オリジナル小説サイト「渇き」

恋愛小説、純文学、エッセイを扱った小説家・佐倉愛斗オリジナルサイト

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 シャルは初めてデパートというものに足を踏み入れた。世界のことを知らなくても分かるほど清潔で高級な香り。黒いポロシャツと白いパンツを着たシャルは高級なブランド店が並ぶデパートでも霞まない美しさを放っていた。

「萩野さん、服と下着と靴は買えたけど、他にまだ買い物するの?」

「あとは好きな本ですね。シャル様はどんな本をお読みになりますか?」

「本? そんなの読んだことないよ。学校も行ったことないし、新聞も読んだことない」

 萩野は少しの沈黙ののち、では今日はやめておきましょう、とシャルを駐車場へ案内した。

 車へ乗り込むと、萩野はぽつりと語り始めた。

「わたくし事ですが、僕は小学校、中学校へ行っていません。今はこうして旦那様のお世話をさせてもらっていますが、旦那様のはからいで高卒認定を取得して今は通信制大学で学ばせていただいています。旦那様は本当に心優しいお方です。何もできなかった僕を大切に育ててくださいました」

 シャルは黙って聞いていた。引田が拾ったのは僕だけではなかったのだ。引田は「愛している」と囁くが、それはきっとこの使用人も一緒なのだろう。トクベツだと思い上がっていた自分に腹を立てていた。ただセックスが好きな僕はきっと飽きたら捨てられる。料理も洗濯も車の運転もシャルにはできない。愛されることが怖かった。愛なんていらない。昨晩引田の頬を叩いた手の痛みをじんわりと思いだしていた。

 

 シャルは夕食を終えて自室のテレビをぼんやりと見ていた。男二人が漫才をしているのだが何が楽しいのか分からなかった。ただ大きな声をだして時折頭を叩く。SMショーより品がなくて陳腐だった。

 玄関の開く音にシャルはホールに足を向けた。

「おや、シャル君。出迎えとは嬉しいね」

 引田の疲れ切った表情がほんの少し緩む。シャルの頭をくしゃりと撫でると引田は二階へと昇って行ってしまった。

 寂しい。

 誰でもいいのかもしれない。けれどシャルは誰かのトクベツでありたいと願っていた。以前の北原のように、いつでも傍に居てくれる人が欲しかった。愛がなくても寂しさを埋められるのなら……シャルの心に棘が覆い心臓を突き刺すかのようだった。

 

「引田さん、一緒に寝ていい?」

 寝間着姿で寝室に降りてきた引田をシャルは静かな声で抱きしめた。

「昨日みたいにぶたないかい?」

 引田は揶揄するように笑う。しかし瞳にはしっかりと熱がともっていて、慈しむように引田はシャルの黒い髪を撫でた。

「引田さんが変なことをしなきゃぶたないよ。でも今日は触れていいよ。身体のどこでも」

 それでも、キスだけはしないで、とシャルは付け足した。

「まだ私のことが怖いかい?」

「怖くてもセックスはできるよ。僕は娼夫。金を積まれれば誰とでも寝る」

「君が欲しいのは金ではなさそうだけれどね」

 シャルは黙って引田の胸に顔を埋める。手を腰に回すと引田はシャルをベッドへ引き倒した。鼻が触れ合う距離でお互いのいつもより速い呼吸を確かめあう。

「シャル君はどうされるのが好きかい?」

 シャルを抱きかかえて引田は耳を啄む。急く呼吸に鼻にかかった甘さが混ざった。

「気持ちよければなんでもいいよ。縛っても叩いても、おしっこを飲ませたっていい。骨を折られても構わない」

「へぇ……ショーとは違ってまるでマゾヒストみたいだね」

 引田は強く強くシャルを抱きしめると、首筋に唇で優しく触れた。身体の中の蝋燭に一本、また一本と炎を灯してゆく。

シャルのバスローブをひらりと脱がすと赤く熟れた胸の尖りを引田は抓る。頭を抜ける甲高い声がシャルの口から漏れた。引田はしたり顔をするので、シャルは恥ずかしくなって枕を抱きしめた。

