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僕はシャボン玉の中にいた。世界は膜の向こうで揺らめいて、僕は触れることができない。
広間のテレビでは誰がつけたでもなく、淡々とニュースが読み上げられている。大型トラックと軽自動車が出合い頭に衝突。軽自動車に乗っていた若い男性が亡くなったという。
「あらぁ、可哀想にねぇ」
僕の後ろで同じテレビを見ていた中年の女性が声を漏らす。たっぷりと脂肪の付いた丸い手で口を押え、さも悲しそうに同じテレビを見つめていた。あの婦人は僕より後にこの病棟へやってきた。この病棟では比較的若い僕に対しても「若いのに大変ね」と同情の言葉を投げかけた。
どうして、知りもしない人に同情するのだろう。
「ほんと、勝手だよね」
全くだ、と僕は返事をする。婦人がぎょっとした目で僕を見る。何がそんなにおかしいのだろうか。
テレビが芸能ニュースに変わる。有名女優のゴシップにほんの少しも興味が持てなかった。コメンテーターは呆れと怒りを含んだ言葉を口にするが、知り合いでもないのに何故そんな図々しいことが言えるのだろう。
後ろにいた女性は短い爪を噛んでテレビを見つめていた。でっぷりと贅肉が垂れた頬が揺れる。目に正気のない老いたブルドッグのようだ。
「清純派女優が四股だってさ。さながら肉便器じゃないか」
「恋した人がたまたま四人いただけだろ?」
「恋しても、愛されてセックスしたとは限らないさ」
ヨルが低い声で嗤う。僕は興味ないのだが、この手の話をヨルは好むのだと最近知った。
「ねぇお兄さん、誰と話してるの?」
後ろの女性が僕の肩を掴んだ。黙って濁った彼女の目を見つめると、女性は「変なのが聴こえるなら看護士さん呼ぼうか?」とこの病棟の半数の人のように言う。残りの半数は自分が何者かも分からなくなってしまった人たちだ。
「変なものは聴こえていない。ただヨルと話していただけだ」
「それが変だというのよ。おばさん、呼んできてあげるから座っていなさい」
お腹と頬の贅肉を揺らして彼女はナースステーションへ行ってしまった。テレビでは政治家の汚職事件について、僕にはよく分からない人たちが辞職してほしいという旨をやんわりと棘を持って語っていた。
看護士は中庭に逃げた僕を見つけると、臭い液体を飲ませようとした。暴れると隔離室に入れられると知っている僕は黙ってそれを飲む。舌が焼けるような苦みに顔をしかめると、看護士は紙コップに入った水をくれた。水が甘いなんておかしなことだ。
この中庭は第八病棟と第九病棟の間にある小さな公園だ。四方を病棟の高い壁に囲まれ、外に出ることは一切できない。病棟の消えない排泄物と消毒の臭いから解放され、四角い小さな空が毎日模様を変えるのを眺めることができる。唯一僕が人間だと思いださせてくれる空間だ。
腐りかけた木のベンチに頭を預けて空を見る。今日は雲一つない晴れだ。青くペンキで塗り潰された天井が増設されただけかもしれない。誰もここから逃げられはしないのに。
「お兄ちゃん、何してるの?」
幼い声に頭を起こすと、青いワンピース姿の少女がいた。スカートの裾からのぞく膝はまるで棒きれみたいに肉感がなかった。
「お兄ちゃんって、僕?」
「そう、お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ」
少女は僕に近寄ると、僕の膝に座り、手を握った。尻も指も腕も、一切の肉も脂肪もなかった。
「お兄ちゃん、いつもここにいるの?」
「うん。たまにね。あと、僕は君のお兄ちゃんじゃないよ」
「ううん、お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ」
きっとこの少女も他の患者と違い無く、意志の疎通ができない人だと気付いた。
「名前はなんていうの? ここで会うのは初めてだよね」
「あたしアカツキっていうの。お兄ちゃんはシンヤお兄ちゃんだよね」
アカツキと名乗った少女が僕の本名を知っていたことに驚く。小さな顔に不釣り合いな大きな瞳を、少女は煌めかせた。
「アカツキちゃんは、いつからこの病棟にいるの?」
「わかんない。お空を飛んだと思ったら小さな檻の中に閉じ込められてて、もうすぐ食べられるのかと思ったらここにいたの。お兄ちゃん、ここは病院なの?」
