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グッズをまだ買っていないと俺が告げると、酒本先輩の案内でグッズ売り場に到着した。デッキから見えていた巨大な売り場には人がたくさん、それはもうたくさん並んでいた。数えることを途中で投げ出すに決まっている人数だ。
俺の横に酒本先輩がいる。あの部活動紹介の日のことを鮮明に覚えている。俺の憧れの人。でも、何も届けられなかった人。
バスケ部エースとして活躍したあの人が、今では涙を枯らして俺の隣にいる。何とかして話しかけようと彼の方を見る。
青いスニーカーに青緑のチノパン。ロング丈のキャメルのダッフルコートに青いニット帽。耳に光るのは青い小さな石。どっからどう見ても俺の妹を思い出さざるを得ない。
「酒本先輩は、その、担当様? とかいるんですか?」
「担当? 担当はリーダーだよ」
ですよね。その色は。
「俺の妹もリーダーが好きなんですよ。二〇〇八年のドラマが良かったとかなんとか」
「ほほー。妹さんはそこが入り口でしたか」
ニコニコと笑ってみせるが、どこか悲しい。あの日の輝きがない。何故だろう。何が先輩に無理をさせているのだろうか。
「先輩は今日、なんでここに来たんですか?」
聞いてしまった。聞いてもよかったのだろうか。でも一度出た言葉は戻らない。
酒本先輩はぽつりとつぶやいた。
「今日、振られちゃったんだぁ」
俺に向けた笑顔は目尻が赤く、到底微笑みと呼べるものではなかった。胸の真ん中が握り潰されるような、苦しさと切なさで俺は言葉を失った。
「愛してるって言われたから、僕も好きになった。なのに、最後には『ウザったい』だってさ。信じちゃダメだったのかな。何がいけなかったんだろう」
最後に、えへへ、と彼は髪の端を摘んで文字だけの笑いを作った。人の波の中で、俺達はグッズを求める大勢とぶつからないように歩いている。でも誰かに触れるというのは、最後には傷つけられるものなのだろう。
「その、女の人って残酷なこと言いますね」
「ううん、違うの」
先輩の声は人々の足音で消え入りそうだった。でも俺にだけ聞こえた。
――男の人なの。
そんな人もいるのだと知ってはいたが、出会うのは初めてだった。だから、それに傷付いた小さな男の子に何を言ったらいいのか分からなかった。
「ごめんね、びっくりさせちゃったかな?」
黙りこくる俺に、また作りものの笑顔。
「大丈夫です。俺こそすみません。先入観で話して」
「キモチワルイよね、こんな僕」
「そんなことないです!」
反射的に叫んでいた。
「先輩は、なんでもできて、カッコよくて、可愛くて、優しくて、俺の憧れの先輩です!」
俺は酒本先輩の華奢な肩を掴んだ。彼の枯れた瞳に泣いている俺の顔が映っていた。
この人を泣かせた人を俺は許せないと心から思った。キラキラしてて、明るくて、誰にでも優しくて。そんな酒本渚はどこへいったのだ。憧れとはそれほどまでに強いものなのだと痛感した。
「相原くん、その、前」
人波をせき止めていたことに気付き、酒本先輩は俺の左腕を引いた。小走りで詰めて離そうとした彼の手を、俺は離さなかった。ニットの手袋越しの小さな手を、離してはいけないと、俺は俺に言った。
――さっきは、ありがとう。
その一言を先輩が言った気がしたけれど、やはりこの人波じゃ聞き取るのは難しかった。俺達は人の波に無言で流され続けた。抗うことなど、考えることを放棄して。
「キャー! リーダー! リーダーのビジュ仕上がってる! ねえ、相原くんすごいよ! 美しいよ! 尊いよ!」
えー、無言とは言いましたが、列を抜けて売り場が見えると酒本先輩のテンションが、クソが付くほどのアイドルオタクである俺の妹を彷彿とさせる上がりぶりを見せております。同一人物ですよね? 確認しますが。
「どれ買おう……いや、全部は買うよ? あーでも予算がー。今年のTシャツ可愛いし……はっ、参戦するんだからペンラ買わなきゃ」
忙しなく興奮の言葉を吐き出す先輩を見ていると、意外だったけれど、やっぱりこの人は可愛いのだと思ってしまう。木の実を前にした小動物的な可愛さだ。
俺は妹の滴から預かったメモと別財布を取り出す。えっと、どこで買えばいいんだ?
車がざっと二十台は横に停められるだだっ広いスペースに黄色のカウンターがずらりと並んでいる。そのカウンターには等間隔に女性スタッフがいて、その前に今まで並んでいた客たちが分散して並んでいるように見えた。
「えっとね、相原君。ブースごとに買えるグッズが違うから気をつけてね。赤の矢印で区切られているゾーンまでは同じものが買えるから好きなところに並んでね。じゃ、出口待ち合わせで!」
早口で説明すると、先輩は比較的人が少なそうな列に並び始めた。俺も付いて隣の列に並んでみる。
滴のおつかいメモの量もすごかったが、横を見ると先輩もものすごく買っていた。アイドルの経済効果怖い。
計三回並んで指定されたグッズを全て買い終えた。先輩もコンサートグッズのトートバックから丸められたポスターが二本出ていてご満悦の様子だ。漫画ならば顔の周りに花が飛んでいる。至福の時という顔だ。
「さて、コンサート行きましょうか、相原くん!」
初めての世界の扉が開く。思いがけない形で、思いがけない人と共に。
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