オリジナル小説サイト「渇き」

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たかが愛のはなし 09

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 午前中の練習を抜け出して食事係の幸瑠と圭一はカレーを作っていた。練習のピアノは一年が交代で弾いている。幼くてぎこちない音だった。
 圭一が料理できることは意外だった。男子だから、という古くさい偏見ではなく、彼の家ならお手伝いさんが食事を用意してくれそうという根拠のない推測をしてしまうからだ。ピアノを嗜む者特有の神経質さが鼻筋や指の節にある。
「手、切らないでね」
「大丈夫ですよ」
 ピアニストが手を怪我したら大問題だ。圭一は器用に包丁でジャガイモを剥いている。幸瑠は玉ねぎの皮を剥がしていた。
「先輩、最近どうですか」
 努めて平然と真意のつかめない話をされる。
「どう、って。普通かな」
「普通」
「うん。普通」
 沈黙。幸瑠は圭一の沈黙がうるさく感じられた。
「でも陽子ちゃんがあにきと付き合い始めたのにはびっくりした」
 圭一の手が止まる。つられて幸瑠の手も止まった。
「えっと……もしかして圭一くん、陽子ちゃんのこと」
「それはないです」
 被せるように圭一は言った。
「杜松は煩すぎるんです。色恋ばっかり。見ていてイライラする」
 吐き捨てる圭一に幸瑠は少々驚いた。
「ご、ごめん」
 ハッとして圭一が幸瑠に頭を下げる。
「いえ、こちらこそすみません。それでですね、ぼくが好きなのは――」
 玉ねぎの刺激がどこか遠いもののように感じた。

 合宿は三泊四日。三日目の夜は皆で手持ち花火をした。意思の確認もなしにレクリエーション係になった井澄の案だ。光のない山奥で色とりどりの炎が咲く。幸瑠は盛り上がる部員たちを宿坊の縁側から見ていた。
 二日目の昼、三森圭一に告白された。いつも誰に告白されても動じなかった。脅迫めいた言葉に不快になるばかりで、早く忘れたいとすら思っていた。しかも質の悪いことに告白してくる男の殆どが井澄の存在を知っている。要するに思い出作りなのだ。二人が不仲になっていることを望んでいるのか井澄の悪口を添えられることもあった。そんなことを言われても告白してきた当人の印象が悪くなるだけなのに。
 しかし圭一は違った。
 ――幸瑠先輩って、斉藤先輩と付き合ってないですよね。
 咄嗟に「そんなことない」と否定した。
 圭一は食い下がる。
 ――ぼく、先輩方が一緒に帰るところを見てました。人前なのに恥ずかしげも無く……。相手のことを大切に思っているならそんな恥さらしさせませんよ。
 そうだ。好きじゃないから恥ずかしくない。幸瑠はふっと息を漏らす。
「仮にわたしが井澄と付き合ってなかったら圭一くんはどうしたいの?」
 ――先輩に「恋」をあげます。

「何ぼけっとしてんの」
 缶ジュース片手に井澄が幸瑠の横に座る。
「別に。一口ちょうだい」
 ん、と井澄が缶ジュースを差し出す。炭酸が抜けかけていて甘ったるい。
「人生甘くないね」
「何の話だよ」
 なんでもない、と幸瑠は缶を返す。
「ねえ、なんでわたしはあんたに恋しないんだろう」
 あまりにも切ない声が出た。井澄は何も言わない。
「恋ってなんだろうね」
 花火が舞う。夏を燃やし尽くしてしまえ。心まで全部。
 陽子が言うように寂しいから付き合う、でもいいのかな。わかんない。わかんないよ。
「おれがお前に恋できればよかったのかもな」
 幸瑠は猛烈に井澄を欲した。今すぐ畳に押し倒して全てを奪ってやりたい。
 この欲望に名前はありますか。

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