オリジナル小説サイト「渇き」

恋愛小説、純文学、エッセイを扱った小説家・佐倉愛斗オリジナルサイト

SS『音楽の神様』

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「お姉ちゃんはさ、なんでまだ吹奏楽やっているの?」

 その日はやけに月が大きく、夜空の守り神のような夜だった。

 必要最低限のもの以外段ボール箱につめて、殺風景になった妹の部屋にはもうカーテンすらない。月明かりが私たち姉妹をぼんやりと照らしていた。

「なんで、ってそりゃ、好きだからだよ」

「高校ではやれなかったくせに?」

「やれなかったから、だよ」

 私は明日旅立つ妹の肩を抱いた。

 私は小学校から吹奏楽の道に入った。物心つく頃からピアノ教室に通っていた私にはそれは至極当然のことで、何かを始めるのに理由なんてなかったとさえ思う。二つ下の妹も私にくっついて吹奏楽部――尤も小学校では木管楽器のいない金管バンド部だったが――に入部した。パートは私がホルンで、妹はユーフォニアム。二人で吹いている時間は少なかったけれど、楽しいひとときだったと今でも私は思う。

 中学三年生のとき、私は市内の合同バンドでパートトップを任せられた。トップ奏者というのはそれだけ花形で、名誉あるものだった。市内で一番なのが私。その誇りを持って私は演奏した。聴いてくれる人を楽しませるために。

 すると、市外の吹奏楽全国強豪校から私はスカウトされた。大きな舞台で演奏できることを夢見て私は推薦でその高校を受けた。

 でも、私は入部一か月で吹奏楽部をやめた。

「お姉ちゃん、私はレズですって言えばよかったのに」

 口をとがらせて妹は言うけれど、私にそんな勇気はなかった。

 私は高校に入ってから、男の子たちと一緒にいることが多かった。レズビアンであるためか、私の性格故か、女の子と一緒にいると緊張して喋ることができなくなる。だから高校では思いっきり自由になるために男の子たちと楽しい高校生活を送りたかった。私が女とかレズビアンとかそういうことは忘れて。

「言えないよ。言ったらもっとこじれていたかもしれないじゃない」

 男の子とばかりいた私は、部内で「ビッチ」「男たらし」「尻軽」と散々な言われようだった。部員は男女交際禁止という部則があったが、男の子たちと恋愛するつもりがなかった私にははた迷惑な規則でしかなかった。最後には顧問から母に「あなたの娘さんはふしだらです」なんて電話がかかってくるくらいだった。

 先輩には「もうすこし男子と距離を置きなさい」と忠告されたけれど、私の居場所はすでに男の子たちの中で、そこから離れたらどこに行けばいいのか分からなかった。

「それでいたたまれなくなって退部と」

「いたたまれないとか、そんな程度じゃないよ。音楽が、怖くなったから」

 強豪校は今までの「みんなで素敵な音楽を作り上げる」なんて生ぬるいものじゃなかった。全員がライバルで、誰かを蹴落とすための道具。悪口も、視線も、嫌がらせも、全部、自分が舞台に立つため。

 でも、本当にそれでいいの?

 ある日、私は部室でうずくまって動けなくなった。

 

 息ができない。

 吸えない。

 吐けない。

 吹けない。

 

 震えて音が出なくなった。

 

「それじゃあなんで、今やってるの? 高校であんなだったのに」

 妹は私と同じ高校で、全国大会に出場し金賞を受賞した。

 妹はあの環境でも屈しない強さを持っていた。私にはないものを。

「あんなだから、だよ。お姉ちゃんさ、知ってしまったんだ。吹奏楽の楽しさを」

 月夜を眺めながら、私は反芻する。

「小学校での演奏、覚えている? 学芸会のとき、たくさんのお客さんが私たちの演奏に拍手をくれた。それが嬉しくてたまらなかった」

「私だってそりゃ拍手もらえたら嬉しいよ」

「それだけじゃないんだ。私はまだ満足するほど音楽をやっていない。悔しかった。技術を磨くのは全て聞いてくれる人を喜ばせるためのものであって、競うためのものじゃないって私は信じていたから。私はきっと覚悟がぬるかったんだよ」

