オリジナル小説サイト「渇き」

恋愛小説、純文学、エッセイを扱った小説家・佐倉愛斗オリジナルサイト

Vanilla ice cream

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「北原さん、お腹空いた」

シャルと呼ばれた少年、愛実(つぐみ)はあの小さなアパートに来ていた。壁には雑多に段ボールが詰まれ、小さなテレビとくたびれた紺色の布団のかけられたパイプベッドがあるだけの小さな部屋。シャルだったころと全く変わらない、薄汚れた安心感のある部屋だ。

「ああ? 真琴のとこのチビに作ってもらえよ」

「絢介のご飯も美味しいんだけど、たまにはパパと食べたいなー」

『チビ』『絢介』と呼ばれているのは愛実が今、住んでいる引田邸の使用人のことだ。

「けっ、こんなときだけ『パパ』かよ」

きつい言葉とは裏腹に北原の口元は緩んでいた。

「大体、何勝手に帰ってきてるんだ愛実。昔みたいに縛り上げて抱かれたいか?」

ベッドに背を預けてテレビを見ている北原は、愛実に背を向けたまま言葉だけで脅してみせる。

「残念ながら僕は真琴のモノだからパパとはセックスしませーん」

久しぶりに干した布団の上でケラケラと愛実は笑った。

「じゃあ何で帰ってきたんだ?」

「いつでも帰ってこいって言ったのはパパの方でしょ?」

愛実は枕を抱きかかえて妖艶な瞳を輝かせる。

「まさかとは言わないが、『道具』を買いに来たんじゃないよな?」

「大正解!」

はあ、と北原は「血は争えないな」と息を吐く。

SMクラブの支配人をしている北原はパフォーマーやコアな顧客相手に性具の販売仲介もしていた。

「真琴のセックスって甘いだけで、その、マンネリ?ってやつ」

「マンネリねぇ……真琴はセックス下手そうだしな」

北原はテレビを切るとベランダに出て巻き煙草に火をつけた。冬の訪れを感じる風が煙をたなびかせる。

「下手というか、ノーマル? キスして解してつっこんで出して終わり」

愛実は北原から自分のピアニッシモに北原の煙草から火を奪うと、ニヤリと笑った。

「ノーマルなセックスで満足できないお前もお前だな」

「もう骨を折られるのは嫌だけどさ、首絞められるくらいはしたい」

「そう真琴に言ってやれよ」

北原は短くなった煙草を水を張ったベランダのバケツに放り投げると、愛実の髪をすいて室内に戻る。

「言ったんだけど、傷つけたくないとかなんとか。というわけで、ロープと媚薬くらいあるでしょ? パパ?」

「だからその『パパ』ってのやめろ、むず痒い」

吸い終えた愛実も同様に放り投げて室内でガムを噛み始める。

「大体、ロープ持って行ったって真琴は縛り方知らんだろ?」

愛実は雌豹の目で微笑む。

「ううん、僕が縛る方」

「真琴もとんでもないのに惚れちまったな」

末恐ろしい息子だと北原は苦笑した。

「ロープならテレビ横の箱の中だ。どれも中古だが好きなのを持っていけ。でも媚薬はやらん。法に触れるからな」

釘を刺されて愛実はしょうがなくロープを選ぶ。真琴には赤より元の麻色が似合いそうだ。

「選んだら飯、行くんだろ? たまには、牛丼はどうだ?」

「いいね、卵付きで」

「好きにしろ」

そのぶっきらぼうな物言いに愛実は嬉しくなる。なんだかんだ北原はシャルだった頃から愛実に甘いのだ。

「帰りに北原さんも家に寄って行ってよ。真琴がたまにはおいでってさ」

「どうせアイツは仕事で居ないんだろ?」

「それが、実は会いたがってるのは絢介の方でさ」

「あのチビが?」

「まだ僕の勘だけど北原さんが来ると絢介がそわそわするんだよ」

ヒメゴトを語る女子高生みたいに、玄関で靴を履きながら耳打ちする。

「絢介、多分北原さんのことタイプだよ」

「悪趣味なチビだな。まあ、寄るとするか。恋敵の父に惚れる男も面白いじゃないか」

「北原さんも十分悪趣味だね」

くっく、と二人で顔を見合わせて笑うと、二人は繁華街の端のアパートの階段を降りた。

「あのチビ、今まで付き合ったことある奴いるのか?」

 徒歩数分の牛丼屋に入ると二人はカウンター席でそれぞれ注文した。

「ううん、ずっと真琴一筋」

「じゃあ童貞か。あの年で」

「北原さん、イジめすぎちゃダメだよ?」

それは可愛がれという意味に北原には聞こえた。

「そんなこと言って愛実こそあのチビと仲良くしてんのか?」

注文するとすぐに出てくるのが牛丼屋の良さだ。

カウンターで並んでいると、この繁華街では誰もこの二人のことを親子だと思わないだろう。おっさんと買われた男。その関係だったのはもう昔のことだった。

「仲良しだよ。色々あったけどね。絢介も僕もいっぱい泣いた」

北原はそっか、と髪を撫でた。

北原は深くは聞かず、愛実も語らず、牛丼屋を後にした。

「お土産、何かいるか?」

 大通りへの道すがら、二人はコンビニに立ち寄った。

「んー、ポテチ食べたい。コンソメね」

それはお前の食べたいものだろ、と愛実の小脇をつついた。心のくすぐったさに愛実は笑う。

「いいんだよ。甘いものはいくらでも真琴が持って帰ってくるんだもん」

「あいつそれでよく腹が出ないな」

「社内に社員専用ジムを作ったんだってさ。おかげで真琴はかなりムキムキ」

「ほう? 流石社長様はやることが違いますね」

