←前のページ | 目次 | 次のページ→ |
「二回目ですね、ここで寝るの」
「そうだね。びっくりしたよ、急に倒れるんだもん」
「その節は大変ご迷惑おかけしました」
はい、ここでまるで平常心かのように会話をしておりますが、相原零、非常にどぎまぎしております。着替えがないからとパンツと肌着姿になっておりますが、寒さが正直分かりません。でも指先や耳先が冷たいのは確かで。それでその。
「零くん、なんで、正座で股押さえてるの?」
だって、男の子だもの。
「まあ、聞かなくても分かるけどね。零くん」
先輩の大きな瞳がゆぅらりとキャンドルの炎できらめく。先輩が俺を抱きしめ、耳から頭の真ん中へ言葉を届ける。
――――名前で呼んで。
「なぎさ、先輩」
「うん」
「渚先輩、好きです」
「僕もだよ、零くん」
唇を合わせて、柔らかなベッドに倒れ込む。
「触れてよ、零くん」
先輩の身体がやけに熱くて、その熱が欲しくてたまらなかった。
その先は、意識がふわふわして、心が熱くて、赤子に戻ったような安心感の中で眠った。この記憶は、俺と渚だけが共有する大切なタカラモノにしようと思う。
全身に汗を掻いていた。悪い夢を見ていた気がする。慣れないシーツの感触に振り返ると、渚先輩がいた。そうだ、クリスマスに、先輩の家に泊まって、それから、
「んんんんんっ」
思いだすだけで体温がよみがえった。触れてしまった。先輩の全てに。気恥ずかしさと、少しの優越感。俺しか見たことのない渚先輩の顔。聞いたことのない声。感じたことのない味。真冬の朝を嗤うように顔が火照ってしょうがなかった。
「ん、零くん、起きた?」
先輩の少しかすれた声。柔らかな笑み。それがあるだけで幸せだった。
「えっ、ちょっと、零くん?」
先輩を腕の中に抱き寄せる。酒本渚はここにいる。尊いほどの現実。
ゆっくりと唇を合わせると、見つめ合った。
「零くん、おはよう」
「渚先輩、おはようございます」
「朝ごはん作らなきゃだから、そろそろ起きるね」
しかし俺は腕を解かなかった。
「もう少しだけ、こうしていてもいいですか」
「しょうがないなあ」
先輩のぬくもりが消えないようすがりつく俺はいささか強欲だろうか。
「おっはよー! 朝ごはん何ー?」
リビングに客布団を敷いて寝ていた扇田さんは相も変わらずけたたましかった。その横で寝ていた滴はまだ眠そうだ。待った、この二人を一緒に寝かせても大丈夫だったのだろうか。
「朝ごはんはイングリッシュマフィン焼くから、好きな具材を乗せて食べてね」
やっふーい! なんて騒いでいた扇田さんはよっぽど先輩のご飯が好きなのだろう。
「滴、お前、その、なんともなかったか?」
「さてね、女は秘密の数だけ魅力になるのよ」
寝起きにそのセリフが出てくる我が妹もどうなのだろうか。でも、元気そうでよかった。
そのとき、インターフォンが鳴る。モニターを見た先輩が一瞬で真っ青になる。
「ちっ、アイツ、まだ来てるのかよ」
扇田さんの舌打ちに、ただならぬことであることは分かった。
「よう、ナギ。元気そうじゃねーか」
上がらせてもらうよ、とリビングに現れたその男は、覇気に満ちた、長身の、鬼のような身体つきの男だった。逆立った髪とえらの張った顔。強靭な肉体がスーツに包まれていることが分かる。そして、微かに煙草の苦い香りがした。
「敦(あつし)さん。おはようございます」
渚先輩は敦と呼んだ男から目をそらす。何か言いたそうで、何も言えない。そんな顔だ。
「今月の生活費、それとちょっとしたクリスマスプレゼントだ」
膨らんだ紙袋と、赤い不織布に包まれた箱を彼は差し出す。
「ありがとうございます。でも、プレゼントは受け取れません。僕たち、もう終わったんでしょ?」
「なんだよ、まだ気にしてるのか。あんな写真までまだ飾っておいて」
敦の視線の先には戸棚の上の男三人の写真があった。そうか、この男と、渚先輩と、渚先輩の父親だ。
敦は続ける。
「相変わらず女々しい奴だな。ありがたく受け取って――」
「あのっ」
滴が声を上げる。
「渚先輩とはどのようなご関係で?」
滴の声は震えていた。厭味ったらしい男に立ち向かう。
「俺はナギの親父さんの顧問弁護士で、後見人だ。遺産の中から毎月の生活費を渡してる」
「それだけじゃ、ないですよね」
「ああ、そうだな。でも、君には関係ないだろ?」
すごむ男に滴は、言葉を探して、でも、見つけられずにいた。
「敦さん、関係あるよ。そこのぼけっと突っ立ってるだけのクソ男、ナギちゃんの彼氏だから」
扇田さん、頼むからもう少し言葉を選んでくれ。でも何も言えずに突っ立っていたのは事実だ。
俺は一歩前に出て、渚先輩の震える肩を抱いた。
「あなたは、渚先輩の元カレですね? はじめまして、相原零、十七歳。酒本渚の彼氏です」
ふうん、と敦は俺を値踏みするように足先から脳天まで見た。正直恐ろしかった。身長は俺と変わらないはずなのに幾分高く大きく感じて、屈強な肉体に、何より牙を隠した獅子のような冷たい瞳が俺の腹をずたずたに切り裂くようで、睨み返すのが精一杯だった。
「彼氏、ね。ナギ、お前また『僕は可哀想な子なんです』って言って誰かに寄生するんだ。ホント、何も変わらないな。吐き気がするよ」
「俺はそんなんじゃ……」
今朝、見た夢を思い出した。俺は渚先輩を救いたい。そう思うのは間違いなのか?
「いい加減にして。もう、帰ってよ」
渚先輩の声は消え入るようだった。
「そうだな、朝食の邪魔しちゃったようだし、そろそろ退散するよ。また、来月な」
そう言うと鬼のような男は先輩からクリーニングに出していたスーツと紙煙草を受け取ると、革靴を履いて帰っていった。
←前のページ | 目次 | 次のページ→ |