「実は恥ずかしがり屋なんだね、君は」

「引田さんがそうさせるだけだよ」

 引田の愛撫はこそばゆかった。優しく、慈しむように、薄氷をすくいあげるように、赤子を抱きしめるように。その暖かさがくすぐったくてしょうがなかった。

「引田さん、もっと痛くしてよ」

 引田はシャルを抱きかかえると胸の尖りを口に含む。コリコリと未発達の乳腺を歯で遊ぶと、シャルは甘い声を漏らしてもっととせがんだ。与えられる甘い切なさが中心に熱を持たせ、蜜をどろりと吐き出させた。

「はぁっ、気持ちいいっ……」

「それはよかった。男を抱くのは初めてで不安だったんだ」

「引田さん、女の人には慣れていそうね」

 汗で吸いつく肌と、甘美な声。違うのは主張する雄が互いの腹を圧迫することだけ。シャルの細い腰を抱きしめて、引田はシャルの首筋を啄んだ。細い血管が切れる快楽にシャルはうっとりと目を閉じた。

「引田さん、今度は僕の番だよ」

 シャルは引田の反り立つ中心にちゅっと音を立ててキスをする。余った皮を口先でつまんで、ぬらぬらと光る先を露にさせる。舌で包むように咥えると引田の口から甘い溜め息が漏れた。

 気を良くしたシャルはその食感とぬるい海水のような体液の味を楽しむように口と舌を動かした。時折引田の腰が揺れるのが楽しくてついつい強く吸いついてしまう。

「シャル君、上手なのが悔しいよ」

「当たり前でしょう? 僕はセックスするために生まれてきたんだから」

 その言葉に引田はシャルを抱きしめることしかできなかった。どうしたらこの少年の心を癒せるのか、引田は分からなくなってしまった。一抹の劣情を抱いてしまった自分に、そして性に流されようとしている自分に泣きだしてしまいそうで、引田は顔を見られまいとシャルの頭を胸に抱いた。

「引田さん、そんなに僕を大事にしなくたってセックスはできるよ?」

 シャルは引田を押し倒すと、彼の劣情をずるりと呑み込んだ。身体を震わせるシャルの美しさに、意識が揺らぐようで。

「最低だ」

 シャルに聞こえないように引田は呟き、自制心を捨てた。

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 シャルが目を覚ますと、広いベッドの隣には誰もいなかった。

 昨日のことが夢ならいいのにと周りを見渡してもそこは北原と暮らした雑多なアパートではなく、高級そうな家具が整然と並んだ知らない一室だった。小鳥の囀りがひどく寂しく、清潔すぎる空気に呼吸するのも億劫になる。身体を起こすと、ベッドのサイドテーブルに着替えと思われる服が一式綺麗に畳まれて置いてあるのを見つけたが、シャルはその中から黒いポロシャツだけを身に付けた。

 誰もいない。この世界には誰も。黒いポロシャツの裾が真っ白な太ももを覆う。闇の中で生きていたシャルには眩しすぎるコントラストだ。メープルの明るい床に窓の外で揺れる木々の木洩れ日が反射する。酷く寂しい朝だった。

 シャルが二階のダイニングへ入ると、キッチンからカラメル色のきのこ頭が顔を出す。彼はおはようございます、と言いかけたが、シャルの姿を見て大げさなくらい顔を真っ赤にして目を背けた。

「何」とシャルがそっけなく問う。

「その、下は履かないのですか? 僕にはその、刺激が強いというか、シャル様の御脚を見たと旦那様に知られたら僕がこっぴどく怒られます」

 そばかすの目立つ頬を真っ赤にして目をきつく閉じている萩野のことが可笑しくて、シャルは萩野の前に立ち「萩野さん」とポロシャツの裾を指でつまんで持ち上げた。

「きゃっ! 見ていません! 僕は何も見ていませんよ!」

 慌てふためいて手で目を覆う萩野が非常に愉快で、シャルはけらけらと笑った。からかい甲斐のある人もいたものだとシャルは味をしめる。

「冗談だよ。萩野さん、ごはんは?」

「はい、準備できています。今、お出ししますね」

 広いダイニングテーブルの端にシャルが腰掛けると、萩野が手際よく皿を並べる。焼いた鮭の切り身に何かの菜の和え物、白米に味噌汁にお漬物。これだけの品数を一度に食べたことがなかったシャルは食べきれるのかと不安になるがとりあえず味噌汁に手を付ける。