 そんな私の妹は、もう吹奏楽はいい。と県外の看護の専門学校に進学する。

「こっち帰ってきたら演奏会来てね。絶対素敵な演奏をするから」

「うん」

 月の中で二人、姉妹最後の夜を過ごす。

 音楽の神様が私を自由にしてくれるのはいつだろう。

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SS『曇天』

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 人間は、天使と悪魔から産まれた子なのかもしれない。

 いつだったか私はそんなことを思いついた。いつ、何歳の頃かは思い出せないが、生ぬるい雨が鼻にじめっとした臭いと共に思い出させる。きっと今日と同じ梅雨のころの話だろう。

 幼い私はどうやったら子供ができるかなんて知りもしなかった。母と父がいて、どういう仕組みかは分からないが一緒にいれば子供ができるのだと漠然と感じていた。それにしてはよくまあ思いついたものだと、二十歳になった私は苦笑した。

 私はお酒が飲めない。煙草も吸えない。働くこともできない。

 変わったことと言えば、小難しく自分の思想を述べているようで自分が当選するために必死に理想を街頭で語る政治家の話を嫌でも聞かなくてはならなくなったことだろうか。政治に無関心な若者が増えたとメディアは叫ぶが、無関心で私の人生を少しでも左右されることは私が許せなかった。

 もし天使がいるのなら、私を癒してくれるだろうか。私を蝕む病魔は現代医学をもってしても治すことはできない。だが、かと言って死ぬこともない。救いのない人生を歩むほかないと絶望することにも飽きてしまった。悲劇のヒロインごっこに付き合ってくれた男もいたが、私は彼にとって自尊心を満たすだけの道具でしかないことに気付いてしまった。

 彼は私にとって悪魔だっただろうか。悪魔と契約しても私に魔法は使えなかった。セックスの快楽は覚えたが、キモチイイことであるということ以外に意味を見いだせなかった。幼いころに夢見た子供の作り方はなんてあっけないのだろう。たったの数分、身を任せて喘いでいるだけだ。時折愛の言葉を嘯けば喜ばれる。そんな空虚な嘘を覚えても、私は満たされることはなかった。

 もしも天使と悪魔が愛し合ったら、と大人になった私はもう一度思いをはせる。天使は憎むことができない。悪である悪魔さえも愛してしまう。たとえそれが禁忌でも。

悪魔は私欲のために嘘をつく。天使に愛を求めて「愛している」と嘘をつく。でもそれがいつか本当の気持ちになったとき、奇跡は起きるのだろう。

 なんだ、私も悪魔じゃない、と自嘲気味に笑った。彼への愛の言葉は残念ながら本意にはならなかったけれど。

 ビルの屋上で、雨に濡れたまま私は空を見ていた。私は自分が可愛くてしょうがない。早く楽にしてあげたい。そうね、天使や悪魔ではなく死神がいればいいのにね。私は何か罪を犯した気がするわ。魂の浄化は死を以って行われる、と言ったのは誰だっけ。と一人雨に笑った。この世の終わりなんて来ない。この世は常に存在し、終わるのはその個体が認識する力だ。

 

 さあ、終わらせましょうか。

 

 私が最後に見た空は、私にお似合いな暗く淀んだ曇天だった。

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SS『糸』

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 私には糸が見える。

 この不可思議な現象を知るため縋り付いた、知り合いの胡散臭い自称魔女には、それは「運命を表している」と言われた。

 確かに私には関わる人と私とが様々な色で繋がっているのが見える。人々をつなぐ糸は幾重にも重なって絡まって、ただつるむだけの集団にもなり、また時には心から尊敬する大人へと繋がっていたりする。この出会いは運命に寄るものなのか。それはなんだか寂しいような気がした。

 青い糸は友人と。緑の糸は尊敬する人と。赤い糸はかつて恋仲だった人と。関係性によって色が違うことも経験則で何となく把握できた。

 そんな私から一本の透明な糸が伸びていた。伸びたガラスのように光が屈折するから認識できる透明の、心細い糸だ。

 この先がどこへ繋がるか分からない。けれど、誰かにはきっと繋がっている。今までの糸がそうだったように。

 試しにこの糸を手繰り寄せようと思ったことがある。けれど引けば千切れてしまいそうなその糸に触れることすらできなくて、私はただこの先へ続く人物と出会うことを渇望した。切れてほしくないと願うと同時に、どんな関係性なのか知りたくて、糸の先の朝焼けが透けるのを見ては眠れぬ夜の終わりを知った。