「ここは病院だよ。大きな総合病院の一番端に作られた第八病棟と第九病棟。第八病棟は世界に疲れた人の安息地で、第九病棟は一度入ると出られない世界の果てだよ」
「あたしは、どっちなんだろう」
アカツキは瞳を潤ませ、僕に問いかけた。長い睫毛の先がキラキラ光って、彼女の呼吸で揺らめく。
「知らないのなら、知らない方がいい。その方が希望も絶望もしないから」
僕は初めて彼女の頭を撫でた。細い白髪交じりの髪が、彼女の若さと心労を物語っていた。
「お前が幼女好きの変態野郎とは思わなかったぜ」
広間で夕食を済ませ、個室の固いマットレスだけのベッドに横になると、ヨルが下種な笑い声を上げた。
「勝手に向こうが話しかけてきただけだ」
「膝に乗せて可愛がって、さぞ嬉しかっただろうに」
「僕はなんとも思わないよ。でもあの子、広間にいなかった」
と、言うことは、アカツキは第八病棟だな。とヨルが言う。
僕は一生ここから出られない。餌を与えられ、よく分からない薬を飲まされ、悪さをすれば隔離室に入れられる。そんな生活をもう三ヶ月続けている。
「オレたち、もう三ヶ月もここにいるのか」
「ヨルが僕のところにやってきて三ヶ月だからな」
三か月前、僕は第一病棟にいた。ここよりずっと清潔で、もっと消毒液の臭いが酷くて、人が死ぬ場所だった。
僕は生まれつき心臓が悪かった。父は治療費を稼ぎに働き、母は病室に寝泊まりして僕の看病をした。そんな生活が何年も続いた末に、僕は運よくドナーが見つかり、心臓移植を受けることになった。そして『ヨル』が生まれた。
容体が安定して第九病棟に移されてからは、両親は僕に会わなくなった。愛しい息子が可笑しくなったと母はヒステリックに泣いた。何も可笑しくないのに。ただヨルと一緒に居るだけなのに。どうして泣くのか、僕には分からなかった。
「お前の頭が可笑しいから母さんはお前を見捨てたんだ」
「僕の頭が可笑しいから母は僕を見捨てた」
悲しくともなんともなかった。僕はシャボン玉の中にいる。僕の感情は僕のモノではなかった。
無味な朝食をホールで済ませ、僕は中庭に出た。
今日は曇り。明るいグレーが目に眩しくて、見上げることをやめた。
狭い中庭はレンガが敷き詰められており、隙間から細い草が日の光を求めて伸びている。こんな世界の果てでも草は伸びるのだと僕は笑った。腐りかけたベンチの横には落葉樹が一本、まっすぐに立っている。一体何人もの人がここで命を絶ったのだろう。赤い葉を落とす木の影が薄暗い陽射しに揺れて死神の微笑みのようだった。
「お兄ちゃん、今日も会えた」
アカツキと名乗った少女が重い鉄の扉を両手で押し開けていた。今にも折れそうな腕でうまく隙間を作り、身体を滑り込ませて世界の外でも中でもない隔絶された「庭」にやってくる。今日は落葉樹の葉の色にそっくりな紅いワンピースだ。
「お兄ちゃん、今日は一人なの?」
アカツキは小走りでベンチの横に立つ。ペンキの禿げたこのベンチでは彼女の柔肌を傷付けるだろう。僕は少女の問いかけにどう答えるべきか考えあぐねる。
「この前も、一人だった。でも昨日は二人だったよね」
「そうだね、今日は一人みたい。お薬飲まされちゃったから出て来られないんじゃないかな」
「そっか、残念。お兄ちゃんたちがもっと話しているところを見たかった」
アカツキは僕の左腕を両手で抱きしめた。体温の高い、子供の温もりだ。
「お兄ちゃんたちは、いつから一緒にいるの?」
「少し前に僕が心臓の手術をしてからだよ。どうして一緒にいるのかはよく分からない」
ふーん、とだけアカツキは返事をする。
「僕はもう僕じゃないんだ。僕の中には違う人の心臓が入っている。僕を生かしているのは知りもしない他人。それがたまにとてつもなく嫌になる」
僕は淡々と語った。上空でびゅーっと風が流れる音がするが、中庭の落葉樹は揺れもしない。
「じゃあお兄ちゃんは、心臓とお話しているんだね」
アカツキが僕の膝に座り、胸に耳を押し当てた。どくり、どくりと体内で反芻される音はやはり他人じみていて好きにはなれなかった。
