オリジナル小説サイト「渇き」

恋愛小説、純文学、エッセイを扱った小説家・佐倉愛斗オリジナルサイト

青嵐吹くときに君は微笑む Side girls 夢じゃないから消えない

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 やっぱり、ないか。

 ギャラリーの壁に並べられた女性の絵。ギャラリーといえば私は学校の遠足で行った県立美術館のような壁も床も天井も、真っ白すぎる空間を思い浮かべる。けれどここはノスタルジックな和室で、畳の柔らかさと土壁の優しさに包まれていた。

 全部で十三枚、女性の絵があった。小さなものはポストカードくらい。一番大きな絵は二メートル四方の帆布だった。どの絵も写実的で、生きてこちらに訴えてくる。生きることを。彼女が目指す、アートの力を。それでも、あの絵――華さんが好きだと言った私を描いた作品はどこにもなかった。

 私は正直すぎたのかな、と傷付いた気持ちになった。傷付けてしまったことに傷付いていた。どうして、私はこんなにも愚直で、何も持ってないんだろう。

 お兄ちゃんよりは生きるのが上手だとは思う。ちゃんと将来を見据えて手に職をつけようとしている。けど、それが『夢』なのかと問われると私には分からなかった。

 夢って何? 教えてよ、華さん。

 帆布に描かれた女性。鋭い眼差しが私を叩き壊してめちゃくちゃにする。長い睫毛が頬に影を落とし、神経質な指が頬に添えられている。

 

 I won't disappear becouse it's not a dream.

 

〈滴っちー今度動物園行かない?〉

 華さんからメッセージを貰ったのは梅雨明けのニュースが繰り返し流れていた日だった。これから暑くなるのかと思うと少しだけ心躍った。夏は好きだ。濃い青を描く晴れた空。太陽を浴びて輝く向日葵。そしてコンサートの季節。私はいわゆるアイドルオタクというやつで、夏と言えば国立競技場でのライブを思い浮かべる。初めて参戦したコンサートは真夏の国立競技場で、グッズを買うために炎天下で八時間並び、座席は後ろから三番目。目の前にいるのが誰なのかすら分からないほどステージからは遠かったけれど、泣いて騒いで最高の夏だった。コンサートには人の心を動かす力がある。私に生きる希望を与えてくれる大切な時間だった。

 華さんから動物園のお誘い。なんで動物園なんだろ。遊びに、ってことなのかな。

 悪い気はしなかったので〈土曜ならいいですよ〉と返信した。

 すぐ返信が来る。

〈じゃあ今週の土曜日に。また連絡するね〉

 

 華さんと私の関係を説明するのは少し難しい。二人の人物を経由しないとたどり着かない間柄だ。

 私、相原滴には、相原零というひとつ上の兄がいて、その兄には同性の恋人である酒本渚がいる。そして渚先輩の親友が扇田華だ。渚先輩と華さんは県立の美大に通っていて、渚先輩はこの春卒業して就職。華さんは大学に残って制作活動をしている。華さんがどんな作品を作っているのか私はあまり知らない。渚先輩に対して過保護すぎて、明るくサバサバしていて、食いしん坊で、頼れるお姉さん。私生活は見えない。そんなミステリアスさがカッコいいなって思うと同時に、アーティストという人種は私とは縁遠いのかなとか思ってしまう。

 ひとつ言わなくてはいけないのは、私は渚先輩のことが好きだった。異性に対する恋愛感情として。でも渚先輩は私ではなくお兄ちゃんを選んだ。性別でごめんなさいされた。そのことを恨むつもりはないけれど、やっぱり悔しくて、一時期お兄ちゃんのことが嫌いだった。でも渚先輩とお兄ちゃんの関係を側で見ているうちに恋敵というより、一緒に居られる仲間にように感じられた。中立の立場でお兄ちゃんを叱咤する華さんの存在があったからかもしれない。

 それから四年が経った。私はまだ、新しい恋を見つけることができないでいた。

 

「おっす、滴っちー」

 デニムのショートパンツに半袖のシャツ。シャツは紫から水色までのグラデーションだ。伸ばした髪は低い位置で束ねられ、その無造作な髪型が中性的な雰囲気を醸している。そして首から大きなカメラ。私はカメラに詳しくないので機種までは分からないけれど、たぶん一眼レフってやつだ。