 ある日、私は何をするでもなく街に出ようと電車に乗った。ただ誰も私と繋がっていない世界に行きたくなった。私を縛り付ける糸は電車の車輪に引き千切られて、私は自由に孤独を謳歌した。

 自由とは孤独だ。そして新たに糸を結ぶ。卒業や転職を繰り返して人間関係が入れ替わる。それを繰り返してたくさんの糸の残骸を抱きしめて生きていく。

 車窓からは薄い雲の中で光が乱反射して世界が白く光っているのが見えた。この白も透明なのだと私は知っていた。水の粒のなかで光が反射するほど白く目映く光る。街並みから影が消え、世界は下手な風景画のようにも見えた。この塗り固められた日常に私は生きている。

 ふっと、移りゆく車窓から車内に視線を戻すと、透明な糸が向かいに座る青年に繋がっていた。色がつく前の、まだ出会わぬ相手。

 魔女は言った。「この糸は運命だ」と。

 青年も顔を上げた。私の顔が上気するのが分かる。太陽が顔を出して、燦々と降り注ぐ天気雨と世界に陰影が生まれ、天国への階段が見えた。胸が高鳴り肌が粟立つ。相手も目を潤ませて、私に微笑んだ。運命だ。そう信じるのに十分だった。

 それでも私達は一言も交わさず、各々電車を降りた。私たちの関係を説明できるものなど何もなかったのだから。

 ぷつり、と淡い桃色に染まった糸が切れる音がした。

 世界の全てと出会うことが無いように、運命もまた全てが繋がることはない。

 そうして私達は一期一会を繰り返していく。出会わない人々の糸を、私はただ愛おしく想った。

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SS『僕の性服』

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 僕はスカートを履いてみた。真っ黒な膝丈のプリーツスカート。場所は来月から通う中学校の隣にある制服取扱店。嫌に緊張して、これを毎日繰り返すのかと思うと目の前が真っ暗になった。どうして僕は他のオンナノコみたいに進学する喜びを感じられないのだろう。

「お母さん、これ……」

「なぁに? サイズはよさそうだけど、丈はもう少し短くてもいいんじゃない? もう女の子は背が伸びないものよ」

 僕は言いだせなかった。嫌だという一言が。

 

 三年後、僕は都会に出て、家から一時間もかかる高校へ進学した。お母さんの予想を裏切って僕の背は普通のオトコノコより少し低いくらいにまで伸びた。これは神からのギフトなのかもしれない。

「はじめまして、こう見えて僕は男です。でも身体は女です。よろしくお願いします」

 誰も知らない地で、僕はネクタイを締めた。

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SS『性徴』

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 私は鏡を見て憂鬱になった。

 

 私は十三歳で、中学校に行くために真っ黒な詰襟を着る。お葬式みたいなそれはまだぶかぶかで、袖なんて余って私の手の殆どを隠してしまう。同じく真っ黒なスラックスは裾が折り返されてアイロンテープで留められている。

「おかーさーん。ニキビできちゃった」

 洗面台からそう呼ぶと、あまり触りすぎないでね、とだけ声が返ってきた。

 鏡に映る私の右頬の横に赤い膨らみ。指で押してみると少し硬くて痛い。小さいくせに目立ってしょうがない。つんつんつついてみたけれどそれだけで消えることは無い。諦めて学校指定のカバンを背負って家を出た。

 

 保健の授業で、第二次性徴というものを習ったのはつい最近のこと。

 大人になる過程で、私たちの肌は脂っぽくなってニキビができやすくなるらしい。そして女の子はおっぱいが大きくなって生理が始まる。男の子は声が低くなって精通というものが起こるらしい。

 

 私は授業中ずっと憂鬱だった。

 セイチョウなんてしたくない。

 

 私は歩きながら校則違反の携帯を取り出し、大好きなお兄さんに電話を掛ける。

「もしもしショウちゃん?」

「どうしたの、こんな朝に」

「ねえショウちゃん、私が『オトコノコ』になっても好きでいてくれる?」

 

