土曜日は梅雨の合間の中休みで、幸瑠たち合唱団は老人ホームでの発表を終えた。
幸瑠は恋の歌を歌うと不思議な気持ちになる。人の感情を音楽に合わせててなぞり再生する。
圭一のピアノとみんなの声が心地よい。一人じゃないって思えるから。
陽子はソロパートを歌いたがるけれど幸瑠は苦手としていた。ソロパートどころか主旋律を歌うことすら恥ずかしい。誰かの後ろでハーモニーを重ねる方が好きだった。幸瑠の声域はメゾソプラノだが、ハーモニーが多いからという理由でアルトに所属していた。
井澄には「主旋律が嫌いとかお前合唱向いてないな」と揶揄された。
「一人で歌うならカラオケにでも行けばいい」と反論すると「みんな一緒、ねえ」と哀れむように言われて少々癪だった。
人間関係だってそうだ。「みんな」でいれば寂しくない。教室、部活動、学習塾。そういう居場所で人と繋がっていればいい。この恋の主役は井澄で、幸瑠はハーモニーを奏でる名脇役でいい。
――井澄が主役の人生だって構わない。
老人ホームからの帰りの路線バスは決まって井澄と二人がけのシートに座った。
「じいさんたち、美空ひばり喜んでたな」
井澄が切り出す。
「そうだね。きっと青春の曲なんだよ。わたしたちがここに入る頃にはきっと米津とかあいみょんとかキンプリとか歌ってもらえるよ」
「おれが将来ここに入るイメージはわかないけどな。そんなに長生きするとも思えないし」
ふと、未来への階段を見上げた。果てしなく高くて、見上げれば首が痛い。霞んで見えないほど先のことまで考えてしまうことに目眩がした。いつこの階段が途切れるのかはわからない。未来を見ることは絶望にも近かった。
「わたしが井澄の子供を育てられたらいいのにね」
孤独ではない生き方なんて分からない。縛られることに安心するのは当然かもしれない。井澄に縛られたいと願うなんてなんて愚かなんだろう。
「何言ってるの、お前」
「別に。ただの未来設計」
井澄の瞳が揺らぐ。言ってはいけなかったのかな。井澄に大賀の子を宿す能力は無い。だったら、とまで考えて馬鹿らしさに小さく吹いた。
「一人笑いとかスケベかよ」
「スケベで結構」
膝に置かれた井澄の手を握る。これがわたしの欲しいもの。たかが愛なんて幸瑠にとっては重要ではないのだ。
「はあ? 杜松、進展早くないか」
圭一の驚嘆に幸瑠と井澄は振り返る。
せえんぱあい、とぶりぶり言う陽子は続けた。
「あたし、彼氏できましたあ」
「えっ、陽子ちゃん最近別れたとか言わなかった?」
「それが、別れたらすぐ彼氏できちゃうというか、寂しそうにしてると男の人って寄ってきてくれるんですね」
あまり興味が持てなくて、よかったね、と幸瑠はお世辞程度に返した。
シートに座り直して、次のバス停で降りるとブザーを鳴らす。
井澄が「杜松の彼氏って誰なんだろ」と言う。
「誰でもいいよ。わたしには関係ない」
本当は関係あるということに、このときの幸瑠は知らずにいた。
「あれ、さっちん先輩もう降りるんですか?」
「井澄の家に行くから」
「それ、おれ聞いてないぞ」と井澄が非難する。
「いいでしょ、別に」
陽子が「さっすが二人はお似合いですね」と言う。横の圭一は幸瑠を見ていた。しかし彼は何も言わなかった。
「あたしの恋バナ聞いてくださいよ、さっちん先輩もズミ先輩も」
また今度ね、と陽子に手を振って二人でバスを降りる。
バスが行ってしまうと、幸瑠は井澄の片腕に抱きついた。
「なんだよ。お前」
「別に。ただ陽子ちゃんが普通なのかなとか思っただけだし」
好きな人を手に入れることを望まないことはおかしいのかもしれない。けれど井澄のことを幸瑠は深くから欲していた。あなたの劣情をください。
――要するに寂しいの。
井澄の唇が降りてくる。触れるだけのキスで幸瑠の柔らかいところがほどけていく。
男と女の駆け引きみたいなものは存在しない。ただ触れたい。間違っている自分を正当化してほしい。
人に触れることに真実の愛は必要ですか。
井澄の家につくとおばさんに軽く挨拶をして部屋に向かった。部屋までの廊下でもつれ合うように触れ合った。これこれ、欲しいのはこれだよ。
「あんたはわたしのあにきが好きだよね」
「うん」
「じゃあ、わたしをあにきだと思ってよ」
そんな無茶言われても、と笑う井澄の目は深くて、ちょっとは本気に思っているらしかった。
「目を閉じて。わたしじゃない方がいいんでしょ」
ベッドの中で初めて服を脱いだ。お腹同士が触れ合うことがこんなに満たされるものだとは知らなかった。井澄が幸瑠の首筋に歯を立てる。ああ、と声が漏れる。きもちいい。きもちいいことをしているわたしたちは悪い子です。
こんなことをしておいて付き合っていないなんて嘘かもしれない。けれど、井澄は大賀のことを想っている。幸瑠はそんな井澄のことを想う。
「愛なんて分かりゃしないよ」
与えられるものだけが全て。
分かるもんかって意地を張っているだけかもしれない。だって分かってしまったら、もう井澄と一緒には居られなくなってしまうから。
脱ぎ散らかした制服をかき集めて身支度をする。後ろから井澄が抱きしめる。
「ごめんな」
何が? と聞くことはやめた。
「おれがお前のこと好きになれたらいいのに」
「別にいいよ。わたしは寂しくない」
――ごめん、わたしとびっきりの嘘吐いた。
家まで送ろうか、という井澄を制して幸瑠は一人で帰った。アスファルトが濡れている。むせかえるような水の匂い。星空は見えない。
一人で考えたいことは山ほどあった。
井澄との関係に終着点がない。名前もない。自らの内側に流れる血潮の熱さに身が火照る。焼き尽くされたってよかった。触れたい。触れられていたい。冷え切った脳髄を沸騰させて欲しい。
「愛なんて、知らないよ」
幸瑠が自宅に着くと、幸瑠のものより小さなローファーが玄関にあった。
「ただいま。あにきお客さん?」
リビングのドアを開けると、ソファーの大賀の横に見慣れたツインテールがいた。
「あれ、陽子ちゃん?」
「さっちん先輩お邪魔してます」
陽子は幸瑠に軽く頭を下げる。大賀と繋がれた手。
何か用事があったのかと思案する。
「あたし、大賀先輩の彼女なんです」
陽子は屈託のない笑顔で告げる。大賀は頬をぽりぽりと掻いていた。陽子は居住まいを正すと、大賀と手を繋いだまま点けられたテレビを見る。何を見ているのか分からない。
鈍器で頭をぶん殴られた気がした。