オリジナル小説サイト「渇き」

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たかが愛のはなし 01

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 新山幸瑠(にいやまさちる)は告白された。愛の言葉を伝えようとする男子の声は震えていた。彼の名前を幸瑠は知らない。そして名前すら知らない相手に告白されることは初めてではなかった。
 場所は古風に学校の渡り廊下。静かに射す午後の柔らかな太陽が冷え切った心の存在をはっきりと自覚させる。
 こういうときどうするのが正解なのだろう。幸瑠は困惑する。一時のときめきが訪れようとしている脳の後ろ側に冷たい風が吹いている。
 渡り廊下の先で掃除当番の女子たちが話している。誰が好きとか嫌いとか。こちらには気付いていない。頭がさえて聴覚が過敏になる。
 冷め切った幸瑠の姿に、目の前の男子は「やっぱり、ダメかな」と口角を震わせていた。
「うん、ごめんね。まだ分からないから」
「分からないなら、付き合ってからおれの事を知ってよ、新山さん」
「そうじゃないの」
 ――分からないのは、わたし自身のことだよ。
『正しい恋』を幸瑠は知らなかった。
 辞書に乗っている意味なら分かる。
〈異性を強く慕う気持ち。切ないほど好きになること。〉
 幸瑠に似たような感覚を経験したことがないわけではない。でも今、胸にあるこの感情が正しいのか考えれば考えるほど分からなくなる。
 幸瑠の中にいつでも彼はいる。切ないほど好きだ。
 でも、これが恋とは呼べないことは幸瑠には分かっていた。
 何度目かの告白。幸瑠は自負する。平均よりは高いが男子と並んでも不自然じゃない程度の身長。艶のある肩までの黒髪。力強い瞳。小さな鼻。薄紅色の唇。贅肉とは無縁で肌は瑞々しい。つまり取り立てて容姿に欠点はない。学業はどうかと言われると三年生になって最初となる先月の進路希望調査表には地元の旧帝大の名を担任に薦められて第一志望に書いた。運動は得意ではないが体育の授業でチームプレーに貢献できる程度にはできる。欠点という欠点がないように思える。
 しかし、幸瑠は自らのことを欠陥品と呼んでいた。
 正しい恋が分からないわたしは何かが欠落している。人として大切な何かが、と。
 男子が口を開く。
「やっぱり、斉藤くんと付き合ってるの?」
 幸瑠は目を細めた。
 ――うん。そういうことになってるの。

 

 幸瑠は早足で音楽室に向かった。もう発声練習の音が階下まで聞こえている。規則正しい音色は感情を持たない。幸瑠が恋にまつわる感情を持ち合わせていないように。一段飛ばしで階段を駆け上がる。
 合唱部が使っている第二音楽室はカーペット敷きで、さらにその上に半畳サイズの畳のマットを個々思い思いの場所で足下に敷いている。畳のマットを買ったのは数代前の先輩方で、以降上履きを脱いで畳の上でリラックスしながら歌うことが慣例となっていた。
「ごめん、遅くなった」
 部員たちが発声練習を止めずに一斉に幸瑠を見る。責めるような視線ではなく、ああ、来たんだね。くらいの柔らかさだった。
 一人の男子を幸瑠は見る。斉藤井澄(さいとういずみ)。幸瑠と同じ高校三年生で、パートはテノール。そして、幸瑠の彼氏――ということになっている。全て分かっているような彼の同情する目に幸瑠はうるさい、と非難した。
 幸瑠も井澄とは対角のアルトパートが固まっているあたりにマットを敷いて上履きを脱ぐ。畳の柔らかさに先程までの緊張感から解放される。首に巻き付いているネクタイを緩める。幸瑠は自分の声が解けて調和する様を感じていた。
 スケール練習を終えると、ソプラノパートの二年、杜松陽子(ねずようこ)が幸瑠の脇を突く。幸瑠より頭一つ分小さい身長。高い位置のツインテールがぴょこぴょこ跳ねる。
「さっちん先輩。またですかー?」
 なれなれしいのか敬称なのか分からない愛称で呼ばれる。また、とは告白のことだ。
 沈黙を肯定と取った陽子が続ける。
「さっちん先輩にはズミ先輩がいるのにね」
 陽子は井澄のことをズミ先輩と呼んだ。
 そういうことなっている以上、否定はできない。本来の二人がどうであるかは別として。
「彼氏がいる女子に告白だなんて、あたし呆れてしまいます。何、人の彼女狙ってるの? って」
 まあまあ、とたしなめると陽子に火がついたようで。
「ズミ先輩はなんとか言わないんですか?」
 対角で静観していた井澄は「幸瑠なら大丈夫だろ」とだけ言った。
 大丈夫、って何よ。と幸瑠は口角を上げた。信頼されている。わたしが肯定されている。それだけでよかった。
「今日もお熱いですね、先輩たちは。あたしんとこと違って」
 えっ、と幸瑠は声を上げる。
 待っていたかのように「聞いてくださいよー」と陽子が猫なで声で言う。しかし遮るように和音を鳴らし「はい、そこまで」と制したのはピアノ伴奏の三森圭一(みもりけいいち)だった。
「練習が進まないだろ、杜松」
「はいはーい」
 陽子が唇を尖らせる。井澄を見ると彼は笑っていた。
 笑ってくれていて、よかった。

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