 この電話の声がいつか低くなっても、私のこと好きでいてね。

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SS『貴女まで』

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 冷たい雨が体温を奪っていったように、私の夫は静かに亡くなりました。
 八十一歳。もう十分生きたと家族の誰も泣きません。良い人生を全うしたと息子たち、そしてたくさんの孫たちひ孫たちは穏やかな表情で夫を見送りました。
「おばあちゃんは身体に障るからお家の中にいなよ」
 毛糸のような柔らかい雨が降る。優しい孫は私のしわくちゃの手をさすって外に出ました。
「ふん、言われなくても出ないよ。こんな寒い日に外に出たら私まで凍ってしまうわ」
 クッションを敷いた椅子に深く座り込んで、膝から落ちそうなブランケットを拾い上げました。
「アレシア様。最期の日にまでそんなことおっしゃらなくても」
 私を諫めたのはメイドのビーティでした。彼女は私より皺の多い目尻を下げました。でも私の中のビーティは、在りし日のように可憐な少女のままなのです。
「ビーティ、お茶をちょうだい」
 かしこまりました、と彼女は曲がった腰をさらに曲げて、部屋を出ました。
「ビーティ、貴女までいなくなったら――」
 そこまで言葉にして、私は口をつぐみました。枯れ葉が枝から離れて、ゆっくりと芝生の上に落ちるのを、私は見ていました。

「私は私のお茶を頼んだのだけれど?」
 ビーティはアールグレイの入ったティーポットと、暖められたティーカップを二つをワゴンに乗せて持ってきました。焼き直したスコーンとジャムも一緒に。
「いいではありませんか。私もたまにはいただいたって」
 彼女は茶目っ気のある声で答えました。紅茶を注いで、私の隣に腰掛けます。
「本当に旦那様の最期を見送らなくてよいのですか?」
「いいのよ。あの人の顔なんて見飽きたわ」
 私は紅茶に砂糖をスプーン一杯入れて口に含みました。ビーティも真似してティーカップに口をつけます。
「五十年。半世紀よ。半世紀もあの人と、キャスと一緒に居たの」
「長かったですか?」とビーティが尋ねます。
「そうね……飽きるほど長くもあったし、あっけないほど短かった」
 そうでしたか、とビーティはスコーンをちぎって私に渡しました。口に放り込むと甘さと塩気が私の中に波を作り――。
「キャスはすぐ女に色目を使うし、酷いときには浮気もしょっちゅうだった。服も脱ぎっぱなしでソファにかけるし、仕事ばかりなのか飲み歩いているのか帰りはいつも遅くて。ほんと、酷い人だった」
 でも、とビーティは続ける。
「キャス様のことが好きだった」
「誰があんな人のこと」という言葉は尻すぼみになっていた。
「あんな人、私なんか……」
「私は見ていましたよ。半世紀前から」
 私はティーカップを膝に下ろしていました。
「アレシアがいつもキャス様のことで悩んで、その度に私に泣きついて。本当に世話の焼けるお嬢様でした」
 もうお嬢様、なんて歳でもないでしょう。と私は彼女の髪を撫でました。
「私、幸せだった。素敵な娘に息子に孫。たくさんの家族に囲まれて。でもそれもキャスがいたから」
「キャス様に素敵なものをたくさん貰いましたよね」
「ええ、そうね」
 二人でよく一緒に旅をしたし、仕事の帰りにサプライズで薔薇の花束を貰ったわ。喧嘩をした夜は背中を向けて寝たけれど、目が覚めたら抱き合ってキスをして……。
「本当に、アレシアは昔から素直じゃないわね」
「ビーティが甘やかすからよ」
「またそうやって人のせいにして」
 ビーティは私が五歳のときに親に買い与えられた奴隷の娘だった。今はそんな風習はないけれど、ビーティは私にとって。
「ねえビーティ。奴隷解放運動のとき、何故私から離れなかったの? 結婚もしないで私の家から出ることもなくて」
 ビーティはティーカップを下ろして微笑んだ。
「私がアレシアのことが好きだったから、じゃいけない?」
 私はきっと、とても間抜けな顔をしていたでしょう。
「アレシアがいる世界が私のすべてだったの。五歳でアレシアに売られてからずっと。お世話をすることが楽しくてしょうがなかったのよ」
 彼女の微笑みは私に買い与えられた五歳、共に青春時代を過ごした十五歳、初めての子供が生まれた二十五歳、子育てに悩んだ三十五歳、人生に不安を覚えた四十五歳、初孫の可愛らしさに人生の喜びを見出した五十五歳、そして夫を失った六十五歳。ずっと、ずっと私はビーティと一緒にいました。いつもビーティは優しく、そして私と一緒に歳を重ねました。
「キャスなんかより、貴女の方が私のことをよく知っているのかもね」
「僭越ながら、私も同意します」
 私たちは顔を見合わせて、クスリと笑いました。
「ねえビーティ、貴女まで私をおいていかないでね」
 冗談のつもりの言葉が、どこか悲しげな色を帯びていました。
 それは私たちの死が、すぐそばにあると私たちは知っているから。
「おいていきませんよ。私の生まれてきた意味は、お嬢様のそばにいつまでもいることですから」
「だからその『お嬢様』っていうのはやめなさい。こんなおばあさんに恥ずかしいじゃない」
「アレシアは私にとって永遠のお嬢様ですよ。わがままで、素直じゃなくて、恥ずかしがり屋な私のお嬢様」
 分かったような口をきいて、と私は少し冷めたアールグレイで乾いた口を濡らします。
「貴女様だけのビーティです。それだけは、この命をもって誓います」
 彼女は跪いて私の手を握りました。五十年の愛がそこには有って。
「私、少しぐらい悲しんだ方がいいのかしら」
「旦那様に怒られますね」
 私たちは顔を見合わせてまた笑う。五十年前と同じ、二人の少女の微笑みがありました。

