オリジナル小説サイト「渇き」

恋愛小説、純文学、エッセイを扱った小説家・佐倉愛斗オリジナルサイト

SS『貴女まで』

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 冷たい雨が体温を奪っていったように、私の夫は静かに亡くなりました。
 八十一歳。もう十分生きたと家族の誰も泣きません。良い人生を全うしたと息子たち、そしてたくさんの孫たちひ孫たちは穏やかな表情で夫を見送りました。
「おばあちゃんは身体に障るからお家の中にいなよ」
 毛糸のような柔らかい雨が降る。優しい孫は私のしわくちゃの手をさすって外に出ました。
「ふん、言われなくても出ないよ。こんな寒い日に外に出たら私まで凍ってしまうわ」
 クッションを敷いた椅子に深く座り込んで、膝から落ちそうなブランケットを拾い上げました。
「アレシア様。最期の日にまでそんなことおっしゃらなくても」
 私を諫めたのはメイドのビーティでした。彼女は私より皺の多い目尻を下げました。でも私の中のビーティは、在りし日のように可憐な少女のままなのです。
「ビーティ、お茶をちょうだい」
 かしこまりました、と彼女は曲がった腰をさらに曲げて、部屋を出ました。
「ビーティ、貴女までいなくなったら――」
 そこまで言葉にして、私は口をつぐみました。枯れ葉が枝から離れて、ゆっくりと芝生の上に落ちるのを、私は見ていました。

「私は私のお茶を頼んだのだけれど?」
 ビーティはアールグレイの入ったティーポットと、暖められたティーカップを二つをワゴンに乗せて持ってきました。焼き直したスコーンとジャムも一緒に。
「いいではありませんか。私もたまにはいただいたって」
 彼女は茶目っ気のある声で答えました。紅茶を注いで、私の隣に腰掛けます。
「本当に旦那様の最期を見送らなくてよいのですか?」
「いいのよ。あの人の顔なんて見飽きたわ」
 私は紅茶に砂糖をスプーン一杯入れて口に含みました。ビーティも真似してティーカップに口をつけます。
「五十年。半世紀よ。半世紀もあの人と、キャスと一緒に居たの」
「長かったですか?」とビーティが尋ねます。
「そうね……飽きるほど長くもあったし、あっけないほど短かった」
 そうでしたか、とビーティはスコーンをちぎって私に渡しました。口に放り込むと甘さと塩気が私の中に波を作り――。
「キャスはすぐ女に色目を使うし、酷いときには浮気もしょっちゅうだった。服も脱ぎっぱなしでソファにかけるし、仕事ばかりなのか飲み歩いているのか帰りはいつも遅くて。ほんと、酷い人だった」
 でも、とビーティは続ける。
「キャス様のことが好きだった」
「誰があんな人のこと」という言葉は尻すぼみになっていた。
「あんな人、私なんか……」
「私は見ていましたよ。半世紀前から」
 私はティーカップを膝に下ろしていました。
「アレシアがいつもキャス様のことで悩んで、その度に私に泣きついて。本当に世話の焼けるお嬢様でした」
 もうお嬢様、なんて歳でもないでしょう。と私は彼女の髪を撫でました。
「私、幸せだった。素敵な娘に息子に孫。たくさんの家族に囲まれて。でもそれもキャスがいたから」
「キャス様に素敵なものをたくさん貰いましたよね」
「ええ、そうね」
 二人でよく一緒に旅をしたし、仕事の帰りにサプライズで薔薇の花束を貰ったわ。喧嘩をした夜は背中を向けて寝たけれど、目が覚めたら抱き合ってキスをして……。
「本当に、アレシアは昔から素直じゃないわね」
「ビーティが甘やかすからよ」
「またそうやって人のせいにして」
 ビーティは私が五歳のときに親に買い与えられた奴隷の娘だった。今はそんな風習はないけれど、ビーティは私にとって。
「ねえビーティ。奴隷解放運動のとき、何故私から離れなかったの? 結婚もしないで私の家から出ることもなくて」
 ビーティはティーカップを下ろして微笑んだ。
「私がアレシアのことが好きだったから、じゃいけない?」
 私はきっと、とても間抜けな顔をしていたでしょう。
「アレシアがいる世界が私のすべてだったの。五歳でアレシアに売られてからずっと。お世話をすることが楽しくてしょうがなかったのよ」
 彼女の微笑みは私に買い与えられた五歳、共に青春時代を過ごした十五歳、初めての子供が生まれた二十五歳、子育てに悩んだ三十五歳、人生に不安を覚えた四十五歳、初孫の可愛らしさに人生の喜びを見出した五十五歳、そして夫を失った六十五歳。ずっと、ずっと私はビーティと一緒にいました。いつもビーティは優しく、そして私と一緒に歳を重ねました。
「キャスなんかより、貴女の方が私のことをよく知っているのかもね」
「僭越ながら、私も同意します」
 私たちは顔を見合わせて、クスリと笑いました。
「ねえビーティ、貴女まで私をおいていかないでね」
 冗談のつもりの言葉が、どこか悲しげな色を帯びていました。
 それは私たちの死が、すぐそばにあると私たちは知っているから。
「おいていきませんよ。私の生まれてきた意味は、お嬢様のそばにいつまでもいることですから」
「だからその『お嬢様』っていうのはやめなさい。こんなおばあさんに恥ずかしいじゃない」
「アレシアは私にとって永遠のお嬢様ですよ。わがままで、素直じゃなくて、恥ずかしがり屋な私のお嬢様」
 分かったような口をきいて、と私は少し冷めたアールグレイで乾いた口を濡らします。
「貴女様だけのビーティです。それだけは、この命をもって誓います」
 彼女は跪いて私の手を握りました。五十年の愛がそこには有って。
「私、少しぐらい悲しんだ方がいいのかしら」
「旦那様に怒られますね」
 私たちは顔を見合わせてまた笑う。五十年前と同じ、二人の少女の微笑みがありました。

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nameless color『さようなら、ビタースウィート』

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 赤ちゃんみたいな小麦粉の香り。バターと砂糖が焼ける香ばしさ。甘いミルクとクリームをかき混ぜる音色にテンパリングされたチョコレートの光沢。それらは人を幸せにするものだ。

「はぁ……」

 色とりどりのケーキと洋菓子が並ぶショーケース。そこに片手を置いている私の口から吐き出された、抹茶みたいな苦い溜め息。もう何度目なのか私にも分からない。ただ思い出すだけで心臓がギュッと掴まれたように苦しくて、喜びと同時に喜んでしまった私の愚かさに呆れてしまう。あれはただのままごとなのに。

「胡桃ちゃん、さっきから大丈夫?」

 私の隣でバースディケーキを客に渡して見送ったパートの矢城さんに耳打ちされる。矢城さんは私よりずっと素敵なお姉さんだ。チョコレートオランジュとワインが似合いそうな大人の女性だが、これで小学生の息子がいることに誰もが驚くだろう。

「すみません、なんでもないんです」

 私はスカートから覗く太ももをつねる。今はバイト中なのだから、私情で上の空になっているわけにはいかない。それでも、

「はぁ……」

 これは大丈夫じゃないわね、と矢城さんに苦笑いをされた。苦笑いまで素敵なんてずるい。

「もうすぐバレンタインね。胡桃ちゃん、重政くんにチョコレートはあげるの?」

 今、一番聞きたくなかった彼氏の名前。

「シゲちゃんには手作りであげますよ」

「へぇ、素敵ね。仲良しなようでよかったわ」

 矢城さんは私の浮かない顔に察したのか、これ以上何も言わなかった。

『胡桃のことが、好きよ』

 頭の中で反芻される少し低い少女の声。

 舞依、本当だと言わないで。

 

 エプロンから高校の制服に着替えて帰途につく。燃え尽きる今日を見上げて、私はまた一つ、白い息を吐いた。

 短い髪から見え隠れする舞依の夕焼けみたいに真っ赤な耳を思い出す。震える声で。潤んだ瞳で。嘘だと分かっているけれど、私はどうしてか忘れることができないのだ。

 ことの始まりは、友人の早智の一言だった。

「胡桃って、どんな女の子がタイプなの?」

 私は男の子と女の子が恋愛対象だ。そのことは友人たちの間では周知の事実となっている。実際にシゲちゃんと付き合う前は女の子の恋人がいた。だからといって何か不便とか特別とかは感じたことは無い。ただどちらも魅力的に感じるだけだ。

 私がそんなの分からないというと、横に居た由美子が「じゃあこの中で誰が一番好み?」と言い出したのだ。友人なのだからそんな目で見たことはない。というと、早智は調子よく「じゃあ私たち、胡桃に告白するよ」と言い出した。性に興味津々な女子高生の好奇心だろう。本当に馬鹿馬鹿しく楽しいことだ。

 一人目、言い出しっぺの早智。長い髪を耳にかけ、上目遣いで愛を囁く。なんとも手慣れている。すぐ彼氏が変わるだけのことはあった。

 二人目、巻き込まれた詩織。何故か漫画みたいな男口調。ボーイズラブの読みすぎ。

 三人目、ノリノリの由美子。私の手を握って瞳を潤ませた。私が四十代の男性なら落ちていただろう。

 そして四人目、こちらも巻き込まれただけの舞依だった。

 舞依は私の目の前に立つと何度か私の顔を見て、横を向くと小さく唇を動かした。そして恥じらいを吹き飛ばすように大きな声で「無理無理、恥ずかしいよ」と被りを振った。ショートカットの黒髪が揺れて、制汗剤の石鹸の香りがした。

「それで誰がいいの?」と聞かれても私は答えることはなかった。だって誰も友達としか思えなかった。そのはずだったのに。

 瞼の裏で何度も繰り返される、舞依の告白。でもダメだ。私にはシゲちゃんがいるのに。

 冬の空は静かに暮れて、ペールブルーのスクリーンにひとつ、星が灯った。

 

 翌日、私は校舎の四階にある音楽準備室から運動場を眺めていた。冬の晴れ間は空に熱が逃げて一段と冷え込む。それなのにひざ上のジャージで外周を走る女子バレー部の一団にご苦労様、と私は口の中で呟いた。

