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オレたちにはそれぞれ彼女がいる。
オレ、美景(みかげ)の彼女は巴月(はづき)。寂しがり屋で可愛い奴。
そして親友の颯(はやて)には華ちゃんというしっかり者の彼女だ。
お互いの大切な人。それは決まりきったこと。
造花の種は芽吹かない。
「お邪魔しまぁす」
颯の間延びした決まり文句にオレもつられて「いらっしゃぁい」と出迎える。男の一人暮らしのアパートにそんな気配りも不要だ。オレと颯は目を合わせない。恥じらいを隠す緊張が思考を止める。止まった頭から出てくる言葉はいつもの型にはまったやりとりだ。
「今日寒かっただろ」
「うん、寒くて指先が冷たいよぉ。図書館でレポート書いていたんだけど、全然暖房ついてないの。明日は、雪かなぁ」
「颯が言うなら雪だよ」
そうかなぁ、なんて颯はぎこちなく笑う。颯はオレの高校の同級生で、こんなにのんびりした空気の持ち主、悪く言えばどんくさいのに勉強だけはやたらできて、今は国立大学の農学部の二年生。実家は農家らしく、幼いころは野山を駆けまわり、畑仕事を手伝い、家畜の世話をする。今じゃ想像できないが、ザ・野生児な少年だったそうだ。それが由来なのかは分からないが、颯の天気予報はよく当たる。だから颯が言うのなら明日は雪だ。
「風呂、入るだろ?」
頷く颯がびくり、と身体を固くするのが分かった。風呂場へ向かおうとすると、まってまって、と靴を脱いだ颯がついてくる。
「僕、入浴剤持ってきた。なんかねぇ、泡立つやつ」
颯が重そうなトートバックから取り出した紙袋にはこぶし大の練り物が入っていた。紙袋のロゴを見るに近頃流行りのオーガニック百パーセントのバスグッズで、練り物はピンク色でビニール袋に入っているのに甘ったるい香りが漏れている。なんともお洒落女子が好みそうなチョイスだ。
「これを砕いてお風呂に入れてからお湯を入れるんだってお店のお姉さんが言ってたぁ」
そうか、と受け取るとビニール袋の上から入浴剤を軽く押し砕く。甘いバニラとイランイランの香りがいっそう部屋の中に広がった。
蛇口をひねると服をさっさと脱ぎ捨てる。男同士で意識することもないのだが、オレたちは思いだすものがあって気恥ずかしかった。そもそもなんで男二人が一緒に風呂に入るのかと問う人もいるだろう。颯も同じなのかオレの方は見ないで黙々と服を脱いでは洗濯機の上に畳んで置いた。
「うひょっ、ちべたい」
先に浴槽に足を入れた颯が身を固くする。
「あれ、お湯ぬるかった?」
「ううん、最初は冷たいんだけど、中はあったかいよぉ」
どういうことかとオレも足を入れてみる。お湯はあったかい。なるほど、泡が冷たいんだ。
両足で湯船に入ると、せーの、でしゃがむ。
「うひーっ、美景冷たい」
「うう、これはさっぶい」
しゅわしゅわと冬の冷たい空気を含んだ泡が、乾いた身体に触れて弾ける。奇妙な感覚にオレらは二人で顔を見合わせてケラケラと笑った。
「冬に泡風呂はしんどいものがあるな」
横に並んで膝を抱えてギリギリの狭いお風呂。触れる肌の感覚に不安と興奮と安堵が混ざり合った気持ち悪い感情が湧きおこる。
「でも楽しいでしょ? ぽふぽふするし」
全身泡まみれの颯が、泡を息で飛ばして遊ぶ。小さなシャボン玉が虹を閉じ込めた雪のようにきらきらと舞った。
「うん、悪くない。華ちゃんとはもう入ったの?」
「ううん。華は一緒にお風呂とか恥ずかしいんだってぇ。折角綺麗なのに明るいのは嫌なんだってさー」
「明るいのを嫌がる女の子っているよな。どっちにしろ、見えるのに。巴月は平気みたい。今度泡風呂入ってみようかな。寒いから春になったらね」
「かなり先だねぇ。まだ年も明けてないのに」
「それまで一緒にいるさ。巴月は最高の彼女だからな」
出たよ、美景の惚気。と颯が笑いながら小脇を肘でつついてくる。やめろよ、とくすぐったさに暴れると泡が湯に乗って湯船から流れ落ちる。そのとき、尻で何か固いものを踏みつけた。溶け残った入浴剤かと思って手に取ってみると、透明なキラキラした石だった。二人でオレの手の中の石を見つめる。
「何これ」
「んーと、水晶の胡桃?」
「じゃなくて、入浴剤に異物混入?」
「そういえば、アタリには宝石が入ってるってお店のお姉さんが言ってた気がする」
「じゃあこれはアタリなのか」
「美景、よかったね」
ふふっ、と笑う颯と目が合う。やっと顔を見た気がする。颯は彼の言動がそっくり似合うような優しい顔立ちをしていて、高校を卒業してから染めたキャラメル色の髪が可愛らしかった。