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nameless color『さようなら、ビタースウィート』

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 赤ちゃんみたいな小麦粉の香り。バターと砂糖が焼ける香ばしさ。甘いミルクとクリームをかき混ぜる音色にテンパリングされたチョコレートの光沢。それらは人を幸せにするものだ。

「はぁ……」

 色とりどりのケーキと洋菓子が並ぶショーケース。そこに片手を置いている私の口から吐き出された、抹茶みたいな苦い溜め息。もう何度目なのか私にも分からない。ただ思い出すだけで心臓がギュッと掴まれたように苦しくて、喜びと同時に喜んでしまった私の愚かさに呆れてしまう。あれはただのままごとなのに。

「胡桃ちゃん、さっきから大丈夫?」

 私の隣でバースディケーキを客に渡して見送ったパートの矢城さんに耳打ちされる。矢城さんは私よりずっと素敵なお姉さんだ。チョコレートオランジュとワインが似合いそうな大人の女性だが、これで小学生の息子がいることに誰もが驚くだろう。

「すみません、なんでもないんです」

 私はスカートから覗く太ももをつねる。今はバイト中なのだから、私情で上の空になっているわけにはいかない。それでも、

「はぁ……」

 これは大丈夫じゃないわね、と矢城さんに苦笑いをされた。苦笑いまで素敵なんてずるい。

「もうすぐバレンタインね。胡桃ちゃん、重政くんにチョコレートはあげるの?」

 今、一番聞きたくなかった彼氏の名前。

「シゲちゃんには手作りであげますよ」

「へぇ、素敵ね。仲良しなようでよかったわ」

 矢城さんは私の浮かない顔に察したのか、これ以上何も言わなかった。

『胡桃のことが、好きよ』

 頭の中で反芻される少し低い少女の声。

 舞依、本当だと言わないで。

 

 エプロンから高校の制服に着替えて帰途につく。燃え尽きる今日を見上げて、私はまた一つ、白い息を吐いた。

 短い髪から見え隠れする舞依の夕焼けみたいに真っ赤な耳を思い出す。震える声で。潤んだ瞳で。嘘だと分かっているけれど、私はどうしてか忘れることができないのだ。

 ことの始まりは、友人の早智の一言だった。

「胡桃って、どんな女の子がタイプなの?」

 私は男の子と女の子が恋愛対象だ。そのことは友人たちの間では周知の事実となっている。実際にシゲちゃんと付き合う前は女の子の恋人がいた。だからといって何か不便とか特別とかは感じたことは無い。ただどちらも魅力的に感じるだけだ。

