オリジナル小説サイト「渇き」

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Vanilla12

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 シャルと呼ばれた少年、愛実は一人、歓楽街を歩いていた。素足に安いゴム製のサンダル。服は裾がすり切れた青いスウェットのみ。晒された白い足は細く、この街を歩き続けるには心もとなかった。

 もう引田のところにはいられないと、愛実は逃げだした。商品でなくなった今だからできるのだろうと思うと皮肉に笑ってしまう。薄汚れた僕なんかより素敵な人を見つけて、と願うばかりだった。

 確かこの辺りは劇場のあったあたりだろう。行く当てのない愛実は自然とこの場所にやってきてしまった。生ごみが水たまりで腐る異臭も、酔っぱらいが残した吐瀉物も、何もかも愛実にはおあつらえむきだと思えた。

 サンダルの先を見つめて歩いていると、男の集団にぶつかってしまった。

「ってえなあ! どこ見て歩いてんだ」

 小さな声ですみませんとだけ呟くとその場から立ち去ろうとする。

「おい、聞こえねぇんだけど? あぁ?」

 集団のうちの小太りな輩に腕を掴まれる。離してともがいても、愛実の細い腕では敵わない。

 リーダー格と思われる首にタトゥーの入った男に顎を掴まれる。睨み返すと、なんだその目は、と愛実はゴミ箱に投げ飛ばされた。

「っあ……」

 起き上がろうとすると、腹に数回、蹴りを入れられた。何も食べていない愛実の口からは酸の強い胃液が吐き出される。痛みがこんなに苦しいなんて知らなかった。

「おい、これ見てみろよ」

 集団の中の一人が、愛実の露になった背中を指さす。

「こいつ『夜蝶のシャル』だぞ」

「おお? あの有名なシャルちゃんじゃないか。こりゃあ、とっ捕まえて売り払ったら大金になるぞ」

 男たちの下種な笑いに愛実は嗤っていた。そうだ、僕は所詮売り買いされる商品だ。僕の人生なんてそんなものだ。でも、真琴は僕に価値をくれた。真琴、助けて、まこ――

「つぐみ!」

 知っている声が聞こえる。ああ、お迎えでもきたのかな。

 愛実はそこで意識を手放した。

 

「愛実、目、覚ましたか?」

 目を開けると見知った天井だった。見渡すと片付いていないアパートの一室。

「北原さん?」

 狭いパイプベッドの脇に、髪の長い無精ひげを生やした男が腰掛けていた。

「愛実、なんであんなところに居たんだ。帰ってくるなと言っただろ」

 キツイ言葉に反して、北原は愛実を強く抱きしめていた。懐かしい匂いに涙が止まらない。怖かった、怖かったと愛実は泣く。しかし、胸に鋭い痛みが走る。北原は「あばらをやったか」と抱きしめる手を緩めた。骨が折れた痛みは、別に気持ちよくもなかった。

「北原さん、僕、好きな人ができたよ」

 ベッドに寝転んで、北原の手を握る。

「そうか、真琴に惚れたか」

 親しげな物言いに愛実は首をかしげた。

「お前を引き取った引田真琴は、俺の高校のダチだ。話せば長くなるが、聞くか?」

 愛実は目の端から零れ落ちた涙をスウェットの袖で拭うと、うん、とだけ答えた。

「まずお前に言わなきゃいけないことがある。愛実、お前の父親は俺だ」

 北原さんが、僕のお父さん? 愛実は息を止めた。揺れる瞳で見つめる愛実の髪を撫でると、北原はゆっくりと語り始めた。

「俺が高校二年のとき、当時付き合っていた一つ下の彼女が孕んじまった。避妊の知識も、中絶の金どころか存在すら知らなかった馬鹿者だった。誰にも言えなかった彼女は学校のトイレで赤ん坊を産んだ。それがお前だ」

 愛実の心臓が早鐘を打っていた。そして同時に、北原と暮らす前の記憶の断片を頭によぎった。たくさんの白い板と、真っ黒で吸い込まれそうなカメラのレンズだ。

「彼女――お前の母親はお前を育てる金を得るために高校を中退して水商売をし、そしてAV女優になった。その頃には俺との付き合いはなく、人から聞いたことしか知らない。それでな、お前の母親は幼いお前のポルノ画像を海外のマニアに向けて売っていたそうだ。タトゥーを入れたのもその頃だと聞いた」

 少しだけ覚えているよ、と愛実は答えた。服を着ていないのが当たり前だった。打ちっぱなしのコンクリートの上で股を開いてカメラに幼いペニスを見せつけていた。ランドセルを背負った子供たちがマンションの外を歩いている姿が不思議でならなかった。断片的な記憶が北原の言葉によって浮かんでくる。

「それでお前が十二歳のとき、お前の母親は死んだ。昔から手を出していた麻薬の中毒の末、自ら命を絶った。なんとも馬鹿な母親だな」

 自嘲するように北原は笑った。

「母親が死んで、お前は俺のところにやってきた。初めて来たときのことを覚えているか? お前、俺にキスしたと思ったらちんこ揉んだんだぜ? 俺にはお前の親になる自信はなかった。だから、お前をショーに出した。母親に仕込まれただけだと知っていても、天賦の娼夫だと思ってしまった。それしか、俺にお前を生かす方法はなかったんだ」

 愛実の手を握る力が強まる。長い前髪で見えなかったが、声が熱を持って潤んでいた。

「じゃあ何で、僕を商品と呼んだの」

 シャルは天井を見つめたまま訊く。

「俺達には計画があったんだ。お前を人間にするための」

 愚かな俺達にしかできない計画だ、と北原は笑った。

「真琴と俺は高校で知り合ったダチだ。真琴は高校のときにはすでに実家の会社を継ぐことが決まっていた金持ちだ。お前を引き取ると決まったとき、俺は真っ先に真琴に連絡をした。助けてほしいとな。それで時期が来たらお前を真琴が引き取って育てることになったんだよ。金があれば知らない人とセックスしなくていい。たらふく好きなものが食べられる。学校にだって行ける。何度も何度も頼み込んで、やっとその日が来た。真琴がお前に惚れちまったのは計画外だったがな」

 一呼吸おいて、北原は言う。

「お前と離れることが苦しくならないよう、俺はお前をモノとして扱った。お前は売られたことも買われたこともない。それだけは事実だ」

 愛実は痛む身体を起こして、北原の背中で泣いた。今までの苦しみや葛藤は何だったのか、分からなくなってしまった。ただ分からないまま涙が流れる。

「愛実、馬鹿な父親でごめんな。俺はお前を愛してやれなかった」

「酷いよ、北原さん。今更そんなこと言わないでよ」

 僕は大好きだった、と北原の背で涙をぬぐった。

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