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冷たい雨が体温を奪っていったように、私の夫は静かに亡くなりました。
八十一歳。もう十分生きたと家族の誰も泣きません。良い人生を全うしたと息子たち、そしてたくさんの孫たちひ孫たちは穏やかな表情で夫を見送りました。
「おばあちゃんは身体に障るからお家の中にいなよ」
毛糸のような柔らかい雨が降る。優しい孫は私のしわくちゃの手をさすって外に出ました。
「ふん、言われなくても出ないよ。こんな寒い日に外に出たら私まで凍ってしまうわ」
クッションを敷いた椅子に深く座り込んで、膝から落ちそうなブランケットを拾い上げました。
「アレシア様。最期の日にまでそんなことおっしゃらなくても」
私を諫めたのはメイドのビーティでした。彼女は私より皺の多い目尻を下げました。でも私の中のビーティは、在りし日のように可憐な少女のままなのです。
「ビーティ、お茶をちょうだい」
かしこまりました、と彼女は曲がった腰をさらに曲げて、部屋を出ました。
「ビーティ、貴女までいなくなったら――」
そこまで言葉にして、私は口をつぐみました。枯れ葉が枝から離れて、ゆっくりと芝生の上に落ちるのを、私は見ていました。
「私は私のお茶を頼んだのだけれど?」
ビーティはアールグレイの入ったティーポットと、暖められたティーカップを二つをワゴンに乗せて持ってきました。焼き直したスコーンとジャムも一緒に。
「いいではありませんか。私もたまにはいただいたって」
彼女は茶目っ気のある声で答えました。紅茶を注いで、私の隣に腰掛けます。
「本当に旦那様の最期を見送らなくてよいのですか?」
「いいのよ。あの人の顔なんて見飽きたわ」
私は紅茶に砂糖をスプーン一杯入れて口に含みました。ビーティも真似してティーカップに口をつけます。
「五十年。半世紀よ。半世紀もあの人と、キャスと一緒に居たの」
「長かったですか?」とビーティが尋ねます。
「そうね……飽きるほど長くもあったし、あっけないほど短かった」
そうでしたか、とビーティはスコーンをちぎって私に渡しました。口に放り込むと甘さと塩気が私の中に波を作り――。
「キャスはすぐ女に色目を使うし、酷いときには浮気もしょっちゅうだった。服も脱ぎっぱなしでソファにかけるし、仕事ばかりなのか飲み歩いているのか帰りはいつも遅くて。ほんと、酷い人だった」
でも、とビーティは続ける。
「キャス様のことが好きだった」
「誰があんな人のこと」という言葉は尻すぼみになっていた。
「あんな人、私なんか……」
「私は見ていましたよ。半世紀前から」
私はティーカップを膝に下ろしていました。
「アレシアがいつもキャス様のことで悩んで、その度に私に泣きついて。本当に世話の焼けるお嬢様でした」
もうお嬢様、なんて歳でもないでしょう。と私は彼女の髪を撫でました。
「私、幸せだった。素敵な娘に息子に孫。たくさんの家族に囲まれて。でもそれもキャスがいたから」
「キャス様に素敵なものをたくさん貰いましたよね」
「ええ、そうね」
二人でよく一緒に旅をしたし、仕事の帰りにサプライズで薔薇の花束を貰ったわ。喧嘩をした夜は背中を向けて寝たけれど、目が覚めたら抱き合ってキスをして……。
「本当に、アレシアは昔から素直じゃないわね」
「ビーティが甘やかすからよ」
「またそうやって人のせいにして」
ビーティは私が五歳のときに親に買い与えられた奴隷の娘だった。今はそんな風習はないけれど、ビーティは私にとって。
「ねえビーティ。奴隷解放運動のとき、何故私から離れなかったの? 結婚もしないで私の家から出ることもなくて」
ビーティはティーカップを下ろして微笑んだ。
「私がアレシアのことが好きだったから、じゃいけない?」
私はきっと、とても間抜けな顔をしていたでしょう。
「アレシアがいる世界が私のすべてだったの。五歳でアレシアに売られてからずっと。お世話をすることが楽しくてしょうがなかったのよ」
彼女の微笑みは私に買い与えられた五歳、共に青春時代を過ごした十五歳、初めての子供が生まれた二十五歳、子育てに悩んだ三十五歳、人生に不安を覚えた四十五歳、初孫の可愛らしさに人生の喜びを見出した五十五歳、そして夫を失った六十五歳。ずっと、ずっと私はビーティと一緒にいました。いつもビーティは優しく、そして私と一緒に歳を重ねました。
「キャスなんかより、貴女の方が私のことをよく知っているのかもね」
「僭越ながら、私も同意します」
私たちは顔を見合わせて、クスリと笑いました。
「ねえビーティ、貴女まで私をおいていかないでね」
冗談のつもりの言葉が、どこか悲しげな色を帯びていました。
それは私たちの死が、すぐそばにあると私たちは知っているから。
「おいていきませんよ。私の生まれてきた意味は、お嬢様のそばにいつまでもいることですから」
「だからその『お嬢様』っていうのはやめなさい。こんなおばあさんに恥ずかしいじゃない」
「アレシアは私にとって永遠のお嬢様ですよ。わがままで、素直じゃなくて、恥ずかしがり屋な私のお嬢様」
分かったような口をきいて、と私は少し冷めたアールグレイで乾いた口を濡らします。
「貴女様だけのビーティです。それだけは、この命をもって誓います」
彼女は跪いて私の手を握りました。五十年の愛がそこには有って。
「私、少しぐらい悲しんだ方がいいのかしら」
「旦那様に怒られますね」
私たちは顔を見合わせてまた笑う。五十年前と同じ、二人の少女の微笑みがありました。
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