「お口に合えばいいのですが」

 萩野はそう言ったが、可もなく不可もなく美味しい。インスタントのものとは違って具材のジャガイモと玉ねぎが柔らかく、甘くてしょっぱくない。

「引田さんはどこへ行ったの?」

 白米を口に運びながら、シャルの横に立つ萩野に尋ねた。

「旦那様は、今日は工場の視察と取引先との会食です」

「シサツ? 社長さんのお仕事?」

「はい、その通りでございます。昼食と夕食は僕たちだけで済ませるようにと仰せつかっています」

「ふーん。夜まで帰ってこないんだ」

 シャルは鮭の切り身を箸でぼそぼそとつつく。夜まで何をすればいいのか分からない。

「萩野さんのごはんは?」

「僕はもう朝食をいただきました。失礼ですが、もう十一時ですよ」

 まだ午前なのか、とシャルは溜め息を吐いた。夜の世界を生きてきたシャルにとって午前に起きることは少なかった。

「お昼は遅い時間にしましょうか。旦那様からシャル様の必要なものを買いに行くように承っております」

「必要なもの? 僕は何も要らないよ」

「着替えや靴、好きな本を選んでくるようにとのことです」

「ふーん」

 食べ終わったシャルは椅子の上で膝を抱いた。冷たい膝に頬を乗せて萩野が食器を片付けていくのを見る。

「萩野さんって童貞?」

 食器が流しに音を立てて落ちる。あまりの動揺にシャルはクスリと笑った。

「ななな、なんてこと訊くのですか」

 食器を洗いながら俯いて萩野は訊く。

「だって反応がいちいち童貞っぽい。しかも男の脚を見て恥じらうなんてね。なんなら僕が卒業させてあげようか?」

 シャルは立ち上がって萩野の腿を人差し指でなぞる。萩野は身体をぞわりと震わせて耳まで真っ赤にしていた。

「萩野さん、反応いいね。もしかしてゲイだったりする?」

「やぁっ、やめてください。旦那様に知られたら僕クビになります」

「じゃあ知られなきゃ僕のこと抱きたいんだ」

 シャルは赤く熱を持った萩野の耳に歯を立てた。後ろから抱きしめエプロンの隙間から萩野の中心に手を伸ばすと微かだが芯を持って存在を主張している。

「やだぁ、やめてくださいシャル様。僕は、僕は」

「ねぇ、こんなにも時間があって暇を持て余しているんだよ? セックス以外何をすればいいの?」

「シャル様とこんなことをしていると知られたら本当にクビになってしまいます。どうかやめてください」

「こんなにパンツをドロドロにしておいてよく言うよ、萩野さん。本当は男に抱かれたかった?」

 萩野はその言葉に泣きだしてしまった。大粒の熱い涙がシンクの食器たちにぼたりと落ちる。

「ふーん。萩野さんも変態だったんだね。好きな人がいるんでしょ?」

「言えません。シャル様だけには言えません」

 濡れた手で萩野は涙を拭った。萩野には想い人がいた。でもそれはもう叶うことは無い。シャルがいるから叶わない。この想いを誰にも悟られるわけにはいかなかった。

「さぁ、もうすぐ片付け終わるのでちゃんとお召し物を着てください。買い物へ行くよう言われております」

 萩野の想いは酷く虚しいものだった。

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「初日から夜這いとは嬉しいんだけど、どうしたのかい? シャル君」

「今から僕がここでオナニーしてあげるよ。見たいんでしょう?」

 シャルはゆったりと舐めるような口調で話す。シャルの瞳の中に暗い炎が宿っているようで、引田はごくりと喉を鳴らした。

「引田さんは絶対に触っちゃダメだよ。お客は演者に触れないのが決まりさ」

 シャルはシャツをはらりと脱ぎ捨てると、ベッドの上に膝立ちになり、脚を開いた。露になったシャルの素肌は薄暗い室内でも分かるくらいきめ細やかで美しく、白い磁器を思わせる。シャルはほっそりとした指を口に咥えると、引田を見下ろし、嘲笑う目をした。自分以外すべてが不要で害悪かのように語るその目を引田はじっと見つめた。

