと笑う声が聞こえる。えっ?

「零くん慌て過ぎだよ。その、なんかちょっと、しんどいなぁって思ったから。ダメ?」

「ダメ、じゃない」

 俺の声が尻すぼみになる。

「たまには零くんに甘えたいなぁ、って。ね?」

「う、うん。ありがと。俺に何ができる?」

「そうだなあ。たとえば――」

 

「あらあら渚ちゃんいらっしゃい」

 母さんの余所行き声に俺と父さんが苦笑する。

「お邪魔します。これ、つまらないものですが」

 母さんは「そんな、わざわざいいのにー」とか言いながら嬉しそうに受け取る。

 渚と俺の家族と一緒の食卓。

 海苔に酢飯と刺し身と愛情を巻いて。

 これで、いいのかな。俺はいつだって無力で、子供で、情けなくて。

 俺の膝に渚の温かい手が触れる。

「零くんのお母さん」

 渚が言う。

「母の日、おめでとうございます」

「あらま、そんなの零にも言われなかったわ。ありがとうね」

 ――あなたも私の自慢の息子よ。

 俺の目頭が熱くなる。渚の手に俺の手をそっと重ねた。

「はい、お母さん」

 

 零くんのお母さんは僕らのことを受け止めてくれる。だからって認めようとしなかった僕のお母さんのことを責めるつもりはない。もう仕方がない、としか言えない。過去は過去で変わらずに海馬の中に横たわっている。

「零くんの家に泊まるの初めてだね」

「なんだかんだ、そうだね」

 零くんの匂いだー、と渚がシーツに潜り込む。小さな体を抱きしめる。大切に、大切に、壊さないように。

「僕、頑張ったでしょ」

「えらい」

「手巻き寿司って大人数じゃないと食べられないから嬉しかったな」

「いっぱい食べたね」

「零くんのお母さんは素敵な人だね。僕のこと、こんな、僕のこと」

 渚が黙る。泣いているのかと思ったけれど、渚は俺の胸に隠れたままで。

「渚のこと、俺は大事にしたいよ」

 鼻腔音で返事される。

「家族に、なろう」

 今度は潤んだような声だった。

 小さな体に、たくさんの悲しみと、溢れんばかりの華やかさ。

「零くん、ありがとう」

「こちらこそ」

 ちっぽけな勇気と、たくさんの愛を。

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009/物言わぬ君

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 僕の家にはうさぎがいる。「山葵さん」というブルーシルバーの毛のミニウサギだ。しかし今日は山葵さんの先代、「紅葉さん」の話をしよう。
 紅葉さんは僕が中学1年生になる少し前に家に来た。
 僕の小学生生活は明るくなかった。小学校六年生の最後は教室には行けず、保健室登校をしていた。
 友達らしい友達もいないまま、中学生になろうとしている。同じ小学校だった人が半数の中学校へ行くのか。
 そんな不安を抱えたある日、テレビでうさぎ特集を見た。ふわふわで、コミカルな動きで、静かで。可愛らしく、とても魅力的に僕の目に映っていた。そして両親に「うさぎを飼ってみたい」と提案した。急に何を言い出すかと両親は驚いたが、僕がうさぎの飼い方ハウツー本を買って読み始めると、両親は「じゃあこのお店に買いに行こう」とハウツー本に乗っていた隣町のうさぎ専門店を提案した。
 そこで飼ったのが、紅葉さんだった。
 たれ耳で、全身は栗色だけれど鼻先と耳は黒く、足の裏が白くて、きれいな目をしていた。
 僕の腕の中で震える紅葉さんのことを、きっと大事にできるたろうと思った。
 
「たれ耳のうさぎさんはおとなしくて飼いやすいですよ」と言った店員さんには少し文句をいわなくてはいけないかもしれない。
 紅葉さんの悪の所業は数しれず、破壊された家具家電、そして僕の夏休みの宿題までボロボロにした。
 走り回り、飛び回り、探検してはこちらが追いかけ回すのが日常だった。
 とんだおてんば娘だ、と呆れたが、それでも可愛らしいのでおでこをぐりぐりとなでてお仕置きしていた。
 
 うさぎは、鳴くことがない。正確にはめったに鳴かない。僕は鳴き声を聞いたことがない。
 けれど表情、仕草、走り回る動き、足の踏み鳴らし方、視線。そういったもので全力で感情をアピールしてきた。
 紅葉さんはお腹が空くとこちらを「私かわいいからご飯もらっていいでしょ?」と言わんばかりの表情で見つめ、外で遊びたいときはゲージの扉を噛んで暴れた。今思ってもなんとも激しい子だ。
 けれど、やはりうさぎには言語がない。
 中学校に入り、前の小学校での辛いことを思い出すと、僕は決まって紅葉さんのゲージの横で膝を抱えた。
 何も言っていないのに、紅葉さんは僕の横に来て座った。一緒に物思いに耽った。
「ここにいるよ」と言ってもらえたようだった。何も言わないけれど、言葉はいらなかった。
 僕にとって、一番の理解者は紅葉さんだったのかもしれない。
 