「胡桃、何しているの」

 振り返ると楽譜ファイルを脇に挟んでフルートを握りしめるシゲちゃんがいた。長めの前髪から覗く瞳の熱に私はいつも嬉しくなってしまう。

「部活中は胡桃センパイでしょ? シゲちゃん」

「そのシゲちゃんっていうの、やめてください」

 唇を尖らせるシゲちゃんの頭を三回撫でると、私はもう一度窓から女子バレー部の一団を、先頭で掛け声をして走る舞依の姿を見てからクラリネットの準備に取りかかった。

 

「先輩、今日ってバイト休みですよね」

 シゲちゃんがそう切り出したのは、それから数日後の部活のない帰り道だった。

「休みだけど、なんで?」

 夕焼けよりも紅いシゲちゃんの首筋が詰襟から覗く。いつもより熱い瞳が眉間の寄った眉の下で静かに輝いている。

「今日、俺の家、誰もいないから、来ませんか?」

 それがどういう意味なのか、少しだけ子供ではなくなってしまった私には容易に分かってしまい、足が止まる。いつかそんな日は来るのだろうと分かっていたけれど、それが今日だっただけだ。

 少しだけ考えて、私は答える。

「いいよ、シゲちゃん」

 その行為はあっけないものだった。

 いつもより熱いシゲちゃんの身体が私を覆って、たくさんの口付けをくれた。初めて見た男性のシンボルは思ったより可愛らしくて、触れると私の体のどこにもない質感に感動した。

 私を引き裂く痛みに涙を零したけれど、由美子が言ったように大事にしておきたかったとか、早智が言うように虚しいとも思わなかった。ただ私はこの人のものになったのだと、漠然と感じた。

「ごめん胡桃、痛かったでしょ」

 狭いシングルベッドで汗だくになったシゲちゃんと寝転んだ。シゲちゃんは暑いと言うが、私はお腹が冷えてたまらなかった。電気ストーブの熱を背中に感じながら「平気だよ」と答える。

「胡桃のこと、一生大事にするから」

 冷えた足の指先を絡ませて、シゲちゃんは私を抱きしめる。愚かな私は、その言葉に喜んでしまった。

 

 あっけないと思っていても、身体への負荷は大きかった。若干の蟹股で登校した私は早速早智にのど飴を渡された。

「おめでとさん」

 大学生の彼氏がいる由美子には貼るカイロを貰った。下腹部に貼ると程よく気持ちいい。

 高校生なんてこんなものなのだろうか、というほど皆あっさりしていて誰も何も訊いてこなかった。

 しかし舞依だけは、私の首に残された痣を見るなり、挨拶もほどほどに自分の席へと行ってしまった。

「ねえ、胡桃」

 お弁当を食べ終わった昼休みの余暇。舞依は私を廊下に呼び出した。

「どうしたの、舞依」

 舞依の顔はまるで世界の終わりを見ているように青ざめていて、切れ長の瞳は今にも冷たい涙を落としそうだった。

「ごめん、何も聞かないで」

 そう小さな声で言うと、舞依は私を正面から抱きしめた。背の高い舞依の胸に私の頭はすっぽりと包み込まれる。

 舞依の筋肉質だけれどシゲちゃんとは違う女の子の柔らかい身体に、私はどぎまぎする。そして、あの言葉を思い出す。

『胡桃、好きよ』

 あれがもし本当だとしたら、おままごとではなく、本当の愛の言葉だとしたら。私はどうしたらいいのだろう。本当であってと願ってしまった私は、残酷な答えしかだせないのだろうか。

 どうしよう。私は舞依のことが好きみたいだ。

「胡桃!」

 誰かの手によって私は舞依から引きはがされる。振り返るとシゲちゃんの姿があった。

「シゲちゃん、何」

「何って、人の彼女を勝手に抱きしめるなんておかしいです」

 吠えるシゲちゃんに私は怒る。

「シゲちゃん、私たち女の子同士だよ? こんなに悲しい顔をしている友達を放っておける方がおかしいよ」

「胡桃先輩は『女の子同士』が通用しません。そのことは先輩が一番よく分かっているでしょ?」

 最も言われたくなかった言葉に一瞬時が止まる。そして私も吠えていた。

「いくら私がバイセクシャルだからって誰でもいいみたいに言わないでよ、シゲちゃんの馬鹿!」

 私は悔しさで涙をぼろぼろ流した。一番分かってほしかった彼に届かない私の本質。でも何より、誰でもいいわけではなく舞依のことを好きだと自覚してしまった私を隠すように私は泣いた。泣き出してしまった私の手を舞依は取ると、シゲちゃんを一目睨んで教室へ私を連れていった。

 

「それで、重政くんとは連絡取っていないの?」

 バイト先の洋菓子店で矢城さんに酷い顔だとハンカチを渡されて、私は洗いざらい話してしまった。友達とのスキンシップも許されないなんておかしいと私はまた泣いた。そして誰にも言うつもりもなかった舞依への想いを言ってしまった。

「もう連絡取りたくないです。あんな分からず屋知りません」

「じゃあ新しくできた好きな人のところへ行くの?」

「それは……舞依のことは好きだけど、舞依は友達だから」

 矢城さんは私が話し終わるのをじっくりと待ってくれる。

「舞依は友達で、シゲちゃんは恋人です。シゲちゃんを裏切るなんてできません。それに、怖いです」

「何が、怖いのかな?」

 矢城さんのチョコレート色の瞳が私の瞳を覗く。

「両方を失うのが、怖いです」

 よく言えたね、と矢城さんは柔和な笑みとレモン味の飴をくれた。

「私はね、そんな弱い心も分かるわ。もし私が高校生だったら怖くて新たな関係に踏み出せないかもしれない。それでも、先に両想いになった人と付き合わなきゃいけないなんてルールはないのよ。今は仮契約の時期なのだから、今、好きな人を私なら選ぶわ」

 そんな勇気、私にはない。これが幼さというものなのだろうと私は悔しくなった。

「明日はバレンタインデーよ、忙しくなるわ」

 そう言うと矢城さんは準備室を出てレジの前に向かった。

 取り残された私はポケットに飴玉を押し込むと、太ももをつねって持ち場へ向かう。私が言葉を失ったのは、それから三十分後のことだった。

 

「いらっしゃいませ」

 訪れた女性客の姿をあまりよく見ずに頭を下げる。細く長い脚が黒タイツに包まれている。多分女子高生だ。すっと顔を上げると、ショートカットの少女。

「舞依?」

「あれ、胡桃?」

 どうしてこんな巡りあわせが起きてしまうのだろう。もし神がいるのならば私は神を恨むだろう。

「ここ、胡桃のバイト先だったのね」

 私も舞依も目を合わせようとしなかった。繕うようにちぐはぐな会話を三言ほど交わす。

「これ一箱ください」

 舞依が指したのはフレーバーチョコレートが六粒入った小さな箱だった。

 誰にあげるの? 舞依に好きな人がいるの? それとも隠しているだけで恋人がいるの?

 私の頭に言葉があふれて目の前が真っ暗になりそうだった。

「千八十円になります」

 事務的にレジを済ませると、舞依は私の耳元でこう言った。

「みんなには内緒ね」

 

 いつもよりぬるめの湯船で、私はぼんやりと考える。

 舞依はチョコレートを一箱だけ買っていった。みんなで分けられる量じゃないからきっと一人にあげるんだ。じゃあ、その相手は?

 湯船にできる水文を見つめる。丸く広がる舞依への想い。そしてぶつかるシゲちゃんへの想い。ぶつかっては消えて、どちらのものか分からない波が生まれる。

 一途に愛することがこんなに難しいなんて知らなかった。自然に惹かれあって、他の誰にも目がいかないものだと思っていた。

 矢城さんに言われた「仮契約」の言葉。そんなことは分からない。今、好きな人は誰なのだろう。

 男だから好きだとか、女だから好きだとか、そういうものは私にはない。でもシゲちゃんは自分が男であることをどこか引け目に感じているのだろう。

「シゲちゃんを裏切るなんてできないよ」

 水文は広がる。私の眼下に。

 

「ハッピーバレンタイン!」

 昼休み、私は心の中にごろごろする石を抱えたままそのときを迎えた。いつもの私たちは手作りのチョコレートを各々タッパーに入れて振る舞った。もちろんお弁当は少なめだ。

 早智はチョコブラウニー、詩織はココア生地のクッキー、由美子には「本命じゃなくてゴメンネ」という要らないコメント付きでトリュフをもらった。どれもそれなりに美味しい。それぞれが本命の相手にあげるために作った試作品をこうやって交換し合うのだ。そして舞依は、毎年食べる専門だった。

「舞依は去年も作らなかったよね」

 由美子はブラウニーを食べながらそう切り出す。

「私、料理とか苦手だから」

「そんなこと言っていると男捕まえられないわよ」

 由美子の指摘に舞依は目を泳がせ、私の方をちらりと見ると、一瞬で頬を染めて下を向いた。刹那、あのチョコレートの行方を私は思う。

「由美子、舞依が困っちゃったじゃないの。いいのよ、私たちいつも作りすぎて余らせるんだから」

 詩織の言葉に早智がうんうんと頷く。

「胡桃は何を作ったの?」

 早智が私のブレザーの裾を引っ張る。

「私は生チョコを作ったよ」

 百円均一で買ったカラフルな柄のアルミホイルで一粒ずつ包んだチョコレート。固いチョコレートの中に生クリームをたっぷり入れたとろける生チョコレートを入れた私オリジナルのレシピだ。

 一口放り込んだ由美子が「なにこれうまっ」と目を大きくして呟く。

「外はカリッと中はとろり。すごい」

「これ本当に手作り?」

 早智と詩織も同様に賛辞を述べる。

 そして私たちの輪から少し離れていた舞依に一粒のチョコレートを渡す。

 カリッ。

「美味しい。美味しいよ、胡桃」

 花が咲いたように笑う舞依。その顔を見られただけで、私はなぜだかもう満足してしまった。

「なになに、なんで真っ赤になってるの、胡桃」

「なってないもん」

 好きな人に喜んでもらえた。その思い出だけで臆病者の私は十分だった。

「こんな美味しいチョコをもらえるシゲちゃんも幸せ者だね」

「ふふふ、そうでしょ」

「あれ? 仲直りしたの?」

「うん、これから謝ってくる」

 甘い香りのお菓子たち。それは人々を幸せにするものだ。そう信じていたけれど、私はチョコレートに一喜一憂させられた。舞依も誰かにきっとチョコレートをあげて泣いたり喜んだりするんだ。

 ありがとう舞依。さようなら、私の苦くて甘い恋心。

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nameless color『夜が聴こえる』

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 僕はシャボン玉の中にいた。世界は膜の向こうで揺らめいて、僕は触れることができない。