 唾液でぬらぬら光る指を後ろから秘孔にそっと押し当てる。固く閉じた蕾を開くように人差し指でゆっくりと撫で広げてゆくと、芯を持った中心が揺れて蜜を零した。

 シャルは眉間に皺を寄せて熱を持った息を吐いた。その吐息を肌に感じる距離でゆっくりと粘度をもった動きを引田はただただ見つめる。甘い、甘い香りがする。シャルの肌を舐めてしまいたい。肌だけじゃなく唇も、口腔も、腫れ上がったペニスも、シャルが広げているアヌスも、全てを味わいたい。引田は獲物を前にした自己の野性に流されようとしていた。

「ふぅ……っ」

 シャルの細い指が本来挿入すべき場所ではない器官に侵入する。敏感な粘膜を撫でる快楽にシャルは息を乱し、口の端から銀の糸を落とした。ゆっくりと挿入し、一気に指を引き抜く。本能的な排泄の快感に淫靡なものが混ざり、真っ白だったシャルの頬が薄紅色に高揚する。

「ねぇ、引田さん。こんなえっちな子を買うなんて、ホント変態なんだね」

 シャルは引田の耳元で囁く。熱を持った言葉が耳から脳髄へいやらしいもので染め上げる。

「見ててね、僕のえっちなところ」

 シャルは挿入した指でいいところをぐりぐりと刺激する。身体を走る電気に肌を粟立たせ、膝立ちの脚をがくがくと震わせた。とめどなく言葉にならない声を上げて快楽に身もだえする。上気した顔が、下がる眉が、解けるように閉じられた目が、閉じられない小さな口が、すべてが美しく、耐え切れず引田はシャルを抱き寄せて厚い舌を開いた口にねじ込んだ。

「っ……!?」

 刹那、シャルは立ち上がっていない中心からどろりと白濁した液を流した。絶頂を向かえた身体は小刻みに震え、息が規則的に止まる。

 シャルは涙を流して引田の頬を平手で叩いた。

「触らないでって言ったよね」

 シャルは屈辱に泣いていた。否、恐怖に震えていた。愛されるということは終わりがあるということ。どんなに愛の言葉を囁かれても飽きたら売買される。一緒に生クリームと煮ても、バニラが無味だと気付かれたら取り除かれて捨てられる。モノとして扱われた方がマシだった。愛される価値がないのだと気付かれることが怖かった。

「引田さん。僕に惚れたなんて言わないで。僕は愛なんて要らない」

「それは約束できないな」

 引田はシャルの頭を撫でると。ベッドサイドのティッシュをよこした。

「引田さん、一緒に寝てあげるよ。こんなにベッドが広いんだから」

 シーツの汚れを拭ったシャルは有無を言わさず引田の横に滑り込んだ。

「抱きしめちゃダメだからね。一緒に寝るだけ。じゃあ僕疲れたからおやすみ」

 引田の少し速い鼓動を背中に聞きながら、シャルは眠りについた。

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一目惚れ。その言葉にシャルはスプーンを落とした。こみ上げる吐き気と目の前が真っ暗になるような眩暈。立ち上がるとシャルは部屋を飛び出した。

 廊下を行けども行けどもこの家は広すぎた。どこを曲がったら外に出られるのだろうか。逃げることは商品として許されることではないだろう。それでもシャルは引田から逃げたかった。引田のことが怖くて仕方がなかった。どんな酷い目にあうことも命を奪われることもシャルは怖くはなかった。この嫌悪感が何なのかシャル自身はまだ分からずにいた。

 ようやく見つけた階段を下りきったところでシャルは胃の中のものを全て吐き出しうずくまってしまった。素足にかかる吐瀉物が生温く、喉がひりひりと酸で焼ける痛みに涙を落とした。

 帰りたい。

シャルの願いは酷く儚いものだった。誰のところに帰ればいいのか彼自身にも分からない。追いかけてきた引田の声を遠くに感じながら、シャルは目を閉じる。この世界に彼の帰る場所はなかった。

 