揶揄するように北原は笑うとコンソメ味のポテチと1Lのコーラを掴んでレジで会計を済ます。 大通りに出るとタクシーを捕まえて、引田邸の住所を伝えた。

「僕もジム使っていいって言われたけどムキムキになるつもりはないかな」

「お前はいくら食べても細っこいからな。ダイエットなんかしてないよな?」

「少しはね。少年の美しさは無駄な脂肪も筋肉もない直線美にある」

「ショーに出るわけでもないのに相変わらず徹底してやがるな」

引田の家までタクシーで向かいながら言う。

「僕にとってセックスはショーだから」

ほう? と北原は口角を上げる。

「今までは数多の知らないおじさんたちを見下して、僕の美貌で従えてた。でも今は違う。好きな人にベストな僕を見てもらう。それが今のセックス」

「プロ意識だけはいっちょ前だな」

「だけ、って何さ」

愛実は頬を膨らませたがすぐに笑い出してしまった。

「もう少しあれだな、気を抜いてもいいんじゃないか?」

北原は無精髭を掻く。

「そうかな? 一番綺麗な僕を知っているのが真琴であってほしいだけだよ」

「真琴もなんだかんだ愛されてるな」

後部座席で愛実は北原の肩に頭を乗せた。

「これが僕の愛の形だよ。空っぽじゃなくなった僕の」

小高い丘にある高級住宅街、愛実の住まう引田邸に二人は降り立つ。

引田の私用車と萩野の車に並んで、引田の社用車がある。

「真琴、今日は帰り早いね」

「アイツ、鼻だけはいいからな」

ただいま、と玄関を開けると高い天井のロビーで二人が出向かえる。

「おかえり、誠司も一緒だったか」

「たまには顔出せって言ったのはお前だろ?」

ほれ、土産だ、と北原はコンビニの袋をあえて萩野に差し出す。 萩野は一瞬目を見開いて受け取った。切り揃えられた前髪で見えなかったが、俯いたその瞳は熱で揺れていただろう。

「北原さんの意地悪」

愛実は小さな声で、愉快そうにつぶやいた。

 

 広いリビングの一角、応接間となっているスペースで四人は膝を突き合わせた。

 ご丁寧にコンビニのポテチを花柄のボウルに入れて、グラスでコーラを飲む。なんともアンバランスだ。

「久しぶりに誠司に会えてよかったな、愛実」

 二人を前にしても遠慮なく引田は愛実の頬を撫でる。頬に火をともす愛実を見て、誠司は安心するものがあった。

「ふふ、パパとご飯食べたりして楽しかったよ」

「そうだな、真琴に『おみやげ』があるらしいから楽しみにしてな」

 もう、言わないでよ。と愛実は北原を睨んだ。

「それは楽しみだな」

 楽しみにしない方がいいぞ、と北原は心の中でほくそ笑んだ。

「でも相変わらずパパのアパートは散らかってるよね。今日布団は干したけど」

「めんどくせぇんだよ。生活できればいいんだよ」

「じゃあさ、僕と絢介で片付けに行こうか?」

「僕もですか!?」

 急に白羽の矢が立った萩野が驚いた声を出す。

「絢介ならお掃除得意だし、人数多い方が速く済むでしょう?」

 目配せで別の意図を読み取った北原はこれは愉快と口の端で笑う。

「じゃあ、頼まれてくれるか? ディルドとか鞭とか転がってるけどな」

「でぃ、る……!?」

 北原の揶揄に耳まで真っ赤にした萩野のことを、うっかり北原は可愛いなんて思ってしまった。

「真琴、いいでしょ?」

「萩野がいいなら行ってきなさい。家のことは簡単に済ましてしまっていいから」

「ありがとうございます!」

 何のお礼だよ、と北原と愛実は笑った。

 

 その日のディナーは萩野特性の鴨のテリーヌだった。そして引田からは自社製品のバニラアイスが振る舞われた。

「パパ、絢介のこと、どう?」

 北原の帰り際、愛実が耳打ちする。

「どうって、いいんじゃないか? 売りはしないけどな」

「そりゃ僕より大切にしてるじゃない」

 顔を見合わせて笑う親子は、やはりどこかいびつで愛しい二人であった。

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After Vanilla

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 緑の香りというものがこんなに芳しいのだとシャルと呼ばれた少年、愛実は知った。部屋の窓を開け放つと麗らかな陽気に照らされた庭の草木が輝いている。

「真琴、おはよう」

 さらさらの寝癖のついた髪をかきあげる愛しい人に愛実は抱き付く。今日は引田の久しぶりの休日だ。

「愛実、おはよう」

 二人は自然と唇を寄せ、目を合わせて微笑んだ。何もかもが満ち足りた二人は世界に祝福されているかのように照らされる。愛実の美しい黒髪を引田は撫でると、今日は二人で出掛けようと提案した。

 

 引田の家のことを全て任せている萩野に今日は夜まで出掛けると伝えると、引田は車のキーと財布を持って愛実を外に連れ出す。いつものスーツ姿とは違うラフなシャツとジーンズ姿に愛実は新鮮さを感じていた。何台かある車のうちのスポーツタイプを選び、愛実を助手席に座らせると、車のエンジンをかける。

「真琴って運転できたんだね」

「そりゃあ、車で通勤しているからね」

 なんか、かっこいい。と呟くと、引田は気をよくして口角を上げる。

「どこへ行くの?」

「君が喜ぶ場所だよ」

 そう言うと、二人は初めてのデートへ向かった。

 

