赤ちゃんみたいな小麦粉の香り。バターと砂糖が焼ける香ばしさ。甘いミルクとクリームをかき混ぜる音色にテンパリングされたチョコレートの光沢。それらは人を幸せにするものだ。
「はぁ……」
色とりどりのケーキと洋菓子が並ぶショーケース。そこに片手を置いている私の口から吐き出された、抹茶みたいな苦い溜め息。もう何度目なのか私にも分からない。ただ思い出すだけで心臓がギュッと掴まれたように苦しくて、喜びと同時に喜んでしまった私の愚かさに呆れてしまう。あれはただのままごとなのに。
「胡桃ちゃん、さっきから大丈夫?」
私の隣でバースディケーキを客に渡して見送ったパートの矢城さんに耳打ちされる。矢城さんは私よりずっと素敵なお姉さんだ。チョコレートオランジュとワインが似合いそうな大人の女性だが、これで小学生の息子がいることに誰もが驚くだろう。
「すみません、なんでもないんです」
私はスカートから覗く太ももをつねる。今はバイト中なのだから、私情で上の空になっているわけにはいかない。それでも、
「はぁ……」
これは大丈夫じゃないわね、と矢城さんに苦笑いをされた。苦笑いまで素敵なんてずるい。
「もうすぐバレンタインね。胡桃ちゃん、重政くんにチョコレートはあげるの?」
今、一番聞きたくなかった彼氏の名前。
「シゲちゃんには手作りであげますよ」
「へぇ、素敵ね。仲良しなようでよかったわ」
矢城さんは私の浮かない顔に察したのか、これ以上何も言わなかった。
『胡桃のことが、好きよ』
頭の中で反芻される少し低い少女の声。
舞依、本当だと言わないで。
エプロンから高校の制服に着替えて帰途につく。燃え尽きる今日を見上げて、私はまた一つ、白い息を吐いた。
短い髪から見え隠れする舞依の夕焼けみたいに真っ赤な耳を思い出す。震える声で。潤んだ瞳で。嘘だと分かっているけれど、私はどうしてか忘れることができないのだ。
ことの始まりは、友人の早智の一言だった。
「胡桃って、どんな女の子がタイプなの?」
私は男の子と女の子が恋愛対象だ。そのことは友人たちの間では周知の事実となっている。実際にシゲちゃんと付き合う前は女の子の恋人がいた。だからといって何か不便とか特別とかは感じたことは無い。ただどちらも魅力的に感じるだけだ。
私がそんなの分からないというと、横に居た由美子が「じゃあこの中で誰が一番好み?」と言い出したのだ。友人なのだからそんな目で見たことはない。というと、早智は調子よく「じゃあ私たち、胡桃に告白するよ」と言い出した。性に興味津々な女子高生の好奇心だろう。本当に馬鹿馬鹿しく楽しいことだ。
一人目、言い出しっぺの早智。長い髪を耳にかけ、上目遣いで愛を囁く。なんとも手慣れている。すぐ彼氏が変わるだけのことはあった。
二人目、巻き込まれた詩織。何故か漫画みたいな男口調。ボーイズラブの読みすぎ。
三人目、ノリノリの由美子。私の手を握って瞳を潤ませた。私が四十代の男性なら落ちていただろう。
そして四人目、こちらも巻き込まれただけの舞依だった。
舞依は私の目の前に立つと何度か私の顔を見て、横を向くと小さく唇を動かした。そして恥じらいを吹き飛ばすように大きな声で「無理無理、恥ずかしいよ」と被りを振った。ショートカットの黒髪が揺れて、制汗剤の石鹸の香りがした。
「それで誰がいいの?」と聞かれても私は答えることはなかった。だって誰も友達としか思えなかった。そのはずだったのに。
瞼の裏で何度も繰り返される、舞依の告白。でもダメだ。私にはシゲちゃんがいるのに。
冬の空は静かに暮れて、ペールブルーのスクリーンにひとつ、星が灯った。
翌日、私は校舎の四階にある音楽準備室から運動場を眺めていた。冬の晴れ間は空に熱が逃げて一段と冷え込む。それなのにひざ上のジャージで外周を走る女子バレー部の一団にご苦労様、と私は口の中で呟いた。
「胡桃、何しているの」
振り返ると楽譜ファイルを脇に挟んでフルートを握りしめるシゲちゃんがいた。長めの前髪から覗く瞳の熱に私はいつも嬉しくなってしまう。
「部活中は胡桃センパイでしょ? シゲちゃん」
「そのシゲちゃんっていうの、やめてください」
唇を尖らせるシゲちゃんの頭を三回撫でると、私はもう一度窓から女子バレー部の一団を、先頭で掛け声をして走る舞依の姿を見てからクラリネットの準備に取りかかった。
「先輩、今日ってバイト休みですよね」
シゲちゃんがそう切り出したのは、それから数日後の部活のない帰り道だった。
「休みだけど、なんで?」
夕焼けよりも紅いシゲちゃんの首筋が詰襟から覗く。いつもより熱い瞳が眉間の寄った眉の下で静かに輝いている。
「今日、俺の家、誰もいないから、来ませんか?」
それがどういう意味なのか、少しだけ子供ではなくなってしまった私には容易に分かってしまい、足が止まる。いつかそんな日は来るのだろうと分かっていたけれど、それが今日だっただけだ。
少しだけ考えて、私は答える。
「いいよ、シゲちゃん」
その行為はあっけないものだった。
いつもより熱いシゲちゃんの身体が私を覆って、たくさんの口付けをくれた。初めて見た男性のシンボルは思ったより可愛らしくて、触れると私の体のどこにもない質感に感動した。
