オリジナル小説サイト「渇き」

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たかが愛のはなし 14

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 三年生は文化祭を最後に合唱部を引退する。幸瑠は身が引き締まる思いだ。秋はさみしさを告げる季節だ。衣替えももうすぐ。ブレザージャケットをそろそろ出しておこうと決めた。
 文化祭での曲目を決めた。今まで歌ってきた歌謡曲と合唱曲の総まとめだ。新曲としてNHKコンクール、通称Nコンの課題曲「言葉にすれば」を選んだ。歌い始めはアカペラ。声が重なり、そこにダイナミックなピアノが加わる。全七パートに別れる難曲だ。
「よくこんな難しいのやるね」と幸瑠はわくわくしていた。技術と練習量が問われる曲ほどかちっと歌えたときの感動はひとしおだ。圭一のピアノで音を取り、確かに音符を拾っていく。毎日日が暮れるまで練習するのは日が短くなったからではないだろう。
「これで最後かあ」と虫の音をBGMに井澄が呟く。
 月が大きい。文化祭を最後に引退したらひたすら受験勉強の日々となる。恋をしている暇なんてないように思えるけれど、感情というものは時を選ばない。
「最後、ねえ。受験嫌だな」
「幸瑠は勉強できるからいいだろ」
「井澄よりはね」
「言ってろ」
 井澄は前を向いたまま言う。
「おれさ、第一志望を東京の方にしようと思う」
「え……?」
「おれのことを知っている人が誰もいない土地に行きたいって前から考えてた」
 そっか、と理解してもいないのに幸瑠は答えた。
「誰でもないおれになりたい。そういうことってお前ないか」
 わからなくもない。けれど幸瑠には考える余裕がなかった。
 別れはいつかやってくる。日常は変わり続ける。半身が離れていく痛み。
「それでさ、お前も東京に来ないか?」
 今日は本当に月が大きいな。

 

 明日は文化祭。幸瑠はクラスの出し物の準備を抜け出して合唱部のリハーサルに参加していた。
 吹奏楽部が大変そうに楽器を搬出し、空いただだっぴろいステージに整列する。いつもの電子ピアノと違うグランドピアノの音色は自己主張が激しくて、圭一は恥ずかしそうにしていた。
 幸瑠も本番には馴れていたが人前で歌うことに対する羞恥は薄れることがなかった。
 それでも歌うことは好きだ。曲の中に描かれる感情を追体験する。人生の中で体験し得ない感情をなぞることは有益だと思う。何より、声が重なる瞬間が楽しくてしょうがないのだ。
「体育館だと音響がよくないな」
 井澄がぼそりと呟く。
「後ろまで声を届けるイメージがいるね」と幸瑠は毎年言われていることをなぞった。
 リハを終えて解散しようとした、そのとき、
「幸瑠先輩」
 三森圭一だった。
「ぼく、幸瑠先輩のことが好きです。ズミ先輩と付き合っているなんて嘘吐かないでください」
 部員の集まる体育館に圭一の声が響く。文化祭前のせわしない空気が凍る。
「ズミ先輩に愛されるわけでもないのになんで一緒にいるんですか。ぼくならそんな苦しい思いさせない」
「ちょっと圭一」
 幸瑠が何かを言う前に陽子が叫ぶ。
「さっちん先輩とズミ先輩はお似合いのカップルだよ。どっからどうみてもそうじゃない。勝手なこと言わないでよ」
「杜松は黙ってろ。ぼくは幸瑠先輩を助け出す。そう決めたんだよ」
 ちょっと落ち着け、と井澄が間に入る。
 しかし圭一は井澄を振りはらう。
「ズミ先輩もズミ先輩ですよ。本当は大賀先輩のこと――」
「やめてぇっ!」
 陽子の声とは思えなかった。
「さっちん先輩とズミ先輩は一緒にいるべきなの。邪魔しないでよ」
 彼女は泣き出していた。
 幸瑠はどうしたらいいのか分からなくなっていた。本当のことを言うべきか。露呈してしまった。でもまだ嘘を吐き続けることはできる。しかし圭一は井澄の気持ちに気付いている。どうしよう。どうしたらいい。
「三森、勝手なこと言うな」
 井澄の声が低い。
「何を考えているか知らないけど、お前の事情を部に持ち込むな」
「すみません」と圭一の声は尻すぼみになっていた。
「杜松も落ち着け。思い込みもいい加減にしろ」
 静まりかえった体育館の外では文化祭の準備に浮かれる生徒の活気がする。温度差に幸瑠は目眩がした。何も、言えない。
「とにかく、明日の本番までに二人とも頭を冷やせ。幸瑠のためにもな」
 開けてはいけない蓋が、開いてしまった。

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