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北原の住むアパートから車で十五分ほどの高級住宅街。繁華街の不潔さなんてみじんも感じない空気すら違って思える場所にシャルは居心地の悪さを感じていた。
シャルは昨晩のショーのことを思い出していた。清潔なスーツを着た男。あの男が妙なことをいうのだからこうして北原に捨てられたのだ。あの男と、取り合ってしまった自分にシャルはひどく腹を立てていた。
敷地内の手入れの行き届いた花壇の前に車をつけると、運転手はドアを開けてシャルを大きな邸宅の中へ案内した。玄関ホールは吹き抜けで、ここだけで今まで暮らしていた北原のアパートの居間ほどの広さがある。高い窓から差し込む昼下がりの光に目が回るようで、夜の薄汚れた世界しか知らないシャルにとっては眩しすぎた。
「主人の引田様がお待ちです。どうぞ二階へ」
シャルと同じ年頃の運転手の青年が誘導する。シャルは足にひっかけていた安いサンダルを脱ぐと用意されたスリッパを無視して裸足で階段を上がった。
次の飼い主はどんな人だろうとシャルは考えを巡らせる。こんな広い家に住んでいる社長さんともなれば相当な金持ちだ。シャルのことを買い取れるほど金を積める人だ。そして僕を買い取るなど酷くマニアな変態だろう。性欲を持て余した熟れた女性か、サディズムを向ける相手のいない寂しい人かもしれない。スカトロマニアの小汚い男かもしれない。以前買い取った玩具が壊れたからシャルを買い取ったのかもしれない。今までの生活より酷くたってシャルはどうでもよかった。価値のない僕。唯一の価値はこの美貌。いつ捨てられたっておかしくないのだ。
二階の最奥のドアを青年が開けると、シャルは目を疑った。忘れもしない、待ち人に出会えた喜びをたたえたその瞳。
「やっと来てくれたね、シャル君」
大きなダイニングテーブルから立ち上がって出迎えてくれたのは、昨日シャルに話しかけた男だった。今日もスーツ姿で、髪は整髪料でセットされ、清潔で、きっと家具の埃をすぐ気にするような人に思えた。
「私は引田真琴だ。お腹空いているだろ? まずは食事にしよう」
さあさあと言われるままに席に座ったが、シャルは笑顔で浮かれる引田のことが薄気味悪かった。本当に買い取るなんて大した金持ちだ。あなたのせいだと怒鳴り散らしてやりたかった。しかしこれからは彼が自分の所有者になる。飼い主に歯向かうは商品としてできなかった。引田という男は清潔そうに見えるが真性のマゾなのだろうか。いや、サディストを蹂躙したいサディストかもしれない。
上着を脱いだ運転手がシャルと引田の前にミートソースのかかったパスタとコーンスープ、ハムの入ったサラダを並べる。花の模様が描かれた食器はいかにも高級そうで、金属製のフォークをショー以外で見るのはこれが初めてだった。
「お腹空いているだろ? 簡単なものですまないがお昼にしよう」
引田は嬉しそうに微笑むのだが、シャルは喉のあたりが締まって食欲など感じなかった。苦い水が上がってくるが仕方なく無言でフォークをつかみ、パスタを口に含む。コンビニのパスタよりはずっと美味しかったが、嬉しくは無かった。
「口に合わなかったかい?」
眉をひそめて引田がシャルの顔を覗き込む。引田の瞳に写るシャルは泣いているように見えた。
なんでもない、とシャルはパスタを口に運ぶ。出されたものは残してはいけないと北原にきつく言われて育ったことを思いだす。北原に育てられるより前のことは覚えていなかった。でもこれだけははっきりと知っている。シャルは北原に売られたのだと。なんどもそう北原に言われて育ってきたのだから間違いはなかった。そして僕を売った誰かのように北原もシャルを売った。紛れもない事実だ。
「君が来てくれて本当に嬉しいよ」
引田が綺麗にパスタを巻きながらシャルに微笑む。改めて明るいところで引田のことを見ると彼は爽やかで優しい顔立ちをしていた。歳のころは三十くらいだろうか。短い髪を綺麗にセットして、グレーのスーツは皺ひとつなく引田の体にフィットしていた。フォークを持つ手はほっそりとしていて気品がある。引田は続けて話す。
「私には家族が他にいなくてね。家のことはそこの萩野に全て任せている」
先程の運転手が背筋を伸ばしてお辞儀する。シャルと同じくらいの歳に見える青年で、カラメル色の髪をマッシュヘアにしている。目の下のそばかすが特徴的だとシャルは一瞥した。
「萩野、そろそろデザートにしよう」
シャルが食べ終わったのを見計らって引田が声をかける。出てきたのは今朝食べたカスタードプリンだった。透明なカップからカラメル、カスタード、生クリームの三層が見える。
「私の会社で作っている商品でね。君がこれを好きだって誠司から聞いていたものだから用意しておいたよ」
そういえば北原が引田のことを社長さんと言っていたことを思い出した。少し硬めのカスタード生地に滑らかなホイップクリーム。いつもの味だ。滑らかで少し硬いカスタード。ほんのり苦いカラメル。それらを包む優しい生クリーム。北原さんがたまにくれた思い出の味。
「やっと笑ってくれたね。笑う君もやはり綺麗だ」
引田が目を細めて笑う。無意識に笑っていたことが恥ずかしくてシャルは顔を背けた。
「その、引田さんはなんで僕を買ったの?」
シャルが思っていたことを口にする。
「なんでって、そうだな。君に一目惚れしたからだよ」
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