私を引き裂く痛みに涙を零したけれど、由美子が言ったように大事にしておきたかったとか、早智が言うように虚しいとも思わなかった。ただ私はこの人のものになったのだと、漠然と感じた。
「ごめん胡桃、痛かったでしょ」
狭いシングルベッドで汗だくになったシゲちゃんと寝転んだ。シゲちゃんは暑いと言うが、私はお腹が冷えてたまらなかった。電気ストーブの熱を背中に感じながら「平気だよ」と答える。
「胡桃のこと、一生大事にするから」
冷えた足の指先を絡ませて、シゲちゃんは私を抱きしめる。愚かな私は、その言葉に喜んでしまった。
あっけないと思っていても、身体への負荷は大きかった。若干の蟹股で登校した私は早速早智にのど飴を渡された。
「おめでとさん」
大学生の彼氏がいる由美子には貼るカイロを貰った。下腹部に貼ると程よく気持ちいい。
高校生なんてこんなものなのだろうか、というほど皆あっさりしていて誰も何も訊いてこなかった。
しかし舞依だけは、私の首に残された痣を見るなり、挨拶もほどほどに自分の席へと行ってしまった。
「ねえ、胡桃」
お弁当を食べ終わった昼休みの余暇。舞依は私を廊下に呼び出した。
「どうしたの、舞依」
舞依の顔はまるで世界の終わりを見ているように青ざめていて、切れ長の瞳は今にも冷たい涙を落としそうだった。
「ごめん、何も聞かないで」
そう小さな声で言うと、舞依は私を正面から抱きしめた。背の高い舞依の胸に私の頭はすっぽりと包み込まれる。
舞依の筋肉質だけれどシゲちゃんとは違う女の子の柔らかい身体に、私はどぎまぎする。そして、あの言葉を思い出す。
『胡桃、好きよ』
あれがもし本当だとしたら、おままごとではなく、本当の愛の言葉だとしたら。私はどうしたらいいのだろう。本当であってと願ってしまった私は、残酷な答えしかだせないのだろうか。
どうしよう。私は舞依のことが好きみたいだ。
「胡桃!」
誰かの手によって私は舞依から引きはがされる。振り返るとシゲちゃんの姿があった。
「シゲちゃん、何」
「何って、人の彼女を勝手に抱きしめるなんておかしいです」
吠えるシゲちゃんに私は怒る。
「シゲちゃん、私たち女の子同士だよ? こんなに悲しい顔をしている友達を放っておける方がおかしいよ」
「胡桃先輩は『女の子同士』が通用しません。そのことは先輩が一番よく分かっているでしょ?」
最も言われたくなかった言葉に一瞬時が止まる。そして私も吠えていた。
「いくら私がバイセクシャルだからって誰でもいいみたいに言わないでよ、シゲちゃんの馬鹿!」
私は悔しさで涙をぼろぼろ流した。一番分かってほしかった彼に届かない私の本質。でも何より、誰でもいいわけではなく舞依のことを好きだと自覚してしまった私を隠すように私は泣いた。泣き出してしまった私の手を舞依は取ると、シゲちゃんを一目睨んで教室へ私を連れていった。
「それで、重政くんとは連絡取っていないの?」
バイト先の洋菓子店で矢城さんに酷い顔だとハンカチを渡されて、私は洗いざらい話してしまった。友達とのスキンシップも許されないなんておかしいと私はまた泣いた。そして誰にも言うつもりもなかった舞依への想いを言ってしまった。
「もう連絡取りたくないです。あんな分からず屋知りません」
「じゃあ新しくできた好きな人のところへ行くの?」
「それは……舞依のことは好きだけど、舞依は友達だから」
矢城さんは私が話し終わるのをじっくりと待ってくれる。
「舞依は友達で、シゲちゃんは恋人です。シゲちゃんを裏切るなんてできません。それに、怖いです」
「何が、怖いのかな?」
矢城さんのチョコレート色の瞳が私の瞳を覗く。
「両方を失うのが、怖いです」
よく言えたね、と矢城さんは柔和な笑みとレモン味の飴をくれた。
「私はね、そんな弱い心も分かるわ。もし私が高校生だったら怖くて新たな関係に踏み出せないかもしれない。それでも、先に両想いになった人と付き合わなきゃいけないなんてルールはないのよ。今は仮契約の時期なのだから、今、好きな人を私なら選ぶわ」
そんな勇気、私にはない。これが幼さというものなのだろうと私は悔しくなった。
「明日はバレンタインデーよ、忙しくなるわ」
そう言うと矢城さんは準備室を出てレジの前に向かった。
取り残された私はポケットに飴玉を押し込むと、太ももをつねって持ち場へ向かう。私が言葉を失ったのは、それから三十分後のことだった。
「いらっしゃいませ」
訪れた女性客の姿をあまりよく見ずに頭を下げる。細く長い脚が黒タイツに包まれている。多分女子高生だ。すっと顔を上げると、ショートカットの少女。
「舞依?」
「あれ、胡桃?」
どうしてこんな巡りあわせが起きてしまうのだろう。もし神がいるのならば私は神を恨むだろう。
「ここ、胡桃のバイト先だったのね」
私も舞依も目を合わせようとしなかった。繕うようにちぐはぐな会話を三言ほど交わす。
「これ一箱ください」
舞依が指したのはフレーバーチョコレートが六粒入った小さな箱だった。
誰にあげるの? 舞依に好きな人がいるの? それとも隠しているだけで恋人がいるの?