「何あれ! あの長いの何? 鼻なの?」

 大興奮で柵の向こうを指差す愛実の姿に引田は大変満足していた。

「あれはアフリカゾウだね。世界で一番大きな哺乳類だよ」

「あふりかぞう? テレビで見たことあるかも!」

 初めての動物園にはしゃぎ回る愛実のきらきら輝く瞳が嬉しくてたまらない。あれは何? これは何? と訊いてくる愛実に知っている知識を話して聞かせた。

「なんかぺたぺた歩いてる? えっ、水に飛び込んだよ! 速いね」

「これはペンギンだね。水の中を泳ぐ鳥だよ。こっちがキングペンギンで、こっちがフンボルトペンギン」

「鳥なのに泳ぐの? 飛ばないの?」

「ペンギンは飛べないよ」

 ふーん、と愛実は眉を下げると、ペンギンは可哀想だと呟いた。どうして、と尋ねると、愛実は悲しそうに言う。

「他の鳥たちは飛べるのに、ペンギンだけ飛べないのは仲間外れだよ。空を知らないのは、昔の僕みたいだ」

 愛実の肩を引田は抱き寄せる。

「ペンギンにはペンギンの生きる世界があるんだ。愛実が生きてきた世界のようにね。それは不幸だったかい?」

 ううん、と愛実は首を小さく横に振った。愛実は全てが嫌だったわけではないと今は思えるようになっていた。性の世界で輝いていたときも、父とは知らずに北原と過ごした日々も、引田に見初められてからも、全てが愛実にとっての糧になっていた。要らない過去なんてない、そう思えるようになるまで随分遠回りをしたものだ。

「階段は見上げれば果てしないけれど、見下ろしたらあっという間だね」

 今の満ち足りた幸福を引田と共に分かち合えることが嬉しくてたまらなかった。

 

 それからライオンやキリン、クマにサルにカバまで、様々な動物を観ては愛実は興奮していた。オウムに話しかけられて驚いた愛実は、引田の背中に隠れながら「変なやつ」と何度か睨み付けた。さながら幼稚園児だと子供返りした愛実を見て引田は頬を緩ませていた。

 中でも愛実が気に入ったのはユキヒョウだった。

「白くて、もふもふで、ものすごく可愛い」

「そういえば、君に似ているね」

 鋭く官能の色を示す瞳としなやかな体のラインがとてもよく似ている、と引田は付け加える。

「僕はこんなに毛むくじゃらじゃないよ」

「でも触れたら食べられそうなところは似ているよ」

 その言葉に、愛実のアーモンドの瞳に火が灯る。

「真琴は食べられたいんだ」

 引田は肩をすくめると、愛実の手を握った。

「愛実はどうしたい?」

「僕は、真琴に触れたい」

 いいよ、と引田は愛実を連れて駐車場へと向かった。

 

 山間にひっそりと立っている派手な外観のホテルの駐車場に引田は車を滑らせた。休日とあってか車が多い。もっとも、こんな山奥のホテルに徒歩でやってくる人はいないのだろう。

 ロビーのタッチパネルで一番高い部屋を選ぶと、ルームシートを取ってエレベーターに乗り込む。最上階を選択すると、引田は愛実を抱き寄せて我慢できないとばかりに熱いキスを落とす。

「んっ、真琴がっつきすぎ」

「嫌いかね?」

 眉間にしわを寄せた雄の顔に愛実は耳まで赤くすると、引田の胸に顔を埋めた。

 手を繋いで入った部屋は、ダークブラウンを基調としたインテリアの一室だった。シャルだった頃に客とラブホテルに入ることは頻繁だったが、これほど落ち着いた雰囲気で広い部屋は初めてだった。何より、心から愛しいと思う人とこのような部屋にいることが気恥ずかしくて、これから起こることへの興奮で肌がピリピリと張りつめた。

 愛実がシャワーを浴びるために踵を返そうとするが、引田は彼の手を強く引いて抱き締める。突然のことに心臓が飛び出そうだった。

「真琴、お風呂は?」

「このままじゃダメかね?」

「今日の真琴は我慢が足りないよ」

 愛実は引田のシャツの裾から手を入れて、ほんのりと汗でしっとりする背中を抱き締める。体温に浮かされたムスクの香りが鼻いっぱいに充満してクラクラしそうだった。

 引田は愛実の薄く柔らかな尻を撫でると、耳元で呟く。

「どうされたい?」

 低い声が腰に響き、中心に熱が点る。

「酷くして、真琴」

 

「ひぃっ、やめて、まことっ、ひぁっ」

 愛実の甘い拒絶に引田は気を良くして、足先からふくらはぎに唇を沿わせ、味わった。膝の裏を尖らせた舌で優しくなぶると愛実は弱すぎる刺激がこそばゆくて、恥じらいとくすぐったさに隠れた快楽に身悶えする。

「その割りには、悦んでいるようだけれど?」

 蜜を吐き出す愛実のペニスの根本に吸い付き、しっとりとする内腿にたくさんの優しいキスを落とす。脚を秘孔まで見えるほど広げさせ、快楽に上気し涙でどろどろになった扇情的な顔に引田は身震いした。

「くすぐったいだけだから、真琴、もっと」

 愛実が求めているのは「痛み」だと引田は知っていた。でもまだあげない。ご褒美は最後にあげるものだ。

 引田はローションを手に取ると、掌で暖めてから孔に塗り込む。馴れることのない異物感に愛実は啼いた。引田のほっそりとした指が中を蹂躙する。

「ひぁっ、あっ」

 愛実の固くなったイイトコロを指で圧迫すると、愛実は今までより高い声をあげる。体を悶えさせ、体に緊張と快楽が交互にやってくるようだった。

「あっ、だめっ、あっ」

 もう少しで快楽の峠を越える。太ももから脹ら脛に力が入ったところで、引田は指を抜いてしまう。お預けされた快楽に愛実は熱い息を吐いて引田を睨み付けた。

「私にも触れてくれないかい?」

 引田は愛実の傍に横たわる。息を切らした愛実は引田の芯を持った中心にキスすると、口先で皮を摘まんで大きな漆黒の瞳で引田を見つめる。

「いい眺めだ」

 引田の手を取ると自らの頭に添える。中心を舌先で下から上へとなぞると、引田は愛実の柔らかな髪に指を通した。その優しさが愛実は好きで、シャルには物足りなかった。

 愛実は口を開いて引田のものをめいっぱい咥える。裏筋に下を沿わせると、引田は微かに声を漏らした。捻るように唇で刺激する。

「んっ!?」

 引田の手が愛実の頭を押さえつける。喉の奥に当たる嘔吐感と窒息感に愛実は酷く興奮し、涙をこぼして咳き込んだ。

「真琴、もういいでしょ?」

 愛実はゴムを引田のものに手慣れた手つきでするすると装着すると、一思いにアヌスに呑み込んでいく。

「ぅっ……くぅ」

 引田が見上げた愛実は、最高に美しかった。汗で上気した体は性のために産まれたかのようで、しなやかで熱かった。

 愛実はゆっくりと律動をはじめる。ゆっくり呑み込み、速くギリギリまで引き抜く。動きに合わせて急く息と眉間の切ない皺。人を魅了する何かを全身から発しているような気がして引田は離さまいと彼を抱きしめた。急に奥まで当たる衝撃に愛実は甲高い声を発する。