 広間のテレビでは誰がつけたでもなく、淡々とニュースが読み上げられている。大型トラックと軽自動車が出合い頭に衝突。軽自動車に乗っていた若い男性が亡くなったという。

「あらぁ、可哀想にねぇ」

 僕の後ろで同じテレビを見ていた中年の女性が声を漏らす。たっぷりと脂肪の付いた丸い手で口を押え、さも悲しそうに同じテレビを見つめていた。あの婦人は僕より後にこの病棟へやってきた。この病棟では比較的若い僕に対しても「若いのに大変ね」と同情の言葉を投げかけた。

 どうして、知りもしない人に同情するのだろう。

「ほんと、勝手だよね」

 全くだ、と僕は返事をする。婦人がぎょっとした目で僕を見る。何がそんなにおかしいのだろうか。

 テレビが芸能ニュースに変わる。有名女優のゴシップにほんの少しも興味が持てなかった。コメンテーターは呆れと怒りを含んだ言葉を口にするが、知り合いでもないのに何故そんな図々しいことが言えるのだろう。

 後ろにいた女性は短い爪を噛んでテレビを見つめていた。でっぷりと贅肉が垂れた頬が揺れる。目に正気のない老いたブルドッグのようだ。

「清純派女優が四股だってさ。さながら肉便器じゃないか」

「恋した人がたまたま四人いただけだろ?」

「恋しても、愛されてセックスしたとは限らないさ」

 ヨルが低い声で嗤う。僕は興味ないのだが、この手の話をヨルは好むのだと最近知った。

「ねぇお兄さん、誰と話してるの?」

 後ろの女性が僕の肩を掴んだ。黙って濁った彼女の目を見つめると、女性は「変なのが聴こえるなら看護士さん呼ぼうか?」とこの病棟の半数の人のように言う。残りの半数は自分が何者かも分からなくなってしまった人たちだ。

「変なものは聴こえていない。ただヨルと話していただけだ」

「それが変だというのよ。おばさん、呼んできてあげるから座っていなさい」

 お腹と頬の贅肉を揺らして彼女はナースステーションへ行ってしまった。テレビでは政治家の汚職事件について、僕にはよく分からない人たちが辞職してほしいという旨をやんわりと棘を持って語っていた。

 

 看護士は中庭に逃げた僕を見つけると、臭い液体を飲ませようとした。暴れると隔離室に入れられると知っている僕は黙ってそれを飲む。舌が焼けるような苦みに顔をしかめると、看護士は紙コップに入った水をくれた。水が甘いなんておかしなことだ。

 この中庭は第八病棟と第九病棟の間にある小さな公園だ。四方を病棟の高い壁に囲まれ、外に出ることは一切できない。病棟の消えない排泄物と消毒の臭いから解放され、四角い小さな空が毎日模様を変えるのを眺めることができる。唯一僕が人間だと思いださせてくれる空間だ。

 腐りかけた木のベンチに頭を預けて空を見る。今日は雲一つない晴れだ。青くペンキで塗り潰された天井が増設されただけかもしれない。誰もここから逃げられはしないのに。

「お兄ちゃん、何してるの?」

 幼い声に頭を起こすと、青いワンピース姿の少女がいた。スカートの裾からのぞく膝はまるで棒きれみたいに肉感がなかった。

「お兄ちゃんって、僕?」

「そう、お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ」

 少女は僕に近寄ると、僕の膝に座り、手を握った。尻も指も腕も、一切の肉も脂肪もなかった。

「お兄ちゃん、いつもここにいるの?」

「うん。たまにね。あと、僕は君のお兄ちゃんじゃないよ」

「ううん、お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ」

 きっとこの少女も他の患者と違い無く、意志の疎通ができない人だと気付いた。

「名前はなんていうの? ここで会うのは初めてだよね」

「あたしアカツキっていうの。お兄ちゃんはシンヤお兄ちゃんだよね」

 アカツキと名乗った少女が僕の本名を知っていたことに驚く。小さな顔に不釣り合いな大きな瞳を、少女は煌めかせた。

「アカツキちゃんは、いつからこの病棟にいるの?」

「わかんない。お空を飛んだと思ったら小さな檻の中に閉じ込められてて、もうすぐ食べられるのかと思ったらここにいたの。お兄ちゃん、ここは病院なの?」

「ここは病院だよ。大きな総合病院の一番端に作られた第八病棟と第九病棟。第八病棟は世界に疲れた人の安息地で、第九病棟は一度入ると出られない世界の果てだよ」

「あたしは、どっちなんだろう」

 アカツキは瞳を潤ませ、僕に問いかけた。長い睫毛の先がキラキラ光って、彼女の呼吸で揺らめく。

「知らないのなら、知らない方がいい。その方が希望も絶望もしないから」

 僕は初めて彼女の頭を撫でた。細い白髪交じりの髪が、彼女の若さと心労を物語っていた。

 

「お前が幼女好きの変態野郎とは思わなかったぜ」

 広間で夕食を済ませ、個室の固いマットレスだけのベッドに横になると、ヨルが下種な笑い声を上げた。

「勝手に向こうが話しかけてきただけだ」

「膝に乗せて可愛がって、さぞ嬉しかっただろうに」

「僕はなんとも思わないよ。でもあの子、広間にいなかった」

 と、言うことは、アカツキは第八病棟だな。とヨルが言う。

 僕は一生ここから出られない。餌を与えられ、よく分からない薬を飲まされ、悪さをすれば隔離室に入れられる。そんな生活をもう三ヶ月続けている。

「オレたち、もう三ヶ月もここにいるのか」

「ヨルが僕のところにやってきて三ヶ月だからな」

 三か月前、僕は第一病棟にいた。ここよりずっと清潔で、もっと消毒液の臭いが酷くて、人が死ぬ場所だった。

 僕は生まれつき心臓が悪かった。父は治療費を稼ぎに働き、母は病室に寝泊まりして僕の看病をした。そんな生活が何年も続いた末に、僕は運よくドナーが見つかり、心臓移植を受けることになった。そして『ヨル』が生まれた。

 容体が安定して第九病棟に移されてからは、両親は僕に会わなくなった。愛しい息子が可笑しくなったと母はヒステリックに泣いた。何も可笑しくないのに。ただヨルと一緒に居るだけなのに。どうして泣くのか、僕には分からなかった。

「お前の頭が可笑しいから母さんはお前を見捨てたんだ」

「僕の頭が可笑しいから母は僕を見捨てた」

 悲しくともなんともなかった。僕はシャボン玉の中にいる。僕の感情は僕のモノではなかった。

 

 無味な朝食をホールで済ませ、僕は中庭に出た。

 今日は曇り。明るいグレーが目に眩しくて、見上げることをやめた。

 狭い中庭はレンガが敷き詰められており、隙間から細い草が日の光を求めて伸びている。こんな世界の果てでも草は伸びるのだと僕は笑った。腐りかけたベンチの横には落葉樹が一本、まっすぐに立っている。一体何人もの人がここで命を絶ったのだろう。赤い葉を落とす木の影が薄暗い陽射しに揺れて死神の微笑みのようだった。

「お兄ちゃん、今日も会えた」

 アカツキと名乗った少女が重い鉄の扉を両手で押し開けていた。今にも折れそうな腕でうまく隙間を作り、身体を滑り込ませて世界の外でも中でもない隔絶された「庭」にやってくる。今日は落葉樹の葉の色にそっくりな紅いワンピースだ。

「お兄ちゃん、今日は一人なの?」

 アカツキは小走りでベンチの横に立つ。ペンキの禿げたこのベンチでは彼女の柔肌を傷付けるだろう。僕は少女の問いかけにどう答えるべきか考えあぐねる。

「この前も、一人だった。でも昨日は二人だったよね」

「そうだね、今日は一人みたい。お薬飲まされちゃったから出て来られないんじゃないかな」

「そっか、残念。お兄ちゃんたちがもっと話しているところを見たかった」

 アカツキは僕の左腕を両手で抱きしめた。体温の高い、子供の温もりだ。

「お兄ちゃんたちは、いつから一緒にいるの?」

「少し前に僕が心臓の手術をしてからだよ。どうして一緒にいるのかはよく分からない」

 ふーん、とだけアカツキは返事をする。

「僕はもう僕じゃないんだ。僕の中には違う人の心臓が入っている。僕を生かしているのは知りもしない他人。それがたまにとてつもなく嫌になる」

 僕は淡々と語った。上空でびゅーっと風が流れる音がするが、中庭の落葉樹は揺れもしない。

「じゃあお兄ちゃんは、心臓とお話しているんだね」

 アカツキが僕の膝に座り、胸に耳を押し当てた。どくり、どくりと体内で反芻される音はやはり他人じみていて好きにはなれなかった。

 すると、突然アカツキがしゃくりあげるように泣き始めた。大粒の涙は止まらない。「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と繰り返す獣のような声は僕の耳を引き裂く。息が荒い。身体が震える。助けを呼ばなくてはいけないと分かっているのに僕の体はびくりとも動かなかった。

 少女は固いレンガの上に崩れると、口から血の混じった朝食を何度も吐きだした。

 やっと、僕は扉をあけると、誰か、と叫んだ。

 

 それから何日か、秋雨の日が続いた。病室の一センチしか開かない窓を開けて、煙っぽい雨の臭いにうたた寝をしていた。

「あの子に会えなくて欲求不満か?」

 ヨルが厭味ったらしく話しかける。

「そんなんじゃない」

 シーツのないベッドの上で僕は寝返りを打つ。視線の先はすりガラスのスリットが入った廊下に続く扉がある。スリットからの人工的な光りと厚い雲から透ける陽射しだけがこの部屋を照らしていた。廊下の先から言語として意味をなさないうめき声が聞こえる。

「あの子が生きているか気にしているんだろ?」

 ヨルの声が脳内でエコーがかかったように反芻される。耳を塞いでもうめき声が遠くなるだけで、ヨルの声と僕の心音だけがはっきりと聞こえる。

「僕は誰がどうなっても知らないよ」

「じゃあなんでおったててるんだ?」

 触ると、僕のスエット生地の緩いパンツが熱を持った僕に押し広げられている。まだ完全とは言えないけれど、確かに芯を持っている。

「分からないよ。生理現象だろ?」

「嘘をつくな、オレはお前のことをなんでも知っている。アカツキとやらに欲情している」

「そんなことない」

「触れたいと、知りたいと、感情を動かしたいと思っている」

「やめろ」

「何も感じない振りをして傷付くのを恐れている」

 もうやめてくれ、と喉が裂ける様な大声で叫んだ。聞きつけた看護士に注射を打たれると、ヨルは姿を消した。

 

