オリジナル小説サイト「渇き」

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青嵐吹くときに君は微笑む 01

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 懐かしい夢を見ている。夢というより、記憶の海に五感が投げ出されている。そんな感覚だ。

 あれは四月の終わり。桜の薄紅に新緑が混ざり合う変化の季節。俺はやわらかな陽射しで温まった体育館で思春期の憂鬱と格闘していた。

 高校一年生だった俺はようやく馴染み始めたクラスメイトと共に部活動紹介に参加していた。運動は苦手だし、無難な文化部に居場所を求めるか、高校も帰宅部でもしょうがないかな、なんてぼんやりと膝を抱えていた。先輩方の説明や実演のどれにも興味が持てなくて、膜の向こうの出来事のようだった。

 俺はこれから始まる高校生活にどこか期待していて、どこか諦めている。体育館シューズの先を見つめて春の訪れを待っていた。

「今から、僕が三対一であのゴールまでシュートを決めます」

 その声に導かれるように俺は頭を上げた。

 視線の先には体操服の上から黄色のゼッケンを着た俺よりはるかに背の高い男子生徒三人と、彼らの肩より背が低いゼッケンを着ていない男の子。ふわふわの髪に白い肌。アーモンド形の瞳をキラキラさせて、彼の頭より一回り大きなバスケットボールを抱えていた。

 嘘だろ、と俺は思った。スポーツに関心の薄い俺でもバスケットボールでは背が高い方が有利なことくらい分かる。

「では、行きます!」

 先輩はバスケットボールを床に打ち付けると、妨害しようとする他三人をひらりひらり、流水の上の木の葉が岩を避けるようにかわし、そして、飛んだ。

 網が揺れる。ボールが床に落ちる。時が止まる。

「こんな小さな僕でもバスケはできます。体験だけでもいいので皆さん来てくださいね。体験希望者は部長の僕、酒本渚のところまで来てください」

 張り詰めた空気が歓声に変わる。あっけにとられて口を開けていると、酒本先輩と視線がぶつかる。花が咲いた。俺の何かが求めている。

「俺、バスケ部にするわ」

 同中の友人が声を上げて驚くが気にしない。

 先輩がもう一度、俺に微笑んでくれたら、それでいい。

 ――でも酒本先輩は、夏の大会を前にしてバスケ部を去った。

 

「おーい、お兄ちゃん。万年ベンチ温め係の零(れい)おにーちゃーん」

 ぐえ、という情けない声をあげて俺はベッドから落ちた。暖房をいつの間にか切られたのか足先まで冷え切って痛い。今は高校二年の十二月の頭。結露した窓から雫がツーっと落ちた。

「なんだよ、滴(しずく)。寝てなくていいのか?」

 おでこに冷えピタ、眼鏡、マスクという一見誰か分からない顔面フル装備に、淡い青と黄色の縞模様のもこもこパジャマ姿の妹を見上げて言う。相原家の冬季恒例行事となりつつある『誰かがインフルエンザになる』の順番が妹の滴に回ってきたのだ。普段コンタクトレンズの滴が眼鏡をかけていると、風邪なのだというのがよく分かる。

「げっ、お兄ちゃん、泣いてるの?」

 頬に手を当ててみると濡れていた。人差し指に雫が乗っている。何か懐かしい夢を見ていた気がする。記憶の海を泳いだ後は大体そうだ。けれど、思いだせなかった。

「泣いてねーよ。多分」

 ジャージの袖で顔を拭うと、「で、なんで滴は起きているんだ?」と返す。ぼんやりと、あの人のことを思い出した気がするけれど、次の瞬間には意識にのぼらなかった。

「今日、コンサートなんだけどさ」

 言葉の間で咳き込む滴を俺のベッドに座らせて、俺はまだ温まらないホットカーペットに胡坐をかいて聞いた。コンサートというのは、超国民的アイドルグループの五大ドームツアーで、今日はナゴヤドームで夕方から行われる。

「私、インフルじゃん? コンサート行きたくて行きたくてたまらないよ? でも、もし万が一、担当様に移して今後のツアーや年末の歌番組に響いたらと思うと申し訳なくて、行くに行けないの」

 涙をボロボロ落としながら話す可愛い妹にティッシュの箱を差し出す。注釈すると、「担当様」というのは愛してやまないアイドルタレントのことを言うらしい。耳にタコができるほど滴に聞かされたから分かるが、アイドルに興味のない人には分からないだろう。

「担当様がインフルになったら私、死んじゃう。申し訳ないもん。でも、でも、行きたかったよぉ」

 熱で赤くなった目をこすりながら泣きじゃくる滴。盲目なのか客観的なのかわからないが、よくできた妹だと兄として思う。これでコンサートに行くと言い出したら、俺は刺されてでも止めなくてはいけなかった。

きっと今日までたくさん悩んだのだろう。彼らのコンサートチケットはオークションに出されれば軽自動車一台分の値は付く超プレミアチケットだ。滴だってコンサートチケットを当てたのは三年ぶりだというのに、体調を考慮して行かないと決意した。うん、我ながらいい妹を持ったものだ。

「でね、お兄ちゃん。お願いがあるんだけど」

 こんな可愛い妹の頼みだ、なんでもきいてやろう。

「代わりにお兄ちゃんがコンサート行ってきて」

「……は?」

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