「なぁに、真琴」

「いや、君のことが好きだと思って」

 言葉を濁す引田に、愛実は彼の肩に歯を立てる。耳に息を吹きかけて、低い声で問う。

「何を思っているの、真琴」

 君には敵わない、と引田は笑った。

「あまりにも愛実が綺麗だから、私のもとから羽ばたいていってしまわないか心配なんだ」

 ふふ、と愛実は笑うと、引田の唇を塞ぐ。

「僕はどこにも行かないよ。僕は真琴の傍に居る」

 愛の言葉で誤魔化すのは真琴の悪い癖だ、と愛実は拗ねてみせる。愛実は一度ペニスを引き抜くと、四つん這いになって、ねだってみせた。引田は覆いかぶさると一思いに貫く。

 律動に合わせて漏れる二人の吐息。快楽に堕ちるのがどこか不安で愛実はシーツに爪を立てた。

「ひぅっ、あっ、まこと、好き、すきぃ」

「つぐみ、好きだ」

 激しい律動の中、引田は耳元で呟く。

「ユキヒョウみたいなネコ科の動物は、うなじを噛むことで排卵を促すんだ」

 引田は愛実のうなじに歯を立てる。待ち望んでいた痛みと野生に愛実は身体を振るわせて達する。

「ぃっ……っは」

 激しい収縮に引田も同時に達する。崩れ落ちるように重なり合った二人は、息も絶え絶えで、幸せそうに微笑んだ。

 

「真琴、僕はメスじゃないから子どもはできないよ」

 大きな湯船で二人はならんで身体を温める。

「でも感じていただろ?」

 耳まで真っ赤にした愛実は、真琴のバカ、と拗ねる。

「そんなに怒ったら、折角の美人が台無しだ」

 愛実は引田をきっと睨む。

「これくらいで僕の美貌が失われるものか」

 あっけにとられた引田は思わず笑いだす。

「な、なにさ、真琴」

「やはり君は可愛いよ」

「可愛いって、僕は男だ」

 ますます拗ねてみせる愛実を抱き寄せ、ひとつ、キスを落とす。

「夜は何が食べたいかい?」

「お肉がいい」

「ふふ、そうか」

 二人はまだ始まったばかりの夜の時間を楽しむのであった。

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Vanilla13(完)

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 今日は泊まっていきな、と北原は理由も聞かずにお湯を注いだカップラーメンと使い捨てのフォークを渡した。いつでも薄暗いこのアパートではいつ日が昇っていつ日が沈むのか分からなかった。蛍光灯に照らされた自らの足を見る。倒れたときについたであろう都会のヘドロが真っ白な肌を汚して扇情的だと愛実は口角をあげた。都会の汚れなんて忘れていたのに。

 久しぶりのカップラーメンは塩味ばかりで美味しさなんて感じなかった。萩野さんの味噌汁の方がずっと美味しい。でも、もう食べることもないのかもしれない。出尽くしていたと思っていた涙がまた溢れてくる。北原は黙って、それを見つめていた。

 

「北原さん、あのね」

 ベッドで二人、横になって愛実は切り出した。

「僕はね、愛なんていらないと嘘をついていた。いや、本当だったかもしれない。北原さんに見放されることが怖かった。道具でいることで捨てられても平気だと思いたかっただけだった。でも北原さんから僕を引き離した真琴のことも恨んでしまった。僕は道具になりきれなかったんだ」

 北原は愛実の手をこわごわ握った。愛実は迷わず握り返す。

「真琴のことを最初は立派な人だと思っていたけれど違った。僕と同じ、未完成で不器用な人だった。そして僕に優しさを教えてくれたんだ」

 そうか、と北原は天井の蛍光灯を見つめた。

「シャル――愛実は真琴のところには帰らないのか?」

「帰れないよ。あんな素晴らしくて将来もあって跡継ぎが必要な人のところに僕なんて居たらいけないんだ」

「居てほしくないと真琴に言われたのか?」

 愛実は唇を強く噛んで、ゆっくりと横に首を振った。

「じゃあ傍に居てもいいか本人に訊くんだな」

 愛実は返事ができなかった。自ら出てきたのに、帰ってくるなと言われることが恐ろしくてたまらなかった。

 

 翌朝、まだ日の光が低く鋭い時間にインターホンが鳴った。せかすように何度も鳴らされたそれに愛実は目を覚ます。北原は小さく明るい舌打ちをすると、お迎えだ、と愛実の額にキスをした。

「ったく、お前は朝が早すぎるんだよ」

 スチールのドアを北原が開けると、息を切らした引田と、目の下を泣き腫らした萩野の姿があった。愛実が駆け寄ると、引田はそれを受け止め「よかった、よかった」と力強く抱いた。あばらの痛みに愛実が身体をこわばらせると引田は力を緩めた。

