オリジナル小説サイト「渇き」

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たかが愛のはなし 12

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 あのときの井澄の顔を形容する言葉を幸瑠は知らない。
 努めて平静を装っているような、それとも現実をまだ理解していないような、彼の全てが止まってしまったように見えた。
「幸瑠先輩、あの」
 ぐるぐると考え込んでいた。隣の圭一の存在が遠い。祭りの音楽も、雑踏も、全部遠い。
 近くにあるのは井澄のかなしみ。手に入ることのない成就。突きつけられる失恋。
 ――わたしが感じられないもの全て。
 幸瑠は走り出していた。圭一の声は聞こえなかった。
 つっかけの踵を跳ねさせて、彼を探した。一人にさせちゃいけない、と。

 神社の裏の河川敷に井澄はいた。膝を抱えて川を見詰める。濡れた草木の匂いがする。川の匂い。
「井澄」
 彼が顔を上げる。
「井澄、その……」
 言葉が見つからない。どうしよう。傷付いた彼を救う言葉を幸瑠は持たない。
「お前、知ってたのか」
 幸瑠の沈黙を肯定と受け取る。
「なんで言ってくれなかった」
「言えるわけないじゃん」
 井澄が膝に顔を伏せる。通り過ぎる人もいない。祭りの響きは遙か遠く。ここはもうこの世ではないのかもしれない。真っ暗な川は地獄への入り口のようにぽっかりと闇が開いている。
「おれが大賀先輩と付き合えないことくらい分かってるよ。分かってるよ。でもせめて隣は空いていて欲しかった。おれのものにならないなら、せめて誰のものにもならないで欲しかった。こんなおれは間違ってるか? 独占したい。あの人をおれでいっぱいにしたい。それができないなら空っぽでいて、残された可能性に自惚れていたかった」
 井澄の慟哭が闇夜に吸い込まれる。
 幸瑠は井澄を抱きしめた。こういうとき、なんと言えばいいんだろう。幸瑠が持っている答えは、ただぬくもりを与えることだけだった。
 井澄の涙が幸瑠のTシャツを濡らす。みっともないほど声を上げて泣く井澄をどうしようもなく愛しく思う。井澄はいいね、恋を知っていて。そんなあんたのことが、好きだよ。
 ――あんたの痛みが分からないわたしのことが大っ嫌いだよ。

 

 父方の実家に帰省して、残りの日は塾で夏期講習。高校三年生の夏が終わった。
 祭りの日から圭一のLINEを無視していた。問いただしはしないが、デートの途中でほったらかして他の男を追いかけるのは悪いことだと幸瑠には分かる。通知に表示される文面の冒頭だけ目を通して、なかったことにしようと既読もつけなかった。五日後にはもう送られてくることもなくなった。
 新学期、合宿以来の練習日。重い足取りで音楽室へ向かう。
 大丈夫。今まで通りでいい。圭一だっていちいち態度に出すほど子供ではないだろう。
 第二音楽室の前に井澄がいた。
「入らないの?」
「いや、気まずくて」
「奇遇だね」
「三森のことか?」
「あんたこそ、陽子ちゃんでしょ」
 しょうがないなあ、と幸瑠は井澄の頬をつまむ。井澄の緊張が緩む。幸瑠もつられて口角が緩む。よし、これでいい。
 すこしばかりの勇気を持ってドアを開ける。いつもの部活動。今までとは違う部活動。
 中にはもう多くの部員が揃っていた。
「先輩方、今日もお似合いですね」
 陽子が甘ったるい声を出す。幸瑠は瞬間的に圭一を見る。睨まれていた。
 幸瑠は申し訳なくてすぐ視線を逸らした。陽子は気付いているのだろうか。ここの部員に圭一とのことは知られているのだろうか。おぞましくて萎縮する。
「さっちん先輩とズミ先輩みたいなカップルにあたしなりたいですぅ。ね、圭一」
 圭一が苦虫を噛みつぶした顔をする。
「陽子ちゃん、そこまでね」と幸瑠が止めに入る。
「はぁい」と陽子はツインテールを揺らして畳マットに足を投げた。
 井澄がなんだろう、と肩をすくめた。陽子と大賀はあの後会えたのかな、と幸瑠は少しばかり心配になった。

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