 晩年までおてんば娘を貫いた紅葉さんは、おもちゃに足を引っ掛けて骨折した際レントゲンを撮ったら腫瘍がお腹に見つかり、そのままぽっくりという人生を終えた。
 骨折していなかったら「もうすぐ死ぬんだ」という心の準備もなく亡くしていたと思うといいのやら、骨折するなよと呆れるようななのだが、最後まで僕のことを思っていてくれたと思う。
 
 僕が手を差し出すと「撫でなさいよ」と頭を差し出す、彼女のことがとても愛おしい。
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008/老い

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 前話とは違う方の祖父母の話をしようと思う。
 祖母は看護師で、病弱な僕のよき理解者だ。一方、祖父は頑固でいつも何かに腹を立てている。
 今日はその祖父の話をする。
 僕が幼い頃、祖父はとても教育熱心で、幼い僕や弟、いとこたちにひらがなや数字の足し引きなどを教えてくれた。ひらがなの「あ」はどっちに回るのか。カタカナの「サ」の書き順。それらを教えてくれたのは祖父だった。
 よく遊びにも連れて行ってくれて、やなに鮎を食べに行ったり、テーマパークに連れて行ってくれることもあった。
 そのときから、祖父は少しわがままなところがあって、帰るタイミングは決まって祖父の飽きた頃だった。
 
 祖父は肺炎になった。慢性の、少し咳が出る程度の、あまり重くはないものだった。
 けれどインフルエンザなどを併発すれば命に関わることもある。
 そのころから、祖父は内科で精神安定剤をもらうようになった。
 家からほとんど出ず、リビングに座ってペットの犬を膝にのせてクロスワードやナンプレを解く日々。食事に誘っても断られることが多くなった。
 そのくせ自動車免許の返納を勧めたら頑なに拒んだどころか、更新する際に受けた認知症検査の結果を誇らしげに家族中に自慢して回った。
 小さくなっていく祖父の身体と、肥大していく自尊心。
 もう片方の祖母は「もうすぐお骨になりますから」とにこやかに言ってのけるけれど、こちらの祖父は絶対に言うことはないのだろう。
 年老いた人々はみんな死ぬのが怖くないわけではないのだと知った。祖父は、毎日怯えている。怯えた猛獣のようにイライラと周囲に当たっている。
 この差はどこで生まれるのだろう。
 僕は老いたとき、どちらの側の人間になっているのだろうか。
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青嵐吹くときに君は微笑む Side Boys つなぐ

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 車窓に切り取られた田園風景。俺たちの住んでいるあたりも都会とは言えない同じような風景だけれど、故郷からは離れた、違う風景だということだけは分かる。その場所固有の風景なのかは分からないけれど、非日常にやってきたという実感が俺をわくわくさせた。

「いい景色だね、零くん」

 そうだね、と俺は渚に微笑む。なんでもない田園風景。でも君がいるから特別。

「誘ってくれてありがとうね。なんだかんだ一緒に旅行って初めてだね」

「旅行に行けるだけ大人になったってことかな」

「じゃあもっと大人なことしていい?」

 不敵な笑みを浮かべる渚に、どうぞどうぞ、と俺は駅で買った物を取り出す。駅弁と缶ビール。プルトップを立てると小気味よい音がする。

「ビールが美味しいと思えるようになるとは思わなかったなあ」

「俺はチューハイの方が好きだけどね」

「お子様舌だね。って、お酒はお子様飲めないけど」

 ころころ笑う渚はいつになく上機嫌で、旅行に誘ってよかったと心から思う。こんなに可愛い子と一緒に居られるなんて。

「零くん、にんまりしてる」

「いいでしょ、べつに」

 幸せってことに、しておいて。

「わーい! 駅弁に染み染み煮卵入ってる! 零くん欲しい? うーん、あげなーい!」

 はいはいよかったね、と俺は渚の髪を撫でる。視線が交わる。触れるのには、まだ早い時間。

 

 駅からのシャトルバスに乗って宿泊先の温泉旅館に到着したのは日が落ちる少し前のこと。山並みに沈む夕日を眺めていたら俺たちは自然と手を繋いでいた。出迎えてくれた女将さんが俺たちの繋がれた手を見る。それでも俺たちは強く握り締めた。女将さんは柔和に微笑んだ。

「お風呂にする? それともご飯にする?」

 渚に問うと「お風呂でさっぱりしたいな。ご飯食べたら眠くなるし」と答えた。

「おっきなお風呂久しぶりだな」と浮かれる渚を見ていたらなぜだか泣きそうになった。手を離さなくてよかった。離しちゃいけなかったんだ。本当に、俺は。

「零くん、零くんが好きなのは誰ですか?」

 ずい、と彼が俺の顔を覗き込む。

「渚、です」

「じゃあ僕が好きなのは?」

 答えずにいると、

「相原零くん、ただ一人だよ」

 ね? と彼は俺の手を引いた。まったく、敵わないな。

 