「怪我をしているのかい?」

「ああ、お前のせいで俺の大事な息子が不良に絡まれてあばらをぽっきりとな」

 北原が代わりに答えると、萩野が大声で「申し訳ございません」と頭を下げた。

「僕のせいでシャル様に怪我を……僕があんなことを言うから」

 ぼろぼろと涙を零す萩野を愛実はゆっくりと抱きしめた。

「出ていったのは僕の勝手だよ。萩野さん」

「でも、僕が酷いことを言うものだから、ごめんなさい。ごめんなさい」

どうしたんだ、こいつは、と北原は訊ねるが、ずっとこの様子で口を割らないんだと引田は答えた。

「真琴、僕は真琴との子供は産めない。料理も洗濯も何もできない。それでも、僕は真琴と一緒に居ていい?」

 引田はまっすぐ愛実を見つめ、手を取る。

「もちろんだ。ずっと傍にいてくれ」

 視界が歪む。安堵感に熱いものがあふれて、愛実は引田に抱きよった。

「ったく、お前ら玄関先で煩いんだよ。済んだならさっそと帰れ」

 北原は喜びを隠すように愛実の背中を押す。振り向いて、愛実は問う。

「北原さん……お父さん、また帰ってきていい?」

「……ああ、いつでも帰ってこい」

 愚かな二人の男によって翻弄されたシャルと呼ばれた少年は、やっと止まり木を見つける。バニラは甘い香りがするが、無味だ。そう自らを卑下した少年は、求められる喜びを知った。

「ありがとう。みんな」

 

「愛実さま、あとは僕がやりますから。まだお怪我も治っていないのに」

 大丈夫大丈夫、と愛実は萩野が止めるのも気にせず、洗い上がった衣服の籠を運んでいた。あれから萩野は引田邸を去ろうとした。しかし愛実は、

「自分の思いを言わずにいるのは苦しいよ」

 そう萩野に宣戦布告をした。

「愛実さま、僕、負けませんからね」

「真琴は僕のだけどね」

 顔を見合わせた二人は悪だくみをするように笑い合った。

 洗濯物をリビングで畳んでいると、窓から吹いた風が石鹸の香りをあおる。

「何やら仲良しだね」

 リビングに顔を出した引田は微笑む。

「真琴、プリン食べたい」

「そうか、では買ってくるとするか」

「いけません旦那様、それは僕が」

 慌てて制止する萩野に、それじゃあ、と車のキーを渡す。

「真琴、好きだよ」

 暖かな日の光を写すカーテンが風に揺れる。

 二人はそっと唇を合わせると、甘い熱視線を絡ませ合った。

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Vanilla12

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 シャルと呼ばれた少年、愛実は一人、歓楽街を歩いていた。素足に安いゴム製のサンダル。服は裾がすり切れた青いスウェットのみ。晒された白い足は細く、この街を歩き続けるには心もとなかった。

 もう引田のところにはいられないと、愛実は逃げだした。商品でなくなった今だからできるのだろうと思うと皮肉に笑ってしまう。薄汚れた僕なんかより素敵な人を見つけて、と願うばかりだった。

 確かこの辺りは劇場のあったあたりだろう。行く当てのない愛実は自然とこの場所にやってきてしまった。生ごみが水たまりで腐る異臭も、酔っぱらいが残した吐瀉物も、何もかも愛実にはおあつらえむきだと思えた。

 サンダルの先を見つめて歩いていると、男の集団にぶつかってしまった。

「ってえなあ! どこ見て歩いてんだ」

 小さな声ですみませんとだけ呟くとその場から立ち去ろうとする。

「おい、聞こえねぇんだけど? あぁ?」

 集団のうちの小太りな輩に腕を掴まれる。離してともがいても、愛実の細い腕では敵わない。

 リーダー格と思われる首にタトゥーの入った男に顎を掴まれる。睨み返すと、なんだその目は、と愛実はゴミ箱に投げ飛ばされた。

「っあ……」

 起き上がろうとすると、腹に数回、蹴りを入れられた。何も食べていない愛実の口からは酸の強い胃液が吐き出される。痛みがこんなに苦しいなんて知らなかった。

「おい、これ見てみろよ」

 集団の中の一人が、愛実の露になった背中を指さす。

「こいつ『夜蝶のシャル』だぞ」

「おお? あの有名なシャルちゃんじゃないか。こりゃあ、とっ捕まえて売り払ったら大金になるぞ」

 男たちの下種な笑いに愛実は嗤っていた。そうだ、僕は所詮売り買いされる商品だ。僕の人生なんてそんなものだ。でも、真琴は僕に価値をくれた。真琴、助けて、まこ――

「つぐみ!」

 知っている声が聞こえる。ああ、お迎えでもきたのかな。

 愛実はそこで意識を手放した。

 

「愛実、目、覚ましたか?」

 目を開けると見知った天井だった。見渡すと片付いていないアパートの一室。

「北原さん?」

 狭いパイプベッドの脇に、髪の長い無精ひげを生やした男が腰掛けていた。

「愛実、なんであんなところに居たんだ。帰ってくるなと言っただろ」

 キツイ言葉に反して、北原は愛実を強く抱きしめていた。懐かしい匂いに涙が止まらない。怖かった、怖かったと愛実は泣く。しかし、胸に鋭い痛みが走る。北原は「あばらをやったか」と抱きしめる手を緩めた。骨が折れた痛みは、別に気持ちよくもなかった。

「北原さん、僕、好きな人ができたよ」

 ベッドに寝転んで、北原の手を握る。

「そうか、真琴に惚れたか」

 親しげな物言いに愛実は首をかしげた。

「お前を引き取った引田真琴は、俺の高校のダチだ。話せば長くなるが、聞くか?」

 愛実は目の端から零れ落ちた涙をスウェットの袖で拭うと、うん、とだけ答えた。

「まずお前に言わなきゃいけないことがある。愛実、お前の父親は俺だ」

 北原さんが、僕のお父さん? 愛実は息を止めた。揺れる瞳で見つめる愛実の髪を撫でると、北原はゆっくりと語り始めた。

「俺が高校二年のとき、当時付き合っていた一つ下の彼女が孕んじまった。避妊の知識も、中絶の金どころか存在すら知らなかった馬鹿者だった。誰にも言えなかった彼女は学校のトイレで赤ん坊を産んだ。それがお前だ」