 数日の間、僕は寝たきりで過ごした。クスリの副作用で視界が時計回りに渦を巻いて、目を閉じると中心に落ちる。それを繰り返す度に僕の世界が本当は幻想なのではないかと思うようになった。

 クスリに慣れてなんとか歩けるようになった僕は、やはり病棟の鳴き声と臭いから逃げるように中庭に出た。排水の悪いレンガの床はところどころ濡れて一段濃い色味で模様を描いている。濡れた枯れ葉の腐る匂いを胸いっぱいに吸い込むと、少しだけ体が軽くなるような心地だった。

「お兄ちゃん」

 ベンチの上に出会った日と同じ青いワンピース姿のアカツキがいた。以前より少しばかり肉付きが良くなった気がする。細い髪を揺らして僕に駆け寄り抱き付く。少女の甘い香りだ。

「あたしね、退院することになったの」

「へぇ……いつ?」

「明日よ」

 震える腕で僕を抱きしめるこの少女が喜んでいるのか悲しんでいるのか僕には分からなかった。それでも僕は目の奥が重くなるような悲しさが頭を埋めた。

「それでね、お兄ちゃんに話さなきゃいけないことがあるの」

 アカツキが僕をベンチに座らせると、ゆっくりと話し始めた。

「あたしにはね、お兄ちゃんがいたの。名前はレイジ。でもね、交通事故で死んじゃった。あたしは悲しみできっとどうにかしていたんだわ。ご飯を食べなかったし、最後にはマンションから飛び降りた。だからここに入ったのね」

 この病棟じゃよくある話だ。それなのに、喉の奥が熱く痛く、頭の奥がツーンとするような感覚に襲われる。

「それでね、レイジお兄ちゃんの心臓はシンヤお兄ちゃんの中にいるんだよ」

 震える声で、絞り出すように問う。

「どうして分かるんだい?」

「あたしにそう聴こえたからよ。お兄ちゃんはまだここで生きている」

 僕は瞳から雫を落とした。耳が熱を持って、息が苦しくて、でも悲しいものが全部押し流されるようで。

「お兄ちゃんたち、今までありがとう」

 アカツキは僕の胸に頬を寄せると、僕の伸びきった髪に指を通した。

「アカツキちゃん、今までつらかったね。よく頑張ってきたね」

 声を上げて泣いた。ほんの少しだけ肉の付いた身体を強く抱きしめ、肩にたくさんの涙を落とす。

「泣かないで、お兄ちゃん。でも、ありがとう」

 僕のシャボン玉は割れた。水滴がキラキラと舞って、世界は僕に触れる。

「お兄ちゃんが退院するの、待ってるね」

「ありがとう、ありがとう」

 真四角の中庭の外で、またいつか。

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nameless color『造花の花は芽吹かない』

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 オレたちにはそれぞれ彼女がいる。

 オレ、美景(みかげ)の彼女は巴月(はづき)。寂しがり屋で可愛い奴。

 そして親友の颯(はやて)には華ちゃんというしっかり者の彼女だ。

 お互いの大切な人。それは決まりきったこと。

 

 造花の種は芽吹かない。

 

「お邪魔しまぁす」

 颯の間延びした決まり文句にオレもつられて「いらっしゃぁい」と出迎える。男の一人暮らしのアパートにそんな気配りも不要だ。オレと颯は目を合わせない。恥じらいを隠す緊張が思考を止める。止まった頭から出てくる言葉はいつもの型にはまったやりとりだ。

「今日寒かっただろ」

「うん、寒くて指先が冷たいよぉ。図書館でレポート書いていたんだけど、全然暖房ついてないの。明日は、雪かなぁ」

「颯が言うなら雪だよ」

 そうかなぁ、なんて颯はぎこちなく笑う。颯はオレの高校の同級生で、こんなにのんびりした空気の持ち主、悪く言えばどんくさいのに勉強だけはやたらできて、今は国立大学の農学部の二年生。実家は農家らしく、幼いころは野山を駆けまわり、畑仕事を手伝い、家畜の世話をする。今じゃ想像できないが、ザ・野生児な少年だったそうだ。それが由来なのかは分からないが、颯の天気予報はよく当たる。だから颯が言うのなら明日は雪だ。

「風呂、入るだろ?」

 頷く颯がびくり、と身体を固くするのが分かった。風呂場へ向かおうとすると、まってまって、と靴を脱いだ颯がついてくる。

「僕、入浴剤持ってきた。なんかねぇ、泡立つやつ」

 颯が重そうなトートバックから取り出した紙袋にはこぶし大の練り物が入っていた。紙袋のロゴを見るに近頃流行りのオーガニック百パーセントのバスグッズで、練り物はピンク色でビニール袋に入っているのに甘ったるい香りが漏れている。なんともお洒落女子が好みそうなチョイスだ。

「これを砕いてお風呂に入れてからお湯を入れるんだってお店のお姉さんが言ってたぁ」

 そうか、と受け取るとビニール袋の上から入浴剤を軽く押し砕く。甘いバニラとイランイランの香りがいっそう部屋の中に広がった。

 蛇口をひねると服をさっさと脱ぎ捨てる。男同士で意識することもないのだが、オレたちは思いだすものがあって気恥ずかしかった。そもそもなんで男二人が一緒に風呂に入るのかと問う人もいるだろう。颯も同じなのかオレの方は見ないで黙々と服を脱いでは洗濯機の上に畳んで置いた。

 

「うひょっ、ちべたい」

 先に浴槽に足を入れた颯が身を固くする。

「あれ、お湯ぬるかった?」

「ううん、最初は冷たいんだけど、中はあったかいよぉ」

 どういうことかとオレも足を入れてみる。お湯はあったかい。なるほど、泡が冷たいんだ。

 両足で湯船に入ると、せーの、でしゃがむ。

「うひーっ、美景冷たい」

「うう、これはさっぶい」

 しゅわしゅわと冬の冷たい空気を含んだ泡が、乾いた身体に触れて弾ける。奇妙な感覚にオレらは二人で顔を見合わせてケラケラと笑った。

「冬に泡風呂はしんどいものがあるな」

 横に並んで膝を抱えてギリギリの狭いお風呂。触れる肌の感覚に不安と興奮と安堵が混ざり合った気持ち悪い感情が湧きおこる。

「でも楽しいでしょ? ぽふぽふするし」

 全身泡まみれの颯が、泡を息で飛ばして遊ぶ。小さなシャボン玉が虹を閉じ込めた雪のようにきらきらと舞った。

「うん、悪くない。華ちゃんとはもう入ったの?」

「ううん。華は一緒にお風呂とか恥ずかしいんだってぇ。折角綺麗なのに明るいのは嫌なんだってさー」

「明るいのを嫌がる女の子っているよな。どっちにしろ、見えるのに。巴月は平気みたい。今度泡風呂入ってみようかな。寒いから春になったらね」

「かなり先だねぇ。まだ年も明けてないのに」

「それまで一緒にいるさ。巴月は最高の彼女だからな」

 出たよ、美景の惚気。と颯が笑いながら小脇を肘でつついてくる。やめろよ、とくすぐったさに暴れると泡が湯に乗って湯船から流れ落ちる。そのとき、尻で何か固いものを踏みつけた。溶け残った入浴剤かと思って手に取ってみると、透明なキラキラした石だった。二人でオレの手の中の石を見つめる。

「何これ」

「んーと、水晶の胡桃?」

「じゃなくて、入浴剤に異物混入?」

「そういえば、アタリには宝石が入ってるってお店のお姉さんが言ってた気がする」

「じゃあこれはアタリなのか」

「美景、よかったね」

 ふふっ、と笑う颯と目が合う。やっと顔を見た気がする。颯は彼の言動がそっくり似合うような優しい顔立ちをしていて、高校を卒業してから染めたキャラメル色の髪が可愛らしかった。

「なぁに、美景」

 視線を逸らさず颯が微笑む。

「いや、相変わらず可愛いなと思って」

「それ、普通の男の子は喜ばないよ? 僕は嬉しいけど」

「さすが両刀使いは違いますね」

「バイセクシャルと言いなさい。イケメンに褒められたら嬉しいの。それに、美景もでしょ?」

「オレは別に違うよ。多分」

「ようこそ、こちらの世界へ」

 颯が大きく腕を広げてオレに抱き付く。入浴剤でしっとりとした肌が吸いついて気持ちがいい。

 なんであんなことしちゃったかね、とオレは抱き付かれながら溜め息を吐いた。

 ことの始まりは先月のまだ暖かい日のことだった。高校の級友だった颯に、久しぶりに飯でも行こうと誘ったのだが、当日、颯は熱を出していた。そのくせに断りもせずファミレスにやってきた颯は案の定ダウン。電車で帰すわけにもいかず一日オレの家に泊めたのだ。そしてどうしてかしてしまったのだ、セックスを。

「オレ、最悪な奴かもしれん」

「美景、巴月ちゃんに酷いことでもしたの?」

「彼女に隠れて友達とやった時点で酷いだろ」

「巴月ちゃん可哀想」

「お前も加害者だぞ、それ。颯こそ華ちゃんがいるだろ。そうじゃなくて、病人を抱くか普通」

「僕はびっくりしたけど、気持ちよかったからいいやー。イケメン成分吸えたし」

「どこまで能天気なんだか……」

 こめかみを掻くと頭に泡が乗った。耳の中で泡がほどける音がする。

「僕はねぇ、巴月のこと愛しているし、大好きだし、可愛いと思うよ。美景に対するのは全く違う感情で、大切な友人だし、うまく言えないけど違う好きだもん。だからいいの。僕は美景の特別にはならない」

 颯の『特別にはならない』という言葉が胸に引っかかった。じゃあこの関係は普遍的なものなのか。でもそれも当然だ。オレは颯の友達だ。それだけは変わらない。それだけは変えてはならない。

「オレも颯の特別にはならないよ」

 そっと願うように、オレはつぶやいた。

 