 お互い頭と身体を洗って外に出た。公共の場には甘い空気は持ち込めない。雰囲気としては部活の合宿と同じような、いいや、もっと親密だけれど成熟した関係だと感じる。外は秋の装いで、ライトアップされた紅葉の鮮やかさに目を奪われる。

 露天風呂は岩風呂だった。湯の上を湯煙が走る。高い空にぽっかりと浮かぶ月。半月ってやつだ。

「上弦の月、だね」

 渚がぽつりとつぶやく。

 俺たちは違う瞳で同じものを見ていた。

 違うから、俺たちは引き寄せ合ったんだ。

「零くんってスケベなこと考えると真顔になるよね」

「なっ」

 渚が口角を上げる。湯の熱さだけじゃないものが耳まで熱くした。

「ふふふ、零くんだなあ」

「それは俺がモサ男ってこと?」

「否定してほしい?」

 ころころ笑う渚の頬に、小さな喉仏に、鎖骨に。だめだ、かわいい。

「あんまりかわいいこと言うと俺我慢しないよ?」

「どこがかわいいの、これ」

 変な零くん、と渚が口を押さえて笑った。

「あー、ちょっとのぼせたかも」

 俺は立ち上がって夜風に当たる。

 ひゃ、と渚が目を逸らす。

「スケベなのは渚じゃん」

「……スケベじゃないもん」

 今日のところはそういうことにしておこう。まだ夜は長いから。

 

 夕食は旅館の離れにある料亭を予約していた。こういう旅館に来ると(そもそもそんなに旅行をしたことがないのだが)家族向けなホテルビュッフェしか食べたことがない。個室の掘りごたつでお酒片手に季節の野菜と魚、そして地元のお肉を食べる。料理もひとつひとつの量は少なく、品数は多く。なんだか本当に大人になったみたいだ。

「何もしなくても出てくるご飯って最高だね」

 渚の頬が上気している。アルコールと旅の高揚。浴衣の合わせから見える肌もほんのり色付いている。

「いつも美味しいご飯ありがとう、渚」

 えへへー、とふやけた笑いを見せる。かわいい。旅費をせっせと貯めた甲斐があったな。

 いつも仕事を頑張っている渚をねぎらいたい。それに忙しい仕事の合間を縫って休みを取ってくれたことにも感謝しなきゃいけない。本当に、本当に渚は頑張ってるよ。

 ふあ、とあくびが漏れた。俺もちょっと飲み過ぎたかもしれない。

「そろそろ部屋戻ろっか」

 渚が腕を絡ませる。いつもより高い体温を感じていた。

 

 部屋に戻ると布団が二組、ぴったりとくっつけて並べてあった。

「女将さん、よく僕たちのこと見てるね」

「あからさますぎてびっくりする」

 顔を見合わせて俺たちはクスクス笑った。

 横になると俺の腕の中に渚が入ってくる。すっぽり収まる彼の身体。渚の匂いがする。大浴場の石鹸の匂いの奥に、彼のシトラスの匂い。

「いい、におい」

 うつらうつら。意識が夢の世界に入ろうとする。

 刹那、柔らかいものが唇を舐める。

「寝ちゃうの? 零くん」

 腕の中の彼が、官能の灯った目で俺に訴える。

「寝たら、やだなぁ」

 俺は彼を抱き寄せると唇を合わせた。深く、深く。思いの分だけ、深く。

「っはぁ……。零くん?」

 挑発的な笑み。俺が欲しいのは渚で、渚が欲しいのは俺。その事実が俺の雄を呼び起こす。

 渚の耳を食む。乾いた舌先でなぞり、耳元で水音を立てる。彼の控えめな甘い声が俺をますます興奮させる。

「ねえ零くん。やさしく……しないで」

 その言葉は俺の理性を飛ばすには十分だった。

 

「渚、お湯滲みない? 大丈夫?」

 部屋に備え付けの露天風呂。俺の脚の間に渚がすっぽり収まる。

「大丈夫だよ。切れてはないし。でも、腰は痛いかも」

「ご、ごめん」

 謝ることないのに、と彼は笑っていた。

「でもそうだね。いきなり手首縛られたのにはびっくりした」

「それはその、浴衣に付いてたから」

「零くんのえっちー」

「どうせえっちですー」

 暖かい湯の中で、渚は拗ねる俺に向き直る。

「零くん。零くんが卒業したら、一緒に暮らしませんか?」

「えっ」

「僕はずっとそのつもりだったよ」

 ほろり、と雫が落ちる。

「泣かないでよ、零くん」

「だって、俺、胸がいっぱいで」

 胸がいっぱいなのは幸せが詰まっているから。

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