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今日は泊まっていきな、と北原は理由も聞かずにお湯を注いだカップラーメンと使い捨てのフォークを渡した。いつでも薄暗いこのアパートではいつ日が昇っていつ日が沈むのか分からなかった。蛍光灯に照らされた自らの足を見る。倒れたときについたであろう都会のヘドロが真っ白な肌を汚して扇情的だと愛実は口角をあげた。都会の汚れなんて忘れていたのに。
久しぶりのカップラーメンは塩味ばかりで美味しさなんて感じなかった。萩野さんの味噌汁の方がずっと美味しい。でも、もう食べることもないのかもしれない。出尽くしていたと思っていた涙がまた溢れてくる。北原は黙って、それを見つめていた。
「北原さん、あのね」
ベッドで二人、横になって愛実は切り出した。
「僕はね、愛なんていらないと嘘をついていた。いや、本当だったかもしれない。北原さんに見放されることが怖かった。道具でいることで捨てられても平気だと思いたかっただけだった。でも北原さんから僕を引き離した真琴のことも恨んでしまった。僕は道具になりきれなかったんだ」
北原は愛実の手をこわごわ握った。愛実は迷わず握り返す。
「真琴のことを最初は立派な人だと思っていたけれど違った。僕と同じ、未完成で不器用な人だった。そして僕に優しさを教えてくれたんだ」
そうか、と北原は天井の蛍光灯を見つめた。
「シャル――愛実は真琴のところには帰らないのか?」
「帰れないよ。あんな素晴らしくて将来もあって跡継ぎが必要な人のところに僕なんて居たらいけないんだ」
「居てほしくないと真琴に言われたのか?」
愛実は唇を強く噛んで、ゆっくりと横に首を振った。
「じゃあ傍に居てもいいか本人に訊くんだな」
愛実は返事ができなかった。自ら出てきたのに、帰ってくるなと言われることが恐ろしくてたまらなかった。
翌朝、まだ日の光が低く鋭い時間にインターホンが鳴った。せかすように何度も鳴らされたそれに愛実は目を覚ます。北原は小さく明るい舌打ちをすると、お迎えだ、と愛実の額にキスをした。
「ったく、お前は朝が早すぎるんだよ」
スチールのドアを北原が開けると、息を切らした引田と、目の下を泣き腫らした萩野の姿があった。愛実が駆け寄ると、引田はそれを受け止め「よかった、よかった」と力強く抱いた。あばらの痛みに愛実が身体をこわばらせると引田は力を緩めた。
「怪我をしているのかい?」
「ああ、お前のせいで俺の大事な息子が不良に絡まれてあばらをぽっきりとな」
北原が代わりに答えると、萩野が大声で「申し訳ございません」と頭を下げた。
「僕のせいでシャル様に怪我を……僕があんなことを言うから」
ぼろぼろと涙を零す萩野を愛実はゆっくりと抱きしめた。
「出ていったのは僕の勝手だよ。萩野さん」
「でも、僕が酷いことを言うものだから、ごめんなさい。ごめんなさい」
どうしたんだ、こいつは、と北原は訊ねるが、ずっとこの様子で口を割らないんだと引田は答えた。
「真琴、僕は真琴との子供は産めない。料理も洗濯も何もできない。それでも、僕は真琴と一緒に居ていい?」
引田はまっすぐ愛実を見つめ、手を取る。
「もちろんだ。ずっと傍にいてくれ」
視界が歪む。安堵感に熱いものがあふれて、愛実は引田に抱きよった。
「ったく、お前ら玄関先で煩いんだよ。済んだならさっそと帰れ」
北原は喜びを隠すように愛実の背中を押す。振り向いて、愛実は問う。
「北原さん……お父さん、また帰ってきていい?」
「……ああ、いつでも帰ってこい」
愚かな二人の男によって翻弄されたシャルと呼ばれた少年は、やっと止まり木を見つける。バニラは甘い香りがするが、無味だ。そう自らを卑下した少年は、求められる喜びを知った。
「ありがとう。みんな」
「愛実さま、あとは僕がやりますから。まだお怪我も治っていないのに」
大丈夫大丈夫、と愛実は萩野が止めるのも気にせず、洗い上がった衣服の籠を運んでいた。あれから萩野は引田邸を去ろうとした。しかし愛実は、
「自分の思いを言わずにいるのは苦しいよ」
そう萩野に宣戦布告をした。
「愛実さま、僕、負けませんからね」
「真琴は僕のだけどね」
顔を見合わせた二人は悪だくみをするように笑い合った。
洗濯物をリビングで畳んでいると、窓から吹いた風が石鹸の香りをあおる。
「何やら仲良しだね」
リビングに顔を出した引田は微笑む。
「真琴、プリン食べたい」
「そうか、では買ってくるとするか」
「いけません旦那様、それは僕が」
慌てて制止する萩野に、それじゃあ、と車のキーを渡す。
「真琴、好きだよ」
暖かな日の光を写すカーテンが風に揺れる。
二人はそっと唇を合わせると、甘い熱視線を絡ませ合った。
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