 愛実の心臓が早鐘を打っていた。そして同時に、北原と暮らす前の記憶の断片を頭によぎった。たくさんの白い板と、真っ黒で吸い込まれそうなカメラのレンズだ。

「彼女――お前の母親はお前を育てる金を得るために高校を中退して水商売をし、そしてAV女優になった。その頃には俺との付き合いはなく、人から聞いたことしか知らない。それでな、お前の母親は幼いお前のポルノ画像を海外のマニアに向けて売っていたそうだ。タトゥーを入れたのもその頃だと聞いた」

 少しだけ覚えているよ、と愛実は答えた。服を着ていないのが当たり前だった。打ちっぱなしのコンクリートの上で股を開いてカメラに幼いペニスを見せつけていた。ランドセルを背負った子供たちがマンションの外を歩いている姿が不思議でならなかった。断片的な記憶が北原の言葉によって浮かんでくる。

「それでお前が十二歳のとき、お前の母親は死んだ。昔から手を出していた麻薬の中毒の末、自ら命を絶った。なんとも馬鹿な母親だな」

 自嘲するように北原は笑った。

「母親が死んで、お前は俺のところにやってきた。初めて来たときのことを覚えているか? お前、俺にキスしたと思ったらちんこ揉んだんだぜ? 俺にはお前の親になる自信はなかった。だから、お前をショーに出した。母親に仕込まれただけだと知っていても、天賦の娼夫だと思ってしまった。それしか、俺にお前を生かす方法はなかったんだ」

 愛実の手を握る力が強まる。長い前髪で見えなかったが、声が熱を持って潤んでいた。

「じゃあ何で、僕を商品と呼んだの」

 シャルは天井を見つめたまま訊く。

「俺達には計画があったんだ。お前を人間にするための」

 愚かな俺達にしかできない計画だ、と北原は笑った。

「真琴と俺は高校で知り合ったダチだ。真琴は高校のときにはすでに実家の会社を継ぐことが決まっていた金持ちだ。お前を引き取ると決まったとき、俺は真っ先に真琴に連絡をした。助けてほしいとな。それで時期が来たらお前を真琴が引き取って育てることになったんだよ。金があれば知らない人とセックスしなくていい。たらふく好きなものが食べられる。学校にだって行ける。何度も何度も頼み込んで、やっとその日が来た。真琴がお前に惚れちまったのは計画外だったがな」

 一呼吸おいて、北原は言う。

「お前と離れることが苦しくならないよう、俺はお前をモノとして扱った。お前は売られたことも買われたこともない。それだけは事実だ」

 愛実は痛む身体を起こして、北原の背中で泣いた。今までの苦しみや葛藤は何だったのか、分からなくなってしまった。ただ分からないまま涙が流れる。

「愛実、馬鹿な父親でごめんな。俺はお前を愛してやれなかった」

「酷いよ、北原さん。今更そんなこと言わないでよ」

 僕は大好きだった、と北原の背で涙をぬぐった。

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「いってらっしゃい」

 シャルはいつも早起きをして引田を見送るようになった。

「いってきます」

 そして必ず、キスをするようになった。

 朝の見送りだけではなく帰りも、寝る前も、廊下ですれ違った時でさえ首に腕を回しては触れるだけの口付けを交わす。

それに加えて、萩野に教わりながら家事を手伝うようになった。食器を割るなどの失敗はしたが、元より器量の良かったシャルはすぐに家事を覚えた。

シャルは無味な自分が味付けられていくのを感じていた。自分が必要とされ、自分が必要とする人の存在に胸の奥が温まるような心地だった。ただの口付けだったかもしれない。それでも初めて自覚した「優しさ」にシャルは身体に翼が生えたような心地だった。

「はぁ」

 リビングの床に座り、洗濯物を一緒に畳んでいると萩野が溜め息を吐いた。ここ数日、萩野は気付けば溜め息ばかり吐いていた。

「萩野さん、どうかしたの?」

「なんでもないです。なんでも。ただ、シャル様が料理もお洗濯もできるようになってしまわれたら僕はもう要らないのだなと思えてしまって」

「それは困るよ。萩野さんのご飯美味しいのに。この前の坦々鍋美味しかったよ」

 いかにも幸せという香りを放っているシャルに全部ぶちまけてしまいたかった。愛する人に愛される幸せはどんな心地か聞いてやりたかった。

 半分ほど畳み終わった頃、明るい呼び鈴が鳴る。何が届くかおおかた予想がついていた萩野はシャルに印鑑を持たせて出るように頼んだ。

 郵便で届いたのは、掴めるほどの厚さがある冊子だった。封筒には「写真」と書かれている。

「萩野さん、これ何?」

「お見合い写真ですよ」

 シャルの視界ががらがらと崩れるようだった。視界の端で萩野が笑っているように見えた。

「お見合いって、何」

「シャル様はご存じないですか? 男女が第三者の紹介で出会って結婚することですよ」

 萩野の声はいつもより低くて穏やかだった。その声がシャルの心臓に突き刺さる。

「そんなこと僕は知っているよ。なんで引田さんに届くの?」

「何故って、もう旦那様も三十後半です。もう結婚なさっても可笑しくない歳ですよ」

 シャルは膝から崩れ落ちた。僕を愛しているのは嘘だったのだろうか。いや、きっと本当だ。男同士のカップルの末路は嫌と言うほどシャルは知っていた。引田は社長だ。きっと跡取りが必要だろう。

「僕はやっぱり、ここにいてはいけなかったんだ」

 小さな涙をシャルは落とす。すると萩野は呟く。

「何故、あなた様なのですか」

「え?」

 萩野は激高のままにシャルの肩をつかんで床に倒した。畳んだ洗濯物の山が崩れる。

「何故、あなた様なのですか。何故僕ではなくあなた様が選ばれたのですか」

 驚いたシャルが目を見開くと、今まで見たことのない萩野の感情的な顔がそこにあった。熱い雫がシャルの頬に落ちる。

「何故シャル様は愛されていることを受け入れないのですか。旦那様はもうすぐ結婚するかもしれない。それでも、何故一瞬でも愛された喜びを大事にできないのです」

 僕はあなたが羨ましい。それだけ吐き出した萩野は、シャルの上から退いて静かに崩れた洗濯物を畳み直した。

 知らなかった萩野の想いに、シャルは泣きだすことも声をかけることもできなかった。

「やっぱり僕はここに来てはいけなかった」

 シャルは逃げるようにとぼとぼ階段を降りて、自室のベッドでやっと両袖を濡らした。

 