「なぁに、美景」
視線を逸らさず颯が微笑む。
「いや、相変わらず可愛いなと思って」
「それ、普通の男の子は喜ばないよ? 僕は嬉しいけど」
「さすが両刀使いは違いますね」
「バイセクシャルと言いなさい。イケメンに褒められたら嬉しいの。それに、美景もでしょ?」
「オレは別に違うよ。多分」
「ようこそ、こちらの世界へ」
颯が大きく腕を広げてオレに抱き付く。入浴剤でしっとりとした肌が吸いついて気持ちがいい。
なんであんなことしちゃったかね、とオレは抱き付かれながら溜め息を吐いた。
ことの始まりは先月のまだ暖かい日のことだった。高校の級友だった颯に、久しぶりに飯でも行こうと誘ったのだが、当日、颯は熱を出していた。そのくせに断りもせずファミレスにやってきた颯は案の定ダウン。電車で帰すわけにもいかず一日オレの家に泊めたのだ。そしてどうしてかしてしまったのだ、セックスを。
「オレ、最悪な奴かもしれん」
「美景、巴月ちゃんに酷いことでもしたの?」
「彼女に隠れて友達とやった時点で酷いだろ」
「巴月ちゃん可哀想」
「お前も加害者だぞ、それ。颯こそ華ちゃんがいるだろ。そうじゃなくて、病人を抱くか普通」
「僕はびっくりしたけど、気持ちよかったからいいやー。イケメン成分吸えたし」
「どこまで能天気なんだか……」
こめかみを掻くと頭に泡が乗った。耳の中で泡がほどける音がする。
「僕はねぇ、巴月のこと愛しているし、大好きだし、可愛いと思うよ。美景に対するのは全く違う感情で、大切な友人だし、うまく言えないけど違う好きだもん。だからいいの。僕は美景の特別にはならない」
颯の『特別にはならない』という言葉が胸に引っかかった。じゃあこの関係は普遍的なものなのか。でもそれも当然だ。オレは颯の友達だ。それだけは変わらない。それだけは変えてはならない。
「オレも颯の特別にはならないよ」
そっと願うように、オレはつぶやいた。
冬のお風呂は出るときがつらいもので、浴室のドアを開けて二人で寒い寒いと騒いだ。そしてバスタオルだけを身に付けて、ワンルームの狭いベッドに雪崩れ込んだ。
「美景ぇ、いい匂いする」
颯がオレの胸に抱き付く。同じ風呂なのだから当たり前だと言ったが、颯はそれでもいい匂いだと離れなかった。
「あんまりくっつかれるとさ……」
「なぁに、美景。嫌なの?」
「颯、戻れなくなるよ」
颯は戻れなくていいと身体をオレに預けた。
オレたちが決めたルールはただ一つ。どんなに身体を重ねても、キスは愛する人にしかしないこと。
「はやてくーん。生きてる?」
冷蔵庫から出したスポーツドリンクのペットボトルを颯の頬に当てると、間抜けな声を出して颯はそれを受け取った。
「美景って用意周到だよねぇ。スケベ」
「オレと一緒に入るために入浴剤を専門店にまで買いに行く颯にだけは言われたくない」
「そっか。あー、足に力入んないよぉ。あと寒い」
そう言って颯はオレの肩に抱き付く。触れた足先が冷たくて、凍えてしまわないようオレはしっかりと抱きしめた。
「美景の身体あったかい。ふふ」
「そういうのは華ちゃんとしなさい」
「そういう美景だって巴月ちゃんは?」
お互いの大切な人。どうして求めた体温は彼女たちじゃないんだろう。
「ねぇ美景、『造花の種は芽吹かない』って知ってる?」
入浴剤から出てきた胡桃の宝石を眺めて颯がつぶやいた。
「そんなの当たり前だろ。作りものなんだから」
「これねぇ、不倫しても報われないって意味なんだって。死んだばぁちゃんが言ってた」
「そんなこと言うばぁちゃん嫌だわ。不倫ね……男子大学生同士で不倫というのもすごい関係だよな」
「お互い『特別』じゃないから不倫にはならないよ。それに僕たちの間には芽吹くどころか何も宿らない。ねぇ、どうして命を宿すことができないんだろう」
颯があまりにも哀しそうに言うものだから、オレは勘違いしたくなってしまいそうだ。男同士のオレたちが一緒にいたところで何も生まれない。献身的に愛してくれる彼女といるのが一番だと分かっている。それでも。
「颯、キスしていいか?」
「ダメだよぉ、僕たちは恋人じゃないんだから」
「キスしたい」
「じゃあ、一回だけ」
たった一回のキスで、オレ達の関係は変わるだろうか。
「もう戻れないね」
耳まで赤くする颯を抱きしめる。
「これからどうなるんだろうね」
日付が変わった午前一時。降り始めた雪に閉ざされた部屋でオレたちは芽吹かない種を握りしめた。
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