オリジナル小説サイト「渇き」

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青嵐吹くときに君は微笑む 04

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「名古屋調子はどうだー!」

「いえーい!」

「今から俺ら五人がお前らを幸せにしてやるよ」

「きゃああああああ」

 えー、すごいです。すごい盛り上がりです。何がすごいって、コンサート前に流れるちょっとしたビデオが流れた時点で黄色い悲鳴でドームの天井が張り裂けそうになっていました。そして横を見ると、酒本先輩が号泣していました。苦しかったものを全て洗い流すような涙に、俺は安心と苦しさで身が引き裂かれそうでした。彼らが登場すると、テレビでしか見たこと無かった人たちが実在していることに俺は魔法にかかったような気持ちになりました。彼らの一挙一動に歓声が上がります。驚きすぎて丁寧口調でレポートするほど圧倒されています。現場からのレポートは以上です。

 俺たちの座席は一階席三塁側の後ろの方だった。薄暗いドームの中に眩しい月の如く照らされる五人の姿。曲に合わせてなんとなくペンライトを振っていたが、いつしか夢中になって彼らの姿を見ていた。向かいには光の波が見えた。ペンライトの光の海の美しさはきっと彼らが一番知っている。

 大画面に映し出される彼らの生の姿に俺は言葉を失う。どんな言葉を使っても言い表せないほどの「かっこよさ」が、そこにはあって、エンターテイメントという魔法に俺たちはかかっている。なんだ、これは。

 そのとき、メンバー同士がなんと、キスをした。頬にとか、額に、とかではなく、向かい合って唇に。先程までとは違う色の歓声が上がる。確認するが彼らは男性同士だ。

酒本先輩の言葉を思い出す。

『――男の人なの』

 アイドル業界ではよくあることなのだろうか? いや、俺が知らないだけでこの広い世の中ではよくあることなのだろうか。

 俺は酒本先輩とキス、できるだろうか。

 続いてポップチューンを彼らが歌っている間、俺は酒本先輩の顔をそっと盗み見た。

 刹那、体中を鮮烈な刺激が駆け巡る。指の先から心臓まで。

 俺の求めていた酒本渚がそこにはいた。満面の、花が咲くような輝かしく懐かしい笑み。

「先輩、俺に、もう一度微笑んでください」

 ステージの爆音と黄色い歓声で誰にも聞こえないつぶやきは、俺のせめてもの願いだった。

 

「いやー、もうっ最高! 最高だったね、相原君!」

 大規模なコンサートというものは規制退場といって、座席ごとに順番に退場する。最後の方だった俺たちがナゴヤドームを出たのは二十三時近く、今は二十四時間営業のファミレスで夜食に近い夕食を取っていた。

 酒本先輩は今日のコンサートの内容についてあれやこれやと語っていた。うんうんと相槌を打っているとなんだか夢みたいで、この人とずっとこうして話していたいと願っていた。

「えっと、待ってね」

 酒本先輩が財布を取り出す。えらく高そうな長財布を僕は見ないふりをした。

「今日のチケット代。妹さんに渡してください。定価取引がルールだからこれだけしか渡せないけど」

 いえ、貰い物だからいいんです、と言っても酒本先輩はルールだからとテーブルに置いた。仕方なく綺麗な千円札の束を俺は言われるがまま受け取る。これは俺も滴にチケット代を請求されるのだろうか。

「そんな顔しないでよ。じゃあ、ご飯は割り勘にしようか」

 気を使われてしまった。でもそんな優しい酒本先輩に強いあこがれを感じた。

 

 ファミレスを出ると終電間近だった。急いで電車に乗り込む。

 思ったより電車は空いていて、隣に並んで座る。最寄り駅を聞くと同じ駅だった。

「意外とご近所さんだね」

 ふふ、と笑う酒本先輩だったがやはり疲労の色が見えていた。コンサートの前、酒本先輩はどれだけ悲しい思いをさせられたのだろう。そしてどれだけコンサートを楽しめていただろう。胸の中に切り取ってしまっておいたコンサート中のあの笑顔を反芻する。

 乗換を終えるとあとはまっすぐ進むだけだ。足の間にたくさんの宝物が詰まったバッグを置いて、電車で揺られていく。そのうち酒本先輩は船をこぎ始めた。無理もない。もう日付は超えていた。

「先輩、俺の肩で寝ていいですよ」

 ん、とだけ返事をするとコトリと先輩は俺の肩に頭を預けた。小さくて、髪がふんわりとして、少し甘い爽やかな夏の香りがする。

 この人と一緒に居られるのもあと少し。電車は地下を抜けて夜中の街並みを走った。きらきらと、人工的な星の海を眺めている。林をぬけて、その先の街並みはもうすぐ眠ろうとしていた。

 手袋を外した先輩の手に、そっと手を重ねてみる。小さくて、きめ細やかな肌で、あったかくて。憧れの人がこんなに小さくか弱く存在していることに、俺はどんな言葉でこの感情を表せばよいだろうか。

――――父さん。

 聞き間違いだったかもしれない。酒本先輩がそう言った気がして顔を見下ろすと、両目の端から透明の雫が滲んでいた。

 それは暖かな頬に銀の筋を描いて二人の間に落ちる。

 この人を苦しませているものは一体何なのだろう。そして、それは俺が踏み込んでいい領域の話なのだろうか。

 電車に揺られながら、俺の心まで揺さぶられていた。

 

「相原君、今日はありがとうね」

 最寄り駅の階段を上ると、ロータリーで俺たちは別れを告げた。

「こちらこそ、楽しかったです」

 じゃあ、と立ち去ろうとする酒本先輩の腕を、俺は考えもなしに掴んでいた。

「あの」

 考えろ、考えろ。

「また、会えませんか?」

 この人と居るために。

「い、妹が、きっとお礼したいだろうし。その、アイドルの話とかしてやってほしいんです」

 咄嗟に出た言葉に、先輩は「うん、いいよ」。

 爽やかな五月の緑のような微笑みを見せてくれた。

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