 使用人の萩野の案内でシャルはシャワーを浴び、清潔すぎるほど白いシャツを一枚だけ身に付けてベランダで街並みに沈む夕日を眺めていた。引田の邸宅は市街地から少し離れた高台にあり、かつてシャルがいた繁華街を遠くに見下ろすことができる。あんな小さな世界に囚われていたのだとシャルは知った。毎晩ショーをして、セックスをして。それだけの毎日だった。

「落ち着いたかい?」

 背後から話しかけられ、シャルは身を固くする。引田はシャルと少し間をあけて並んで黄昏を眺めた。

「いい眺めだ。隣に君が居てくれるからね」

「なんで、そんなこと言うの」

「なんで、って君のことが好きだからだよ」

 夕日が沈み、紫の空にピンクの綿みたいな雲が浮かぶ。太陽に輝きを奪われていた星たちが静かに瞬き始める。それを美しいとシャルは思えなかった。

 無言で空を眺めていると、引田は頬を緩ませて笑った。なんでこの人はこんなにも幸せそうに笑うのだろう。

「夕食は食べられそうかい? 萩野に頼んで今夜は中華粥だ」

 引田はシャルの艶のある髪を撫でると、室内へ戻って行った。

 繁華街から眺めるよりずっと暗い空を眺めて、シャルは訳も分からないまま一筋の涙を流した。

 

 夕食後、今日からここが君の部屋だ、と案内された先は一階の一番奥の部屋だった。北原のアパートの倍くらいはありそうな部屋の中には大きなベッドと、机と椅子のセット。テレビにソファーもあった。部屋の中にはもう二つドアがあり、一つは引田からのプレゼントの箱が積まれた衣裳部屋、もう一つはトイレがついたバスルームだった。着の身着のままでこの家にやってきたシャルにとってはあまりにも広すぎる部屋だ。シャルは戸惑いのままにお礼の言葉を口にした。

「廊下に出て向かいが私の書斎。その隣が寝室だ」

「広すぎて迷子になるよ」

 ぼそりと呟くと、また引田は微笑んだ。

 それじゃあお休み、と引田は部屋を出ていった。取り残された孤独に、シャルは立ちつくしていた。

 

 夜更け、引田は廊下から射す灯かりに目が覚めた。ドアを閉めたはず、と身体を起こすと、ドアの前に華奢な身体の少年がいる。

「引田さん。見たいんでしょ? 引田さんのためのショー」

 少年はシャツのボタンを外してこちらに歩いてくる。

 ベッドにあがった少年からは、甘いバニラの香りがした。

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 北原の住むアパートから車で十五分ほどの高級住宅街。繁華街の不潔さなんてみじんも感じない空気すら違って思える場所にシャルは居心地の悪さを感じていた。

 シャルは昨晩のショーのことを思い出していた。清潔なスーツを着た男。あの男が妙なことをいうのだからこうして北原に捨てられたのだ。あの男と、取り合ってしまった自分にシャルはひどく腹を立てていた。

敷地内の手入れの行き届いた花壇の前に車をつけると、運転手はドアを開けてシャルを大きな邸宅の中へ案内した。玄関ホールは吹き抜けで、ここだけで今まで暮らしていた北原のアパートの居間ほどの広さがある。高い窓から差し込む昼下がりの光に目が回るようで、夜の薄汚れた世界しか知らないシャルにとっては眩しすぎた。

「主人の引田様がお待ちです。どうぞ二階へ」

 シャルと同じ年頃の運転手の青年が誘導する。シャルは足にひっかけていた安いサンダルを脱ぐと用意されたスリッパを無視して裸足で階段を上がった。

 次の飼い主はどんな人だろうとシャルは考えを巡らせる。こんな広い家に住んでいる社長さんともなれば相当な金持ちだ。シャルのことを買い取れるほど金を積める人だ。そして僕を買い取るなど酷くマニアな変態だろう。性欲を持て余した熟れた女性か、サディズムを向ける相手のいない寂しい人かもしれない。スカトロマニアの小汚い男かもしれない。以前買い取った玩具が壊れたからシャルを買い取ったのかもしれない。今までの生活より酷くたってシャルはどうでもよかった。価値のない僕。唯一の価値はこの美貌。いつ捨てられたっておかしくないのだ。

