オリジナル小説サイト「渇き」

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たかが愛のはなし 17

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 井澄と付き合い始めて何が変わっただろうか。
 幸瑠は考えるけれど答えが見つからないのでもうあまり考えない。受験生なのだから色恋沙汰を考えている暇がない方が正しいのかもしれない。
 いつも井澄と一緒にいて、言葉を交わす。放課後はいつも図書室に向かった。受験生の多くは自分の教室に残るか進学塾へ向かうので図書室はそこまで混み合っていない。試験期間中でなければ難なく窓際の席に陣取ることができた。
 合唱部の声は吹奏楽部の音にかき消されてあまり聞こえない。人の肉声というものはあまりに儚い。い草の匂いを求めてしまう自分の存在を見つけた。大切な居場所だった。
 部活に行かないおかげで圭一に会うこともなかった。圭一と付き合うようなことをしてちゃんと振ったわけでもない。曖昧な関係のままだがはじまったつもりもない。居心地の悪さから逃げることができたことには安堵していた。
 向かい側に井澄がいる。テキストに落とされた視線は真剣そのもので、微かな攻撃性すら感じる。伏せられた瞳を長い睫毛が縁取って夕方の黄色い光がちらちらと乱反射していた。きれいだな、と思う。
 井澄のことを誰も知らない土地である東京へと向かう、と井澄は本気のようだ。幸瑠はまだ迷っていた。このまま井澄と東京へ行くことは悪くない。悪くないけれど、東京で何をしたらいいのか分からない。クラスは理系なので理学部か工学部か、はたまた文理があまり関係のない学部を目指すのか決め切れていなかった。地元の大学の名前だけを書けばいい時期は終わった。将来のことを考えると気が滅入る。雲の上を見上げている気がして首が痛い。気を紛らわせたくて井澄を見る。しかし真剣な眼差しに幸瑠は声をかけることを躊躇って、下校時刻になるまで井澄を眺めては自分の勉強に身を入れた。
 すっかり日が落ちた帰り道、冬が訪れて大きなオリオン座が二人を見下ろしていた。
「あんた今日もよく集中してたね」
「そうかな。まだまだ足りないって思うよ。分からない問題は多いし、もっと数をこなしたい」
「真面目だね」
 幸瑠と井澄は手を繋いで帰っていた。付き合うことにしてからそういう習慣がついた。恋人らしいことだな、と幸瑠は安堵する。恋をしているような気がする。井澄は幸瑠のもので、幸瑠は井澄のもの。相互支配とも呼べる関係こそが恋愛なのだろう。
 冬の空気が肌に刺さる。寒い。けれど寂しくない。繋がれた右手は確かに暖かく、一人ではないという証だと思った。
 井澄は幸瑠を家まで送った。大賀に会うことなく帰る。一度軽く抱きしめて、バイバイと手を振る。
 本当にこれでよかったのだろうか。よかったということにして欲しい。
 けれど、こんなの井澄じゃない、と思ってしまうことを幸瑠は認めたくなかった。

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