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「それで零、どういうことなの」
こたつを囲んで家族四人で向き合う。何も分からないはずの猫たちすらも何かを察してかリビングを後にした。
「俺は、渚先輩のことを救いたかった。家族もいない。友達も一人しかいない。そんな先輩を放ってはおけなかった。泣いている先輩を見て、一人にしたくなかった」
「それって、ただの同情じゃなくて?」
母の冷淡な声が空気を冷ややかなものにする。
「零は同情と恋を勘違いしているのよ。お願い、何かの間違いだと言って」
俺の手を握る母の手は酷く冷たくて、俺から大切な熱を奪うようだった。
「お兄ちゃんは、ちゃんと渚先輩のこと好きだよ。私、ちゃんと見てきたから。どんなに苦しくても一緒にいた。ムカつくほど仲良しで、いっつも一緒に笑って。私、最初は嫉妬ばっかりしたけど、でも、二人は恋してるんだなって、見てて分かったもん」
「滴までそんなこと言いだして。あなたたちに恋が分かるの?」
「分かるよ。私たちもう高校生だもん。初恋くらいとっくに過ぎてる」
滴の力強い物言いに、母さんは溜め息を一つ吐いた。
「お前たちも、大人になったんだな」
黙って聞いていた父が口を開く。
「男ってもんは、泣いている好きな奴を放っておけないもんなんだよ。母さんだって昔は泣いてばっかりでまあ笑わせるのに大変だった。そういうことだろ? 零」
うん。あの日、コンサート会場で先輩は泣いていた。そして、そのときにはもう「好きな奴」だった。
「俺、渚先輩のこと、高校一年のときから好きだったんだ。最初は憧れだったかもしれない。感情の名前が分からなかった。でも、今なら分かる。あれは一目惚れだったよ」
「そうか」と父は目尻の皺を深くした。
「何それ、聞いてないんですけど」
滴が隣で拗ねた声を出す。
「だって、最近気付いたんだもん」
「うーわ、お兄ちゃん鈍感。そりゃ私が振られるわけだわ」
「えっ、まさか兄妹で三角関係?」と母が急に笑い出した。
「あんたたち最近仲がいいとは思ってたけど、とんでもないことしていたのね」
あーおかしい。と母のツボに入ったようでしばらく笑っていた。人の恋路を笑うとは如何に。
記憶の小波の向こうで華麗に舞う渚先輩の姿は絶対に忘れたりしない。あれが俺と渚先輩との恋の始まり。
「そうね、本当に好きだというのなら、いいわ。私だって大人ですもの。同性愛者がこの世にいくらかはいるって知っているわ。まさか息子がそうだとは思わなかったけれど。信じられない気持ちがまだ大きいけれど、私は受け入れることにしたわ」
ごめんね、零。と母は俺を抱きしめた。太陽のような、この世で一番落ち着く香りに俺はみっともなく泣いたのだった。
「いい? この世に別れない恋愛なんてないの。結婚したって離婚するか死別するかして、いつか必ず別れてしまう。それでも、その別れる最後の瞬間まで酒本くんのことを大切にしてあげなさい」
じゃないと、母さん、また叱らなきゃいけなくなるわ。
目尻に涙をためて笑った母のもとに生まれたことを、俺は心から感謝した。
「お邪魔します」
翌週、渚先輩をもう一度家に招いた。
母は立ち上がると、先輩の手を握った。
「先日は酷いことを言ってしまってごめんなさいね。少し驚いてしまって……でも、こんなバカ息子でよければ、これからも仲良くしてやって頂戴」
これからは私のことを母親だと思ってくれていいから、と母は付け加えた。
「ありがとうございます、お母さん、お父さん」
渚先輩は深々と頭を下げると、俺が一番見たかった、美しい笑顔を見せてくれた。
俺は渚先輩を抱きしめる。小さくて、脆くて、それでも溢れんばかりの華やかさ。そんな君を笑わせるためだったらなんだってするよ。
「ちょっと、零」
父さんに呼ばれる。
「お前、男同士でもちゃんとコンドームするんだぞ」
「父さんっ!」
大人の知識量が怖い。
「何々?」
「せ、先輩には後でお話します」
「ふふ、変なの」
そうだ、今日はニンジンのグラッセ作ってきたんです。
まあ、渚くんお料理上手ね。また一緒に作りましょう。
そんな先輩と母との背中を見て、俺はお腹の真ん中から温まるような、幸せをたくさんかき集めて飲み込んだような気持ちになる。
「先輩のグラッセ食べたいです」
「私もー」
「じゃあ父さんもいただこうかな」
先輩の笑顔が花開くとき、俺の中で五月の風が吹いた。
記憶の海の中に落とされた一滴の幸せは、これからも俺の人生を、そして二人の人生を彩っていくだろう。
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