 二階の最奥のドアを青年が開けると、シャルは目を疑った。忘れもしない、待ち人に出会えた喜びをたたえたその瞳。

「やっと来てくれたね、シャル君」

 大きなダイニングテーブルから立ち上がって出迎えてくれたのは、昨日シャルに話しかけた男だった。今日もスーツ姿で、髪は整髪料でセットされ、清潔で、きっと家具の埃をすぐ気にするような人に思えた。

「私は引田真琴だ。お腹空いているだろ? まずは食事にしよう」

 さあさあと言われるままに席に座ったが、シャルは笑顔で浮かれる引田のことが薄気味悪かった。本当に買い取るなんて大した金持ちだ。あなたのせいだと怒鳴り散らしてやりたかった。しかしこれからは彼が自分の所有者になる。飼い主に歯向かうは商品としてできなかった。引田という男は清潔そうに見えるが真性のマゾなのだろうか。いや、サディストを蹂躙したいサディストかもしれない。

 上着を脱いだ運転手がシャルと引田の前にミートソースのかかったパスタとコーンスープ、ハムの入ったサラダを並べる。花の模様が描かれた食器はいかにも高級そうで、金属製のフォークをショー以外で見るのはこれが初めてだった。

「お腹空いているだろ? 簡単なものですまないがお昼にしよう」

 引田は嬉しそうに微笑むのだが、シャルは喉のあたりが締まって食欲など感じなかった。苦い水が上がってくるが仕方なく無言でフォークをつかみ、パスタを口に含む。コンビニのパスタよりはずっと美味しかったが、嬉しくは無かった。

「口に合わなかったかい?」

 眉をひそめて引田がシャルの顔を覗き込む。引田の瞳に写るシャルは泣いているように見えた。

 なんでもない、とシャルはパスタを口に運ぶ。出されたものは残してはいけないと北原にきつく言われて育ったことを思いだす。北原に育てられるより前のことは覚えていなかった。でもこれだけははっきりと知っている。シャルは北原に売られたのだと。なんどもそう北原に言われて育ってきたのだから間違いはなかった。そして僕を売った誰かのように北原もシャルを売った。紛れもない事実だ。

「君が来てくれて本当に嬉しいよ」

 引田が綺麗にパスタを巻きながらシャルに微笑む。改めて明るいところで引田のことを見ると彼は爽やかで優しい顔立ちをしていた。歳のころは三十くらいだろうか。短い髪を綺麗にセットして、グレーのスーツは皺ひとつなく引田の体にフィットしていた。フォークを持つ手はほっそりとしていて気品がある。引田は続けて話す。

「私には家族が他にいなくてね。家のことはそこの萩野に全て任せている」

 先程の運転手が背筋を伸ばしてお辞儀する。シャルと同じくらいの歳に見える青年で、カラメル色の髪をマッシュヘアにしている。目の下のそばかすが特徴的だとシャルは一瞥した。

「萩野、そろそろデザートにしよう」

 シャルが食べ終わったのを見計らって引田が声をかける。出てきたのは今朝食べたカスタードプリンだった。透明なカップからカラメル、カスタード、生クリームの三層が見える。

「私の会社で作っている商品でね。君がこれを好きだって誠司から聞いていたものだから用意しておいたよ」

 そういえば北原が引田のことを社長さんと言っていたことを思い出した。少し硬めのカスタード生地に滑らかなホイップクリーム。いつもの味だ。滑らかで少し硬いカスタード。ほんのり苦いカラメル。それらを包む優しい生クリーム。北原さんがたまにくれた思い出の味。

「やっと笑ってくれたね。笑う君もやはり綺麗だ」

 引田が目を細めて笑う。無意識に笑っていたことが恥ずかしくてシャルは顔を背けた。

「その、引田さんはなんで僕を買ったの?」

 シャルが思っていたことを口にする。

「なんでって、そうだな。君に一目惚れしたからだよ」

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 朝、隣に誰もいない孤独で目が覚めた。

あたりを見回しても雑多なアパートの一室に北原の姿はない。シャルが持っている唯一の私服である青いスウェット生地のパーカーに袖を通して狭いキッチンの先の玄関を確認すると北原の靴も無かった。ゴム口がよれたパーカーの裾を引っ張って、玄関に膝を抱えてシャルは座った。

