オリジナル小説サイト「渇き」

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たかが愛のはなし 02

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 今日は老人ホームでの発表会についての話し合いがあった。
 慰問は合唱部の定期的な活動の一つだ。毎年六月に行くので今年もと依頼されている。曲目は梅雨なので『あめふり』を入れることと、老人ホームだからという理由もあるのだが、部員たちから人気のある『青い山脈』を歌うこととなった。他にも五曲程度決めた。そのなかに美空ひばりの『愛燦々』も含まれていた。
「愛、ねえ」
 練習の帰り道はいつも井澄と二人だった。赤い空の下、田舎のあぜ道にふたつの影が伸びる。まだ五月の夕はシャツの上にカーディガンを羽織っていても肌寒かった。
「お前には難しい?」
「ばーか」
 揶揄されて幸瑠は井澄の手の甲をつねった。いてっ、と井澄は笑う。
「またまた今日は災難だったね」
「告白を災難って言っちゃうあんたが災難だわ」
「でもお前にとっては災難だろ?」
「まあね」
 井澄が幸瑠の髪を撫でる。節の張った乾いた男の手だった。確かな重みが心地よい。
「あんたこそ、またされたんじゃない?」
「なんでわかるの?」
「あんたのことだからわかるよ」
「お前には敵わないな」
 二人の影が重なった。濡れた唇に切なくなる。だってわたしたちが付き合うことはないのだから。
「ばーか」
 あぜ道を抜けた住宅の裏、幸瑠は井澄の腰に手を回し、正面から抱きついた。薄い胸板から伝わる熱を幸瑠は求めている。わたしを満たして。井澄も応えるように抱きしめる腕に力を込める。
 これは恋なんかじゃない。恋だなんて呼んではいけない。
「たいが、せんぱい」
 井澄が絞り出す。あまりの切なさに幸瑠まで苦しくなる。井澄は幸瑠を通して幸瑠じゃない人を想っている。じゃあ、幸瑠は誰を想えばいいと言うのか。
 井澄の気が済むまで幸瑠は抱きしめられ続けていた。二人の体温が解けるまで。これでいい。間違っていない。そう信じて。
 井澄の肩越しに暗くなった空を見上げても、一番星を見つけられなかった。

 

 井澄はいつものように幸瑠を家まで送った。女の子を一人で帰すわけには行かないという紳士的な考えからではない。
「幸瑠おかえり」
 幸瑠の帰りを待っている人――幸瑠の兄、大賀に井澄は会いに行くのだ。
「あにきただいま」
 自分のことをあにきと呼ぶ幸瑠を「全く、可愛くないな」と大賀は揶揄した。
 縁側で涼む彼の膝の上にはオスの三毛猫がいる。
「斉藤もいつも幸瑠をありがとな」
 幸瑠は彼を横目で見た。薄暗くて表情までは分からない。けれど微かな緊張感だけは伝わった。
「いいんです、大賀先輩。では、おれはここで」
 半音高い声。軽く頭を下げる井澄を幸瑠は見送った。あれが、恋する人の顔なのだ。幸瑠にはないものを井澄は持っている。
「斉藤みたいな奴なら安心だな」
「何言ってるの、ばか」
 大賀の手の中にいる猫が小さく伸びをした。大賀は「ばかってなんだよ」と苦笑した。

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