 冬のお風呂は出るときがつらいもので、浴室のドアを開けて二人で寒い寒いと騒いだ。そしてバスタオルだけを身に付けて、ワンルームの狭いベッドに雪崩れ込んだ。

「美景ぇ、いい匂いする」

 颯がオレの胸に抱き付く。同じ風呂なのだから当たり前だと言ったが、颯はそれでもいい匂いだと離れなかった。

「あんまりくっつかれるとさ……」

「なぁに、美景。嫌なの?」

「颯、戻れなくなるよ」

 颯は戻れなくていいと身体をオレに預けた。

 オレたちが決めたルールはただ一つ。どんなに身体を重ねても、キスは愛する人にしかしないこと。

 

「はやてくーん。生きてる?」

 冷蔵庫から出したスポーツドリンクのペットボトルを颯の頬に当てると、間抜けな声を出して颯はそれを受け取った。

「美景って用意周到だよねぇ。スケベ」

「オレと一緒に入るために入浴剤を専門店にまで買いに行く颯にだけは言われたくない」

「そっか。あー、足に力入んないよぉ。あと寒い」

 そう言って颯はオレの肩に抱き付く。触れた足先が冷たくて、凍えてしまわないようオレはしっかりと抱きしめた。

「美景の身体あったかい。ふふ」

「そういうのは華ちゃんとしなさい」

「そういう美景だって巴月ちゃんは?」

 お互いの大切な人。どうして求めた体温は彼女たちじゃないんだろう。

「ねぇ美景、『造花の種は芽吹かない』って知ってる?」

 入浴剤から出てきた胡桃の宝石を眺めて颯がつぶやいた。

「そんなの当たり前だろ。作りものなんだから」

「これねぇ、不倫しても報われないって意味なんだって。死んだばぁちゃんが言ってた」

「そんなこと言うばぁちゃん嫌だわ。不倫ね……男子大学生同士で不倫というのもすごい関係だよな」

「お互い『特別』じゃないから不倫にはならないよ。それに僕たちの間には芽吹くどころか何も宿らない。ねぇ、どうして命を宿すことができないんだろう」

 颯があまりにも哀しそうに言うものだから、オレは勘違いしたくなってしまいそうだ。男同士のオレたちが一緒にいたところで何も生まれない。献身的に愛してくれる彼女といるのが一番だと分かっている。それでも。

「颯、キスしていいか?」

「ダメだよぉ、僕たちは恋人じゃないんだから」

「キスしたい」

「じゃあ、一回だけ」

 たった一回のキスで、オレ達の関係は変わるだろうか。

 

「もう戻れないね」

 耳まで赤くする颯を抱きしめる。

「これからどうなるんだろうね」

 日付が変わった午前一時。降り始めた雪に閉ざされた部屋でオレたちは芽吹かない種を握りしめた。

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nameless color『ムラサキ』

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 私は小学六年生の定期検査で、ある診断を下された。

「あなたは、魔法使いです」

 その言葉は私にとって可能性の始まりであり、同時に桎梏となった。

 

 四年後、高校生になった私は、保健体育の座学の授業で「魔法使い」についての話をぼんやりと聞いていた。

 ワイシャツの首元で、まるで首輪のように喉を絞めるリボンを、人差し指で引っ張る。それでも夏の忘れ物のような湿気で息苦しさを感じた。浮足立った教室の空気。ひそひそと物珍しげに語る級友。秋の埃を含んだ冷たい雨の香りが私の居心地をさらに悪くさせた。

 世界には魔法使いと呼ばれる人がいる。私たちが信じている自然科学の法則とは違った視点で世界を知覚し、動き、変化させる力を持つ者のことだ。全世界の人口のおよそ五パーセントほどだと言われていたが、近代社会における魔法士保護法の樹立や魔法使いのための特別教育の開始、そして世界各地にできた魔法使いのための国「魔法士特別自治区」の成立によって認知が進み、現在では人口の七・五パーセントほどが魔法使いだという。学校の四十人クラスに三人ほどは魔法使いなのだ。

 この知識を得たのは中学に入ってからのことだ。人権団体の働きかけによるものなのか、思想の変化によるものなのか、私には分からないが、何度も繰り返し授業で伝えられ、メディアに取り上げられた。こうして私たちの「当たり前」になっていったのだ。

 私が生まれ育ったのは日本最大の魔法士特別自治区である第一区までバスで三十分ほどの閑静な住宅街で、私は魔法使いではない両親から生まれた平凡な女の子である。名前を宮近七海(みやちかななみ)という、あの日まではとても平凡、「普通」の女の子だったのだ。

「魔法使いの血液に含まれる因子の数によって、魔法使いか一般人なのかを判別することができる」

 保健体育の男性教諭の言葉に耳を傾けた。最近、教諭は結婚したらしくて、衣服から甘ったるい柔軟剤の香りがする。洗濯物の香りがその人の家の香りだと私は思う。

「因子の数のことをMo値という。このMo値が高いほど神域――魔法を行使する際に触れる人の精神世界の内側にある世界への影響力が強くなり、結果として魔力は強くなる。そしてMo値が高い者ほど血液の色は『蒼く』なる」

 私が四年前、あの診断を下されたとき、ネットや図書館で嫌というほど調べつくした話であった。血液が蒼くなることにより肌は蒼白くなり、爪は青みを帯びるのだ。

 リボンを緩めようと首にひっかけていた指を見つめてみる。黒いマニキュアで隠された私の爪もほんの少しだけ青い。魔法使いのプライバシー保護のため、校則ではマニキュアを含む化粧は禁じられていない。しかし、お洒落をするのでもなく、きっちり爪の根元まで塗り潰していては、隠しているようで実際は魔法使いであると言っているようなものだ。いや、元の青い爪を隠すことで「魔法使いかもしれないし、違うかもしれない」と曖昧に雲隠れするだけ。隠れることはできても、私の属性――魔法使いであるというアイデンティティは変えることはできない。

 授業を聞くことにも、教室のざわめきにも飽きて、私は秋雨がしとしとと校庭の植木に恵みを注ぐ音に耳を傾けた。私が知りたいのはそんなことじゃない。唇を噛みしめるとムラサキの血の香りがした。

 授業が終わり、教諭が出ていくと、一斉にクラスメイトが大声で話し始めた。こういった授業の後の話なんて大概決まっている。

「あの子魔女っぽくない?」

「お前魔法使いだろ」

「そんな訳ないだろ、気持ち悪い」

 誰が魔法使いで、誰が普通か。そんな悪戯のように語られる魔女狩りだ。

 私は胃に圧し掛かる居心地の悪さに教室を出た。

 

 結局、私は学校を早退してしまった。学校のカビ臭いトイレで何度酸っぱい胃液を吐いても気が済まなかった。

 私は「普通」の中で生きる、と小学六年生にして選択した。

 魔法使いは中学一年生から特別教育を受ける決まりになっている。自治区内の寮に入って六年間魔法の制御や扱い方を学ぶのだ。

 しかし、私の魔力はごく微量で、魔法の力がない者となんら変わりなく生活できると診断された。

「普通の人間として生活する」という選択は間違いではなかったと確信している。周りの大人は魔法使いのことを「蒼血」と呼んで卑下し、毛嫌い、迫害していたことを知っていた。両親も私が魔法使いの血を持つことを誰にも話さなかったし、話さないように私に忠告した。誰にも見せないで、悟られないで。そう私に言って聞かせたし、私もそれが正しいと思っていた。確信というより諦念に近い。私は選ばなかったのだ。「魔法使い」として生きることを。

 私はバスに揺られて両親に内緒で通っているバイト先のカフェへ向かった。カフェといっても、魔法士特別自治区にある魔法使いが経営する小さな店だ。

 白く高い壁に囲まれた魔法士特別自治区第一区。バスで検問を通り抜けると景色が、香りが一転する。どこか懐かしいような、胸のつかえが取れてほっとするような森の香りがする。

 バスを降りると、雨は上がっていた。石畳にできた水たまりに青空が写って、道の脇にある五十センチメートルほどの幅の水路を流れる水に葉が流れてくるくると回った。風が吹けば、洗い流され透き通るような水の匂いに私は微笑んだ。

 水路にかかった石橋を渡って、「if」という看板を出している店の古びた重い木製のドアを引いた。からり、というベルの音がして、紅茶の芳しい香りが鼻をくすぐる。酔いそうなほどに濃厚なこの香りが私は好きだ。

「七海ちゃん、いらっしゃい」

 店主の有希さんがカウンター越しに迎えてくれる。昼間にも関わらず店内には他に誰も居らず、ちょっと経営が不安になる。有希さんは青みがかった癖のない髪と優しい目元が特徴の青年で、今年二十八歳になったそうだ。彼は紅茶にさまざまな魔法をかけて販売している立派な魔法士だ。

 こんにちは、とだけ挨拶をしてカウンター奥の控室に入った。鞄を置いて制服のプリーツスカートから黒いスラックスに履き替える。

「七海ちゃん、茶、淹れるからこっち来な」

 リボンを外した制服のシャツの上からエプロンを着ていると、有希さんに声をかけられた。

「いいんですか?」

 カウンターの中で有希さんが暖かい紅茶を淹れているのが見えた。このあっさりとした香りはアッサムティーだ。私は六つしかないカウンター席の一番奥に腰掛けた。有希さんが私の前にマグカップを置くと、隣に座った。

「七海ちゃん、今日は学校サボりか?」

「すみません」

「まぁいいよ。学校をサボっている奴は将来、大物になる。俺みたいにな」

 有希さんに頭を撫でられて気恥ずかしい。私が隠れてバイトを始めた中学三年生のときからずっとこうだ。

「ほら、冷める前に飲めよ? 元気になるおまじない付きだ」

 有希さんの笑顔と出されたマグカップは暖かく、私はずっと握りしめていた。

 

 夕方になるとちらほらお客さんが入るようになった。それなりに忙しく働いているのだが今日は何故かお客さんの全員が黒い服を着ているのだ。黒いマントや帽子、学生はまだ秋だというのに制服の上から黒い外套を羽織っている。窓から大通りを見ても皆、真っ黒だし、人通りも多い。

 何があるのだろう、と疑問に思っていると、丁度店のドアベルが鳴った。

 いらっしゃいませ、というと、人目を引く若草色の髪の少年が軽く私に頭を下げた。いつもこの時間や休日に来ている常連さんだ。有希さんの話では、彼はこの街の治安を守る仕事をしているという。私が住む日本でいう警察みたいな仕事を、私と同じくらいの年の少年がしていることに最初は驚いたが、どうやら彼は特別らしい。若草色の癖毛に黒いカチューシャをした彼もまた、街行く人同様に黒い膝丈の「ドレス」の上から黒いマントを身につけていた。