 引田が帰宅すると、シャルは笑顔で迎えてくれた。しかし心もち寂し気で、目の端が赤いような気がした。

「引田さん、僕の名前、知りたい?」

 シャルは引田の腕の中に縋り付いて、絞り出すように言った。

 窓から月明かりが射しこみ、彼の美しい躯体を照らす。無駄な脂肪も筋肉もなく、古い西洋の人形のような美しさ。白磁の肌は曇りひとつなく、ただ腰の左側に刻まれたアゲハチョウのタトゥーが無機質に彼の娼夫としての存在を物語っていた。

「引田さん、引田さんのこと好きだよ」

 彼は引田の腕の中に潜り込むと、薄い桜色の唇を引田の唇と合わせる。幾度となく繰り返しても飽きることはなかった。

 愛される幸せなど分かりもしなかった。愛されることは必然で、同時に終わりがあることも必然だった。人生と同じ。終わらないものなどない。そして、どちらも無価値で、脅威だった。終わらないと微かでも信じてしまっていた自分に腹が立ってしょうがなかった。

 舌を伸ばすと、応えるように吸われる。引田の厚い下唇を吸うと引田の体温が上がるのが分かる。

 引田が優しく彼の首筋に歯を立てる。毛細血管が破れる痛みに甘い声を漏らす。痛みは彼の快楽の全てだった。思えばあの日も男の骨を砕いて、その痛みを想像してひどく興奮した。北原に縛られ、頬を叩かれることが屈辱的で快感だった。

「引田さん、もっと」

 引田の耳にキスをする。引田に強く抱きしめられると、お互いの雄が腹を圧迫する。引田の手が彼の成熟した雄に触れる。どこまでも優しく、慈しむような愛撫がくすぐったくてしょうがない。でも、嫌いじゃなくなっている自分に彼は悲しくなった。

 離れたくない。でも。

 解された孔に引田の中心をあて、ゆっくりと腰を下ろす。逆流する違和感と抗えない快感に彼は呻いた。

 奥まで飲み込んで、彼はかすれた声で言う。

「引田さん、僕の本当の名前はね、愛実(つぐみ)って言うんだ」

 引田は彼の最奥を許された幸せに身体を震わせた。彼の本当の心を知らないまま、本当の彼を手に入れたつもりでいた。

「愛実君か。可愛らしい名だ」

「うん、美波愛実が僕の本当の名前。ねぇ、名前呼んでよ。真琴さん」

 引田はシャルと呼ばれた青年の上体を抱きしめる。

「愛実、愛してる。ずっとここに居てくれ」

「うん、真琴、愛してるよ」

 だから僕はここにいちゃいけない。そう愛実は涙を落とした。それを感激の涙だと思いこんでいる引田は雄々しく愛実を押し倒すと、激しく求めるように腰を穿つ。

「あっ、いひっ、まことっ、好きぃっ」

「愛実、つぐみ、好きだ」

 強い快感から逃れようとシーツを掴むその手を、引田は掴み、手首にキスをする。離しはしないとシーツに縫い止める。引田の想いの大きさに、愛実は悲しくなるばかりだった。僕よりずっと相応しい人と結ばれるべきだと、愛されるほどに思う。

「そんなに泣かないで、愛実」

 嬉しいだけだよ、と嘘をついた。愛すれば愛するほど、自らの空虚に脅かされる。もっとこの男に相応しい人はいるはずだ。使用人の萩野だって、彼のことを好いていた。それを知らずに僕ばかりが愛されようとした。愛なんか要らないと自分を守るばかりで。

「真琴、愛してくれてありがとう」

 一筋の涙を落として、愛実は快楽の先へといった。

 

 翌朝、引田が目を覚ますと、隣に愛実の姿はなかった。

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 長い昼下がりが終わり、世界は夜の街に変わった。

 ただいま、といつもより明るい声色を繕って引田は帰宅した。自室から出迎えてくれたシャルを抱きしめると甘い香りが引田の本能をくすぐった。

「シャル君、今日は君の好きなプリンのお土産だよ」

 シャルの輝いた瞳を見て、引田は喜びと罪悪感で胸がいっぱいになってしまった。

 

引田は昼休み、ある男に電話をかけていた。

「やっぱりやっちまったか」

 シャルの美貌に屈しなかった男はいないと電話越しの男はそれみたかと嗤う。笑い事じゃないと引田は続けた。

「どうしたら彼を幸せにできるか分からなくなってしまったよ」

「そんなこと俺が知るか。ったく、二日で泣き言言いやがって、それでも社長様か?」

 相変わらずの横柄な口ぶりに引田は苦笑する。

「お前が面倒見るって言ったじゃないか。俺が言えたことじゃないが、親なら悩め。いっぱい悩め。それが愛ってもんだろ?」

「まさか君に愛を説かれるとは思わなかったよ」

 まったく、誠司には敵わない。

 

 リビングのソファーで嬉しそうにプリンを食べるシャル。惜しむように小さな口で少しずつ。カラメルと生クリームが絡んだカスタードプリンを大切に食べる姿に本来の子供らしさを垣間見ることができた。