 私がそんなの分からないというと、横に居た由美子が「じゃあこの中で誰が一番好み?」と言い出したのだ。友人なのだからそんな目で見たことはない。というと、早智は調子よく「じゃあ私たち、胡桃に告白するよ」と言い出した。性に興味津々な女子高生の好奇心だろう。本当に馬鹿馬鹿しく楽しいことだ。

 一人目、言い出しっぺの早智。長い髪を耳にかけ、上目遣いで愛を囁く。なんとも手慣れている。すぐ彼氏が変わるだけのことはあった。

 二人目、巻き込まれた詩織。何故か漫画みたいな男口調。ボーイズラブの読みすぎ。

 三人目、ノリノリの由美子。私の手を握って瞳を潤ませた。私が四十代の男性なら落ちていただろう。

 そして四人目、こちらも巻き込まれただけの舞依だった。

 舞依は私の目の前に立つと何度か私の顔を見て、横を向くと小さく唇を動かした。そして恥じらいを吹き飛ばすように大きな声で「無理無理、恥ずかしいよ」と被りを振った。ショートカットの黒髪が揺れて、制汗剤の石鹸の香りがした。

「それで誰がいいの?」と聞かれても私は答えることはなかった。だって誰も友達としか思えなかった。そのはずだったのに。

 瞼の裏で何度も繰り返される、舞依の告白。でもダメだ。私にはシゲちゃんがいるのに。

 冬の空は静かに暮れて、ペールブルーのスクリーンにひとつ、星が灯った。

 

 翌日、私は校舎の四階にある音楽準備室から運動場を眺めていた。冬の晴れ間は空に熱が逃げて一段と冷え込む。それなのにひざ上のジャージで外周を走る女子バレー部の一団にご苦労様、と私は口の中で呟いた。

「胡桃、何しているの」

 振り返ると楽譜ファイルを脇に挟んでフルートを握りしめるシゲちゃんがいた。長めの前髪から覗く瞳の熱に私はいつも嬉しくなってしまう。

「部活中は胡桃センパイでしょ? シゲちゃん」

「そのシゲちゃんっていうの、やめてください」

 唇を尖らせるシゲちゃんの頭を三回撫でると、私はもう一度窓から女子バレー部の一団を、先頭で掛け声をして走る舞依の姿を見てからクラリネットの準備に取りかかった。

 

「先輩、今日ってバイト休みですよね」

 シゲちゃんがそう切り出したのは、それから数日後の部活のない帰り道だった。

「休みだけど、なんで?」

 夕焼けよりも紅いシゲちゃんの首筋が詰襟から覗く。いつもより熱い瞳が眉間の寄った眉の下で静かに輝いている。

「今日、俺の家、誰もいないから、来ませんか?」

 それがどういう意味なのか、少しだけ子供ではなくなってしまった私には容易に分かってしまい、足が止まる。いつかそんな日は来るのだろうと分かっていたけれど、それが今日だっただけだ。

 少しだけ考えて、私は答える。

「いいよ、シゲちゃん」

 その行為はあっけないものだった。

 いつもより熱いシゲちゃんの身体が私を覆って、たくさんの口付けをくれた。初めて見た男性のシンボルは思ったより可愛らしくて、触れると私の体のどこにもない質感に感動した。

 私を引き裂く痛みに涙を零したけれど、由美子が言ったように大事にしておきたかったとか、早智が言うように虚しいとも思わなかった。ただ私はこの人のものになったのだと、漠然と感じた。

「ごめん胡桃、痛かったでしょ」

 狭いシングルベッドで汗だくになったシゲちゃんと寝転んだ。シゲちゃんは暑いと言うが、私はお腹が冷えてたまらなかった。電気ストーブの熱を背中に感じながら「平気だよ」と答える。

「胡桃のこと、一生大事にするから」

 冷えた足の指先を絡ませて、シゲちゃんは私を抱きしめる。愚かな私は、その言葉に喜んでしまった。

 