「今日はちゃんとドアから入ってきたか」

「そうしないと貴方怒るじゃない」

 有希さんに話しかけられた少年は、まるで妖艶な乙女のような口ぶりで答えた。

「おう、後ろにしか歩けなくなる魔法をかけてすぐに帰らせるぞ、クソガキ」

 有希さんが客前にも関わらず物騒なことを口にする。しかしいつものことなので誰も臆することなかった。

 他にも一言二言交わすと、黒いドレスを着た少年は店の奥にある中庭を抜けて有希さんの家に入っていった。

「有希さん、今日は何かあるんですか?」

「そっか、七海ちゃんは『外』だから知らないのか。今日はこの街一番のお祭り『北辰祭』だ」

 お祭り、と聞いて私は目を輝かせた。しかし同時に、魔法使いを忌み嫌う周りの大人たちの顔が頭をよぎる。

 有希さんが「北辰というのは北極星の異称で、巫女さまのことだ」と付け加える。

 この街の魔法使いを総べる空前絶後の予知魔法士のことを、街の人々は「北辰の巫女」と呼んで崇めている。千年先の未来をも見通す巫女の素性は明かされておらず、実際に存在するのかどうかも分からない。しかし魔法使いの道標になる巫女のことを魔法使いの誰もが敬愛している。王様というより教祖に近いと私は認識している。

「よかったら七海ちゃん、行ってきたら?」

「えっと、いいんですか?」

「今日は二十年ぶりに巫女さまが姿を現すんだ。だから、そのうち客はみんな巫女さまを拝みに行く。どうせ暇になるから行ってこい」

「有希さんは巫女さまを見に行かないんですか」と尋ねると有希さんは笑って「俺はいつでも会えるから」と答えた。

 

 結局、教科書などの荷物は店に置いて、有希さんに黒いマントを借りて出た。魔法使いの正装が黒いマントらしい。確かに、私たち人間は、魔法使いは黒い服に身を包んでいるイメージを昔から持っている。古い文献などを調べても魔法使いは黒い服を着ていることが多い。有希さんが言うには、黒は宇宙の色らしい。そして巫女をはじめとした占い師――予知魔法士はその中で光り輝く星なのだそうだ。

 石畳の大通りを人の流れに乗って歩く。両側に立ち並ぶ四階建てのアパートのベランダから黒地に星が散りばめられた布が吊り下げられている。星はどれも青い。蒼い五芒星をかたどった旗もある。その他に青白い電飾が街中に飾り付けられ、キラキラと街全体が輝いているようだった。

 夜店もところどころにあって、青い五芒星モチーフのネックレスやブレスレットを売る屋台、精巧な人形やオルゴールを置いた職人の店、焼きそばやたこ焼きといった私の住む地域でもよく見る屋台もあった。焦げたソースの香りが遅く来た夏祭りのようだ。若い星のように青白い街並みが幻想的で、それなのに走り回る子供たちがどこか懐かしい。アンバランスな光景に私は酔ってしまいそうだった。

 人の流れに身を任せて歩いていると、大きな広場に出た。目の前には古い洋館がどっしりと構えていて、その奥には近代的なガラス張りの高層ビルが建っている。クラシカルな管弦楽の音と人の雑踏、甘いお酒のような浮かれた香り。真っ黒な人波を照らす蒼白い電飾。

 こんなにもこの世界には魔法使いが居たのだと、私は圧倒された。幼子を抱いた母も、その幼子も、寄り添う父も。じゃれ合う若い恋人同士も、ベンチに腰掛ける老夫婦も。たくさんの、魔法使いがここにはいる。

 私は咽び泣いてしまいそうだった。私はここにいる人たちとは違う。私は選べなかった。魔法使いとして生きることを。仕方なかったのだ。私は、どちらでもないのだから。

 トランペットのファンファーレが洋館のベランダから悠々と発せられ、人々の視線が一点に集まる。ベランダの扉が開き、中から真っ白なドレスを着た少女が姿を現した。

 言わなくても分かる。彼女は、北辰の巫女だ。真っ白な肌に銀糸のような眩い髪。白いベールの奥の凛とした表情に翡翠色の瞳。花が咲く瞬間のような香りに私の肌が粟立った。

「皆さん、今日はお集まりいただきありがとうございます」

 透き通るようなソプラノ声が広場に響く。私の横に立っていた少女は感極まって泣き始めている。それは彼女だけではないようで、広場のあちこちから鼻をすする音が聞こえてきた。

「皆さんは、時には悩み、迷い、苦しむときもあるでしょう。そのとき、どうか私のことを思い出してください。私には皆さんを正しい方へ導くという使命があります。その任を全うするため、日々努めてまいります。これは私からあなた方へのほんの祝福です」

 巫女が手を一度合わせて両手を広げると、花火のように打ち上げられた星屑が私たちに降り注いだ。

 魔法使いたちにキラキラと降り注ぐ、祝福の光。宇宙の真ん中にいるような美しさに、そして大きな孤独に私は感嘆の声を漏らした。

 手を伸ばすとそのうちの一つが私の手の中に落ちてきた。見ると、小指の先ほどの大きさの小さな紫色の石だった。透き通ったその石は中から光り輝いているようで、仄かに甘い香りがした。

 

 ダンスパーティーが始まった広場から私は出て、カフェ「if」に戻ってきた。有希さんが言っていた通り、お客さんは誰もいない。有希さんは一人でカウンターに置かれた女性の写真を見つめていた。

 ドアベルの音で振り返った有希さんに「お帰りなさい」と声をかけられる。私はマントを脱いで有希さんに返す。

「どうだった?」

「素敵でした。でも、寂しかったです」

「そっか……巫女さまは美人だっただろ? よし、七海ちゃん、夕飯食っていけよ」

 有希さんに勧められるがままカウンター席についた。

 私は何を思ったのだろう。分からない。私は魔法使いにはならないと幼いころから思っていたのに、それでも、私は迷っている。人間の世界で、人間のふりをして、人間として暮らして、それは悪いことではない。誰かを騙しているという罪悪感もない。でも隠れて魔法使いの世界に来て、魔法使いのもとで働いて、魔法使いの世界を知って。私は諦めることができなかったのだろうか。

「有希さん、これ、貰ったんですけど何ですか?」

 先程、巫女から受け取った紫色の石を有希さんに見せる。

「あー、これ祝福の石だ。予知魔法士が予知内容を伝えるときに使う石で、呑むと魔法士が予知した未来が視得るんだ」

 私はこの先、どんな未来を歩むのだろう。人間でも魔法使いでもない私は。

 ムラサキの血の私に、この石を飲み込む勇気はまだなかった。

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nameless color『名前のない色』

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 一日目。神が「光あれ」と言うと、暗闇だった世界に昼と夜が、「色」が世界に生まれた。

 

「なあ三好、お前ってどっちなの?」

 冬の世界は色を失い、真っ白で、僕の色を鮮やかに映し出す。

 高校の物理室での授業後、僕と級友数人でそのまま談笑を続けていた。ストーブの油と鉄が焼かれる臭いがまさしく冬って感じで嫌いじゃない。僕の脚を包むタイツの黒は、腰掛けた机の天板の無機質な黒とは違って艶めかしい黒だ。

「どっちって、何が?」

 脚を組み替えながら男子生徒に訊き返す。少しスカートがまくり上がるようにするのがコツだ。ほら、視線が一瞬下がった。

「三好って女の子なの? 男の子なの?」

「さてね。真実はこのスカートの中さ……見たい?」

 ちらりと赤いチェックのプリーツスカートをめくってみせれば慌てるが、でもしっかりと僕の脚の奥を見ようと視線を逸らさない。

「ちょっと男子。アキナちゃんにセクハラしないの。あんた達と違って女の子なんだから」

 セクハラしていたのは僕だけどね。教室の去り際にそう声をかけた女生徒は男子に熱視線を送ってから、僕を睨み付けた。なるほど、嫉妬か。

「ありがとね、加納さん」

 僕の方が君よりずっと可愛いけどね。

 僕が微笑むと女生徒――加納さんは顔を赤らめ、逃げるように物理室から出ていった。

「じゃあ僕は補習あるから、またね」

 名前も覚えていないような男子生徒に携帯の番号を書いた紙を渡すと、彼は喉をごくりと鳴らして頷いた。

 

 ホント、世の中ちょろいよ。

 

 中学を卒業してから伸ばした長い髪を揺らして廊下を歩く。女にしては高すぎる身長。女にしては細い脚。女にしては華奢な腰。そして男にしては美しすぎる顔立ち。何もかもがアンバランスだからこそ生まれる美貌を僕は持っている。その美貌は価値になる。廊下を歩くだけで視線が集まった。羨望、嫉妬、性欲。すべての人の欲が僕に向けられている。

 なんて気持ちいいのだろう。

 

「川ちゃんいるー?」

 僕は物理準備室のドアをノックもせずに開けた。

「なんだ、三好か。あと川本先生な」

 この部屋の主である物理教師の川ちゃんは、緑のマットの敷かれた机に向かって小テストの採点をしていた。いつから洗濯していないのか分からないような白衣に、いつもと変わらないシャツとスラックス。無精ひげを生やした顔には生気がない。川ちゃんは赤のサインペンを動かす手を止めずに僕を一瞥した。

「三好、お前またそんな格好して」

「似合っているでしょ? 冬はやっぱりニットカーディガンだし、その裾から数センチ見せるだけのミニスカートには黒タイツが一番」

「そうじゃなくて、お前は男子だからスカートなんて履くんじゃない」

「嫌だよ、川ちゃん。それじゃあ僕が僕じゃなくなっちゃうじゃない。学校はいいって言っているのに、川ちゃんはカタブツだ」

 拗ねた声を出して僕は準備室の本棚に置かれた物理の参考書を手に取る。以前に読んだ波動方程式の本だったが気にせず川ちゃんの横で広げた。明朝体の文字列の横に川ちゃんが残したメモ書きを発見して、僕はたまらず微笑んだ。

