←前のページ | 目次 | 次のページ→ |
「いってらっしゃい」
シャルはいつも早起きをして引田を見送るようになった。
「いってきます」
そして必ず、キスをするようになった。
朝の見送りだけではなく帰りも、寝る前も、廊下ですれ違った時でさえ首に腕を回しては触れるだけの口付けを交わす。
それに加えて、萩野に教わりながら家事を手伝うようになった。食器を割るなどの失敗はしたが、元より器量の良かったシャルはすぐに家事を覚えた。
シャルは無味な自分が味付けられていくのを感じていた。自分が必要とされ、自分が必要とする人の存在に胸の奥が温まるような心地だった。ただの口付けだったかもしれない。それでも初めて自覚した「優しさ」にシャルは身体に翼が生えたような心地だった。
「はぁ」
リビングの床に座り、洗濯物を一緒に畳んでいると萩野が溜め息を吐いた。ここ数日、萩野は気付けば溜め息ばかり吐いていた。
「萩野さん、どうかしたの?」
「なんでもないです。なんでも。ただ、シャル様が料理もお洗濯もできるようになってしまわれたら僕はもう要らないのだなと思えてしまって」
「それは困るよ。萩野さんのご飯美味しいのに。この前の坦々鍋美味しかったよ」
いかにも幸せという香りを放っているシャルに全部ぶちまけてしまいたかった。愛する人に愛される幸せはどんな心地か聞いてやりたかった。
半分ほど畳み終わった頃、明るい呼び鈴が鳴る。何が届くかおおかた予想がついていた萩野はシャルに印鑑を持たせて出るように頼んだ。
郵便で届いたのは、掴めるほどの厚さがある冊子だった。封筒には「写真」と書かれている。
「萩野さん、これ何?」
「お見合い写真ですよ」
シャルの視界ががらがらと崩れるようだった。視界の端で萩野が笑っているように見えた。
「お見合いって、何」
「シャル様はご存じないですか? 男女が第三者の紹介で出会って結婚することですよ」
萩野の声はいつもより低くて穏やかだった。その声がシャルの心臓に突き刺さる。
「そんなこと僕は知っているよ。なんで引田さんに届くの?」
「何故って、もう旦那様も三十後半です。もう結婚なさっても可笑しくない歳ですよ」
シャルは膝から崩れ落ちた。僕を愛しているのは嘘だったのだろうか。いや、きっと本当だ。男同士のカップルの末路は嫌と言うほどシャルは知っていた。引田は社長だ。きっと跡取りが必要だろう。
「僕はやっぱり、ここにいてはいけなかったんだ」
小さな涙をシャルは落とす。すると萩野は呟く。
「何故、あなた様なのですか」
「え?」
萩野は激高のままにシャルの肩をつかんで床に倒した。畳んだ洗濯物の山が崩れる。
「何故、あなた様なのですか。何故僕ではなくあなた様が選ばれたのですか」
驚いたシャルが目を見開くと、今まで見たことのない萩野の感情的な顔がそこにあった。熱い雫がシャルの頬に落ちる。
「何故シャル様は愛されていることを受け入れないのですか。旦那様はもうすぐ結婚するかもしれない。それでも、何故一瞬でも愛された喜びを大事にできないのです」
僕はあなたが羨ましい。それだけ吐き出した萩野は、シャルの上から退いて静かに崩れた洗濯物を畳み直した。
知らなかった萩野の想いに、シャルは泣きだすことも声をかけることもできなかった。
「やっぱり僕はここに来てはいけなかった」
シャルは逃げるようにとぼとぼ階段を降りて、自室のベッドでやっと両袖を濡らした。
引田が帰宅すると、シャルは笑顔で迎えてくれた。しかし心もち寂し気で、目の端が赤いような気がした。
「引田さん、僕の名前、知りたい?」
シャルは引田の腕の中に縋り付いて、絞り出すように言った。
窓から月明かりが射しこみ、彼の美しい躯体を照らす。無駄な脂肪も筋肉もなく、古い西洋の人形のような美しさ。白磁の肌は曇りひとつなく、ただ腰の左側に刻まれたアゲハチョウのタトゥーが無機質に彼の娼夫としての存在を物語っていた。
「引田さん、引田さんのこと好きだよ」
彼は引田の腕の中に潜り込むと、薄い桜色の唇を引田の唇と合わせる。幾度となく繰り返しても飽きることはなかった。
愛される幸せなど分かりもしなかった。愛されることは必然で、同時に終わりがあることも必然だった。人生と同じ。終わらないものなどない。そして、どちらも無価値で、脅威だった。終わらないと微かでも信じてしまっていた自分に腹が立ってしょうがなかった。
舌を伸ばすと、応えるように吸われる。引田の厚い下唇を吸うと引田の体温が上がるのが分かる。
引田が優しく彼の首筋に歯を立てる。毛細血管が破れる痛みに甘い声を漏らす。痛みは彼の快楽の全てだった。思えばあの日も男の骨を砕いて、その痛みを想像してひどく興奮した。北原に縛られ、頬を叩かれることが屈辱的で快感だった。
「引田さん、もっと」
引田の耳にキスをする。引田に強く抱きしめられると、お互いの雄が腹を圧迫する。引田の手が彼の成熟した雄に触れる。どこまでも優しく、慈しむような愛撫がくすぐったくてしょうがない。でも、嫌いじゃなくなっている自分に彼は悲しくなった。
離れたくない。でも。
解された孔に引田の中心をあて、ゆっくりと腰を下ろす。逆流する違和感と抗えない快感に彼は呻いた。
奥まで飲み込んで、彼はかすれた声で言う。
「引田さん、僕の本当の名前はね、愛実(つぐみ)って言うんだ」
引田は彼の最奥を許された幸せに身体を震わせた。彼の本当の心を知らないまま、本当の彼を手に入れたつもりでいた。
「愛実君か。可愛らしい名だ」
「うん、美波愛実が僕の本当の名前。ねぇ、名前呼んでよ。真琴さん」
引田はシャルと呼ばれた青年の上体を抱きしめる。
「愛実、愛してる。ずっとここに居てくれ」
「うん、真琴、愛してるよ」
だから僕はここにいちゃいけない。そう愛実は涙を落とした。それを感激の涙だと思いこんでいる引田は雄々しく愛実を押し倒すと、激しく求めるように腰を穿つ。
「あっ、いひっ、まことっ、好きぃっ」
「愛実、つぐみ、好きだ」
強い快感から逃れようとシーツを掴むその手を、引田は掴み、手首にキスをする。離しはしないとシーツに縫い止める。引田の想いの大きさに、愛実は悲しくなるばかりだった。僕よりずっと相応しい人と結ばれるべきだと、愛されるほどに思う。
「そんなに泣かないで、愛実」
嬉しいだけだよ、と嘘をついた。愛すれば愛するほど、自らの空虚に脅かされる。もっとこの男に相応しい人はいるはずだ。使用人の萩野だって、彼のことを好いていた。それを知らずに僕ばかりが愛されようとした。愛なんか要らないと自分を守るばかりで。
「真琴、愛してくれてありがとう」
一筋の涙を落として、愛実は快楽の先へといった。
翌朝、引田が目を覚ますと、隣に愛実の姿はなかった。
←前のページ | 目次 | 次のページ→ |