すると、突然アカツキがしゃくりあげるように泣き始めた。大粒の涙は止まらない。「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と繰り返す獣のような声は僕の耳を引き裂く。息が荒い。身体が震える。助けを呼ばなくてはいけないと分かっているのに僕の体はびくりとも動かなかった。
少女は固いレンガの上に崩れると、口から血の混じった朝食を何度も吐きだした。
やっと、僕は扉をあけると、誰か、と叫んだ。
それから何日か、秋雨の日が続いた。病室の一センチしか開かない窓を開けて、煙っぽい雨の臭いにうたた寝をしていた。
「あの子に会えなくて欲求不満か?」
ヨルが厭味ったらしく話しかける。
「そんなんじゃない」
シーツのないベッドの上で僕は寝返りを打つ。視線の先はすりガラスのスリットが入った廊下に続く扉がある。スリットからの人工的な光りと厚い雲から透ける陽射しだけがこの部屋を照らしていた。廊下の先から言語として意味をなさないうめき声が聞こえる。
「あの子が生きているか気にしているんだろ?」
ヨルの声が脳内でエコーがかかったように反芻される。耳を塞いでもうめき声が遠くなるだけで、ヨルの声と僕の心音だけがはっきりと聞こえる。
「僕は誰がどうなっても知らないよ」
「じゃあなんでおったててるんだ?」
触ると、僕のスエット生地の緩いパンツが熱を持った僕に押し広げられている。まだ完全とは言えないけれど、確かに芯を持っている。
「分からないよ。生理現象だろ?」
「嘘をつくな、オレはお前のことをなんでも知っている。アカツキとやらに欲情している」
「そんなことない」
「触れたいと、知りたいと、感情を動かしたいと思っている」
「やめろ」
「何も感じない振りをして傷付くのを恐れている」
もうやめてくれ、と喉が裂ける様な大声で叫んだ。聞きつけた看護士に注射を打たれると、ヨルは姿を消した。
数日の間、僕は寝たきりで過ごした。クスリの副作用で視界が時計回りに渦を巻いて、目を閉じると中心に落ちる。それを繰り返す度に僕の世界が本当は幻想なのではないかと思うようになった。
クスリに慣れてなんとか歩けるようになった僕は、やはり病棟の鳴き声と臭いから逃げるように中庭に出た。排水の悪いレンガの床はところどころ濡れて一段濃い色味で模様を描いている。濡れた枯れ葉の腐る匂いを胸いっぱいに吸い込むと、少しだけ体が軽くなるような心地だった。
「お兄ちゃん」
ベンチの上に出会った日と同じ青いワンピース姿のアカツキがいた。以前より少しばかり肉付きが良くなった気がする。細い髪を揺らして僕に駆け寄り抱き付く。少女の甘い香りだ。
「あたしね、退院することになったの」
「へぇ……いつ?」
「明日よ」
震える腕で僕を抱きしめるこの少女が喜んでいるのか悲しんでいるのか僕には分からなかった。それでも僕は目の奥が重くなるような悲しさが頭を埋めた。
「それでね、お兄ちゃんに話さなきゃいけないことがあるの」
アカツキが僕をベンチに座らせると、ゆっくりと話し始めた。
「あたしにはね、お兄ちゃんがいたの。名前はレイジ。でもね、交通事故で死んじゃった。あたしは悲しみできっとどうにかしていたんだわ。ご飯を食べなかったし、最後にはマンションから飛び降りた。だからここに入ったのね」
この病棟じゃよくある話だ。それなのに、喉の奥が熱く痛く、頭の奥がツーンとするような感覚に襲われる。
「それでね、レイジお兄ちゃんの心臓はシンヤお兄ちゃんの中にいるんだよ」
震える声で、絞り出すように問う。
「どうして分かるんだい?」
「あたしにそう聴こえたからよ。お兄ちゃんはまだここで生きている」
僕は瞳から雫を落とした。耳が熱を持って、息が苦しくて、でも悲しいものが全部押し流されるようで。
「お兄ちゃんたち、今までありがとう」
アカツキは僕の胸に頬を寄せると、僕の伸びきった髪に指を通した。
「アカツキちゃん、今までつらかったね。よく頑張ってきたね」
声を上げて泣いた。ほんの少しだけ肉の付いた身体を強く抱きしめ、肩にたくさんの涙を落とす。
「泣かないで、お兄ちゃん。でも、ありがとう」
僕のシャボン玉は割れた。水滴がキラキラと舞って、世界は僕に触れる。
「お兄ちゃんが退院するの、待ってるね」
「ありがとう、ありがとう」
真四角の中庭の外で、またいつか。
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