「三好は、性同一性障害なのか?」

 採点を終えた川ちゃんが訊いた。

「さあ? そんな診断知らないよ。第一、僕のアイデンティティをなんで医者が診断しなきゃいけないわけ?」

 僕が嘲笑すると、川ちゃんは困ったのか顎の無精ひげを掻いた。

「川ちゃんにはどうせ分かんないよ」

「だろうな」

 こういうさっぱりしたところが川ちゃんらしい。川ちゃんはシャツの胸ポケットから煙草を取り出すと引き出しのマッチで火をつけた。煙の臭いが鼻に沁みる。

「川ちゃん、校内は禁煙だよ」

「ここは俺の部屋だ」

「じゃあ僕にも一本」

「それはやらん」

 川ちゃんのケチ、と頬を膨らませたが、すぐに僕は笑いだしてしまった。

 しばらく笑っていると、ポケットのスマートフォンが震えた。見ると知らない番号からの着信で、誰なのかはすぐに見当がついた。

「出ないのか?」

「校内はスマホ・ケータイ禁止じゃなかったの?」

「ここは俺の部屋だ」

「そっか」

 でも僕は電話に出なかった。川ちゃんとの時間を邪魔するなんて、ちょっと減点。

 もう下校時間だ、と川ちゃんに追い出されるまで僕はずっと物理準備室に居た。

 

 冬の家は冷たい。でも僕の家はいつでも冷たい。

 帰宅すると母が、あっちゃんお帰り、と出迎えた。

「あっちゃん、少し遠いのだけれど評判のいい病院を見つけたのよ」

 煩い、と口の中で呟く。

「あっちゃんは、あっちゃんらしくしていいのよ。そういう『病気』なんだから」

「うるさい!」

 母は続けて何か言いかけたが、僕は叫んで自室の部屋のドアを音を立てて閉めた。

 川ちゃんにも訊かれたが、僕はそんなビョーキじゃない。自分がそうだと気付いたときに嫌になるほど調べたが、僕は絶対に女になりたいとか、生まれ持った男の体が死ぬほど嫌だとか、そんな大それたものじゃなかった。「女」である僕の方がしっくりくるし、女である僕に向けられる欲や視線が気持ちいいだけだ。母はそれ大げさに周りに言い、僕を女子生徒として通わせてくれるよう高校に直談判した。スカートで登校したかった僕にとって都合はよかったが、母は僕を悲劇のヒロインにしたがったようで不快だった。

 さっきの番号に折り返し電話をかける。予想通り、さっき落とした男子生徒だった。

「電話ありがとう。で、いつがいいの?」

 僕の生きがいは、この美貌で落とした男と寝ることだった。

 

 セックスの約束をしてリビングに降りると、しばらく見なかった男の姿があった。

「お父さん」

 僕の声に振り返ると、父は目を大きく広げ、そして激高した。

「アキナ! またチャラチャラ女みたいな格好して! 一族の恥だ」

 僕の胸倉を掴む父を止めようとする母の口から出た言葉は「アキナは病気だから」だった。

 僕はひたすら黙って父を睨んだ。父は仕事が忙しいと言って家に帰らないくせに、たまに帰宅すれば僕や母に暴力を振るう人だった。そんな父のことも母のことも、僕は大嫌いだった。

「なんだ、その目は。この変態が、髪なんか伸ばしやがって」

 父が僕の髪を掴んだ。痛みに目の前がチカチカする。

「痛い。離して、お父さん」

「男が長髪なんて不潔だ」

 父は手元にあったハサミを手に取る。

「やめて、やめてお父さん」

 父は僕の長い髪を雑草かのように容易く切り落とした。パラパラと髪が落ちる様に僕は絶句した。四肢を切り落とされたような衝撃に涙があふれるのを、歯を食いしばってこらえた。誰がこんな親共の前で弱みを見せるか。

「なんてことするの! アキナ、もう部屋に戻りなさい」

 部屋に戻ってやっと大声で泣いても、父の怒号と母の泣き声はずっと聞こえていた。

 

 翌朝、父に切られたところに合わせて、髪を短く切りそろえて登校した。

 ショートへアーも悪くない、と鏡の前で言い聞かせたけれど、さらさらの長い髪は僕を象徴するアイデンティティだった。僕の中からピースが一つ欠ける。その一つが無ければもう僕ではない。廊下で僕にかけられた言葉や視線は全て僕を見下し憐れんだものに感じた。

「三好」

 昨日落とした男子がばつが悪そうな顔で話しかける。

「その……やっぱり、俺、無理だわ」

 消え入りそうな声で、なんでと問う。

「だってお前のこと、男にしか見えないんだ」

 ガラガラと視界が崩れる。

「悪いな」

 立ち去る男の背中がゆらゆら揺らぐ。

 悔しい。悔しい悔しい悔しい。なんで僕は女じゃないの? なんで誰も僕のことを見てくれないの? なんで、なんで、なんで。

 

 美しくない僕に、生きる価値なんてない。

 

 僕はとぼとぼと席についた。誰も僕に近づきやしない。羨望も嫉妬も、今は勝ち誇った憐みの顔。イメチェンしたの? なんて聞いてくれた加納さんも、どうせ笑っているはずだ。

 今日は、物理の授業ないのか。

 

 放課後、物理準備室に向かった。

 川ちゃんは僕を一瞥したが、何も言わずに授業プリントを手書きで作っている。僕を見てどう思っただろうか。無様だと川ちゃんも笑うのだろうか。

「川ちゃん、僕さ」

 川ちゃんは何も言わない。

「もう生きていたってしょうがないよね」

 沈黙が僕の膨らまない胸を刺す。骨ばった腕も、目立ってきた喉も、かすれた声も。全部が憎らしい。どうして僕はこんなに醜くなってしまったのだろう。

「ごめん、帰る」

 川ちゃんまで失ったら僕はどうしたらいいのだろうか。

 

 繁華街を歩く。ミニスカートが夜風にたなびく。僕は何がしたいのだろう。

「そこのお嬢さん、家出?」

 小太りの男に声をかけられた。顔が脂ぎっていて清潔感がない。目線は僕のスカートと黒タイツの足に向いている。

「おじさんが一晩泊めてあげようか?」

 どうせそのあたりのラブホテルだろう。そして僕の体を対価として求めるのだ。しかしそれも悪くない。抱かれたい。醜い僕なんて汚らしいおっさんに滅茶苦茶にされればいい。僕を必要としてくれるのなら誰だっていい。でも願うなら――

「三好アキナ!」

 ビックリした。白衣をトレンチコートに着替えた川ちゃんが息を切らして僕の名前を呼んだのだ。走ってきたのだろう、乱れた熱い息は白くなり、それを整えようと川ちゃんは前かがみに膝に手を乗せた。

 おっさんは舌打ちをすると面倒ごとになる前にとどこかへ行ってしまった。

「川ちゃん……何しているの」

「いいからこっちこい」

 初めて繋いだ手は、ごつごつとして少し冷たかった。

 

 品のない豪華な装飾の部屋に川ちゃんと来るのは初めてだった。もっとも、会うのはいつもあの物理準備室だった。壁際の本棚にびっしりと並べられた物理の本とプリントのファイルを読むだけの毎日が僕は好きだった。でも今は閉じ込められた性の空間に一緒に居る。願っていなかったわけではないが、思ってもいなかったことに驚いている。部屋の殆どを占めるキングサイズのベッドに僕は腰掛けていた。川ちゃんはコートを脱いで向かいの小さなソファで黙り込んでいる。

「川ちゃん、僕とする気になった?」

「馬鹿野郎っ!」

 川ちゃんが怒る顔を初めて見た。

「野郎はよしてよ」

 僕が苦笑してみせると川ちゃんははっとして、すまん、と言った。

「どうして川ちゃんがこんなところにいるの? 想像できない」

「三好があんなこというからだろ」

「そっか」

 喉の奥が熱くなって、視界が潤む。

「なあ、三好。俺にお前のことは分からん。でもお前はお前だろ?」

「そんなこと言ってもさ、川ちゃん。僕には僕が分からないよ。僕は女になりたいの? この先手術して注射して、そうやって女の子もどきになるの? 戸籍変更したって僕が男に生まれた事実は変わらないんだよ。こんなキモチワルイ僕をどう許したらいいの? 美しくなかったら僕はただのキモチワルイ変態なんだよ」

 川ちゃんは立ち上がると、僕を抱きしめた。

「お前がお前を許さなくてどうする。お前が味方にならないでどうする」

「僕はまだ……許せないよ。この身体に生まれたことも、これから生きていくことも」

「なら許せるようになるまで泣けばいい」

 川ちゃんの腕の中はあったかくて、今まで僕を抱いた人となんて比べるのは失礼だとすら思った。親の前でも、友人の前でも、誰の前でもこらえてきた涙がぼろぼろと落ちる。しゃくりあげる息が苦しくて、川ちゃんの背中にすがるように腕を回した。僕が眠るまで、川ちゃんは僕の傍に居てくれた。

 

 目が覚めたのは何時だったのだろう。川ちゃんは気を使ったのかベッドの逆の端で眠っていた。むこうを向いた顔を覗き込むと無精ひげがいつもより伸びていて、少しばかりしかめっ面の寝顔が愛らしい。

 寂しくなって、川ちゃんの背中におでこを押し当てた。一人で眠ることが怖くて仕方なかった。

「三好……? 起きたのか」

 振り返った川ちゃんの顔が目の前に来て、僕はどぎまぎしてしまう。

「川ちゃん近い」

「なら三好が離れろ。こっちはもう端だ」

「じゃあいい」

「そうか」

 一緒に寝ているというのにそっけない川ちゃんの腕に潜る。

「三好、光と色の関係について知っているか」

「なぁに、ここでも物理の授業?」

「光に照らされて初めて、物体の色を認識できる」

 僕はあの本棚に並べられた中の光学の本を思い出す。

「イブン・アル=ハイサムだっけ?」

「そうだ。そしてニュートンは光の分散で生まれる虹のことを『空にかかる音楽だ』と言った。光の波長の違いで色が生まれる」

 川ちゃんは一呼吸おいて、続けた。

「人はそれぞれ色がついている。でも赤とか青とか、皆がそんな分かりやすい色をしているわけではない」

「名前を付けるのは便宜上でしょ?」

「でもその名前のついた色から漏れて苦しんでいるのがお前だ」

 川ちゃんの言葉に僕は息をのむ。そうだ、僕は名前のない色だ。男でも女でもなくて、どっちつかずで、名前なんて分からない。

「お前にはお前の色がある。その色がどんな色であっても、元はプリズムで分けられたひとつの光だ」

 光の子として歩みなさい。昔、誰かに言われた言葉を思い出す。

「川ちゃんもいいこと言えるじゃない」

「煩い」

「じゃあさ、川ちゃんは誰とでもこんなことするの?」

「するわけないだろ」

「じゃあ、期待してもいい?」

「期待されても、お前はまだ高校生だ」

「やっぱり川ちゃんはカタブツだ」

 ふふ、と笑うと胸のつかえがスッと取れたような気がした。川ちゃんの匂いと体温が傍にあるというだけで僕は幸せだった。

「先に飯でも食ってから学校行け。俺は後からでいいから」

 ありがとう、と僕は川ちゃんの腕の中で呟いた。

「また俺の部屋で待ってる」

「待ってただなんて知らなかった」

 顔を上げると真っ赤になった大好きな人の顔が、そこにはあった。

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Vanilla ice cream

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「北原さん、お腹空いた」

シャルと呼ばれた少年、愛実(つぐみ)はあの小さなアパートに来ていた。壁には雑多に段ボールが詰まれ、小さなテレビとくたびれた紺色の布団のかけられたパイプベッドがあるだけの小さな部屋。シャルだったころと全く変わらない、薄汚れた安心感のある部屋だ。

