オリジナル小説サイト「渇き」

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死んだ魚

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 梅雨の合間の、夏の訪れを感じる晴れた日に、僕は両親と弟と一緒に東京の下町にあるお寺に来ていた。寺の庭先で雨水に濡れた紫陽花が日の光にきらきら光って、水たまりに映る青空が東京の喧噪を忘れさせてくれる。
 今日は祖父の三回忌だ。
 綺麗に磨かれた板張りの廊下を歩いて、親戚の集まる待合室に通される。先に到着していた父の兄と、祖父の弟が出迎えてくれた。
「おう、遠くからご苦労さん」
 お茶を入れようとしていた父の兄を見て、母がその役割を申し訳なさそうに代わった。いいよいいよ、と言うが、母は入り口前のポットの前に陣取って頑なに動かなかった。
 父の兄は「伯父」というより「お兄さん」という呼び名が似合う人で、父より年上なのだからもう六十近いのに、いつでも粋で、わざと悪態をついてはとぼけている。江戸弁が似合うお兄さんなのだ。
「今日は、これだけ」
 僕らが肌触りのよい座布団に正座すると、亡くなった祖父の弟が何故か笑顔で言う。僕は町田のおじさんと呼んでいる。いつでも笑顔で、おどけては笑わせてくれる。初めて会ったのは祖父の葬式のときだったが、それ以降、法事のときに僕はおじさんに会えることを密かに楽しみにしている。両親には結婚式のスピーチでひょうきんなことを言ったのだが、遊び人なのだと聞かされている。
「えっ、お祖母さんは?」
 僕が訊くと、お兄さんは「お袋のわがままだ」と呆れて言った。
「愛ちゃんは、大学どうだ?」
 お兄さんが訊いてくる。僕はどう答えたものかと戸惑う。僕は大学生ではあるが、大学には通っていない。何が嫌とか、勉強についていけないとか、そういうわけではない。ただ、居心地の悪さに身体が拒否反応を起こして動けなくなるのだ。キャンパスに足を踏み入れると心臓がぎゅっとして痛くなる。それだけだが、本当のことを言うのは母の目もあって憚られた。
「まあ、そこそこ、です」
「そうか。医学部だっけ? 勉強大変だろ」
「勉強は嫌いじゃないです」
 一人、家で教科書を読んでいるだけだけれど。
「そうかー、将来はお医者さんか」
 町田のおじさんが目じりに皺をよせて笑いかけてくれる。違う。僕はそんなに凄い、世間から尊敬される人ではないんだ。と言い返すことができない。気まずくて母の淹れた緑茶を口にする。話題が弟のことに逸れたことを、僕はどこかホッとしていた。

 三回忌の法要はあっさりと終わった。お経のリズムとお坊さんの低い声が心地よくて、窓から見える紫陽花を眺めているだけで終わってしまった。
 法要が終わると、お兄さんが実家、祖母の住む家まで送ってくれることになった。
「お袋は話したいだけだから、飯でも食いながら聞いてやって。俺はもう聞き飽きた」
 そう言って僕らを買い換えたばかりの車に乗せてくれた。
 東京の街並みはいつ見ても新鮮で、見上げればまた空を覆うビルが増えている。東京は空が狭いな、なんて呟いたらきっとお兄さんは笑うだろう。心の中で僕は一人笑った。
 父の実家付近のスーパーマーケットに下ろしてもらい、お兄さんとはそこで別れた。昼ご飯に東京っぽいもの食べようぜ! と弟と張り切ってスーパーに入ったのだが、値段が倍近くするだけで売られているものに対して変わりはなくて肩を落とす。結局、築地で上がった魚を使ったパックのお寿司を買った。

「いらっしゃい」
 東京下町の、小さな木造一軒家で祖母は出迎えてくれた。透き通るような白い肌が綺麗で、昔はデパートで化粧品の販売をしていたのだと言われて納得した。
 居間のちゃぶ台に購入したお寿司を並べる。
「愛ちゃん、また綺麗になったねぇ」
 祖母の一言がこそばゆくて、僕は言葉を見つけることができない。無言のまま全員分のお寿司を並べて、やっと「今年、成人式なんです」とだけ答えた。
「あ、そう」
 祖母は嬉しそうにつぶやいた。

 お寿司を食べながら、祖母はずっと話してくれた。ご近所さんにいつも助けてもらっていること。父の友人の今の様子。お寺さんに行って和尚さんとお話をしたことは、棺桶ジョークがきつかった。和尚さんに「いつも来てくれてありがとうございます」と言われて「そのうち骨になって行きます」と返したそうだ。さぞ和尚さんも困っただろう。
「あ、そういえばね」と祖母が棚の上の空の金魚鉢を指さす。
「大きな魚が居たんだけどね、最近やっと死んでくれたの。お祖父さんがお魚好きで買ってきたんだけど、魚より先に死んじゃうものだからねぇ」
 流石このお祖母さんとしか思わざるを得なかった。苦笑しているのは僕だけではないらしい。お兄さんが聞き飽きる理由をここで察した。


「あっ、そういえばね、私、咳が止まらなくて病院に行ったのよ。私には分からないから見て」と、祖母が封筒に入った紙を父に差し出した。母がすかさず、こういうのは愛ちゃんが詳しいんじゃないの? と僕に紙を寄こす。
 僕は絶句した。一応調べるね、とスマートフォンで病名を検索する。しかし淡い期待は裏切られた。
「簡単に言うとね、肺の根元にある気管支っていうところにばい菌がついて炎症を起こしているんだよ」
 そうとしか説明しなかった。

 夕方、祖母に見送られて駅に向かった。
 僕は一人ぐるぐると思い悩んでいた。祖母の病気は一生治らない。治療すれば進行しないが、一歩間違えば命の危機すらある。そのことを誰にも言えなかった。
 僕の好きな祖母はもう死の覚悟はできているのだろうか。僕たちに負担を残さぬよう、先に金魚鉢の魚が死んだことを喜んだのだろうか。

 成人式の写真送るね。そう僕は見送る祖母に伝えた。

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