「華さんこんにちは」

 私はアースカラーのスカートにブラウス。背の高い華さんと並ぶとおしゃれイケメンと量産型女子大生が並んでいるみたいだ。

「滴っちは今日も可愛いのう」

 華さんの屈託のない笑顔をはいはい、と私は受け流す。私と一緒だといつもこんなだ。冗談だと分かっているから恥ずかしくない。恥ずかしがったら真に受けてるみたいじゃない。

 電車に揺られて動物園の最寄り駅に向かう。

 車内で華さんと他愛のない話をした。主に渚先輩とお兄ちゃんの話。華さんのことはいつまでも分からないままだ。

 

 日差しの強い動物園ではライオンがとけていた。

「ライオンって液体なのかな」とつぶやいたら華さんは「金属かもね」と笑った。とても頭の悪い会話だ。

 華さんは何枚も何枚も写真を撮った。動物たちや風景、空や売店のアイスクリームも撮った。

「華さんって写真が趣味なんですか?」

 華さんはシャッターを切ったあと、いいや? と首を横に振った。

「絵を描くための勉強って言ったらカッコいいかな?」

 絵を描くことを勉強したことがない私は素直に頷いた。

「絵ってさ、ただ筆を持って紙に描き続けるだけが勉強じゃないんだよ。モチーフをインプットしたり、美術館や映画館で作品に触れたり。写真は、構図や色の参考にもなるかな。あとは好きなものをスクラップしたり、とか?」

 ほら、と華さんはカメラのプレビュー画面を見せた。

 私は息を呑んだ。

 とけたライオンが柔和な表情で微睡んでいる。優しいけれど眠った勇ましさが垣間見える。こんな表情をしていたなんて私は気づけなかった。華さんの目には、世界はこんなにも美しく見えているのか。

「ねえ滴っち。滴っちを撮らせてくれない? 少しでいいから」

 彼女が見る私はどんな表情だろう。

「可愛く撮ってくださいね?」

「そうこなくっちゃ」と華さんは白い歯を見せた。

 

「滴っちってさ、目標とか将来何したいとかある?」

 動物園と同じ敷地内にある植物園で私は撮られていた。シャッターが切られる度に私を隠す見栄とかバリアとかそういうものを剥がされる気がした。

「目標……ですか。学校では歯科衛生士になる勉強しています」

「ほー、いいね。専門職ってやつだ」

「手に職つけようかなって思って。お兄ちゃんみたいに何も考えずにとりあえず大学、とは思えなくて」

 華さんみたいにやりたいことがあって大学へ行くのはいいと思うんですけどね、と私は付け足した。

 華さんは「滴っちはしっかり者だね」と言った。こんなに真剣な眼差しを向けられたことがあったかな。恥ずかしいけど悪い気はしなかった。

 専門学校へ進んだのは就職に有利だからという打算だ。それでいて私の学力でも入れるところ。これのどこが夢なんだろう。夢ってもっときらきらしていて、現実的じゃないものだ。

「あたしの夢を聞いてくれる?」

 華さんが切り出す。カメラのレンズが私を撮す。

「あたしはね、この世界をほんの少しでも変えたい。あたしの作品でだれかの人生をほんの少しでいいから変えたいんだ。固定概念をぶっ壊すような強いものを作りたい。あたしはあたしの力を信じたいんだ」

 華さんがあまりにも真剣な顔をするものだから、私は何も言えなくなった。

 私の中に湧いたのは、純粋な尊敬だった。

「変、かな」

「変じゃないです。すごい、すごいなあ。私にはできないことです」

 華さんは破顔して「いやあ、あたしには絵しかないからさ」と言った。

 私には、何もない。ただの平凡なヒト。ステージの上で輝くアイドルたちを崇めるだけの信徒だ。なんだかうじうじしそう。お兄ちゃんみたいで嫌だな。

「滴っち、ジェットコースター乗ろうよ」

「え?」

「ここ遊園地もあるからさ」

 いいからいいから、と華さんは私の手を掴んでぐいぐい進んだ。

 前に進む力を持っているのは、一部の選ばれた人だけだよ。

 

「滴っち、すごい興奮してたね。キャーキャー言ってた」

 華さんが揶揄する。私は悲鳴で乱れた息で興奮混じりに答える。

「だって、ジェットコースターなんて久しぶりで。怖いのやら気持ちいいやら」

「スッキリした?」

「へ?」

「滴っち、ちょっと考えてたから。あたしが作りたい絵はこんなジェットコースターみたいなものだよ。何もかもぶっ飛んだでしょ?」

 華さんが私の頬に触れる。にっと笑った華さんが近い存在に感じられた。

「華さん、私、華さんの絵が見たい」

「へ?」と華さんが気の抜けた声を出す。

「華さんが作っているもの、私、見たいです」

 華さんは鼻先をぽりぽりと掻いて、少しだけなら、と承諾した。

 