 どれだけの時が経っただろうか。板張りの床がシャルの薄い尻を冷たくさせ、シャルが不安に震え怯えるのには十分な時間だった。玄関が開く音に顔を上げると帰ってきた北原は珍しくスーツ姿で、長い髪を低い位置で一つに束ねていた。

「シャル、起きてたのか」

 北原の手がシャルの頬に触れる。人肌の温もりが凍り付いたシャルの口の端を溶かしていった。

「詫びと言ってはなんだけど、これもらったからやるよ」

 小さな紙袋の中を覗いて紙箱に印刷された見覚えのあるロゴに、シャルはぱあっと顔を輝かせる。

「お前、これ好きだろ?」

 シャルはコクコクと頷き、北原をせかすようにワンルームの座卓まで駆ける。

 贈答用の紙箱の中には透明なカップのカスタードプリンがふたつ並んで入っていた。下には飴色のカラメル、バニラの粒が混ざった固めカスタードの上には真っ白な生クリーム。口の中で混ざり合うと苦さと優しさが調和して夢を見ているように幸せな気持ちになった。気まぐれで北原が持ってくるこのプリンのことがシャルは大好きだった。

「じゃあ俺、シャワー浴びてくるわ。整髪料付けてるとハゲそう」

「いってらっしゃい」とまた一口プリンを口に含んで北原をユニットバスへ見送った。

 

「シャル、ちょっとこっちこい」

 風呂からあがった北原はベッドに腰掛けると、シャルを隣に座らせた。

「何、改まって」とシャルは笑う。だが彼の心中は不安と怯えしかなかった。昨晩のわがままはまだ許されていない。どうか、どうか見捨てないでと必死で叫んだが、あっけなくその願いは裏切られる。

「シャル、お前は今日からここを出ていくことになった」

「えっ、何で、何故なの北原さん」

 北原の胸に掴みかかって叫ぶ。

「お前を買い取りたいという人が今日やってきてな。お前を売ることにした」

 言葉が出なかった。今まで必要とされてここにいたのに、こうもあっさり終わりが来る。いや、元から必要とされていなかったのかもしれない。北原にとってシャルと呼ばれる少年は恋人でもなんでもなく、ただの商売と性処理の道具でしかなかったのだ。「シャル」は所詮道具。人としての存在価値はなく、売り買いされる「物」なのだ。そうシャルは思わざるを得なかった。

「いくら……いくらで僕を売ったの」

 求めていた以上の屈辱に震える声で問う。

「知らない方がいいんじゃないの? 自分に付けられた価値なんて」

 シャルは襟を掴んでいた手を離した。

「もうすぐ迎えが来るから荷造りしろ」

 冷淡な声にシャルは静かに笑った。また売られたのだ。金目当てで僕を。ひどく惨めで興奮した。ショーを見に来る汚いゴミのような大人よりも価値のない僕。次の飼い主もセックスが上手だろうか。

「どんな人なの?」

 シャルが訊ねると北原は一言「社長さんだ」と答えた。

 金持ちが人を買うことはよくあることだ。気に入った風俗嬢に金を渡して家に住まわせる、いわゆる「水揚げ」というものはシャルも聞いたことがあったし、シャルを買い取りたいという申し出は何度もあったと北原は言っていた。しかし今まで北原はどんなに金を積まれてもシャルのことを手放そうとはしなかった。どうして今なのだろう。

「僕はもういらない子なんだね」

 何度も繰り返した言葉を思い出したようにシャルは呟いた。

 まとめるほどの荷物なんてなく、あっけなくそのときは来た。

「シャル、迎えが来たぞ」

 北原がシャルの髪に触れる。黒くて柔らかなそれを確かめるように指に絡ませて耳、頬へと手を撫で下ろす。

 シャルは北原の手を振り払って立ち上がった。もう用済みになるのだから気にも留めなかった。シャルにとって自分を必要としない人間なんて必要ではなかった。身寄りのない自分を住まわせてくれた恩はあったが、北原は僕のことを売ったのだ。