私の頭に言葉があふれて目の前が真っ暗になりそうだった。
「千八十円になります」
事務的にレジを済ませると、舞依は私の耳元でこう言った。
「みんなには内緒ね」
いつもよりぬるめの湯船で、私はぼんやりと考える。
舞依はチョコレートを一箱だけ買っていった。みんなで分けられる量じゃないからきっと一人にあげるんだ。じゃあ、その相手は?
湯船にできる水文を見つめる。丸く広がる舞依への想い。そしてぶつかるシゲちゃんへの想い。ぶつかっては消えて、どちらのものか分からない波が生まれる。
一途に愛することがこんなに難しいなんて知らなかった。自然に惹かれあって、他の誰にも目がいかないものだと思っていた。
矢城さんに言われた「仮契約」の言葉。そんなことは分からない。今、好きな人は誰なのだろう。
男だから好きだとか、女だから好きだとか、そういうものは私にはない。でもシゲちゃんは自分が男であることをどこか引け目に感じているのだろう。
「シゲちゃんを裏切るなんてできないよ」
水文は広がる。私の眼下に。
「ハッピーバレンタイン!」
昼休み、私は心の中にごろごろする石を抱えたままそのときを迎えた。いつもの私たちは手作りのチョコレートを各々タッパーに入れて振る舞った。もちろんお弁当は少なめだ。
早智はチョコブラウニー、詩織はココア生地のクッキー、由美子には「本命じゃなくてゴメンネ」という要らないコメント付きでトリュフをもらった。どれもそれなりに美味しい。それぞれが本命の相手にあげるために作った試作品をこうやって交換し合うのだ。そして舞依は、毎年食べる専門だった。
「舞依は去年も作らなかったよね」
由美子はブラウニーを食べながらそう切り出す。
「私、料理とか苦手だから」
「そんなこと言っていると男捕まえられないわよ」
由美子の指摘に舞依は目を泳がせ、私の方をちらりと見ると、一瞬で頬を染めて下を向いた。刹那、あのチョコレートの行方を私は思う。
「由美子、舞依が困っちゃったじゃないの。いいのよ、私たちいつも作りすぎて余らせるんだから」
詩織の言葉に早智がうんうんと頷く。
「胡桃は何を作ったの?」
早智が私のブレザーの裾を引っ張る。
「私は生チョコを作ったよ」
百円均一で買ったカラフルな柄のアルミホイルで一粒ずつ包んだチョコレート。固いチョコレートの中に生クリームをたっぷり入れたとろける生チョコレートを入れた私オリジナルのレシピだ。
一口放り込んだ由美子が「なにこれうまっ」と目を大きくして呟く。
「外はカリッと中はとろり。すごい」
「これ本当に手作り?」
早智と詩織も同様に賛辞を述べる。
そして私たちの輪から少し離れていた舞依に一粒のチョコレートを渡す。
カリッ。
「美味しい。美味しいよ、胡桃」
花が咲いたように笑う舞依。その顔を見られただけで、私はなぜだかもう満足してしまった。
「なになに、なんで真っ赤になってるの、胡桃」
「なってないもん」
好きな人に喜んでもらえた。その思い出だけで臆病者の私は十分だった。
「こんな美味しいチョコをもらえるシゲちゃんも幸せ者だね」
「ふふふ、そうでしょ」
「あれ? 仲直りしたの?」
「うん、これから謝ってくる」
甘い香りのお菓子たち。それは人々を幸せにするものだ。そう信じていたけれど、私はチョコレートに一喜一憂させられた。舞依も誰かにきっとチョコレートをあげて泣いたり喜んだりするんだ。
ありがとう舞依。さようなら、私の苦くて甘い恋心。