 華さんの家に行くのは初めてだった。いつもは渚先輩の家で四人集まるか、華さんと二人のときは買い物に行くか近所のファミレスでおしゃべりするくらいだ。

「狭いけど許してね」

 案内されたのは二階建てのアパート。玄関までのルーフの柵が錆びている。排水溝には落ち葉と虫の死骸。お世辞にも綺麗とは言えなかった。

 部屋は手前に小さなキッチンダイニング、奥に和室の六畳間が続いていた。

 物が少ないな、というのが私の感想だった。キッチンダイニングに冷蔵庫はあっても電子レンジはない。通された奥の和室にはベッドと机と本棚はあってもテレビはない。そして机の上の画材たちと、ビニールの貼られた壁際に並べられた大量のカンバス。

「殺風景、って思ってるでしょ」

 私は苦笑した。

「あたしさ、家出同然だったんだ。家具を揃えるお金なんてなくてさ」

「どうして、家出したんですか?」

 華さんは「分からない」と答えた。

「あたし、昔から自分のことを人に言うのが苦手でさ。お腹痛くても言えなくて倒れるまで我慢しちゃうような子でさ。レズビアンであることも、画家になりたいことも、怖くて両親に言えなかった」

 なんでこんなに怖いんだろうね、と華さんは苦しさを忘れるために笑った。

「私には言ってくれるんですね」

「うん、滴っちは……」

 そこで華さんは言葉を詰まらせた。ううん、ごめん、いいや。と誤魔化して。

「あたしさ、この秋に個展やるんだ。あたしの力でいっぱいの部屋を作る。いっぱい描かないとね」

「個展って、すごいじゃないですか」

「いままでグループ展なら何度か出たんだけど、ギャラリー側に交渉したらやらせてもらえることになってね。今まで言えなくてごめん」

 華さんの声は微かに湿り気を帯びていた。

 本当に怖いんだ。

「華さんは頑張ってきたんですね。すごいです。話してくれてありがとうございます」

 私にはこれだけしか言えなかった。

「滴っち、ありがとう。あたし、あたしね――」

 えっ……?

 私は告白された。初めて、女の人から。

 

 お兄ちゃんになんて言おう。

 告白されたことなんてこの人生で数回しかない。いや、普通の人間なら数回くらいなんだろうけど。でもみんな男の人からで、女の人からは初めてだった。

 同性で付き合うことは何もおかしくないのだとお兄ちゃんたちを見ていれば分かる。けど、私は華さんに告白されて、嬉しくなかった。差別意識はない。けど、私。

「私も性別でごめんなさい、しちゃうのかな」

 クッションを抱きしめながらゴールデンタイムの音楽番組を見ていた。歌われるのは愛の歌。歌の世界の愛も多様だけど、この世界にはもっとたくさんの愛がある。そして同じ数だけ、叶わない恋もあるんだ。

 振るのは心苦しい。このままではもういられないのかな。

 風呂上がりのお兄ちゃんが私の隣に腰を下ろす。

「ねえお兄ちゃん。お兄ちゃんは女の人から告白されたらどうする?」

「なんだよ、藪から棒に」

「いや、お兄ちゃんって男の人にしか興味ないのかなって」

 そうだねえ、とお兄ちゃんは考える。

「俺には渚がいるからもちろん丁重にお断りするかな」

「惚気かよ。お兄ちゃんはやっぱり参考にならないなあ」

 聞いといてなんだよ、とお兄ちゃんは口を尖らせた。

 誰に聞けばいいのか分からないけど、これは一人で解決しなきゃいけないことなのかな。

 同性愛者を気持ち悪いって思わないけど、けど、私は同性愛者じゃない。この差をどう説明したらいいのか分からなくて、私はぐるぐる悩み続ける。

 あーあ、お兄ちゃんに似ている私の嫌いな部分だ。

 

 告白されたときのことが頭から離れなくて、私は大晦日のカウントダウンコンサート以外で初めて一睡もせずに朝を迎えた。

 ――あたしね、好きな子がいるの。

 華さんは、なんで。

 ――滴っちは答えなくていいよ。

 なんで私のこと。

 ――滴っちがあたしのこと好きにならないって分かってるから。

 何も持ってない私のことなんか好きなんだろう。

 酷く頭が痛い。華さんは全ての悲しみを抱きしめるように自らの肩を抱いていた。叶わないって分かってる。そんな告白ずるいよ。私は、華さんのこと悲しませたくない。けど、どうしても恋愛対象にならないんだ。