「もう必要じゃないんでしょ?」

「ああ、もう帰ってくるなよ」

 その言葉を最後に、シャルはアパートの前に停められた黒塗りの車に乗り込んだ。バニラとムスクの香りがする。

「さようなら、北原さん」

 どんな生活が待っていようとシャルにいかなる選択肢も無かった。不安に思うことも逃げ出すことも知らなかった。何故なら彼は売買される「物」だから。そう、シャルが信じているからだ。

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「ショー? ショーなら今、しているじゃない」

 シャルは男の問いに呆れたように答えた。周囲の客がざわつくのが分かる。

「私だけのショーが見たいんだ」

 スーツ姿の男は自分を見下すシャルから目を逸らさなかった。シャルは鼻で笑う。

「僕とセックスしたいなら裏のマネージャーを通してね。僕はタダじゃないんだ」

 シャルは素足で男の鼻を軽く蹴ると、立ち上がって「興が覚めたわ」と舞台の裾に戻って行った。ショーを中断されたことに怒る客の怒号が気持ちよくてしょうがなかった。

 

「で、お前はそのおっさんのせいでショーをやめて帰ってきたのか」

 夜蝶のシャルと呼ばれる少年は目の前の男、劇場支配人の北原誠司に頬を叩かれた。ジン、とした痛みが彼に生きていることを感じさせる。小汚い狭いアパートの一室。いつから干していないのかも分からない布団をかけられたベッドの上。手首を荒縄で縛られた状態で北原に押し倒されている。北原の男にしては長い髪がシャルの上に影を落とした。

「だって、あのおっさんときたら、僕を前にしても息を乱しもしないで突っ立っているの。それに、不満の溜まった客の顔を見るのも最高。みんな僕に平伏せばいい」

 もうひとつ、シャルは北原に頬を叩かれる。涙が頬を伝うのが気持ちいい。

「今度勝手に逃げたら食事は水と俺の精液だけだと思え」

 シャルは北原に髪を掴まれると、充血したペニスを口に押し込まれる。まるで性具のように頭を前後させられ喉の嫌なところに当たる度に嘔吐くが北原は気にも留めなかった。シャルも応じるように舌で受けとめ、卑猥な音を立てて吐き出される液を一滴残らず吸い取る。シャルは嫌だという感情を忘れていた。否、思いだすことをやめていた。

「ショーではサディスト気取ってるくせにいざセックスすると真性のマゾだな、――ちゃん?」

 北原はシャルの名を呼びながら彼の膨らんだものの先を爪ではじく。それは赤く腫れて蜜をどろりと垂らしていた。幼い身体つきからは想像できない凶悪なそれを玩具のようにこねくり回す北原をシャルは息を荒くしてじっと睨んだ。

 シャルは最高のサディストだ。何故なら彼自身が最高のマゾヒストだからだ。

 そう北原に教えられたのはほんの数年前、しかし幼いシャルからすればとうの昔のことのようだった。

「誰も知りはしないさ。お前が『されたい』ことをショーでしているってことをさ」

 北原がシャルの顎を強く掴んでベッドへ投げ飛ばす。今晩のショーで顎を蹴り砕いた男の顔をシャルは思い浮べる。骨折の痛みを想像するだけで絶頂を迎えてしまいそうだった。砕けた骨がぶつかり合う音が体内に響くのはどんな波だろう。絶頂より痛い波だろうか。切れた血管と神経が磨り潰される痛みはどんなエクスタシーを与えてくれるだろうか。玩具のように壊れたら捨てられる屈辱はどんなに惨めだろうか。ショーの合間もひたすら自らに痛めつけられる自分を想像してはゾクゾクとしたものを感じていた。

「こんな変態は一生こうやってショーをして稼げばいいのさ」

 シャルは北原にうつ伏せで脚を開くと、もっと、と求めた。

 北原はシャルの腰に留まる黒揚羽を撫でると、一思いに秘孔を貫いた。嬌声を上げて官能の淵に落ちていく。尻を平手で叩かれる度に手首を縛る赤い縄を噛みしめてぽろぽろと涙を零す。

 絶望こそが快楽だと、このときシャルは思っていた。

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