 あっけないと思っていても、身体への負荷は大きかった。若干の蟹股で登校した私は早速早智にのど飴を渡された。

「おめでとさん」

 大学生の彼氏がいる由美子には貼るカイロを貰った。下腹部に貼ると程よく気持ちいい。

 高校生なんてこんなものなのだろうか、というほど皆あっさりしていて誰も何も訊いてこなかった。

 しかし舞依だけは、私の首に残された痣を見るなり、挨拶もほどほどに自分の席へと行ってしまった。

「ねえ、胡桃」

 お弁当を食べ終わった昼休みの余暇。舞依は私を廊下に呼び出した。

「どうしたの、舞依」

 舞依の顔はまるで世界の終わりを見ているように青ざめていて、切れ長の瞳は今にも冷たい涙を落としそうだった。

「ごめん、何も聞かないで」

 そう小さな声で言うと、舞依は私を正面から抱きしめた。背の高い舞依の胸に私の頭はすっぽりと包み込まれる。

 舞依の筋肉質だけれどシゲちゃんとは違う女の子の柔らかい身体に、私はどぎまぎする。そして、あの言葉を思い出す。

『胡桃、好きよ』

 あれがもし本当だとしたら、おままごとではなく、本当の愛の言葉だとしたら。私はどうしたらいいのだろう。本当であってと願ってしまった私は、残酷な答えしかだせないのだろうか。

 どうしよう。私は舞依のことが好きみたいだ。

「胡桃!」

 誰かの手によって私は舞依から引きはがされる。振り返るとシゲちゃんの姿があった。

「シゲちゃん、何」

「何って、人の彼女を勝手に抱きしめるなんておかしいです」

 吠えるシゲちゃんに私は怒る。

「シゲちゃん、私たち女の子同士だよ? こんなに悲しい顔をしている友達を放っておける方がおかしいよ」

「胡桃先輩は『女の子同士』が通用しません。そのことは先輩が一番よく分かっているでしょ?」

 最も言われたくなかった言葉に一瞬時が止まる。そして私も吠えていた。

「いくら私がバイセクシャルだからって誰でもいいみたいに言わないでよ、シゲちゃんの馬鹿!」

 私は悔しさで涙をぼろぼろ流した。一番分かってほしかった彼に届かない私の本質。でも何より、誰でもいいわけではなく舞依のことを好きだと自覚してしまった私を隠すように私は泣いた。泣き出してしまった私の手を舞依は取ると、シゲちゃんを一目睨んで教室へ私を連れていった。

 

「それで、重政くんとは連絡取っていないの?」

 バイト先の洋菓子店で矢城さんに酷い顔だとハンカチを渡されて、私は洗いざらい話してしまった。友達とのスキンシップも許されないなんておかしいと私はまた泣いた。そして誰にも言うつもりもなかった舞依への想いを言ってしまった。

「もう連絡取りたくないです。あんな分からず屋知りません」

「じゃあ新しくできた好きな人のところへ行くの?」

「それは……舞依のことは好きだけど、舞依は友達だから」

 矢城さんは私が話し終わるのをじっくりと待ってくれる。

「舞依は友達で、シゲちゃんは恋人です。シゲちゃんを裏切るなんてできません。それに、怖いです」

「何が、怖いのかな?」

 矢城さんのチョコレート色の瞳が私の瞳を覗く。

「両方を失うのが、怖いです」

 よく言えたね、と矢城さんは柔和な笑みとレモン味の飴をくれた。

「私はね、そんな弱い心も分かるわ。もし私が高校生だったら怖くて新たな関係に踏み出せないかもしれない。それでも、先に両想いになった人と付き合わなきゃいけないなんてルールはないのよ。今は仮契約の時期なのだから、今、好きな人を私なら選ぶわ」

 そんな勇気、私にはない。これが幼さというものなのだろうと私は悔しくなった。

「明日はバレンタインデーよ、忙しくなるわ」

 そう言うと矢城さんは準備室を出てレジの前に向かった。

 取り残された私はポケットに飴玉を押し込むと、太ももをつねって持ち場へ向かう。私が言葉を失ったのは、それから三十分後のことだった。

 

「いらっしゃいませ」

 訪れた女性客の姿をあまりよく見ずに頭を下げる。細く長い脚が黒タイツに包まれている。多分女子高生だ。すっと顔を上げると、ショートカットの少女。

「舞依?」

「あれ、胡桃?」

 どうしてこんな巡りあわせが起きてしまうのだろう。もし神がいるのならば私は神を恨むだろう。

「ここ、胡桃のバイト先だったのね」

 私も舞依も目を合わせようとしなかった。繕うようにちぐはぐな会話を三言ほど交わす。

「これ一箱ください」

 舞依が指したのはフレーバーチョコレートが六粒入った小さな箱だった。

 誰にあげるの? 舞依に好きな人がいるの? それとも隠しているだけで恋人がいるの?