 どうして恋ができる相手の性別が決まっているのだろう。

 まるで愛せない私が悪いみたいじゃない。

 誰も悪者にならない恋が存在するのなら教えて欲しい。

 この罪悪感はどうしても消えることがない。だって、友達としては大好きだから。

 ――答えなくていいから、あたしに滴っちを描かせて欲しい。

 ベランダから出て夜明けの湿った白い空気を吸った。

 スマートフォンのメッセージ画面を開く。

〈華さん。私を描いてください〉

 これがせめてもの罪滅ぼしになるのなら。

 

 華さんに描いてもらう間、私たちはいろんな事を話した。

 小さな1DKのアトリエで、ベッドに腰掛ける私と、スケッチブックに向かう華さん。

 モデルってお兄ちゃんは動いちゃいけないって言ってたけど、華さんは自然体でいて、と私に麦茶を出して去年作ったという華さんの画集を渡した。

「華さんの絵、素敵です」

「へへ、そう?」

 口は楽しそうなのに、華さんの目は鋭かった。

「みんな女の子ばっかり。なんだか華さんらしいです」

「それ、からかってる?」

「冗談ですよ」

 ふふ、ふふふ。

 軽やかな笑いが鉛筆を走らせる音と絡まる。心地よい。華さんと一緒にいることは心地よい。じゃあ、なんで私は華さんの告白を断ろうとしているんだろう。頑張れば私、好きになれるんじゃないのかな。

「華さんは才能があって素敵です」

「そんなことない」と言下に言った。

「才能って言われると、あたしが努力してないみたいで嫌だなぁ。咲かせられない才能なんてあったってしょうがない、ってね」

 変なこだわりでしょ、と華さんは苦しそうだった。

「華さんが嫌でも、そういうところが才能なんじゃないですか?」

「え?」

「努力することができることも能力、才能だと思うから……でも、ごめんなさい」

 私とは違う、持っている人。才能。そして、夢を。持たざる私はきっと何にもなれなくて、持つ者を崇める平凡な信徒だ。

 華さんは、そういう意味なら許す、と私の髪をくしゃりと撫でた。

 

 絵が完成したと連絡を受けて、私は華さんのアトリエに向かった。

 空気がほこり臭い。きっともうすぐ雨が降る。

「どう、かな」

 息が止まった。

 カンバスにアクリル絵の具で描かれた女性。力強く結ばれた唇。祈るように組まれた指。

 美術は分からないけれど、いいことは分かる。分かるけれど。

「これ、私……?」

「そう、滴っち」

 気に入らなかった? と華さんが問う。

 気に入らなかったわけじゃない。とても素敵な絵だ。でも、これは。

「華さんが好きな私は、私じゃないんですね」

「え……?」

「私、こんなに綺麗じゃない。強くもない。華さんは、華さんが作り上げた私のことが好きなんですよ」

 止まらなかった。悔しいと初めて思った。ステージに立つアイドルたちも、画家になる夢を持った華さんも、みんな雲の上の存在だと思っていた。でも、華さんの才能に嫉妬していた。不完全な、才能に。

「私こんなに強くない。華さんみたいに、夢を持っていないんですよ」

「夢じゃないよ」

 華さんは澄んだ声で答えた。

「夢じゃないから、あたしは消えない」

 ああ、どうしてこの人はこんなに輝いてまっすぐなのだろう。

 自分が惨めでたまらない。悔しい。悔しいよ。

 私は頬が濡れていることを華さんに触られて気付いた。華さんも、泣いていた。

「あたしが好きだったのは、幻だったのかな。滴っちのこと好きなのは、幻想だったのかなぁ」

 私は華さんのことを抱きしめていた。華さんの体温を初めて知った。

 夢じゃない、生きた暖かさだった。

 

 華さんは「しばらく制作に専念するから」と遊びに誘ってくることはなくなった。

 寂しいような気もするけど、応援したいと今は思う。夢に向かう彼女が輝くことを私は願わずにはいられない。

 今まで通り、でいいのかな。私、なんかずるいかも。

 なんでもない日常がやってきて、なんでもなく人生が過ぎてゆく。そのことに焦りを感じられるうちは、私はまだ何かになれるのかもしれない。

 

 華さんから個展のDMを貰った。

 タイトルは《夢じゃないから消えない》

 現実を私たちは生きている。うまくいかないことだらけの、この現実を。

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