「シャル君、話があるのだがいいかね?」

 シャルの手が止まる。見開かれた瞳は不安に揺れ、そして諦めたように笑った。

 引田はソファーの前に跪いて、シャルの手を握る。

「シャル君、私の家族になってはくれないかい?」

 彼の手から落ちたスプーンがメープルの床の上を跳ねる。

「君を養子にとりたい。学校にも通わせて、この世界のことを知ってほしいと私は願っているけど、どうかね?」

「嫌だよ。学校なんて行けるわけがない。ヨウシのことはよく分からないけど、僕は、次は誰に買われるの? 引田さんがガッカリしたらまた捨てられるんでしょ?」

「そんなことないよ。私はシャル君と生きていたい。少し愛情表現を間違えてしまったけれど、君の家族になりたいんだ」

 シャルの瞳から大粒の雫が頬を伝う。それは流れるままにシャルは拭おうともしなかった。

「私はシャル君、君のことを愛している。それは変わらないよ」

「待って、引田さん。僕は、商品だよ。引田さんに買われたモノなの。そんなことを言われても信じられるわけないじゃない。セックスしたくせに。僕を貪ったくせに。セックスしたことが間違っていたの? 分かんないよ。僕にはこれしかないのに。」

 シャルの言葉は嗚咽にさえぎられて続かなかった。引田はシャルを抱きしめ、背中をさすった。

「すまなかった。君に触れたいと思ってしまったんだ。君を苦しめると分かっていたはずなのに」

 シャルはどうしたら引田に応えられるのか、捨てられないでいる方法が分からなかった。愛されても、自分が愛せなかったらいつか見捨てられると潜在的な恐怖心が頭を埋めた。

「僕はどうしたらいいの……空っぽな『シャル』なのに。どうやって僕は引田さんに応えたらいいの?」

「そうだな、これが正しいのかは分からないけれど、キス、してくれないかい?」

 飼い主が望むなら、とシャルは唇を寄せる。柔らかな唇が合わさる。甘くない、無味なキス。そのはずなのに、シャルは胸の中が熱で満たされる。熱い舌が唇を割り、口腔で絡み合う。どんな客とも違う、慈しむような口付けだった。

「キスは一人じゃできない。暴言を浴びせ、噛みつくことだってできる口を合わせる。それがどれだけ優しいことか知っているかい?」

「引田さんも、性しか知らないんだね」

 シャルはやっと涙を拭って笑った。

「私と一緒に愛を知ってはくれないかい?」

 二人はどちらからでもなく、何度も口付けを交わした。

 

 引田とシャルは初めて、セックスをしないで同じベッドで眠りについた。自室で寝ればいいのにと引田は言ったが、シャルは一人で眠りたくはないと拒んだ。腕の中で眠るシャルの瞼に、引田は小さくキスをした。

 

 それから一週間の月日が流れた。

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 二度目の朝がやってきた。今日は早く目が覚めた。眩しすぎるほどの木洩れ日にはまだ目が慣れない。全身に残る性の気だるさにシャルは満足していた。

横で眠る飼い主の頭をシャルはそっと撫でる。整髪料の付いていない柔らかくこしのある黒髪が指の隙間を流れていく。人の生ぬるさに吐き気がしそうだとシャルは自嘲した。

「シャルくん……? おはよう」

 引田がシャルの手のひらに唇を寄せるとシャルはその右手を自ら口付けた。

 身体を重ねた者同士にしかない距離感、というものをシャルは知っていた。

 引田の胸板に頬を寄せると、引田はさも当然とばかりに背中に腕を回す。もし刃物を持っていたとしてもきっと彼は受け入れるだろう。

 あの使用人、萩野と引田もしているのだろうか。もしそうだとしてもシャルは引田との関係を「トクベツ」だと思っていた。「トクベツ」を勝ち取った。それだけ性はシャルの中心に在った。

 二人並んで寝室を出ると、ちょうど朝食の準備にやってきた萩野が玄関にいた。萩野は膝の力が抜けるのをこらえ、極力明るい声で朝の挨拶をする。一緒に住むと分かった時から覚悟をしていたことだったのに、いざ目の当たりにするとダムが決壊するように感情があふれて身が壊れてしまいそうだった。

「萩野さん、おはよう。こんなに早くから来ているんだね」

「おはようございます、シャルさま」

 嫉妬と悲しみで、これ以上言葉は続かなかった。

 黙っているとシャルは揚々と居間へ続く階段を昇って行ってしまう。一瞬の勝ち誇った笑みを、萩野は見逃さなかった。

 少し伸びた顎ひげをかいて、ばつの悪い顔で引田が萩野に挨拶をする。

「気持ち悪いと思ったかい?」

「いえ……驚きましたが、分かっていたことです」

 引田が言い残した「すまない」の一言が、萩野の胸に重く残った。

 

 引田が出勤すると、広い屋敷にはシャルと萩野の二人だけになった。

「萩野さん、何をやっているの?」

これですか? と萩野がダイニングテーブルに広げた参考書とノートパソコンを見せる。

「大学の課題のレポートですよ。テキストを読んでレポートを書いて出すと単位が貰えるのです」

「タンイ、って何?」

「えっと、この勉強がちゃんと完了しましたという証です。その単位を百とちょっとあつめると大学の学位というものが貰えます。大学の勉強を修めましたという証ですよ」

 ふーん、とシャルはノートパソコンを覗き込んだ。ちらり、とシャルのシャツの胸元から肌に刻まれた赤い証が見えた。萩野は顔を背けて震える声で話を続ける。

「シャル様もやってみますか?」

「僕が勉強できるわけないよ」

 シャルは肩をすくめてみせた。萩野のパソコンに表示されていた書きかけのレポートが殆ど読むことができなかった。漢字やカタカナ語の意味が分からない。別にそれでもいいとシャルは諦めていた。

「旦那様はシャル様に勉強してほしいとおっしゃっていました。僕もサポートします。分からないところはどうぞ訊いてくださいませ」

「嫌だね。僕はセックスさえできればいい。雄豚を調教するしか能のない犬っころの僕は飼い主を悦ばせることしかできないんだよ」

 そう言い捨てるとシャルは階段を降りていってしまった。

 残された萩野は「僕は悦ばせることすらできない」と呟くと、無機質に光る画面に写る泣き顔を見て嗤った。

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