 私の頭に言葉があふれて目の前が真っ暗になりそうだった。

「千八十円になります」

 事務的にレジを済ませると、舞依は私の耳元でこう言った。

「みんなには内緒ね」

 

 いつもよりぬるめの湯船で、私はぼんやりと考える。

 舞依はチョコレートを一箱だけ買っていった。みんなで分けられる量じゃないからきっと一人にあげるんだ。じゃあ、その相手は?

 湯船にできる水文を見つめる。丸く広がる舞依への想い。そしてぶつかるシゲちゃんへの想い。ぶつかっては消えて、どちらのものか分からない波が生まれる。

 一途に愛することがこんなに難しいなんて知らなかった。自然に惹かれあって、他の誰にも目がいかないものだと思っていた。

 矢城さんに言われた「仮契約」の言葉。そんなことは分からない。今、好きな人は誰なのだろう。

 男だから好きだとか、女だから好きだとか、そういうものは私にはない。でもシゲちゃんは自分が男であることをどこか引け目に感じているのだろう。

「シゲちゃんを裏切るなんてできないよ」

 水文は広がる。私の眼下に。

 

「ハッピーバレンタイン!」

 昼休み、私は心の中にごろごろする石を抱えたままそのときを迎えた。いつもの私たちは手作りのチョコレートを各々タッパーに入れて振る舞った。もちろんお弁当は少なめだ。

 早智はチョコブラウニー、詩織はココア生地のクッキー、由美子には「本命じゃなくてゴメンネ」という要らないコメント付きでトリュフをもらった。どれもそれなりに美味しい。それぞれが本命の相手にあげるために作った試作品をこうやって交換し合うのだ。そして舞依は、毎年食べる専門だった。

「舞依は去年も作らなかったよね」

 由美子はブラウニーを食べながらそう切り出す。

「私、料理とか苦手だから」

「そんなこと言っていると男捕まえられないわよ」

 由美子の指摘に舞依は目を泳がせ、私の方をちらりと見ると、一瞬で頬を染めて下を向いた。刹那、あのチョコレートの行方を私は思う。

「由美子、舞依が困っちゃったじゃないの。いいのよ、私たちいつも作りすぎて余らせるんだから」

 詩織の言葉に早智がうんうんと頷く。

「胡桃は何を作ったの?」

 早智が私のブレザーの裾を引っ張る。

「私は生チョコを作ったよ」

 百円均一で買ったカラフルな柄のアルミホイルで一粒ずつ包んだチョコレート。固いチョコレートの中に生クリームをたっぷり入れたとろける生チョコレートを入れた私オリジナルのレシピだ。

 一口放り込んだ由美子が「なにこれうまっ」と目を大きくして呟く。

「外はカリッと中はとろり。すごい」

「これ本当に手作り?」

 早智と詩織も同様に賛辞を述べる。

 そして私たちの輪から少し離れていた舞依に一粒のチョコレートを渡す。

 カリッ。

「美味しい。美味しいよ、胡桃」

 花が咲いたように笑う舞依。その顔を見られただけで、私はなぜだかもう満足してしまった。

「なになに、なんで真っ赤になってるの、胡桃」

「なってないもん」

 好きな人に喜んでもらえた。その思い出だけで臆病者の私は十分だった。

「こんな美味しいチョコをもらえるシゲちゃんも幸せ者だね」

「ふふふ、そうでしょ」

「あれ? 仲直りしたの?」

「うん、これから謝ってくる」

 甘い香りのお菓子たち。それは人々を幸せにするものだ。そう信じていたけれど、私はチョコレートに一喜一憂させられた。舞依も誰かにきっとチョコレートをあげて泣いたり喜んだりするんだ。

 ありがとう舞依。さようなら、私の苦くて甘い恋心。

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