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酒本先輩がバスケ部から姿を消したのは夏の大会前の練習試合の後からだ。
梅雨明けの湿気を帯びた熱気の中、近くの高校の部員がやってきて試合を何度も繰り返した。その日、先輩方のドリンクを用意しながら試合を見学していた俺は、巨人たちの中で一人華麗に舞う酒本先輩のことを何度も目で追っては手を止めていた。
なんて美しいのだろう。
この人に近づきたい。話したい。名前を呼んでもらいたい。見つめられたい。
そのとき、体育館の板張りに強く打ち付けられる音がした。小さな彼がうずくまって倒れていた。
「酒本先輩!」
俺は何も考えずに駆け寄っていた。怪我か? 病気か? 騒然とする体育館ではそんなのどうでもよかった。ただこの人を笑顔にできるなら、俺はなんだってする。
「ちょうどいい。相原、酒本を保健室まで連れて行ってくれるか?」
「はい」
酒本先輩を抱きかかえる。腕の中の彼はずっと小さくて驚くほど軽かった。浅い呼吸を繰り返して、涙を流す先輩。俺はこの人を守ることができるのだろうか。
「お父さん、お母さん、ごめんなさい。ごめんなさい」
そう、うわごとを繰り返す先輩に、何も分からない俺は抱きしめることしかできなかった。
保健室のベッドに寝かせて、立ち去ろうとすると体操服の裾を先輩に掴まれる。
「どこ行くの?」
弱弱しい声。
「どこ、いくの?」
それは『行かないで』に聞こえた。
「行きませんよ、先輩」
あのときは分からなかったけれど、今なら分かった気がする。
この感情は恋だ。
「お兄ちゃん!」
自宅の最寄り駅で滴と酒本先輩を迎えた。
「滴、おかえり。酒本先輩、大丈夫ですか?」
「うん、もう大丈夫。零くんありがとうね」
目の端が赤くなった先輩の笑顔に、俺の心がじわりと痛む。
ペールトーンの夕暮れ空に、ピンクの雲が浮かんでいる。
「それじゃあ、またね」
「はい、先輩、おやすみなさい」
手を振って、さようならをする。またね、の言葉を残して。
「渚先輩とね、あの後、少しだけ手を繋いだよ」
「そっか」
兄妹二人の影が住宅街のアスファルトに伸びる。
「お兄ちゃん、私、渚先輩のこと救えるのかな。先輩を笑顔にしたい」
「そっか」
「先輩のこと、傷つけちゃったかな。怖い思いさせちゃったかな」
滴は、泣いていた。悔しさと、もどかしさと、申し訳なさ。やさしさというエゴに気付かされたことに。
声を上げて泣く妹を俺は抱きしめた。ヤマアラシのように、抱きしめようとしても傷つけてしまうかもしれない。それでも、俺たちは彼に惹かれてたまらないのだ。まるで呪いのように。
「先輩も滴を傷付けたんじゃないかって心配していたよ」
「そう?」
「うん、だから大丈夫」
一呼吸おいて、俺も言う。
「お兄ちゃんも、先輩のこと笑顔にしたいよ」
「うん。でも、私のは恋だから」
俺のも恋だと、言えたらどんなに楽だろう。
お兄ちゃんは、ずっと前から恋をしていたよ。
ペールトーンの空はプラネタリウムのスクリーンのように薄紫が宙を覆って、金星が瞬き始めた。
家に着くころ、酒本先輩からLINEがあった。
「今日はありがとうございました。滴ちゃんには驚かせてしまって申し訳ないです。クリスマスイブに家でパーティーをするので是非二人も来てください。たくさん美味しいもの作って待っています」
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