「ああ? 真琴のとこのチビに作ってもらえよ」

「絢介のご飯も美味しいんだけど、たまにはパパと食べたいなー」

『チビ』『絢介』と呼ばれているのは愛実が今、住んでいる引田邸の使用人のことだ。

「けっ、こんなときだけ『パパ』かよ」

きつい言葉とは裏腹に北原の口元は緩んでいた。

「大体、何勝手に帰ってきてるんだ愛実。昔みたいに縛り上げて抱かれたいか?」

ベッドに背を預けてテレビを見ている北原は、愛実に背を向けたまま言葉だけで脅してみせる。

「残念ながら僕は真琴のモノだからパパとはセックスしませーん」

久しぶりに干した布団の上でケラケラと愛実は笑った。

「じゃあ何で帰ってきたんだ?」

「いつでも帰ってこいって言ったのはパパの方でしょ?」

愛実は枕を抱きかかえて妖艶な瞳を輝かせる。

「まさかとは言わないが、『道具』を買いに来たんじゃないよな?」

「大正解!」

はあ、と北原は「血は争えないな」と息を吐く。

SMクラブの支配人をしている北原はパフォーマーやコアな顧客相手に性具の販売仲介もしていた。

「真琴のセックスって甘いだけで、その、マンネリ?ってやつ」

「マンネリねぇ……真琴はセックス下手そうだしな」

北原はテレビを切るとベランダに出て巻き煙草に火をつけた。冬の訪れを感じる風が煙をたなびかせる。

「下手というか、ノーマル? キスして解してつっこんで出して終わり」

愛実は北原から自分のピアニッシモに北原の煙草から火を奪うと、ニヤリと笑った。

「ノーマルなセックスで満足できないお前もお前だな」

「もう骨を折られるのは嫌だけどさ、首絞められるくらいはしたい」

「そう真琴に言ってやれよ」

北原は短くなった煙草を水を張ったベランダのバケツに放り投げると、愛実の髪をすいて室内に戻る。

「言ったんだけど、傷つけたくないとかなんとか。というわけで、ロープと媚薬くらいあるでしょ? パパ?」

「だからその『パパ』ってのやめろ、むず痒い」

吸い終えた愛実も同様に放り投げて室内でガムを噛み始める。

「大体、ロープ持って行ったって真琴は縛り方知らんだろ?」

愛実は雌豹の目で微笑む。

「ううん、僕が縛る方」

「真琴もとんでもないのに惚れちまったな」

末恐ろしい息子だと北原は苦笑した。

「ロープならテレビ横の箱の中だ。どれも中古だが好きなのを持っていけ。でも媚薬はやらん。法に触れるからな」

釘を刺されて愛実はしょうがなくロープを選ぶ。真琴には赤より元の麻色が似合いそうだ。

「選んだら飯、行くんだろ? たまには、牛丼はどうだ?」

「いいね、卵付きで」

「好きにしろ」

そのぶっきらぼうな物言いに愛実は嬉しくなる。なんだかんだ北原はシャルだった頃から愛実に甘いのだ。

「帰りに北原さんも家に寄って行ってよ。真琴がたまにはおいでってさ」

「どうせアイツは仕事で居ないんだろ?」

「それが、実は会いたがってるのは絢介の方でさ」

「あのチビが?」

「まだ僕の勘だけど北原さんが来ると絢介がそわそわするんだよ」

ヒメゴトを語る女子高生みたいに、玄関で靴を履きながら耳打ちする。

「絢介、多分北原さんのことタイプだよ」

「悪趣味なチビだな。まあ、寄るとするか。恋敵の父に惚れる男も面白いじゃないか」

「北原さんも十分悪趣味だね」

くっく、と二人で顔を見合わせて笑うと、二人は繁華街の端のアパートの階段を降りた。

「あのチビ、今まで付き合ったことある奴いるのか?」

 徒歩数分の牛丼屋に入ると二人はカウンター席でそれぞれ注文した。

「ううん、ずっと真琴一筋」

「じゃあ童貞か。あの年で」

「北原さん、イジめすぎちゃダメだよ?」

それは可愛がれという意味に北原には聞こえた。

「そんなこと言って愛実こそあのチビと仲良くしてんのか?」

注文するとすぐに出てくるのが牛丼屋の良さだ。

カウンターで並んでいると、この繁華街では誰もこの二人のことを親子だと思わないだろう。おっさんと買われた男。その関係だったのはもう昔のことだった。

「仲良しだよ。色々あったけどね。絢介も僕もいっぱい泣いた」

北原はそっか、と髪を撫でた。

北原は深くは聞かず、愛実も語らず、牛丼屋を後にした。

「お土産、何かいるか?」

 大通りへの道すがら、二人はコンビニに立ち寄った。

「んー、ポテチ食べたい。コンソメね」

それはお前の食べたいものだろ、と愛実の小脇をつついた。心のくすぐったさに愛実は笑う。

「いいんだよ。甘いものはいくらでも真琴が持って帰ってくるんだもん」

「あいつそれでよく腹が出ないな」

「社内に社員専用ジムを作ったんだってさ。おかげで真琴はかなりムキムキ」

「ほう? 流石社長様はやることが違いますね」

揶揄するように北原は笑うとコンソメ味のポテチと1Lのコーラを掴んでレジで会計を済ます。 大通りに出るとタクシーを捕まえて、引田邸の住所を伝えた。

「僕もジム使っていいって言われたけどムキムキになるつもりはないかな」

「お前はいくら食べても細っこいからな。ダイエットなんかしてないよな?」

「少しはね。少年の美しさは無駄な脂肪も筋肉もない直線美にある」

「ショーに出るわけでもないのに相変わらず徹底してやがるな」

引田の家までタクシーで向かいながら言う。

「僕にとってセックスはショーだから」

ほう? と北原は口角を上げる。

「今までは数多の知らないおじさんたちを見下して、僕の美貌で従えてた。でも今は違う。好きな人にベストな僕を見てもらう。それが今のセックス」

「プロ意識だけはいっちょ前だな」

「だけ、って何さ」

愛実は頬を膨らませたがすぐに笑い出してしまった。

「もう少しあれだな、気を抜いてもいいんじゃないか?」

北原は無精髭を掻く。

「そうかな? 一番綺麗な僕を知っているのが真琴であってほしいだけだよ」

「真琴もなんだかんだ愛されてるな」

後部座席で愛実は北原の肩に頭を乗せた。

「これが僕の愛の形だよ。空っぽじゃなくなった僕の」

小高い丘にある高級住宅街、愛実の住まう引田邸に二人は降り立つ。

引田の私用車と萩野の車に並んで、引田の社用車がある。

「真琴、今日は帰り早いね」

「アイツ、鼻だけはいいからな」

ただいま、と玄関を開けると高い天井のロビーで二人が出向かえる。

「おかえり、誠司も一緒だったか」

「たまには顔出せって言ったのはお前だろ?」

ほれ、土産だ、と北原はコンビニの袋をあえて萩野に差し出す。 萩野は一瞬目を見開いて受け取った。切り揃えられた前髪で見えなかったが、俯いたその瞳は熱で揺れていただろう。

「北原さんの意地悪」

愛実は小さな声で、愉快そうにつぶやいた。

 

 広いリビングの一角、応接間となっているスペースで四人は膝を突き合わせた。

 ご丁寧にコンビニのポテチを花柄のボウルに入れて、グラスでコーラを飲む。なんともアンバランスだ。

「久しぶりに誠司に会えてよかったな、愛実」

 二人を前にしても遠慮なく引田は愛実の頬を撫でる。頬に火をともす愛実を見て、誠司は安心するものがあった。

「ふふ、パパとご飯食べたりして楽しかったよ」

「そうだな、真琴に『おみやげ』があるらしいから楽しみにしてな」

 もう、言わないでよ。と愛実は北原を睨んだ。

「それは楽しみだな」

 楽しみにしない方がいいぞ、と北原は心の中でほくそ笑んだ。

「でも相変わらずパパのアパートは散らかってるよね。今日布団は干したけど」

「めんどくせぇんだよ。生活できればいいんだよ」

「じゃあさ、僕と絢介で片付けに行こうか?」

「僕もですか!?」

 急に白羽の矢が立った萩野が驚いた声を出す。

「絢介ならお掃除得意だし、人数多い方が速く済むでしょう?」

 目配せで別の意図を読み取った北原はこれは愉快と口の端で笑う。

「じゃあ、頼まれてくれるか? ディルドとか鞭とか転がってるけどな」

「でぃ、る……!?」

 北原の揶揄に耳まで真っ赤にした萩野のことを、うっかり北原は可愛いなんて思ってしまった。

「真琴、いいでしょ?」

「萩野がいいなら行ってきなさい。家のことは簡単に済ましてしまっていいから」

「ありがとうございます!」

 何のお礼だよ、と北原と愛実は笑った。

 

 その日のディナーは萩野特性の鴨のテリーヌだった。そして引田からは自社製品のバニラアイスが振る舞われた。

「パパ、絢介のこと、どう?」

 北原の帰り際、愛実が耳打ちする。

「どうって、いいんじゃないか? 売りはしないけどな」

「そりゃ僕より大切にしてるじゃない」

 顔を見合わせて笑う親子は、やはりどこかいびつで愛しい二人であった。

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